2019年7月4日木曜日

原作者の存在を考証(9) 善光寺炎上の条


平家物語の各条から原作者の存在を考証する(9)
 この善光寺炎上は覚明ならではの閃きで書かれたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の善光寺炎上の条

(考察)
             覚明の阿弥陀如来様との結縁の初体験は、善光寺であった

 三井寺炎上の条を書いたとき、覚明の脳裏には奈良東大寺と興福寺の炎上に対する怒りが背景にありました。平家一門により東大寺の大仏像も被害を受けていたのです。
三井寺の有り難い本尊像も焼けて失われていました。 三井寺の本佛は天武天皇の御本尊です。その本尊像を含めて三井寺では仏像二千餘體が燃えてしまったのです。
覚明は仏像が如何に大切なものなのか、信州善光寺の一光三尊阿弥陀如来像のことが頭をよぎり、ここでその由来を書くことで、自分の仏像に対する敬慕を人々に伝えたいと思ったに違いありません。

覚明は信濃の千曲川沿いの海野荘大屋(現上田市)というところで生まれました。
幼い頃に遊んだ千曲川を下ると善光寺(長野市)があります。
覚明は年寄りに連れられ善光寺参りは何度も経験していたと思います。
望月の駒で有名な馬の産地ですから乗馬を利用する陸路は勿論、当時は千曲川には舟運があり、信濃川まで通じていました。
覚明の阿弥陀如来様との結縁の初体験は、この善光寺であったと思います。

それに、この条を書いたときは、箱根から比叡山に来たばかりだと思います。
覚明は箱根権現にいたとき「曽我物語」を書いています。
曽我十郎と五郎兄弟の仇討ち事件の関係者を覚明(当時は信救得業)は見知っていました。
そして事件で亡くなった十郎の生前の愛人である19歳の虎女(禅修比丘尼)に供養の旅をすすめ、ともに善光寺詣でをしています。
善光寺には行ってきたばかりで、箱根権現で出家したばかりの虎女との旅の思い出もあり、覚明にとっては縁が深い寺でした。

現在の善光寺のホームページでは、
「信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております」とあります。

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原文では、

その頃信濃国善光寺炎上の事ありけり。
かの如来は、昔中天竺舎衞國に、五種の悪病起つて、人僧多く滅びし時、月蓋長者が致請によつて、龍宮城より閻浮檀金を得て、佛、目連長者、心を一にして、鑄顯はし給へる一ちゃく手半の彌陀の三尊、三國無雙の靈像なり。

佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事五百餘歳、されども佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝聖明王、わが朝の帝欽明天皇の御宇に及びて、かの國よりこの國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜をらせおはします。
常に金色の光を放たせ給ふ。
これに依つて年號をば金光と號す。

同じき三年三月上旬に、信濃国の住人大海の本田善光、都へ上り、如来に逢ひ奉り、やがて誘ひ参らせて下りけるが、晝は善光如来を負ひ奉り、夜は善光如来に負はれ奉つて、信濃国へ下り、水内郡に安置し奉つしより以来、星霜は五百八十餘歳、されども炎上はこれ始とぞ承る。

王法盡きんとては、佛法先づ亡ずと云へり。
さればにや、さしもやんごとなかりつる靈寺靈山の多く亡び失せぬる事は、王法の末になりぬる先表やらんとぞ人申しける。

 (現代文訳)

その頃(治承3年3月24日)、信濃国の善光寺が炎上(原因不明)したことがあります。
ここの阿弥陀如来像は、昔、中天竺の舎衞國(毘舎離國)に、五種類の疫病が流行し、人も僧も多く死んだので、月蓋長者(インド毘舎離大城の富豪)の要請によつて、龍宮城より閻浮檀金(良質の金)を得て、釈迦、目連長者(釈迦の十大弟子の一人で神通第一と称せらる)が心を一にして、鋳造された一尺三寸の阿弥陀三尊で、三國(天竺・中国・日本)に二つとない魂が宿った像なのです。

釈迦が入滅されて後、像は天竺にとどまられて五百余年、しかしながら佛法が東方に広まる道理により、百濟國に移られて、一千年の後、百濟の帝、聖明王(百濟國第26代の王)が、わが國の帝、欽明天皇(第29代天皇)の御代に像を百済から日本に移されて、攝津國の難波の浦にて、歳月を送られていました。
像は常に金色の光を放っておられたので、これに依つて年号を金光と号しました。(私年号の九州年号で金光元年は570年、575年までの六年間)

同じき(金光)三年三月上旬に、信濃国の住人大海(伊那郡宇沼村麻績、現在の飯田市)の本田善光が、都へ上り、如来像に逢ひ奉り、やがてお連れ申して下りけるが、晝は善光が如来像を負ひ奉り、夜は善光が如来像に負はれ奉つて、信濃国に下り、水内郡(現在の飯田市座光寺)に安置し奉りました。
それ以来、歳月は五百八十余年、しかし、炎上はこれが始めてとお聴きしました。

