2021年10月19日火曜日

こぼればなし(6)信濃前司行長か、信濃前司幸長か

     信濃滋野氏嫡流の海野系図では本名海野幸長

兼好法師の「徒然草」で、「平家物語」の作者は、信濃前司行長・信濃入道・行長入道となっています。

これを信頼出来ると信じて、

信濃前司行長・信濃入道・行長入道のキーワードを手掛かりに、現存の「平家物語」の原文を熟読して、本当のオリジナルの作者を捜しています。

キーワードを絞ると信濃・入道・行長です。


今までに分かったことは、「平家物語」には原作が有り、その原作が「治承物語(号平家)」であることが分かりました。

しかし、その原作「治承物語」は現存しません。

現存の「平家物語」の作者は不詳と表記されることが未だに多いのです。

これだけの大作を残したのに、いまだに作者不詳と言われるのは残念です。

最近では、「平家物語」の作者は伝・信濃前司行長と表記されるものもあります。

そこで、信濃前司行長の経歴を、残された数々の著作や資料から辿ると、

本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸長です。

本人は九十七歳の長い人生で、本名以外で、八つの名前を使い人生を終えています。


注目点!

以下はその各別名です。

一、蔵人通廣(幼名は通廣、この時、勧学院進士,先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王)

二、最乗房信救(この時、比叡山で出家、この名で「仏法伝来次第」を書く)

三、信阿(この名で、「和漢朗詠集私注(六巻)」を書く)

四、信救撰(この名で「新楽府略意(二巻)」を書く)

五、大夫房覚明(この名で、木曽義仲の祐筆)

六、信救得業(この時、箱根権現で「筥根山縁起並序」「曽我物語(初稿)」を書く)

七、円通院浄寛(この時、比叡山慈鎭和尚のもとで「治承物語三巻(初稿)」を書く)※後に号平家六巻の記録あり

八、西仏(この時、法然上人門下、親鸞と行動をともにする。覚明の名で「三教指帰註」を書く)

以上、晩年の最後の呼称が西仏坊(西仏法師)です。


今と違い、本人は、その時、その場で、さまざまな名を使い分けていますので、これと言う代表的な名前はないのです。


強いて言うなら、

比叡山での出家名は信救。

「平家物語」関係を述べるときは信濃前司行(幸)長か、物語にも登場する木曽義仲の祐筆名の覚明。

法然・親鸞との宗教活動の関係を述べるときには、西仏、

となります。


整理すると、

本名は(海野)幸長、

幼名は(海野)通廣、

出家名は信救、

木曽義仲の祐筆名では覚明、

吉田兼好の徒然草では信濃前司行長または幸長、

晩年は西仏、

となります。

当ブログの年表では、親しみを込め「幸長入道」と総称しています。

以上は、ブログに既に書いたことですが、再確認のつもりで取り上げました。


ここまで、たどり着けたのは、パソコンでのネット検索と数々の研究者の論文のおかげです。また、このブログに、これだけの情報を掲載できるのはGoogleのブログサービスとワープロ一太郎のおかげです。

八十歳を過ぎていますので手書きではとうてい無理です。

視力も衰えていますので、プリンターとパソコンの拡大機能に助けられています。

今だからこそ、ここまで出来ると感謝しながら、日々、健康管理に気をつけ精進しておりますので、今後ともよろしくご愛読下さい。

(長左衛門・記)


2021年10月13日水曜日

原作者の存在を考証(16)妓王の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(16)

この「妓王の条」で、僧浄寛(覚明)は清盛入道の女性問題を追及。

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!                        

☆「平家物語」の妓王の条

(考察)

     覚明は、清盛の女性に対する横暴さを、この「妓王の条」で描く

 安藝國嚴島の内侍(巫女)が腹に一人や九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(下位女官)の常盤の腹に一人だけではなく、出家して入道になっても清盛の権勢と威力は、女性問題を大いに発展させていました。さすがに、年のせいか子供の記録は途絶えています。

 覚明は、女性に対する清盛の横暴さを、その例として、この「妓王の条」で描いています。主人公の一人は二十一で尼になる妓王で、もう一人は十九で尼になる仏御前です。

そして、この二人の女性が、どうして、そうなったのか、本人たちに取材して、経緯を詳しく、僧の覚明らしく語っています。

 覚明は、若い女性が尼になる話を二回書いています。

一回目は、この条を書く前に、箱根で「曽我物語」に登場する兄十郎の妾虎御前のことを描いています。十郎の恋人であった大磯の遊女虎(とら)は、十郎の死後、十九歳で尼となり、信濃の善光寺へ詣でて十郎の骨を納め、曾我の大御堂で念仏三昧の生活を送り、大往生を遂げます。

 二回目が、この妓王の条になります。

 一回目は、関わった亡き男の供養を信濃國の善光寺で行いをすまして、往生を遂げさせていますが、この二回目では清盛の供養はさせていません。

 覚明は、それぞれの女たちが、若いときの汚れてしまった生活を、尼になって修業することで、心身共に浄化し、人生を終えることを教訓としていたようです。

 この妓王の条は、他の条と比べると少し長いですが、叙事詩的なものではなく、 叙情詩的なものなので、優しい文章になっています。

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(妓王の原文)では、

 太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は、世の誹りをも憚らず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をのみし給へり。

譬へば、その頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王、妓女とて、おととひあり。とぢといふ白拍子が娘なり。

然るに姉の妓王を、入道相国寵愛し給ふ上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜ならず。母とぢにもよき屋造つて取らせ、毎月に百石百貫をおくられたりければ、家内富貴して、楽しい事斜ならず。

 抑わが朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前、かれら二人が舞ひ出したりけるなり。

始は水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ男舞とぞ申しける。

然るを中頃より烏帽子刀をのけられて、水干ばかり用ひたり。

さてこそ白拍子とはなづけけれ。

 京中の白拍子ども、妓王が幸ひの目出度き様を聞いて、羨む者もあり、猜む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの妓王御前の幸ひや。同じ遊女とならば、誰も皆あの様でこそありたけれ。如何様にも妓といふ文字を名について、かくは目出度きやらん。いざやわれらもついて見ん」とて、

或ひは妓一、妓二とつき、或は妓福、妓徳などつく者もありけり。

猜む者どもは、「なんでふ名なにより、文字にはよるべき。幸ひはただ先世の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬ者も多かりけり。


(現代文訳)

 太政入道※(清盛)は、かくのごとく天下を掌中に握っているので、世の非難をも遠慮せず、人の嘲笑も顧みず、不思議(仏語。思いはかることも、ことばで言い表わすこともできない)なことをしました。

  例えば、その頃、京中で評判の白拍子※の上手な妓王※という姉と妓女※という妹がいました。とぢという白拍子の娘です。

その姉のほうの妓王を入道相国が寵愛したので、妹の妓女をも、世の人がもてはやすこと格別でした。

母とぢにも良い家屋を造つてやり、毎月に百石の米と百貫の銭を贈られたので、家中が富み栄えて、楽しいこと格別でした。

 さて、わが国で白拍子の始まったのは、昔、鳥羽院の御世に、島の千歳、和歌の前という、かれら二人が舞い出してからです。

始は水干(水張りにして干した布)の狩衣に立烏帽子(前をおしこめて固くぬりかためた烏帽子)、白鞘巻(柄、鞘などに銀金具をつけた脇差し)をさして舞ったので男舞と言っていました。

