2021年7月17日土曜日

原作者の存在を考証(13)鱸の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(13)

この「鱸の条」も覚明が伝聞をもとに書庫の資料で確認し書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の鱸(すずき)の条

(考察)

    覚明は、悪逆の張本人清盛を弾劾してもしきれない感情を持っていた
 
   覚明は、平家物語の冒頭の「祇園精舎の条」と「殿上闇討の条」に引き続き、この条でも清盛の父忠盛がどんな男だったのかを執拗に書き、その勢いがどのように息子の清盛に引き継がれ、平家一門が繁盛していったかを追跡しています。

原作者の覚明が忠盛、清盛親子にこだわるのは、「木曾山門牒状の条」でも触れられているように、忠盛が平家の悪逆の路線を敷き、息子清盛が実施した、その張本人たちだったからです。

「木曾山門牒状の条」で覚明が書いたその悪逆は、

「平家の悪逆を見るに、保元平治より以来、長く人臣の禮を失ふ。
然りと雖も、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。
恣に帝位を進退し、飽くまで国郡を虜領す。
道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を損亡す。
資財を奪ひ取つて、悉く郎従に與へ、かの荘園を没収して、濫りがはしく子孫に省く」
と述べられています。  

つまり、その牒状の書き出しでは 、これまで覺明が見聞きしてきた保元平治以来の平家の横暴を具体的に並べ立て、長く人臣の礼が失われていたと見ていたと述べています。
しかしながら貴賎は手をこまねき、僧俗も何もしない。
それを良いことに平家は帝位を操り、あまたの国や郡を奪い取り、道理のあるなしを論ぜず権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を滅ぼし、その財産を奪い、ことごとく郎従に与え、荘園を没収して、濫りに子孫に分かち与えていたと書いている。

覚明はその悪逆の張本人清盛を弾劾してもしきれない感情を持って、冷静に本当の忠盛、清盛像を追いかけています。

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鱸(すずき)の条の原文では
                    
その子どもは皆諸衛佐になる。昇殿せしに、殿上の交りを人嫌ふに及ばず。或時忠盛、備前國より上られたりけるに、鳥羽院、「明石の浦は如何に」と仰せければ、忠盛畏つて、

 有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか 

と申されたりければ、院大きに御感あつて、やがて歌をば、金葉集にぞ入れられける。
 
忠盛、又仙洞に最愛の女房を持つて夜々通はれけるが、或夜おはしたりけるに、かの女房の局に、つまに月出したる扇をとり忘れて、出でられたりければ、かたへの女房達、

「これは何くよりの月影ぞや、出所覺束無し」など、笑ひ合はれければ、かの女房、

 雲居よりただもり來たる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ 

と詠みたりければ、いとど淺からずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。
似るを友とかやの風情にて、忠盛のすいたりければ、かの女房も優なりけり。


(現代文訳)

忠盛の子供は、皆、諸衛(近衛府、兵衛府、衛門府)の次官になった。昇殿を許されたので、他の殿上人も殿上人としての交わりを嫌うまでもなかった。
あるとき、忠盛は、備前国から上京することがあったが、鳥羽院から、「明石の浦は、どうか」とお尋ねが有り、忠盛畏つて

「有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか」 

有明の月も明るい明石の浦では、風に吹き寄せられた波ばかりが、夜の景色として見えたことでした。
と申し上げたところ、鳥羽院は大いに御関心なさった。
早速、この歌は、金葉集(巻三秋)※に入れられました。

※金葉集
平安後期崇徳天皇の御代の勅撰和歌集。八代集の第五。10巻。白河法皇の命で、源俊頼が撰。二度の改撰ののち、大治2年(1127)成立。源俊頼・源経信・藤原顕季ら227人の歌約650首を収める。金葉和歌集。(デジタル大辞泉より)

忠盛は、また、院の御所に最愛の女房がいて、夜な夜な通っておられたが、ある夜、その女房の部屋に、端に月が描かれている扇を忘れて帰っていらっしゃったので、仲間の女房たちが
「これは何くよりの月影ぞや、出所覺束無し」

