2019年6月19日水曜日

お知らせ(4)「原作者存在の考証一覧」

  平家物語の各条から原作者の存在を考証(一覧)


考証した順にサブタイトルを並べて、アクセスし易いようにリンクを貼りました。
考証といっても裏付ける資料が乏しく、信濃前司行長、信濃入道こと信救・覚明の系図や経歴、そして作品を手がかりに考察する作業を重ねた上での、想像を交えたものです。












(12)「殿上闇討の条」も覚明が慈円とその周辺を取材して書いたもの







 

(19)北国下向の条(清水冠者含む覚明は頼朝と義仲の対立にふれる


(20)主上都落の条」で、覚明は源氏側が平家側を都から追い出したと語る


以上は、平家物語の原作「治承物語」に存在した可能性が最も濃厚な各条です。

治承物語は当初三巻と言われていますが、一巻に何条あったのかは不明です。
まだ、覚明が書いた条があるかもしれませんが、一応、確信できるもの20本を、ここに掲載しました。


(長左衛門・記)


2019年6月17日月曜日

原作者の存在を考証(8) 三井寺炎上の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(8)

この三井寺炎上は覚明が大津で焼け跡を見てきて書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 ☆「平家物語」の三井寺炎上の条

(考察)

   覚明は、焼け跡に立ち「めでたき聖跡なれど今は何もない」と、その印象を

 三井寺からの南都牒状の条と興福寺からの南都返蝶の条を比叡山で思い出しながら書いた覚明は、次に、書いておきたい条が、この三井寺炎上の条でした。

木曽義仲の祐筆であったことがばれて箱根に居られなくなった覚明は、比叡山への逃亡の途上、近江の大津を経由してきたに違いありません。

そこで、その後の三井寺がどうなっているか、気がかりだったため平家に焼き討ちされた三井寺の焼け跡に立ち寄ったと思います。

そこは茫漠とした焼け跡となっており、「めでたき聖跡なれど今は何もない」と、その印象を簡潔に描写しています。

それは実際に見てきた実感のこもった名文です

ーーーーーーーーーーーーーー

原文では

日頃は山門の大衆こそ、發向の猥しき訴へ仕るに、今度は如何思ひけん、穏便を存じて音もせず。
然るを南都三井寺同心して、或は宮請取り參らせ、或は御迎ひに參る條、これ以て朝敵なり。
然らば奈良をも、寺をもせ攻めらるべしと聞えしが、先づ三井寺を攻めらるべしとて、同じき五月二十七日、大將軍には左兵衛督知盛、副將軍には薩摩守忠度、都合その勢一萬餘騎、園城寺へ發向す。

寺にも大衆一千人、甲の緒をしめ、掻楯掻き、逆茂木引いて、待ちかけたり。
卯の刻より矢合して、一日戦ひ暮し、夜に入りければ、大衆以下法師ばらに至るまで、三百餘人討たれぬ。
夜軍になつて、暗さは闇し、官軍寺中に攻め入りて、火を放つ。

 (現代文訳)

日ごろは比叡山の衆徒こそが、分別のない訴えを致すのに、今度は何を思ったのか、穏便を心がけて音沙汰もない。
それなのに、奈良興福寺と大津三井寺は心を一つに、もしかすると高倉宮(以仁王)をおひきうけし、またはお迎えに参るということで、これは朝敵である(つまり、朝廷と一体の平家に対する謀叛でもある)。
それで、(平家軍は)三井寺も興福寺も攻撃すべきであるとして、
同(治承4)年五月二十七日、大将軍には清盛の四男左兵衛督平知盛、、副將軍には清盛の異母弟薩摩守平忠度、しめてその勢力一万余騎が園城寺(三井寺)へ向かって進軍した。

寺では衆徒一千人が甲の緒をしめ、矢を防ぐ盾を垣のように並べ、
木の枝の先端をすべて鋭くとがらしたものを敷いて、待ち受けた。

卯の刻(ほぼ午前五時から七時まで)より矢合(開戦の矢を敵味方から射込むこと)して、一日戦ひ暮し、夜に入りければ、大衆以下法師ばらに至るまで、三百余人が討たれた。
夜の戦いになつて、暗さは闇し、官軍(平家軍)は寺の中に攻め入りて、火を放つた。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