しかし、中頃より烏帽子、刀を除いて、水干だけを用いました。ですから、白拍子となづけられました。

 京中の白拍子たちは、妓王が幸運でめでたい様子を聞いて、羨む者もあり、妬む者もありました。羨む者たちは、「ああ、めでたい妓王御前の幸せよ。同じ遊女(宇加礼女)であるならば、誰も皆、あの様でこそありたい。どうかというと、妓という文字を名に付けているから、その様にめでたいのでしょう。さあ、われらもつけてみましょう」といって、

あるものは妓一、妓二とつけ、あるものは妓福、妓徳などとつけるものもありました。妬む者たちは、「なんで、名や文字によるものか、運は、ただ前世からの生れつきであるそうだ」といって、妓の字を付けない者も多くありました。


※【太政入道】だいじょう‐にゅうどう〘名〙

もと太政大臣であった人が剃髪出家して仏門にはいった後の称。だじょうにゅうどう。日本国語大辞典小学館

※【白拍子・素拍子】しら‐びょうし 〘名〙

① 雅楽の拍子の名。笏(しゃく)拍子だけで歌うもの。

② 平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを歌い舞う遊女。初めは水干、立烏帽子に白鞘巻の太刀をさして舞ったので男舞といい、後に水干だけを用いたので白拍子というともいわれる。囃子としては笛、鼓、銅鈸子(どびょうし)などが用いられ、多くは今様(いまよう)をうたいながら舞った。〔兵範記‐仁安二年(1167)一一月一五日〕

[白拍子②〈七十一番職人歌合〉]

▷ 徒然草(1331頃)二二五

「禅師がむすめ、静と云ひける、この芸をつげり。これ白拍子の根元なり」

③ 江戸時代、遊女を俗にいう語。

▷ 俳諧・本朝文選(1706)四・説類・出女説〈木導〉

「傾城傾国は、唐人のつけたる名にして、白拍子ながれの女は、我朝のやはらぎなるべし」

[語誌]

(1)起源や呼称の由来は、装束に由来するとする説、声明の起源説、伴奏を伴わない拍子という義、など諸説ある。その女性たちには、女色を売る遊女としての側面もあった。

(2)仁和寺所蔵「今様之書」、「続古事談」、「世阿彌の三道」、「源平盛衰記」をはじめ、いくつかの中世資料により、その詞章、芸能の復元が試みられている。それによれば、和歌、朗詠、今様を謡う序段(ワカ)、本曲の歌舞(白拍子)、終段(セメ)で構成される、と推定され、また「かぞふ」と表現され、足を踏み廻す、などと形容されるところから、拍子舞であろうと考えられている。

(3)鎌倉時代初頭に最盛期を迎え、宮廷社会、とくに後鳥羽院の愛着などが著名である。その芸能は、寺院の延年舞に取り入れられ、また、室町時代以降の衰退と相俟って、曲舞、早歌などに、影響を与え、また吸収されていった。日本国語大辞典小学館

 ※ 【祇王・妓王】ぎおう

 「平家物語」に登場する人物。京堀川の白拍子。祇女(ぎじょ)の姉。近江国祇王村の出身。平清盛に愛されたが、のち推参した白拍子仏御前に寵(ちょう)を奪われると、妹、母とともに嵯峨の往生院に隠れ、尼となる。清盛の許を出た仏御前と共に、往生をとげる。

謡曲。三番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。古名「仏祇王(ほとけぎおう)」。喜多流では「二人祇王(ふたりぎおう)」という。「平家物語」「源平盛衰記」による。平清盛をめぐる仏御前と祇王の二人の白拍子の悲哀を描いたもの。二人の相舞(あいまい)が見せ場となっている。日本国語大辞典小学館 

※【伎女・妓女】ぎ‐じょ〘名〙

① 平安時代、内教坊に所属して、女舞を行なった女。

② 伎楽を奏する女

③ 芸妓。娼妓。遊び女。日本国語大辞典小学館

※【祇女・妓女】ぎじょ

「平家物語」に登場する人物。京、堀川の白拍子。祇王(ぎおう)の妹。近江の人。平清盛の寵(ちょう)を失った姉とともに嵯峨の山里にはいり、尼となり、姉や仏御前と共に往生する。ぎにょ。日本国語大辞典小学館

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(考察)

    覚明は、白拍子の祇王・妓女の姉妹が尼になったという噂に惹かれる

 覚明は、ここまで書いてきて、妓王と妓女の姉妹について、噂以外に、詳しいことは何も知らないことに気づきました。

その後もどうなっているかよく知りません。

比叡山の僧達に聞き込んでも、詳しく知る僧はいませんでした。

噂で分かっていることは、尼になっていて、京から離れた鄙びた土地の庵に住んでいるということぐらいです。

 覚明は、清盛のお気に入りで知られたあの祇王が尼になっているという噂に惹かれていました。

なぜなら、「曽我物語」の十郎の恋人だった虎御前が尼になるとき、覚明は箱根で立ち会っていたからです。

何があったのか、その経緯は「曽我物語」に書いています。

覚明は、清盛と妓王の関係に、どんな経緯があったのか、妓王に会って知りたくなりました。

そこで、山をおり、白拍子たちのいる京の堀川へ行き、噂の真相を確かめることにしました。

一人で行くのではなく、無駄骨にならないように琵琶法師生仏様を同道することにしました。

無駄骨にならないようにということは、覚明は既に、数回は「治承物語」を語る会を叡山のあちこちの寺で開催していました。

出来上がった条の端から数人の生仏様たちに覚えさせて語らせていました。

その噂を聞いた京のあちこちの寺からも、是非、聞きたいという要望があったからです。「妓王の条」の取材のついでに、各寺に寄ることで、お布施稼ぎも狙っていました。

関係者以外での公開は初めてになるので、今回は藤原兼実の館で試演した「祇園精舎の条」を完全にものにしている琵琶法師正仏様にも来て貰うことにしました。

 京の堀川では、妓王・妓女の姉妹がどこに居るか、すぐに分かりました。

嵯峨の奥の往生院※の敷地の庵でした。

往生院は法然(源空)の門弟念仏房良鎮によって始められたと伝えられる寺で、覚明は法然の法話を何度か聴講したことがあり、その時、既に門弟の良鎮の名を知っていたと思います。なぜなら、覚明は、この「治承物語」を書き終えた後、親鸞とともに法然の門にはいり専修念仏※の道にすすんだからです。


※【往生院】おうじょう‐いん

 京都市右京区嵯峨鳥居本にあった寺。「平家物語」などによると、滝口入道、祇王、祇女らが遁世したという。明治二八年(一八九五)、その庵跡に祇王寺が建てられた。日本国語大辞典小学館

※【専修念仏】せんじゅ‐ねんぶつ〘名〙 (「せんじゅねんぶち」とも) 仏語。

他の行をしないでひたすら念仏だけを唱えること。主として法然流の念仏をさすことが多い。専念。

▷ 念仏大意(1212頃)

「当世専修念仏の行者において、もはら難をくはへてあざけりをなすともがらおほくきこゆるにや」日本国語大辞典 小学館

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 (妓王の原文)つづく、

 かくて三年といふに、又白拍子の上手、一人出で來たり。加賀國の者なり。名をば佛とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。

京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かかる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事斜めならず。