これはどこから出た月の光でしょうか。出所が不明ですなどと、笑い合われたので、その女房は、

 「雲居よりただもり來たる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ」

(御所から忠盛がきたのを)雲間からただ漏れてきた月なので、なみたいていのことでは言うまいと思いますと詠んだので、忠盛はますますこの女房への思いを深められた。

薩摩守忠度※の母が、この方である。
似た者夫婦とか言うように、忠盛も風流だが、その女房も歌道に優れていた。

※薩摩守平忠度(1144~1184)は忠盛の六男で、清盛の末弟にあたります。
忠度の母親は平忠盛の室で、歌人の藤原為忠の娘と言われる。
また、忠度が伊・熊野地方で生まれ育ったと伝わり、父忠盛が熊野別当湛快の娘・湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったとのことです。 

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(考察)

     覚明は、文武両道の薩摩守忠度に格別の思い入れがあった
  
 「平家物語」には薩摩守忠度にまつわる条で、巻七の和歌の師・藤原俊成との別れを描いた「忠度都落の条」があります。そして巻九に「忠度最期の条」があります。

原作者の覚明は平家の公達のなかで、この文武両道の薩摩守忠度に格別の思い入れがあったようです。他に「富士川の条」でも、忠度の和歌にまつわるエピソードを描いています。

この「鱸の条」を書いたときには、既に「富士川の条」や「忠度都落の条」「忠度最期の条」を書く予定があったということだと思います。

このように作者が、作品の早い段階で伏線を張ると言うことは、「平家物語」の原作である「治承物語」の作者はやはり一人ということで、それが覚明ということだと思います。

覚明は平家一門を憎んでいましたが、歌道に優れた忠度には同情的でした。優れた和歌を詠む者には甘かったようです。

この「鱸の条」でも忠盛とその女房については、同情的です。

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そして原文はいよいよ清盛へ

かくて忠盛、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、年五十八にて失せ給ひしかば、清盛嫡男たるによつて、その跡をつぎ、保元元年七月に、宇治の左府、世を亂り給ひし時、御方にて先を懸けたりければ、勸賞お行はれけり。
もとは安藝守たりしが、播磨守に遷つて、同じき三年に太宰大貳になる。又平治元年十二月、信頼義朝が謀叛の時も、御方にて賊徒を討ち平げたりしかば、勲功一つにあらず、恩賞これ重かるべしとて、次の年正三位に叙せられ、打續き宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言、大納言に經上つて、剰へ丞相の位にいたる。
左右を經ずして、内大臣より太政大臣從一位に至り、大將にはあらねども、兵仗を賜はつて隨身を召し具す。牛車輦車の宣旨を蒙つて、乘りながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごと(如)し。
太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。國を治め道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人に非ずは、則ち闕けよといへり。則闕官とも名づけられたり。その人ならではけがすべき官ならねども、この入道相国は一天四海を掌の中に握り給ふ上は、子細に及ばず。

(現代文訳)

こうして忠盛は、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、五十八歳で亡くなった。
清盛は、嫡男であるので、その跡を継ぎました。
保元元年七月に、宇治の左大臣藤原頼長が反乱を起こされた時、清盛は先に立って後白河天皇の味方についたので、勲功が行はれました。
そのときは安藝守でしたが、播磨守に栄転し、同三年に太宰大貳(太宰府の次官)になりました。
また、平治元年十二月、信頼義朝が謀叛の時も、天皇の味方について賊軍を討ち平らげましたが、「勲功一つにあらず、恩賞これ重かるべし」として、次の年に正三位に叙せられ、打ちつずき宰相(参議)、衛府督(永暦元年九月右衛門督)、検非違使の別当(永暦二年正月検非違使庁の長官)、中納言、大納言を歴任して昇進し、その上、丞相(大臣の唐名で、和では内大臣)の位にいたりました。

左右の大臣を経ずして、内大臣(令外の官)より太政大臣(太政官の最高の長官)從一位に昇進しました。
大將では無いけれど、兵仗宣下(近衛の舎人)を賜はつて護衛を召し連れ、牛車輦車の宣旨をいただいて、乘りながら宮中を出入りしました。
それはまったく摂政関白と同様でした。
「(職員令に)太政大臣は天子の師範として、天下の手本である。國を治め、道徳を論じ、陰陽を調和させ治める。それにふさわしい人がいなければ欠員のままにせよ」と言われている。
それゆえ、則闕官とも名づけられています。その適任者以外には任官させられない官職だが、この清盛入道相国(太政大臣の唐名)は天下を掌のうちに握り給ふ上は、とやかく言う事も出来ないのでした。