          覚明が、この条の書き出しで、三井寺に同情的なのは当然

 覚明がこの書き出し部分を書いたとき、圓城寺からの救援依頼状に対し比叡山がどんな対応をしたかを既に詳しく知っていました。
そこで、三井寺の立場に同情して「日頃は山門の大衆こそ、發向の猥しき訴へ仕るに、今度は如何思ひけん、穏便を存じて音もせず」と、やや揶揄的に述べています。
この当時の山門の天台座主は明雲大僧正です。
そのときの日和見的対応について覚明は批判的です。
後に描かれる法住寺合戦の条では、悲しいことに明雲大僧正は木曽義仲軍に攻められ非業の死を迎えています。
残念ながらそこには祐筆の覚明もいました。
日和見を決め込んで平家に味方した明雲大僧正のために失われたのは高倉宮らを始めとして、この三井寺だけで大衆以下法師ら三百余人です。
この条の書き出しで覚明が三井寺に同情的なのは当然です。
それに南都返牒の条でも触れたように「克く梁園左右の陣を固めて、宜しく吾等が進發の告げを待つべし」と書いた信救(覚明)は、あまりにも事が急展開したために三井寺への救援も間に合わず慚愧の念を抱えたまま、事ここに至り、この条を書き始めることになったのです。

ーーーーーーーーーーーーーー

続いて原文では

焼くる所、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、大寶院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊、竝びに本尊像等、八間四面の大講堂、鐘楼、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御寶殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、竝びに智證の渡し給へる一切經七千餘巻、佛像二千餘體、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。
諸天五妙の楽しみも、この時長く盡き、龍神三熱の苦しみも、彌盛んなるらんとぞ見えし。

(現代文訳)
焼けた所は、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、大寶院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊(智証大師作の教待和尚の像を安置する堂)、並びに本尊像等、八間四面の大講堂、鐘楼、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇(佛法擁護の神)、新熊野の御寶殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、並びに智證(円珍)の渡し給へる一切經七千餘巻(延暦寺五世の座主で入唐帰朝後に円城寺を創建)、佛像二千餘體、それらがまたたく間に煙となってしまったのは悲しい。
天上界の諸神の五妙の楽(宮・商・角・徴・羽の五音が美しく妙なる音楽)も、この時より長く尽き、龍神が受ける三つの(燃えあがる炎の熱の激しさを三段に分けた)苦しみも、ますます盛んになることと思われる。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

         覚明は、平家への憎しみを再燃させ、執筆のエネルギーにした

覚明がこれを書いたとき、焼ける前の三井寺の伽藍の全体を知っていたとは思えません。
多分、延暦寺の書庫で資料をあさって主なものを書き出したり、聞き込みをしたりして、これだけのものを並べたのだと思います。
その中に円城寺を創建した円珍から引き継がれた一切經七千餘巻があったことを知り、それも經藏とともに燃えてしまったことを覚明は惜しんでいます。
この三井寺の炎上で、極楽浄土への道も途絶え、畜生道でうける三熱の激しい苦しみもますますひどくなると思った覚明は、平家への憎しみを再燃させ、執筆のエネルギーにしたのではないかと想像出来ます。

ーーーーーーーーーーーーーー

さらに続いて原文では

それ三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄せ奉りて、御願となす。
本佛もかの御門の御本尊、然るを生身の彌勒と聞え給ひし教待和尚、百六十年行うて、大師に附嘱し給へり。
都史多天上、摩尼寶殿より天降り、遙かに龍華下生の曉を待せ給ふとこそ聞きつるに、こは如何にしつる事どもぞや。
大師この所を傳法灌頂の霊跡として、井花水の三つを掬び給ひし故にこそ、三井寺とは名づけたれ。

かかるめでたき聖跡なれども、今はなに何ならず。顯蜜須臾に亡びて、伽藍更に跡もなし。
三密道場も無ければ、鈴の聲も聞えず。一夏の花も無ければ、閼伽の音もせざりけり。

宿老碩徳の名師は、行學に怠り、受法相承の弟子は、又經教に別れんだり。
寺の長吏圓慶法親王は、天王寺の別當をも停められさせたまふ。
その外僧綱十三人、闕官せられて、皆檢非違使に預けらる。
堂衆は筒井の浄妙明秀に至るまで、三十餘人流されけり。

「かかる天下の亂れ、国土の騒ぎ、只事とも覺えず、平家の世の末になりぬる先表やらん」とぞ人申しける。

(現代文訳)