王法が尽きるとき、佛法が先づ亡ぶと言います。
それゆえ、そのように並々ならぬ靈寺靈山の多くが亡び失せる事は、王法の末になりぬる先触れと人びとは言います。

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(考察)
             覚明は、平家に護られていた王法は尽きたかも・・・という

「王法盡きんとては、佛法先づ亡ずと云へり」
ここで覚明は、平家一門に亡ぼされている仏法(例えば三井寺炎上や奈良炎上)があるということは、平家一門に護られていた王法も尽きたかもしれないということを言いたかったのだと思います。

そして、平家一門が亡びる前触れは、遡って治承3年の善光寺の炎上にあったのではないかと、やや、こじつけですが、ここに取り上げ述べているのだと思います。

現在の善光寺のホームページでは、 その由緒を次のように掲載しています。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。
皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました」とあります。

以上から、この善光寺炎上の条は、覚明ならではの閃きで書かれたものではないかと推察されます。
これからもわかるように、覚明が「平家物語」の原作である「治承物語」の作者(信濃前司幸長)ということは疑いのない事実です。
この善光寺炎上の条も「治承物語」にあったと確信して良いのではないかと思います。

(長左衛門・記)
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(参照)
                                                                       
「平家物語」の善光寺炎上の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の善光寺炎上を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
                                                                       
善光寺炎上の全文(信州善光寺の炎上) 

そのころ(頃)しなののくに(信濃国)ぜんくわうじ(善光寺)えんしやう(炎上)のこと(事)ありけり。

かのによらい(如来)は、むかし(昔)ちうてんぢくしやゑこく(中天竺舎衞國)に、ごしゆ(五種)のあくびやう(悪病)おこ(起)つて、じんそう(人僧)おほ(多)く、ほろ(滅)びしとき(時)、ぐわつかいちやうじや(月蓋長者)がちせい(致請)によつて、りゆうぐうじやう(龍宮城)よりえんぶだごん(閻浮檀金)をえ(得)て、ほとけ(佛)、もくれんちやうじや(目連長者)、こころ(心)をひとつ(一)にして、い(鑄)あら(顯)はしたま(給)へるいつちやくしゆはん(一ちゃく手半)のみだ(彌陀)のさんぞん(三尊)、さんごくぶさう(三國無雙)のれいざう(靈像)なり。

ぶつ(佛)めつど(滅度)ののち(後)、てんぢく(天竺)にとどま(留)らせたま(給)ふこと(事)ごひやくよさい(五百餘歳)、されどもぶつぽふとうぜん(佛法東漸)のことわり(理)にて、はくさいこく(百濟國)にうつ(移)らせたま(給)ひて、いつせんざい(一千歳)ののち(後)、はくさい(百濟)のみかどせいめいわう(帝聖明王)、わがてう(朝)のみかどきんめいてんわう(帝欽明天皇)のぎよう(御宇)におよ(及)びて、かのくに(國)よりこのくに(國)へうつら(移)せたま(給)ひて、つのくになんば(攝津國難波)のうら(浦)にして、せいざう(星霜)をおく(送)らせおはします。

つね(常)にこんじき(金色)のひかり(光)をはな(放)たせたま(給)ふ。
これによ(依)つてねんがう(年號)をばこんくわう(金光)とかう(號)す。

おな(同)じきさんねんさんぐわつじやうじゆん(三年三月上旬)に、しなののくに(信濃国)の住人おほみ(大海)のほんだよしみつ(本田善光)、みやこ(都)へのぼ(上)り、によらい(如来)にあ(逢)ひたてまつ(奉)り、やがていざな(誘)ひまゐ(参)らせてくだ(下)りけるが、ひる(晝)はよしみつ(善光)によらい(如来)をお(負)ひたてまつ(奉)り、よる(夜)はよしみつ(善光)によらい(如来)にお(負)はれたてま(奉)つて、しなののくにへ(信濃国)くだ(下)り、みのちのこほり(水内郡)にあんぢ(安置)したてま(奉)つしよりこのかた(以来)、せいざう(星霜)はごひやく
はちじふよさい(五百八十餘歳)、されどもえんしやう(炎上)はこれはじめ(始)とぞうけたまは(承)る。

わうぼふ(王法)つ(盡)きんとては、ぶつぽふ(佛法)ま(先)づばう(亡)ずとい(云)へり。さればにや、さしもやんごとなかりつるれいじれいさん(靈寺靈山)のおほ(多)くほろ(亡)びう(失)せぬること(事)は、わうぼふ(王法)のすゑ(末)になりぬるぜんべう(先表)やらんとぞひと(人)まう(申)しける。

 作成/矢久長左衛門