 ある時佛御前申しけるは、「われ天下にもてあそばるるといへども、當事めでたう榮えさせ給ふ平家太政上入道殿へ、召されぬことこそ本意なけれ。遊者の習ひ、何か苦しかるべき。推參して見ん」とて、

或時に西八条殿へぞ參じたる。

人御前に參つて、「當事都に聞え候佛御前が參つて候」と申しければ、入道相国大きに怒つて、

「なんでふ、さやうの遊者は、人の召にてこそ參るものなれ、さうなう推參する様やある。その上、神ともいへ、佛ともいへ、妓王があらんずる所へは叶ふまじきぞ。とうとう罷り出でよ」とぞ宣ひける。

佛御前は、すげなういはれ奉つて、既に出でんとしけるを、妓王入道殿に申しけるは、

「遊者の推參は、常の習ひでこそ候へ。その上年も未だをさなう候なるが、たまたま思ひ立つて參つて候を、すげなう仰せられて、返させ給はんこそ不便なれ。いかばかり恥しう、かたはらいたくも候らん。わが立てし道なれば、人の上とも覺えず。縦ひ舞を御覧じ、歌をこそ聞し召さずとも、唯理をまげて、召し返いて御對面ばかり候ひて、返させ給はば、有難き御情でこそ候はんずれ」と申しければ、

入道相国、「いでいでさらば、わごぜが餘りにいふ事なるに、對面して返さん」とて、御使を立てて、召されけり。

 佛御前は、すげなういはれ奉つて、車に乘つて既に出でんとしけるが、召されて歸り參りたり。

 入道やがて出であひ對面し給ひて、「いかに佛、今日の見參はあるまじかりつれども、妓王が何と思ふやらん、餘りに申しすすむる間、かやうに見參はしつ。見參する上では如何でか聲をも聞かであるべき。先づ今様一つ歌へかし」と宣へば、

佛御前、「承り候」とて、今様一つぞ歌うたる。

 君を始めて見る時は 千代も經ぬべし姫小松

  御前の池なる龜岡に 鶴こそむれゐて遊ぶめれ

と、推返し推返し、三返歌ひすましたりければ、見聞の人々、皆耳目を驚かす。

入道も面白き事に思ひ給ひて、

「さてわごぜは、今様は上手にてありけるや。この定では舞も定めてよからん。一番見ばや、鼓打召せ」とて召されけり。打たせて一番舞うたりけり。

 佛御前は、髪姿より始めて、眉目かたち世にすぐれ、聲よく節も上手なりければ、なじかは舞ひは損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国舞にめで給ひて、佛に心を移されけり。

佛御前、「こは何事にて候ぞや。もとより妾は推參の者にて、既に出され參らせしを、妓王御前の申状によつてこそ、召し返されても候。はやはや暇賜はつて、出させおはしませ」と申しければ、

入道相国、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによつて、さやうに憚るか。その儀ならば妓王をこそ出さめ」と宣へば、

佛御前、「これ又いかでさる御事候ふべき。ともに召し置かれんだに、恥しう候べきに、妓王御前を出させ給ひて、妾を一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥しう、かたはらいたくも候べき。おのづから後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は參るとも、今日は暇を給はらん」とぞ申しける。

入道、「その儀ならば、妓王とうとう罷り出でよ」と、御使重ねて三度までこそ立てられけれ。

 妓王はもとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。

入道相国、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、掃き拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。

一樹の陰に宿りあひ、同じ流れを掬ぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。

いはんやこれは三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、甲斐無き涙ぞすすみける。

さてしもあるべき事ならねば、妓王今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。

 萠え出づるも枯るるも同じ野邊の草 何れか秋にあはで果つべき 

 さて車に乘つて宿所へ歸り、障子の内に倒れ伏し、ただ泣くより外の事ぞなき。

母や妹これを見て、いかにやいかにと問ひけれども、妓王とかうの事にも及ばず、具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知つてげれ。

 さる程に毎月送られける百石百貫をも推止められて、今は佛御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ榮えける。

京中の上下、この由を傳へ聞いて、

「誠や妓王こそ、西八条殿より暇賜はつて出されたんなれ。いざや見參して遊ばん」とて、

或は文を遣はす者もあり、或は使者を立つる人もありけれども、妓王、今更又人に對面して、遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取り入るる事もなく、まして使をあひしらふまでも無かりけり。妓王これにつけても、いとど悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。


(現代文訳)

 こうして三年ばかりして、また、(京の堀川に)白拍子の上手が一人出てきました。加賀の国(能美郡鶴来町、手取川の右岸に仏原というところがある)の者で、名を佛と申しました。年は十六ということでした。

京中の上下の人びとは、これを見て、昔より多くの白拍子を見たけれど、このような舞の上手はまだ見たことがないと、世間の人がもてはやこと格別でした。

 ある時、佛御前がいうには、「私は、天下にもてはやされるけど、いま、めでたく繁栄されている平家の太政上入道殿に、召されぬことは不本意です。遊び者の習わしとして、何か無礼なことがあるでしょうか、押しかけてみましょう」と、ある時、西八条殿(八条坊門南櫛司西)※へ参上しました。

 取り次ぎの人が清盛の御前に来て「いま、都で評判の仏御前が参っております」と申し上げると、入道相国は大変怒つて、「何を言うか!、そのような遊女は、人に呼ばれて来るものだ、左右無く押しかけるやつがあるか。その上、神といおうが、佛といおうが、妓王が居るところへは許されないぞ。早く早く退出させよ」と言いました。


※【西八条殿】にしはちじょう‐どの 

平清盛の邸宅。平安京左京八条北、八条坊門南、大宮、坊城間の東西三町南北二町(京都市下京区、JR梅小路貨物駅付近)を占めていた。屋舎五十余あったと伝える。治承五年(一一八一)閏二月炎上。再興したものも寿永二年(一一八三)の都落ちの際に平家が自ら焼いた。日本国語大辞典小学館


(現代文訳)つづく、

 佛御前は、つれなく言われて、すでに出ようとしていましたが、祇王が入道殿に申したことには「遊び者の押しかけるは、いつもの習いですよ。
それに年もまだ幼いようです。
たまたま思い立ってきたのに、すげなく返されては不憫ですよ。
どのくらい恥ずかしいかかわいそうです。
わたしが身を立てた道ですから、人ごととは思えません。
たとえ、舞を御覧にならず、歌をお聞きにならずとも、ただ、道理を曲げて、召し返してお会いになるだけで帰しても、有り難きお情けでしょう」と申したので、

入道相国「そうかそうか、さようならば、わしの祇王がそこまで言うのなら、会うだけは会って返そうか」と、使いをやって、召しました。

 佛御前は、つれなく言われて、車に乗って既に出ようとしていましたが、召されて帰って来ました。

入道はすぐさま出てきて、對面し、「どうしてか、佛、今日の引見はしないはずであったが、妓王が何と思ったのか、余りに申しすすめるので、このように引見している。
会ったからには声を聞かずにはなるまい。
先づ今様(当世風の七五の調四句よりなる歌曲)を一つ歌へ」と言えば、

佛御前は、「うけたまわり候」とて、今様をひとつ歌いました。

〽君を始めて見る時は 千代も經ぬべし姫小松
   〽御前の池なる龜岡に 鶴こそむれゐて遊ぶめれ

と、繰り返し、繰り返し、三度、立派に歌い上げたので、聞いていた人びとの関心を引きました。
入道も面白く思い、
「さて、お前は、今様は上手であったぞ。この分では舞も定めし上手かろう。一番見てみよう、鼓打を呼べ」と、呼んで、鼓を打たせ、一番舞わせました。