この三井寺は、近江の義大領(郡司)が所有する私的な寺であったものを、天武天皇に寄進して、御願寺となしたものである。
本佛も天武天皇の御本尊、それをそのまま、生身の彌勒といわれなさった教待和尚が百六十年修業して、智証大師(円珍)にお渡しなさった。
都史多天上(彌勒菩薩の浄土)は、摩尼(珠)寶殿より天降り、はるか後に龍華下生(彌勒菩薩がこの世に下生して龍華という樹木の下に座して成道し三会の説法をする)の日を待せていると聞いているのに、これはどうしたことであろうか。
智証大師はこの場所を傳法灌頂(真言蜜教の儀式の一つ)の霊跡として、井花水(丑寅の時刻の若水)の水をおくみなされたので三井寺と名づけられた。

このようなめでたき聖跡であるが、今はなにもない。
顯蜜(天台真言の仏法)は一昼夜の三十分の一で亡び、そのうえ伽藍の跡もない。三密道場(真言秘密の道場、三密は身口意の秘密の行法)も無ければ、鈴の音も聞えず。安居(一夏の修業)の花も無ければ 、 仏前に供える水を入れる器の音もしない。

長老で徳の高い高僧は修業と学問に滞りが出るし、また法を受けつぐ弟子は經文や教義から離れてしまった。
三井寺の長吏、圓慶法親王(円恵法親王)は、天王寺の別當をもやめさせられた。
その外の僧綱十三人は退官させられて、みんな檢非違使に預けられた。
堂衆(下級僧侶で僧兵)は筒井の浄妙明秀に至るまで、三十余人が流された。

「かかる天下の亂れ、国土の騒ぎ、只事とも覺えず、平家の世の末になりぬる先表(前兆)やらん」と人びとは言った。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

       覚明は、奈良興福寺と東大寺の炎上についても書かねばならぬと思った
 
  覚明は、ここまで書いてきて奈良興福寺と東大寺の炎上についても書かねばならぬと思ったに違いありません。
それは是非書かねばならぬ東大寺「伽藍ノ罰」だからです。
しかし、その前に善光寺炎上にも触れておきたいと思いました。
何故なら平家の滅びの前兆はその時からあったことに気づいたからです。

(長左衛門・記)
ーーーーーーーーーーーーーー
(参照)

「平家物語」の三井寺炎上の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の三井寺炎上を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
                                                                       
三井寺炎上の全文(大津圓城寺の炎上) 

ひごろ(日頃)はさんもん(山門)のだいしゆ(大衆)こそ、はつかう(發向)のみだりがは(猥)しきうつた(訴)へつかまつ(仕)るに、こんど(今度)はいかがおも(如何思)ひけん、をんびん(穏便)をぞん(存)じておと(音)もせず。

しか(然)るをなんとみゐでら(南都三井寺)どうじん(同心)して、あるひ(或)はみや(宮)うけとり(請取)りまゐ(參)らせ、あるひ(或)はおんむか(御迎)ひにまゐ(參)るでう(條)、これもつ(以)ててうてき(朝敵)なり。

しか(然)らばなら(奈良)をも、てら(寺)をもせ(攻)めらるべしときこ(聞)えしが、ま(先)づみゐでら(三井寺)をせ(攻)めらるべしとて、おな (同)じきごぐわつにじふしちにち (五月二十七日)、たいしやうぐん (大將軍)にはさひやうゑのかみ (左兵衛督)知盛、ふくしやうぐん (副將軍)にはさつまのかみただのり(薩摩守忠度)、つがふ (都合)そのせい(勢)いちまんよき(一萬餘騎)、をんじやうじ(園城寺)へはつかう(發向)す。

てら(寺)にもだいしゆいつせんにん(大衆一千人)、かぶと(甲)のを(緒)をしめ、かいだて(掻楯)か(掻)き、さかもぎ(逆茂木)ひ(引)いて、ま(待)ちかけたり。

う(卯)のこく(刻)よりやあはせ(矢合)して、いちにち(一日)たたか(戦)ひくら(暮)し、よ(夜)にい(入)りければ、だいしゆいげほふし(大衆以下法師)ばらにいた(至)るまで、さんびやくよにん(三百餘人)う(討)たれぬ。

