2023年8月18日金曜日

幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(4)幸長入道は新しい仏教の道へ

専修念仏の法然上人に出会った範宴(親鸞)と浄寛(信救こと西仏)はその弟子となる。


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(10)

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(11)

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(12)

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(13)

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(14)


朝廷や公家寄りの興福寺や延暦寺の旧仏教勢力の反発による「承元の法難」で、朝廷は庶民の専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞を越後に配流。


幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行き数年を過ごしました。


その後、親鸞は流罪赦免され、越後から東国布教に向かいます。


幸長こと西仏坊はそのすべてヘ親鸞と行を共にします。


そして、親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会いました。


そこで、近くの海野庄(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する日々を送ります。


(注)親鸞の名前について

法名 〔叡山修行時〕範宴

 〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞

俗名(配流時)- 藤井善信

 〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞

 〔房号〕善信房


(長左エ門・記)



2023年8月17日木曜日

幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(3)幸長入道52歳の時、比叡山で24歳の範宴(後の親鸞)に出会う

 奈良から戻ったばかりの範宴の法話を聞き、幸長入道は弟子入りする                                        


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(9)


52歳の幸長入道は、年下の24歳の範宴の人柄と法話に魅せられ弟子入りする。

その翌年、25歳の範宴には御所から召状が来て、少僧都に任じられ、聖光院門跡に捕せられる。

(長左エ門・記)

2023年8月16日水曜日

幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(2)18歳の範宴(後の親鸞)は比叡山をおり奈良の法隆寺で修行。

その5年後、51歳の幸長入道は、箱根山より脱出し比叡山に向かう 。    


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(8)

 

幸長入道と親鸞の出会いは、比叡山にきてからが初めてのようです。


(長左エ門・記)


2023年8月15日火曜日

幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(1)幸長入道29歳の時、範宴(後の親鸞)誕生

幸長入道は、のちに親鸞※と行をともにすることになる。


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(5)

1173(承安3)年

  幸(行)長入道29歳

  甥の海野小太郎幸氏(数え年)2歳。

  木曽義仲の嫡男義高(数え年)2歳。

  興福寺僧徒、多武峰を焼く。

  南都十五大寺の荘園を没収。

  

4月1日(1173・5・14)浄土真宗の祖範宴(後の親鸞)誕生(一歳)


※【親鸞】しんらん

鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別名、範宴・綽空・善信。諡(おくりな)は見真大師。日野有範の子。治承五年(一一八一)青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、二〇年間学行につとめたが、建仁元年(一二〇一)二九歳のときに法然の門にはいり、専修念仏の人となる。建永二年(一二〇七)の念仏停止の際は越後国国府(新潟県上越市)に流され、四年後に罪をとかれると関東に行き、文暦二年(一二三五)頃京都に帰った。開宗宣言に相当する主著「教行信証」の初稿本は、関東在住の元仁元年(一二二四)頃に成る。恵信尼との結婚は越後国に流されてまもなくと思われ、二人の間に善鸞・覚信尼が生まれたが、善鸞は晩年、義絶された。門下に真仏・性信・唯円など。著書に「教行信証」のほか「浄土和讚」「愚禿鈔(ぐとくしょう)」「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」など。承安三~弘長二年(一一七三‐一二六二)

日本国語大辞典 小学館

2023年8月8日火曜日

こぼればなし(13)意外にも世界から見に来ている当ブログ

 「平家物語」は、国際的にも知られているようです。


当ブログの統計情報では訪問者の国々が表示されます。

以下は、閲覧数ランキング上位の国々です。


日本

アメリカ合州国

カナダ

ドイツ

オランダ

スウェーデン

スイス

エジプト

インド

シンガポール

などです。

その時々で入れ替わりがあります。

(長左エ門・記)

2023年8月7日月曜日

こぼればなし(12)「主上都落の条」を節目に原作者の存在が消える

       これまで平家物語原作者の存在を考証(一覧)してきました


この考証一覧の番号は、考証した条の順番です。これまで不思議と次の条が自然に暗示されて来ました。それが「主上都落の条」を最後に原作者覚明の存在が消えました。 

まだ、幾つかあるのかも知れません。多分、無理に存在をこじつけて探せばあるのでしょう。が、一応、ここで最後にすることにしました。

現存の平家物語には各条の順がありますが、それなりの意味があるのでしょう。この考証一覧の各条の順は、あくまでも自然に導かれてきて考証した順です。 

(長左エ門・記)

2023年8月5日土曜日

こぼればなし(11)保元の乱で滋野嫡流海野家は兄の信濃守海野幸通が崇徳上皇側

     弟で海野幸(行)長の父海野幸親 は後白河天皇側


◎保元の乱※で海野家も兄弟で二派に分かれる。

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(3)