 佛御前は、髪型を始め容姿に優れ、声よく節も上手でしたので、どうして舞をし損じましょうか。
想像も及ばぬほど立派に舞ったので、入道相国は舞に心引かれて、仏に心を移されました。

佛御前は、「これは何ごとでしょうか。もとより私は押しかけ者で、すでに追い出されたものを、妓王御前の口ききで呼び返されました。そうそうにお暇賜り、帰らせてくださいませ」と言いました。

入道相国は「すべて、その願い叶わぬ。但し、祇王がいるによって、そのように気兼ねするのか。その事ならば祇王こそ追い出そう」とおっしゃる。

佛御前は「これは又なんということでしょう。ともに召し置かれることでさえ恥ずかしいのに、妓王御前を出して、私を一人召し置かれるならば、妓王御前のお気持ちはどんなにか恥ずかしく、いたたまれないでしょう。そのうち、後々、お忘れでなかったら呼ばれて、又、参りましょう。今日はお暇致します」と申しました。

すると、入道は「それなら、祇王を直ぐに、出ていかせる」と、お使いを三度も立てられました。
  祇王は、平生から覚悟はしていたことではありますが、さすが、昨日今日とは思いもよらないことでした。
入道相国は、どうしても駄目と何度も言うので、その間、祇王は部屋を掃き清め、塵を拾わせ、出て行く覚悟をしました。
                               
  一本の樹の陰に宿りあい、同じ川の水を掬いあうなかでも、別れは悲しいものです。
ましてや、三年間住み慣れた所なので、名残も惜しく悲しくて、不甲斐なく涙がこぼれます。
そのままでいることも出来ないので、祇王は今はこうするしか無いと出ることにしましたが、去った跡の忘れ形見にと思い、障子に泣きながら、一首の歌を書きつけました。

 萠え出づるも枯るるも同じ野邊の草 何れか秋にあはで果つべき 
 
そして、車に乗り宿所(宿舎)へ帰り、障子のうちに倒れ伏して、ただ泣くより外はありませんでした。
母や妹はこれを見て、何があったのか問いましたが、祇王は答えません、付き添ってきた女に尋ねて、その事情を知りました。

やがて、毎月送られていた百石百貫も差し止められて、今は仏御前の親族縁者が、はじめて豊かになり栄えました。
京中の上下の人びとはこのことを伝え聞いて、
「本当か、祇王が、清盛入道から暇を出されたなんて、それでは出かけて遊ぼうか」とか、
或いは文を送ってくる者とか、或いは使者を立ててくる人もありましたが、祇王は、今更
又、人に会い遊び戯れるべきではないと、文に返事することも無く、ましてや、使いをもてなすこともしませんでした。
祇王は、これらのことも、ますます悲しくて、不甲斐なさに涙がこぼれました。

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(考察)

       覚明は、尼姿の祇王姉妹に会い、噂の真相を確かめる

 僧衣の覚明は、メモを取りながら祇王の話をここまで聞いて、清盛入道の気まぐれに辟易しました。
同道してきた琵琶法師生仏様は祇王の声のする方向を向き、ひと言も聞き逃すまいと念を入れていて、身じろぎもしませんでした。
嵯峨の往生院の祇王たちの庵は狭いので、院の座敷を借り、そこに尼姿の妓王御前と妹の妓女が座っていました。
突然、訪れたのに姉妹は飾るまでも無く、美しい尼姿でした。
清盛との出来事からは十数年がたち、そろそろ、二十年前後にもなろうかというころです。
この時、覚明は五十二、三歳でした。
祇王姉妹は尼になってから二十年前後経過していましたので四十歳前後になっていたと思います。
覚明の質問に、祇王姉妹の記憶は鮮明でした。
清盛との男女の機微にも触るので、覚明は生仏様にも来てもらい良かったと思いました。盲目の生仏様がいるので二人の尼は緊張することもなく、ありのままを話してくれます。
清盛入道の権力者らしい気まぐれの話は、まだ、まだ続きます。

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(祇王の原文)つづく、

  かくて今年も暮れぬ。
あくる春にもなりしかば、入道相国、妓王が許へ使者を立てて、
「如何に妓王、その後は何事かある。
佛御前が餘りにつれづれげに見ゆるに、參つて今様をも歌ひ、舞などを舞うて、佛なぐさめよ」とぞ宣ひける。

妓王とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて伏しにけり。

入道重ねて、「何とて妓王は、ともかうも返事をば申さぬぞ。參るまじきか。參るまじくは、その様を申せ。浄海も計らふ旨あり」
とぞの宣ひける。
                                
 母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、「何とて妓王はともかうも御返事をば申さで、かやうに叱られ參らせんよりは」といへば、

妓王涙をおさへて申しけるは、「參らんと思ふ道ならばこそ、やがて參るべしと申すべけれ。なかなか參らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも覺えず。この度召さんに參らずは、計らふ旨ありと仰せらるるは、定めて都の外へ出さるるか、さらずは命を召さるるか、これ二つにはよも過ぎじ。縦ひ都を出さるるとも、歎くべき道にあらず。又命を召さるるとも惜しかるべきわが身かは。いち度憂き者に思はれ參らせて、二度面を向ふべしとも覺えず」とて、なほ御返事に及ばざりしかば、

母とぢ泣く泣く又教訓しけるは、
「天が下に住まんには、ともかうも入道殿の仰せをば、背くまじき事にてあるぞ。
その上わごぜは、男女の縁、宿世、今に始めぬ事ぞかし。
千年萬年とは契ぎれども、やがて別るる中もあり。
あからさまとは思へども、ながらへはつる事もあり。
世に定めなきものは、男女の習ひなり。
況んやわごぜは、この三年が間思はれ參らせたれば、有り難き御情でこそ候へ。
この度召さんに參らねばとて、命を召さるるまではよもあらじ。
定めて都の外へぞ出されんずらん。
たとひ都を出さるるとも、わごぜ達は年未だ若ければ、如何ならん岩木の間にても、過さん事やすかるべし。
わが身は年老い齢衰へたれば、ならはぬ鄙の住居を、かねて思ふこそ悲しけれ。
ただわれをば都の中にて住みはてさせよ。
それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」といへば、

妓王參らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじとて、泣く泣く又出立ける、心の中こそ無慚なれ。

 妓王獨り參らん事の、餘りに心憂しとて、妹の妓女をも相具しけり。
その外白拍子二人、惣じて四人、一つ車に取乘つて、西八条殿へぞ參じたる。
日頃召されつる所へは入れられずして、遙にさがりたる所に、座敷しつらうてぞ置かれける。
妓王、「こはされば何事ぞや。わが身に過つ事はなけれども、出され參らするだにあるに、あまつさへ座敷をだにさげらるる事の口惜しさよ。如何せん」と思ふを、人に知らせじと、押ふる袖の隙よりも、餘りて涙ぞこぼれける。
 
 佛御前これを見て、餘りに哀れに覺えければ、入道殿に申しけるは、「あれは如何に、妓王とこそ見參らせ候へ。日頃召されぬ所にても候はばこそ。これへ召され候へかし。さらずは妾に暇をたべ。出で參らせん」
と申しけれども、入道いかにも叶ふまじきと宣ふ間、力及ばで出でざりけり。