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(考察)

   覚明は、清盛の出世の早さに改めて感心、そのもとは奈辺にと思う

  清盛の経歴が正確に記述されています。
覚明は延暦寺の書庫で資料を調べ書いたものと思われます。
比叡山は平家を支持していた時期もあるので平家に関する記録は豊富にありました。
覚明はその記録をひもときながら、清盛の出世の早さに改めて感心していたと思います。
そして、この繁栄のもとは,奈辺にありや?と覚明らしい想像をめぐらしました。
以下がその答えです。

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さらに、原文では

抑平家かやうに繁昌せられけることは、偏に熊野權現の御利生とぞ聞えし。その故は、清盛未だ安藝守たりし時、伊勢國安濃津より、舟にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船へ躍り入つたりければ、先達申しけるは、
「昔周の武王の舟にこそ、白魚は躍り入つたるなれ。如何様にもこれは権現の御利生と覺え候。参るべし」
と申しければ、さしも十戒を持つて、精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家子、郎等どもにも食はせらる。
その故にや吉事のみ打續いて、わが身太政大臣に至り、子孫の官途も龍の雲に上るよりはなほ速かなり。九代の先蹤を超え給ふこそ目出たけれ。
 
(現代文訳)

  そもそも、平家がこの様に繁栄されたのは、熊野権現の御利益といわれました。
そのわけは、清盛がまだ安芸守であったころ、伊勢国の安濃津(今の津市南部の地)より、舟で熊野へ参詣されたときに、大きな鱸が舟に躍り入ったのを、
案内人が言うには
「昔、周の武王※の舟に白魚が躍り入りました。きっと、これは権現の御利益と覚えまする」と申し述べました。

※史記、周本紀に、                                                
「武王、河を渡り、中流白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る」とある。

十戒(十悪)を守り、精進潔斎(飲食を慎み身体をきよめ、けがれを避けること)の道中であるけれども、清盛は自ら調理して食べ、家の子(一門にして家来になっている者)、侍衆にも食べさせました。

そのためか、吉事のみが続いて、わが身は太政大臣に上り詰め、子孫の官職も龍が雲に上るよりも、さらに速やかでした。
九代(髙見王以来)にわたる先祖の先例を越えられたのは、目出度いことでありました。

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(考察)

  覚明は、 清盛の勢いに圧倒され、とやかく言うには及ばない気持になる

  覚明は熊野権現の御利益を信じていたようです。
当初、平家一門を支持していた熊野権現も、熊野の水軍が源氏に協力して、熊野權現が源氏に勝利を導いたとも言われています。

覚明がこの条を書き始めたとき、平家の悪逆を弾劾する感情は昂ぶっていました。しかし、忠盛夫婦の風流や清盛の歩んだ経歴を客観的に記述していくうちに、その清盛の勢いに圧倒され、とやかく言うには及ばない気持になりました。
そこで、信心深い覚明らしく熊野權現の御利益の凄さを描くことで、この条をおとなしく纏めたのだと思います。

(長左衛門・記)

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(参照)
                                                                        
「平家物語」の鱸(すずき)の条(原文)      
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の鱸(すずき)を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

鱸(すずき)の全文
                    
そのこ(子)どもはみな(皆)しよゑのすけ(諸衛佐)になる。しようでん(昇殿)せしに、てんじやう(殿上)のまじは(交)りをひと(人)きら(嫌)ふにおよ(及)ばず。あるとき(或時)忠盛、びぜんのくに(備前國)よりのぼ(上)られたりけるに、とばのゐん(鳥羽院)、「あかし(明石)のうら(浦)はいか(如何)に」とおほ(仰)せければ、ただもり(忠盛)かしこま(畏)つて、