よいくさ(夜軍)になつて、くら(暗)さはくら(闇)し、くわんぐん(官軍)じちう(寺中)にせ(攻)めい(入)りて、ひ(火)をはな(放)つ。

や(焼)くるところ(所)、ほんがくゐん(本覺院)、じやうきゐん(成喜院)、しんによゐん(眞如院)、けをんゐん(花園院)、だいほうゐん(大寶院)、しやうりうゐん(清瀧院)、ふげんだう(普賢堂)、けうだいくわしやう(教待和尚)のほんばう(本坊)、なら(竝)びにほんぞうとう(本尊像等)、はちけんしめん(八間四面)のだいかうだう(大講堂)、しゆろう(鐘楼)、きやうざう(經藏)、くわんぢやうだう(灌頂堂)、ごほふぜんじん(護法善神)のしやだん(社壇)、いまぐまの(新熊野)のごほうでん(御寶殿)、すべてだうじやたふべうろくぴやくさんじふしちう(堂舎塔廟六百三十七宇)、おほつ(大津)のざいけいつせんはつぴやくごじふさんう(在家一千八百五十三宇)、なら(竝)びにちしよう(智證)のわた(渡)したま(給)へるいつさいきやうしちせんよくわん(一切經七千餘巻)、ぶつざうにせんよたい(佛像二千餘體)、たちま(忽)ちにけぶり(煙)となるこそかな(悲)しけれ。

しよてんごめう(諸天五妙)のたの (楽)しみも、このとき (時)なが (長)くつ (盡)き、りうじんさんねつ (龍神三熱)のくる (苦)しみも、いよいよ (彌)さか (盛)んなるらんとぞみ (見)えし。

それみゐでら(三井寺)は、あふみ(近江)のぎだいりやう(義大領)がわたくし(私)のてら(寺)たりしを、てんむてんわう(天武天皇)によ(寄)せたてまつ(奉)りて、ごぐわん(御願)となす。
ほんぶつ(本佛)もかのみかど(御門)のごほんぞん(御本尊)、しか(然)るをしやうじん(生身)のみろく(彌勒)ときこ(聞)えたま(給)ひしけうだいくわしやう(教待和尚)、ひやくろくじふねん(百六十年)おこな(行)うて、だいし(大師)にふぞく(附嘱)したま(給)へり。
としたてんじやう(都史多天上)、まにほうでん(摩尼寶殿)よりあまくだ(天降)り、はる(遙)かにりうげげしやう(龍華下生)のあかつき(曉)をまた(待)せたま(給)ふとこそき(聞)きつるに、こはいか(如何)にしつること(事)どもぞや。
だいし(大師)このところ(所)をでんぽふくわんぢやう(傳法灌頂)のれいせき(霊跡)として、ゐけすゐ(井花水)のみ(三)つをむす(掬)びたま(給)ひしゆゑ(故)にこそ、みゐでら(三井寺)とはな(名)づけたれ。

かかるめでたきせいぜき(聖跡)なれども、いま(今)はなに(何)ならず。けんみつ(顯蜜)しゆゆ(須臾)にほろ(亡)びて、がらん(伽藍)さら(更)にあと(跡)もなし。さんみつだうぢやう(三密道場)もな(無)ければ、れい(鈴)のこゑ(聲)もきこ(聞)えず。いちげ(一夏)のはな(花)もな(無)ければ、あか(閼伽)のおと(音)もせざりけり。

しゆくらうせきとく(宿老碩徳)のめいし(名師)は、ぎやうがく(行學)におこた(怠)り、じゆほふさうじよう(受法相承)のでし(弟子)は、また(又)きやうげう(經教)にわか(別)れんだり。

てら(寺)のちやうりゑんけいほつしんわう(長吏圓慶法親王)は、てんわうじ(天王寺)のべつたう(別當)をもとど(停)められさせたまふ。
そのほか(外)そうがうじふさんにん(僧綱十三人)、けつくわん(闕官)せられて、みな(皆)けんぴゐし(檢非違使)にあづ(預)けらる。
だうじゆ(堂衆)はつつゐ(筒井)のじやうめうめいしう(浄妙明秀)にいた(至)るまで、さんじふよにん(三十餘人)なが(流)されけり。

「かかるてんが(天下)のみだ(亂)れ、こくど(国土)のさわ(騒)ぎ、ただごと(只事)ともおぼ(覺)えず、へいけ(平家)のよ(世)のすゑ(末)になりぬるぜんべう(先表)やらん」とぞひと(人)まう(申)しける。

 作成/矢久長左衛門