摂関家藤原氏は、忠実の長子忠通と次子頼長が対立。

忠通は鳥羽法皇と結び、頼長は崇徳上皇と組んでいた。

そして、鳥羽法皇が逝去されるや、上皇は頼長と謀って源為義、平忠正らの武士を招いて挙兵。

これに対し、後白河天皇は忠通とともに源義朝(為義の長子)、平清盛(忠正の甥)を味方にして、戦乱となる。

崇徳上皇方は、義朝らの夜討ちを受けて大敗し、上皇は讃岐に流され、頼長は戦死、為義、忠正は投降して斬られた。

この乱は皇室の皇位継承の争いであり、藤原氏一族の権力闘争が表面化したものであって、貴族の無力さと、武士階級の政治への進出を促したものとされ、古代から中世への転機となる歴史的事件だった。


この時、海野幸(行)長(覚明)の父海野幸親 は望月氏や禰津氏、諏訪氏らと共に後白河天皇側に付く(後、官軍となる)


父の兄信濃守海野幸通は崇徳上皇側に付く(後、賊軍となる)


その後、源平の戦乱が続き、信濃守の任命記録は見られません。  


そのため、信濃前司行長は下野守藤原行長という誤った通説が流布したものと思われます。


「徒然草」著者吉田兼好の誤りではなく、兼好法師の名誉のためにも、ここで訂正しておきたいと思います。

(長左衛門・記 )

2023年8月3日木曜日

こぼればなし(10)天皇の前での恥を心憂きこととして出家した幸(行)長の執念

   幸長こと信救(出家名)は、28歳で「新楽府略意(二巻)」を著す。


「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。


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[徒然草226段の原文]

【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】

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注目点!

10歳前後のときに天皇の前での恥を心憂きこととして出家した幸(行)長の執念は、承安2(1172)年3月28歳のとき、伊賀国の師見寺で「新楽府略意(二巻)」を著しました。

この「白氏新楽府略意 」巻ノ上には、徒然草226段に述べられている楽府の御論議での恥を忘れず、「七徳ノ舞ト者、左伝云ク、夫武ハ禁シ暴ヲ戢メ兵ヲ保チ大ヲ定メ功ヲ安シ民ヲ和ク衆ヲ豊ナル財ニ者也、」と挙げ、その略意を述べています。

中国の哲学書電子化計画の電子図書館では、「夫武、禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財、者也」と句読点が入れてあります。


幸(行)長こと信救は「新楽府略意」を書きながら考えたに違いない。

平安時代の教養人の間では漢詩を読むことが流行っていたが、当たり障りのないものばかりが選ばれ詠じられていた。

白楽天の「新楽府」は、社会が抱える時事問題を詠い、下は民衆から上は天子にいたるまで、この問題を知り、世の中をよくしょうという目的で作られたという。

ところが、本邦では平家一門の専横がはびこりつつある。

信救が修業遍歴中に見た民衆の苦しみや悲惨な状況は為政者には無視されている。

そういう世の中を何とかしなければならないと若い信救は欲求不満を抱えていた。

そして、ついに、信救の長い修業遍歴は終わり、治承の時代を迎える。 

治承4年(1180)4月9日76歳の源三位頼政は以仁王に謀反を勧め、令旨を諸国の源氏に伝える。

当時、学問僧として、南都興福寺にいた信救は以仁王が逃げ込んだ園城寺からの牒状に対してその返牒を書くことになる。

その中で平清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒、そのため怒りをかい、漆を浴び変装して奈良を逃れることになる。


(長左エ門・記)

2023年8月1日火曜日

こぼればなし(9)稽古の誉れがあったのは後鳥羽院の御時ではなかった

        近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家した  


「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。

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[徒然草226段の原文]

【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】

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注目点!

兼好法師の徒然草226段の書きだしでは「後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の誉れありけるが、」となっていますが、重大なことに気付かされました。

稽古の誉れがあったのは、後鳥羽院の御時ではなかったのです。

82代後鳥羽天皇の在位は1183(寿永2) 年から1198(建久9)年までで、それから1221(承久3)年までが後鳥羽院の御時になります。

その時の海野幸(行)長は、54歳から77歳です。稽古の誉れありけるという年齢ではありません。

幸長出家名の信救著作「仏法伝来次第」の経歴によると、近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家したとあります。

そこで、信濃前司幸(行)長(本名海野幸長)の誕生から出家、修業遍歴を年表風に一覧にして見ました。


年表でたどる幸(行)長入道の97歳の生涯(1)

「近衛天皇在位之昔」とは?

1141(永治元)年から1155(久寿2)年の14年間のことです。


年表でたどる幸(行)長入道の97歳の生涯(2)

「稽古の誉れ」があったのは?

近衛天皇15歳ごろ、行長は10歳ごろ、10歳前後で出家※。

2年後に、近衛天皇は17歳で薨去。


※徒然草で、幸(行)長は、「五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」となっていますが、当時、10歳前後の本人は相当重く心憂き事として捉えたのでしょう。急に学問の道である奈良東大寺国立勧学院進士を捨て、比叡山の黒谷に行き、出家してしまったということのようです。


(長左エ門・記)