 ありあけ(有明)のつき(月)もあかし(明石)のうらかぜ(浦風)になみ(浪)ばかりこそよるとみ(見)えしか 

とまう(申)されたりければ、ゐん(院)おほ(大)きにぎよかん(御感)あつて、やがてこのうた(歌)をば、きんえふしふ(金葉集)にぞい(入)れられける。
 ただもり(忠盛)、また(又)せんとう(仙洞)にさいあい(最愛)のにようばう(女房)をも(持)つてよなよな(夜々)かよ(通)はれけるが、あるよ(或夜)おはしたりけるに、かのにようばう(女房)のつぼね(局)に、つまにつきいだ(月出)したるあふぎ(扇)をとりわす(忘)れて、い(出)でられたりければ、かたへのにようばうたち(女房達)、

「これはいづ(何)くよりのつきかげ(月影)ぞや、いでどころおぼつかな(出所覺束無 )し」など、わら(笑)ひあ(合)はれければ、かのにようばう(女房)、

 くもい(雲居)よりただもりき(來)たるつき(月)なればおぼろ(朧)げにてはいはじとぞ思ふ 

とよ(詠)みたりければ、いとどあさ(淺)からずぞおも(思)はれける。さつまのかみただのり(薩摩守忠度)のはは(母)これなり。
に(似)るをとも(友)とかやのふぜい(風情)にて、ただもり(忠盛)のすいたりければ、かのにようばう(女房)もいう(優)なりけり。

 かくてただもり(忠盛)、ぎゃうぶきゃう(刑部卿)になつて、にんぺい(仁平)さんねん(三年)しやうぐわつ(正月)じふごにち(十五日)、とし(年)ごじふはち(五十八)にてうせ(失)たま(給)ひしかば、きよもり(清盛)ちやくなん(嫡男)たるによつて、そのあと(跡)をつぎ、はうげん(保元)がんねん(元年)しちぐわつ(七月)に、うぢ(宇治)のさふ(左府)、よ(世)をみだ(亂)りたま(給)ひしとき(時)、みかた(御方)にてさき(先)をか(懸)けたりければ、けんじやう(勸賞)おこな(行)はれけり。
もとはあきのかみ(安藝守)たりしが、はりまのかみ(播磨守)にうつ(遷)つて、おな
(同)じきさんねん(三年)にだざいのだいに(太宰大貳)になる。また(又)へいじぐわんねん(平治元年)じふにんぐわつ(十二月)、のぶより(信頼)よしとも(義朝)がむほん(謀叛)のとき(時)も、みかた(御方)にてぞくと(賊徒)をう(討)ちたひら(平)げたりしかば、くんこう(勲功)ひとつ(一)にあらず、おんしやう(恩賞)これおも(重)かるべしとて、つぎ(次)のとし(年)じやうざんみ(正三位)にじよ(叙)せられ、うちつづ(打續)きさいしやう(宰相)、ゑふのかみ(衛府守)、けびいし(検非
違使)のべつたう(別当)、ちうなごん(中納言)、だいなごん(大納言)にへ(經)あが(上)つて、あまつさ(剰)へしようじやう(丞相)のくらゐ(位)にいたる。
さう(左右)をへ(經)ずして、ないだいじん(内大臣)よりだいじやうだいじんじゆいちゐ(太政大臣從一位)にいた(至)り、だいしやう(大將)にはあらねども、ひやうぢやう(兵仗)をたま(賜)はつてずゐじん(隨身)をめ(召)しぐ(具)す。ぎつしやれんじや(牛車輦車)のせんじ(宣旨)をかうぶ(蒙)つて、の(乘)りながらきうちう(宮中)をしゆつにふ(出入)す。ひとへ(偏)にしつせい(執政)のしん(臣)のごと(如)し。だいじやうだいじん(太政大臣)はいちじん(一人)にしはん(師範)として、しかい(四海)にぎけい(儀刑)せり。くに(國)ををさ(治)めみち(道)をろん(論)じ、いんやう(陰陽)をやはらげをさむ。そのひと(人)にあら(非)ずは、すなは(則)ちか(闕)けよといへり。そくけつのくわん(則闕官)ともな(名)づけられたり。そのひと(人)ならではけがすべきくわん(官)ならねども、このにふだうしやうこく(入道相国)はいつてんしかい(一天四海)をたなごころ(掌)のうち(中)ににぎ(握)りたま(給)ふうへ(上)は、しさい(子細)におよ(及)ばず。