 入道やがて出であひ對面し給ひて、「いかに妓王、その後は何事かある。佛御前が餘りにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどを舞うて、佛慰めよ」とぞ宣ひける。
妓王、參る程では、ともかくも入道殿の仰せをば、背くまじきものをと思ひ、流るる涙を押へつつ、今様一つぞ歌うたる。

佛も昔は凡夫なり われらも終には佛なり
  何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と、泣く泣く二返歌うたりければ、その座に並み居給へる平家一門の公卿殿上人、諸大夫、侍に至るまで、皆感涙をぞ催されける。
入道もげにもと思ひ給ひて、
「時に取つては神妙にも申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるる事出できたり。この後は召さずとも常に參りて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、佛慰めよ」
とぞ宣ひける。

 妓王とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて出でにけり。
妓王、「參らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじと、つらき道に赴いて、二度憂き恥を見つる事の口惜しさよ。かくてこの世にあるならば、又も憂き目にあはんずらん。今はただ身を投げんと思ふなり」といへば、
妹の妓女これを聞いて、
「姉身を投げば、われも共に身を投げん」といふ。

 母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く又重ねて教訓しけるは、
「さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して參らせつる事のうらめしさよ。
誠にわごぜの恨むるも理なり。
但しわごぜが身を投げば、妹の妓女も共に身を投げんといふ。
若き娘どもを先立てて、年老い齢衰へたる母、命生きても何にかはせんなれば、われも共に身を投げんずるなり。
未だ死期も來らぬ母に、身を投げさせんずることは、五逆罪にてやあらんずらん。
この世はかりの宿なれば、恥ぢても恥ぢても何ならず。
ただながき世の闇こそ心憂けれ。
今生で物を思はするだにあるに、後生でさへ悪道へ赴かんずる事の悲しさよ」
と、さめざめとかき口説きければ、
妓王涙をはらはらと流いて、「げにもさやうに候はば、五逆罪疑ひなし。
一旦うき恥を見つる事の口惜しさにこそ、身を投げんとは申したれ。
さ候はば自害をば思ひ止まり候ひぬ。
かくて都にあるならば、又も憂き目を見んずらん。
今はただ都の外へ出でん」とて、
妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念佛してぞ居たりける。
妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、われも共に身を投げんとこそ契りしか。ましてさやうに世を厭はんに、誰か劣るべき」とて、
十九にて様をかへ、姉と一所に籠り居て、偏に後生をぞ願ひける。
母とぢこれを聞いて、
「若き娘どもだに、様をかふる世の中に、年老い齢衰へたる母、白髪をつけても何にかはせん」とて、
四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに、一向専修に念佛して、後生を願ふぞ哀れなる。


(現代文訳)つづく、

このようにして、この年も暮れました。
翌年の春になると、入道相国は、妓王のもとに使者を立てて、
「どうだ祇王、その後は何かあるか。仏御前が余りに退屈そうに見えるので来て、今様を歌い、舞などを舞って仏を慰めよ」と告げました。

祇王はどうにもこうにも返事ができず、涙を抑えて伏してしまいました。

入道は重ねて、「なぜ祇王は、どうだとかこうだとか返事をしないのか。来るのか、来ないのか、そのわけを言え。浄海(清盛入道の法名)も考えがあるぞ」と、言いました。

母親のとじは、これを聞いて悲しく、泣く泣く教えさとすには「何はともあれ、祇王はどうとかこうとかの返事を言わなければ、このようにしかられるよりは」と言えば、
祇王涙を抑えて言うには「行こうと思っているのなら、すぐに参りますと言うでしょう。
行かないつもりなのですから、なんと返事するかわからないのです。
今度、召しても来ないならば、考えがあると言うのは、きっと都から追い出されるか、そうでなければ命を召されるか、これ以外にはないでしょう。
たとえ、都を追い出されても嘆くようなことではありません。
また、命を召されても惜しいようなわが身でしょうか。
一度気に入らないと思われて、再び対面するつもりはありません」といい、
なおも返事ををしないでいたが、
母のとじは泣く泣く又教え諭したことは、
「この天下に住むには、ともかく、入道殿の命令には背けないのだよ。
その上、お前様、男女の縁や宿世(前世の因縁)は、今に始まったことではない。
千年、萬年と契っても、直ぐさま別れる仲もある。
かりそめの、ちょっとした仲だと思ってもいつまでもつづいてゆくこともある。
この世で不安定なものは男女のさだめです。
それにお前は、この三年も入道殿のご寵愛を受けたのだから、有り難いお情けだよ。
このたび、お召しになるのに行かないからといって、命まで失うことは、よもやないでしょう。
ただ、都の外に追い出されるようなことにはなるかも知れない。
たとえ都を追い出されても、お前たちは年が若いから、どんなひどい場所でも過ごすことは簡単だろう。
わが身は年老い衰えたので住み慣れない田舎暮らしは、予想するだに悲しい。
ただ、私を都のなかで住み果てさせなさい。
それが現世と来世の孝行と思うがよい」と言うので、

祇王は、行くまいと思っていたが、母親の命令には背くまいと、泣く泣く再び出かけて行くことにしました。
心中は痛ましいことです。

祇王は一人で行くのは、余りに心がつらいので  妹の妓女を連れて行くことにしました。その他に白拍子二人と、全部で四人が一つの車に乗り、西八条殿へ行きました。
前に、召された所には入れられず、遙かに下がった所に用意された座敷に置かれました。
祇王は「これはさて、何ごとでしょうか。わが身に誤ったことはないのに、追い出されたうえに、よもや、段下の座敷に下げられたことの悔しさよ、どうしょう」と思うが、人には知られまいと押さえた袖のすき間から涙がこぼれました。

仏御前、これを見て、余りに哀れに思い、入道殿に言いました「あれはどうして、祇王が来ているのですよ。
いつも召されぬ所に通すなんて、こちらに召して下さい。
そうしないのなら、私がちょっと、行って来させます」と言いましたけれども、
入道は、どうしても、それは叶わないというので、仏御前は力及ず行くことは出来ませんでした。
入道は、すぐに出てきて対面し「どうだ祇王、その後は何かあるか。仏御前が、あまりに退屈そうなので、今様を歌い、舞を舞うて、仏をなぐさめよ」と、言いました。
祇王は、参上したからには、ともかく、入道殿の仰せには背くまいと思い、流れる涙を抑えつつ、今様を一つ歌いました。

〽佛も昔は凡夫なり われらも終には佛なり
  〽何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と、泣く泣く二回歌ったところ、その座に並みいた平家一門の公卿や殿上人、諸大夫(地下の四位、五位の軽き家柄のもの)、侍に至るまで、皆が心に深く感じて涙を催されました。
入道もその通りと思ったのか、
「今のは感心なことを申した。
さて、舞も見たいけれど、今日はあれこれと忙しいことが出来た、今後は召さなくても常にきて、今様を歌ひ、舞なども舞って、佛を慰めよ」
と言いました。
祇王は何とも返事できず、涙をおさえて退出しました。

祇王は「もう来ないと思い決めた道なのに、母の命令に背くまいと、つらい道にきて、二度も嫌な恥をかいて口惜しい。
このようにこの世に生きるなら、また、嫌な目に遭うことでしょう。
今は身を投げて死にたいと思います」といえば、
妹の妓女がこれを聞いて、
「姉が身を投げれば、私も一緒に身を投げます」と言いました。

 母親とじは、これを聞くと悲しくて、泣く泣く、また、重ねて教え諭しました。
「そのような事があるとは知らず、教え諭してきたとは残念で悲しい。
本当に祇王が不満を持ち悲しく思うのは当然です。
但し、お前が身を投げれば、妹の妓女もともに身を投げるという。
若き娘らを先立たせて、年老い衰えてる母が、命ながらえてもどうしょうもない、わしも共に身を投げましょう。
まだ、死期も来てない母に身を投げさせるのは、五逆罪※になります。
この世はかりの宿です、恥じても恥じても何もなりません。
ただ、長き世の闇こそ煩わしい。この世でも思いわずらわしいのに、あの世でも悪道(地獄、餓鬼、畜生道)へいく悲しさがある」と、
さめざめとかき口説きました。
祇王は涙をはらはらと流して、
「その通りに思います。
五逆罪も疑いなしです。
一旦、いやな恥をかいた事の口惜しさに身を投げるといいましたが、自害を思いとどまることにします。
このように都にいるなら、また、嫌な思いをするので、今はただ都の外に出たいだけです」と、
祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里の柴の庵で、念仏をして暮らすことにしました。
妹の妓女はこれを聞いて、「姉が身を投げれば、私も共に身を投げると約束しました。
ましてや、そのように世を嫌になるのには、私も負けていません」といって、
十九歳にて尼になり、姉と一緒に庵にこもり、ひとえに極楽に生まれることを願いました。

母とぢこれを聞いて、
「若き娘どもが、尼になる世の中に、年老いて衰えた母が、白髪で生きていても何にもならない」といって、
四十五歳にて髪を剃り、二人の娘もろともに、ひたすら念仏だけを唱えて、死後の世界を願うという哀れことでした。


※【五逆罪】ごぎゃく‐ざい〘名〙
① 仏語。五種のもっとも重い罪悪。一般には、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの五つをいい、これを犯すと無間地獄(むげんじごく)に落ちるとされ、五無間業と呼ばれる。
② 主君、父、母、祖父、祖母を殺す五つの罪。極刑に処せられるべき重い罪悪とされる。
日本国語大辞典小学館 

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(考察)

       覚明は、仏御前が現れ、その尼姿におどろく

ここまで、話をしてくれていた祇王と妓女は顔を見合わせました。
祇王が目で何か合図すると、妹の妓女は覚明たちに黙礼すると、静かに立ち上がり座敷を出て行きました。
祇王は、覚明と生仏様にお茶を入れてくれ、覚明たちは、ひと息いれました。
祇王が言うには、自分達の庵では母とじが寝ていて、なんと仏御前が付き添っているとのことでした。
覚明は仏御前が祇王らの庵にいると聞いて驚きました。
母親とじは、年老いて、もうかれこれ六十五歳前後になっていました。
妹の妓女と付き添いを交代して、仏御前がここに来ると言うのです。
やがて、静かな足音がして、座敷に仏御前が現れました。
なんと、それは尼姿でした。
覚明は驚いたと思います。

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(祇王原文)つづく、

 かくて春過ぎ夏たけぬ。
秋の初風吹きぬれば、星合の空を眺めつつ、天の戶渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端にかくるるを見ても、日の入り給ふ所は、西方淨土にてこそあんなれ。
いつかわれらもかしこに生れて、物も思はで過さんずらんと、過ぎにし方の憂き事ども思ひつづけて、ただ盡せぬものは涙なり。

 たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉ぢ塞ぎ、燈幽にかきたてて、親子三人もろともに念佛して居たる所に、竹の編戸を、ほとほとと打叩く者出で來たり。
その時尼ども肝を消し、

「あはれ、これは、いふ甲斐なきわれらが念佛してゐたるを妨げんとて、魔緣の來たるにてぞあるらん。
晝だにも人も訪ひ來ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜更けて誰かは尋ぬべき。
僅に竹の編戸なれば、あけずとも押し破らんこと易かるべし。
今は唯なかなかあけて入れんと思ふなり。
それに情をかけずして、命を失ふものならば、年頃頼み奉る彌陀の本願を強く信じて、隙なく名號を唱へ奉るべし。
聲を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の來迎にてましませば、などか引接無かるべき。
相構へて念佛怠り給ふな」
と互に心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸を開けたれば、魔緣にては無かりけり。

佛御前ぞ出で來たる。

 祇王、「あれは如何に、佛御前と見參らするは。夢かやうつつか」といひければ、

佛御前涙をおさへて、
「かやうの事申せば、すべてこと新しうは候へども、申さずは又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして、細々とありのままに申すなり。
もとより妾は推參の者にて、既に出され參らせしを、わごぜの申し狀によつてこそ、召し返されても候に、女の身の云ふ甲斐なきこと、わが身を心に任せずして、わごぜを出させ參らせて、妾が推留められぬる事、今に恥しうかたはらいたくこそ候へ。
わごぜの出でられ給ひしを見しにつけても、いつか又わが身の上ならんと思ひ居たれば、うれしとは更に思はず。
障子に又、『いづれか秋にあはではつべき』と書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。
いつぞや又わごぜの召され參らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひし知られてこそ候へ。その後は在所をいづくとも知らざりしに、この程聞けば、かやうに様をかへ、一つ所に念佛しておはしつる由、餘りに羨しくて、常は暇を申ししかども、入道殿更に御用ひましまさず。
つくづくものを案ずるに、娑婆の榮華は夢の夢、楽しみ榮えて何かせん。
人身は受け難く、佛教には遇ひがたし。
この度泥梨に沈みなば、他生曠劫をば隔つとも、浮び上らん事難かるべし。
老少不定の境なれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息の入るを待つべからず。
かげろふ稻妻よりも猶はかなし。
一旦の榮華に誇つて、後世を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でて、かくなつてこそ參りたれ」
とて、被いたる衣を打除けたるを見れば、尼になつてぞ出で來たる。

「かやうに様をかへて參りたる上は、日頃の科をば許し給へ。
許さんとだに宣はば、もろともに念佛して、一つ蓮の身とならん。
それにも猶心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の筵、松が根にもたふれ臥し、命のあらんかぎりは念佛して、往生の素懐を遂げんと思ふなり」とて、
袖を顔に押當てて、さめざめとかきくどきければ、

妓王涙をおさへて、「わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは夢にも知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様を替へておはしつる上は、日頃の科は、露塵ほども残らず、今は往生疑ひなし。
この度素懐をげんこそ、何よりも又嬉しけれ。
妾が尼になりしをだに、世に有り難き事の様に、人もいひ、わが身も思ひ候ひしぞや。
それは世を恨み、身を歎いたれば、様をかふるも理なり。
わごぜは恨みもなく歎きもなし。
今年は僅十七にこそなりし人の、それ程まで穢土を厭ひ、浄土を願はんと、深く思ひ入り給ふこそ、誠の大道心とはおぼ覺えさぶら候ひしか。
嬉しかりける善知識かな。いざもろともに願はん」とて、

四人一所に籠り居て、朝夕佛前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし。
さればかの後白河法皇の長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、佛、とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。有り難かりし事どもなり。