 そもそも(抑)へいけ(平家)かやうにはんじやう(繁昌)せられけることは、ひとへ(偏)にくまのごんげん(熊野權現)のごりしやう(御利生)とぞきこ(聞)えし。そのゆゑ(故)は、きよもり(清盛)いま(未)だあきのかみ(安藝守)たりしとき、いせのくにあののつ(伊勢國安濃津)より、ふね(舟)にてくまの(熊野)へまゐ(参)られけるに、おほ(大)きなるすずき(鱸)のふね(舟)へをどり(躍)い(入)つたりければ、せんだち(先達)まう(申)しけるは、
「むかし(昔)、しう(周)のぶわう(武王)のふね(舟)にこそ、はくぎよ(白魚)はをど(躍)りい(入)つたるなれ。いかさま(如何様)にもこれはごんげん(権現)のごりしやう(御利生)とおぼ(覺)えさふらふ(候)。まゐ(参)るべし」
とまう(申)しければ、さしもじつかい(十戒)をたも(持)つて、しやうじんけつさい(精進潔斎)のみち(道)なれども、みづからてうび(調味)して、わがみ(身)く(食)ひ、いへのこ(家子)、らうどう(郎等)どもにもく(食)はせらる。そのゆゑ(故)
にやきちじ(吉事)のみうちつづ(打續)いて、わがみ(身)だいじやうだいじん(太政大臣)にいた(至)り、しそん(子孫)のくわんど(官途)も、りよう(龍)のくも(雲)にのぼ(上)るよりはなほすみや(速)かなり。くだい(九代)のせんじよう(先蹤)をこえ(超)たま(給)ふこそめで(目出)たけれ。
 
作成/矢久長左衛門 

2021年7月4日日曜日

こぼればなし(3)「なんと凄い!長寿ですね」

     そろそろ、寿命について考えるようになりました

「平家物語」の原作者である信濃前司行(幸)長の寿命は、平安時代末期から鎌倉時代初期で九十七歳でした。

なんと凄い!長寿です!

当時で考えてみると、覚明の西仏坊としての晩年は、まさに仙人の域です。

小生は八十歳過ぎて高血圧との闘いが始まりました。

薬を飲み始めても朝の135は抑えられず、140越えが続き、薬を飲んで150を越えないようにしてきました。

コロナの流行以後、塩分が多めの外食をやめ、食事の塩分を減らす努力をし、140前後を維持し、薬は週に一度か10日に一度くらいにしてきました。

ところが、この冬のあいだ気力が失せ、身体の芯が抜けたようにフラフラするようになりました。疲れて入浴する気力もなく、毎日シャワーだけで済ましてきました。

薬は一日一錠の決まりですが、薬の注意書きには、目まいがするとあります。しかし、連日のんでいるわけではなく、薬のためのフラフラでないことは明瞭です。

春になり、暑い日が続き、高齢者の熱中症がテレビなどで話題になりました。

水と塩分不足が原因だそうです。

そういえば夜中に水を呑むと舌が塩分を欲しがり、ときどき塩をなめました。すると、朝の血圧は必ず150を越えます。でも、フラフラが止まります。

夜中の塩なめは、血圧に良くないので止めると気力が失せフラフラで疲れます。

今は普通に塩分のある食事に替えたら、何とか元気になり気力も出てきました。

でも、血圧が150を越えることが多くなりそうです。

今は血圧の薬と塩分のある食事とのせめぎ合いで頑張る毎日になっています。

これはそろそろ寿命かなと思うようにもなり、寿命について考えるようになりました。

ドイツの古いことわざに「老年まで生きるのは神のわざであり、いつまでも若くあるのは生活のわざである」といいます。

人間には寿命がある。いわゆる天寿ですね。

これは神のはからいであって、人力の及ぶところではない。しかし天寿を全うするには節制と注意が必要であるとのこと。

それを欠くと、せっかくの神のわざをむなしくする、といいます。

晩年の信濃前司行(幸)長こと西仏坊も、節制と注意に努め、長生きしたということなのでしょうか。

(長左衛門・記)