(現代文訳)つづく、

こうして、春が過ぎ、夏も終わりました。秋の初めに吹く風がふき、牽牛・織女の二星が会うという七夕の夜の空を眺めながら、天の川の瀬戸を渡る梶の葉(舟の梶との掛詞)に願い事を書くころとなりました。、
夕日の影が西の山の端に隠れるのを見ても、日のお入りになるところが、西方浄土※のようです。いつかわれらもそこに生まれて、もの思いしないで過ごしたいと、過ぎたことの嫌なことを思いつつ、ただ、尽きないものは涙なのです。

 
  ※【西方浄土】さいほう‐じょうど〘名〙 仏語。
阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。


夕暮れ時も過ぎたので、竹の編戸を閉じて塞ぎ、灯りをかすかにともして、親子三人そろって念仏を唱えているところに、竹の編戸をほとほと、と打ち叩く者が来ました。
そのとき、尼たちは肝をつぶして、
「ああ、これは、不甲斐ないわれらが念仏をしているところを邪魔しようとして、魔物が来たのではないだろうか。
昼でも人の訪ねてこない山里の柴の庵のなかなので、夜が更けて誰が訪ねて来ようか。ささやかな竹の編戸なので開けなくても押し破ることは簡単でしょう。
今は、ただ、直ぐに開けて入れようと思いました。
それでも情けをかけられずして、命をとられるのならば、長い間、お願い奉っている弥陀の本願を強く信じて、隙無く、南無阿弥陀仏の名号をお唱え奉りましょう。
声を尋ねて迎えに来て下さる聖衆※のおいでであるから、どうして、引接※がないことがあろうか。きっと構えて念佛を怠りなさるな」
と、お互いに心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸を開けると、魔物ではありません。佛御前が来ていたのです。


※【聖衆】しょう‐じゅ 〘名〙 仏語。
菩薩や声聞・縁覚などの群衆。また、極楽浄土の阿彌陀仏と菩薩などの聖者たち。聖主。
日本国語大辞典小学館 
 
※【引接・引摂】いん‐じょう〘名〙
① 仏語。阿彌陀仏や菩薩が念仏の人の臨終にあらわれて浄土に導き、救いとること。いんせつ。
日本国語大辞典小学館 



祇王が「あら、どうしたの、仏御前に見えますが、夢か本当でしょうか」
と言いましたら、
仏御前は涙をおさえて、
「このようなことを申しますと、すべて今さらなにをと思われますが、申さなければ、また、人の気持もわからない者となってしまいますので、始めから、細々とありのまま申します。
もともと、私は押しかけた者で、すでに(清盛入道に)追い出されたのを、あなたさま(妓王御前)のとりなしで、召し返されたのに、女の身で言うのも効果の無いことで、自分の気持に任せることが出来ず、あなたを追い出して、(代わりに)私が押しとどめられたことは、今でも恥ずかしく心苦しいことでした。
あなたの追い出されたのをみても、いつか、また、わが身の上にくることであろうと思われたので、うれしいとは全く思いませんでした。
また、襖障子に いづれか秋にあはではつべきと書き置かれた筆の跡に、誠に、と思いました。
いつか、また、あなたが呼ばれて今様をお唄いなさったおりにも、思い知らされました。
その後は、住所が何処とも知りませんでしたが、この程きけば、このようにお姿を変えて、一つところで念仏しておられるとのこと、あまりに羨ましくて、常にお暇を願い出て申しておりましたが、入道殿は、決してお許し下さいません。
つくづく考えますと、現世の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて、何になるでしょう。
人身は受け難く、佛教には遇ひがたし※(人間として生まれることは難しく、仏教に会うことも難しい)。
この度、地獄に沈めば、幾度、生まれ変わっても未来永劫、浮かび上がることは難しい。人間の寿命の長短の定まらない世界ですから、年の若さを頼るつもりはありません。
吐く息が吸い込まれる瞬間をも死は待つようなことはありません。
かげろうや稲妻よりもさらにはかない。
一時の繁栄を誇っても、来世を知らないことが悲しくて、今朝、忍び出て、このようになって参りました」
と言って、かぶっていた衣をのけた姿を見ると、尼になっていたのでした。


※【人身】 は 受け難く仏教には遇い難し
この世に人間として生を受けるのは、因縁によるものであるから容易なことではないのに、そのうえ仏の教えをきく機会にめぐまれることはもっとむずかしいという意。〔二十五三昧式(988)〕
▷ 高野本平家(13C前)一
「娑婆の栄花は夢のゆめ、楽しみさかえて何かせむ。人身(ニンジン)は請(ウケ)かたく、仏教(ブッケウ)にはあひかたし」日本国語大辞典小学館



「このように、姿を変えて参りましたので、日頃の罪は、お許し下さい。許そうとおっしゃるなら、一緒に念仏を唱えて、一つ蓮のうえに生まれましょう。それでも気が済まないなら、これより何処へでも迷っていき、どのような苔のむしろにでも、松の根にでも倒れ伏して、命のある限り念仏して、浄土へ往生せんというかねての願いを遂げようと思うのです」と、袖を顔に押しあてて、さめざめ泣きながら訴えたので、

祇王も涙を抑えて、
「あなたがそれほどに思っていらっしゃるとは、夢にも知りませんでした。
つらい世の中の習いであれば、我が身の不幸と思うでしょうに、ともすれば、あなたのことばかり恨めしく、今の世も死んでからの後の世も、迷いとなって、なまなか二つとも迷い損じた心持であったのに、このように姿を変えていらっしやったので日頃の恨みは、露や塵ほども残りません。
今は、往生出来ること疑いなし。
こんどは本懐を遂げることが何よりもまたうれしいことです。
わたしが、尼になったことを、世の中に例のないことのように人も言い、私自身も、また、そう思っていました。
それは、世を恨み、身を嘆いてのことなので、姿を変えるのも道理です。
あなには、恨みもなく、嘆きもありません。
今年でわずか十七歳になる人が、このようにいとわしきこの世を厭い、浄土を願おうと、深くお思い入れなさることこそ、まことの大道心(仏道に帰依する大なる心)であると思いました。
(あなたは私に取って)うれしい善知識(人を仏道に導く高徳の僧)ですよ。
さあ、一緒に、願いましょう」と、
四人が、同じ所に、こもって、朝夕、仏前に向い、花や香を供え、雑念なく往生を願ったので、遅い、早いはありましたが、みな往生の本懐を遂げたということです。
 
 それで、後白河法皇の建立された長講堂(御持仏堂)の過去帳にも、「祇王、妓女、仏、とじらの尊霊」と、四人が同じ所に記されました。有り難いことでした。

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(考察)

   覚明は、この「祇王の条」に、今後の自分の宗教思想を反映させた

 多分、ここの往生院は、当時の養老院のようなものだったと思います。往生とは、現世を去り極楽浄土に往って蓮華の中に生まれ変わることを言います。
現世に苦しんだ女性たちが、尼になって、そこで働きながら、互助の精神でたすけあい、「南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できる」という念仏を唱え、臨終まで暮らす終焉の地となっていたのではないかと思います。

 想像ですが、往生院の敷地には、数戸の庵がまばらに散在していたのではと思います。多分、後の世に養老院と名付けられ、そう呼ばれるようになる前の平安末期の「極楽浄土への待機所」を思考していたのではないでしょうか。

 この時は、まだ、法然房(源空)※が開いた、もっぱら南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できると説く浄土宗※は、旧宗教勢力に抑圧され世間からは認められていませんでした。

 この往生院を運営している法然房の門弟である念仏房良鎮が、この時、ここで、その走りとして、その教義を実践していたのだと思います。
この往生院がいつできたかは、平安末期というだけで資料もなく、いまは正確にその内容も分かりません。
ただ、現在の京都市右京区嵯峨鳥居本にあった往生院の跡地には、明治二八年(一八九五)に、「平家物語」の祇王の条の物語にまつわる祇王寺が建立され今も現存しています。


※【法然】ほう‐ねん〘名〙 仏語。
法として当然そうであること。法爾。自然。必然。
▷ 性霊集‐八(1079)大夫笠左衛佐為亡室造大日楨像願文
「字写二法然之文一、義明二无尽之旨一」
▷ 真如観(鎌倉初)
「大日・釈迦等の妙覚究竟の如来、本より法然(ホウネン)として、具足し玉へり」 〔観経疏‐序分義〕
 平安末期から鎌倉初期の僧。美作国(岡山県)生まれ。浄土宗の開祖。諱号は源空。法然は房号。勅諡は円光大師、明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。承安五年(一一七五)唐の善導の「散善義」を読んで開眼、念仏の人となった。文治二年(一一八六)大原問答によってその名声を高め、建久九年(一一九八)には「選択本願念仏集」を著わして事実上の立宗宣言を行なう。建暦二年(一二一二)「一枚起請文」を書き、まもなく没した。その遺文を集めたものに「黒谷上人語燈録」一八巻がある。長承二~建暦二年(一一三三‐一二一二)日本国語大辞典小学館 

※【浄土宗】じょうど‐しゅう〘名〙 
平安末期、美作国(岡山県東北部)の法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿彌陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年(一一七五)の春、もっぱら南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。浄土専念宗。念仏宗。白蓮宗。
▷ 選択本願念仏集(1198頃)
「今此浄土宗者若依二道綽禅師意一、立二二門一而摂二一切一」日本国語大辞典小学館 


 
「平家物語」の原作「治承物語」の、この祇王の条、祇王、妓女、仏御前の物語は、諸行無常あるいは盛者必衰の理を分かりやすく表してしていて、大衆受けするように描かれています。
祇王、妓女の姉妹と仏御前は京・堀川の白拍子でした。姉妹は平清盛の寵愛を得て優雅な日々を送っていましたが,やがて清盛の心は若い仏御前に傾いてしまいます。世の無常を嘆いた姉妹は嵯峨野の庵で仏門に入ります。
そこへ、後から仏御前も合流し、「南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できる」と信じて、念仏三昧の暮らしをします。
そして、往生の本懐を遂げたと言うことなのです。
 
覚明は取材を終えると、祇王たちへのお礼に同道した琵琶法師生仏様に「祇園精舎の条」を語って貰うことにしました。
日も暮れ座敷は暗くなっていましたので、一度、解散し、この夜は、院主の念仏房良鎮の好意で、往生院の小部屋に泊めて貰うことになりました。厨で簡単な食事を馳走になり、昼間の座敷に聴衆一同が集まりました。
暗い夜道のなか、祇王と妓女に支えられた母親とじも、やって来ました。
仏御前は老若数名の尼仲間を連れて来ました。
院主の念仏房良鎮以外はすべて尼姿でした。
往生院は尼寺と見間違う雰囲気でした。

覚明が前説を簡単に述べ、直ぐに琵琶の音とともに琵琶法師生仏様の語りが始まりました。それはこの場にふさわしい「祇園精舎の条」でした。

〽祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。
 〽奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。
  〽偏に風の前の塵に同じ。

で始まり、終わりの〽殿上の仙籍をば未だ許されず迄がよどみなくひと息に語られました。さすが、慣れた生仏様です。
暗やみ中で尼達は手を合わせて聞き入っていました。
この後は、まだ、覚明が書いたばかりの「我身栄華の条」が語られました。、
「祇園精舎の条」は清盛の駆け出しのころのもの、今度の「我身栄華の条」は平家一門が御天下様のころのもので、同夜は、その両極が一挙に語られたのだと思います。
夜も遅いので母親とじは眠ってしまい、そこで、お開きとなりました。

 その翌日から覚明は、数日間、琵琶法師生仏様を伴い、京の知己の寺々を巡り、“治承物語(号平家)”でお布施稼ぎをして、叡山に帰りました。

 覚明は、この「平家物語」の原作「治承物語」を書き終えると、後に親鸞(範宴)※とともに比叡山を下り、法然房(源空)の仏門に入り、西仏と称しました。
多分、この時の取材の折からも、すでに今後の自分の生き方を模索していて、この「祇王の条」にも、その宗教思想を反映させたのだと思います。
それ故、この条からも、信濃前司行長こと僧浄寛(覚明)が原作者であることは明白だと思います。

尚、原文の最後に、「さればかの後白河法皇の長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、佛、とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。有り難かりし事どもなり」とありますが、
これは、覚明が書いたものでは無く、後に、数人の琵琶法師生仏様たちのなかの誰かが付け加えたものだと思います。


※【親鸞】しんらん
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別名、範宴・綽空・善信。諡(おくりな)は見真大師。日野有範の子。治承五年(一一八一)青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、二〇年間学行につとめたが、建仁元年(一二〇一)二九歳のときに法然の門にはいり、専修念仏の人となる。建永二年(一二〇七)の念仏停止の際は越後国国府(新潟県上越市)に流され、四年後に罪をとかれると関東に行き、文暦二年(一二三五)頃京都に帰った。開宗宣言に相当する主著「教行信証」の初稿本は、関東在住の元仁元年(一二二四)頃に成る。恵信尼との結婚は越後国に流されてまもなくと思われ、二人の間に善鸞・覚信尼が生まれたが、善鸞は晩年、義絶された。門下に真仏・性信・唯円など。著書に「教行信証」のほか「浄土和讚」「愚禿鈔(ぐとくしょう)」「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」など。承安三~弘長二年(一一七三‐一二六二)日本国語大辞典小学館 

長左衛門・記

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(参照)

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の妓王を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

「平家物語」の妓王の条(全文)

だいじやうのにふだう(太政入道)は、かやうにてんが(天下)をたなごころ(掌)のうち(中)ににぎ(握)りたま(給)ひしうへ(上)は、よ(世)のそし(誹)りをもはばか(憚)らず、ひと(人)のあざけ(嘲)りをもかへり(顧)みず、ふしぎの(不思議)こと(事)をのみしたま(給)へり。
たと(譬)へば、そのころ(頃)きやうぢう(京中)にきこ(聞)えたるしらびやうし(白拍子)のじやうず(上手)、ぎわう(妓王)、ぎによ(妓女)とておととひあり。とぢといふしらびやうし(白拍子)がむすめ(娘)なり。しか(然)るにあね(姉)のぎわう(妓王)を、にふだうしやうこく(入道相国)ちようあい(寵愛)したま(給)ふうへ(上)、いもと(妹)のぎによ(妓女)をも、よ(世)のひと(人)もてなすこと(事)なのめ(斜)ならず。はは(母)とぢにもよきや(屋)つく(造)つてと(取)らせ、まいぐわつ(毎月)にひやくこくひやくくわん(百石百貫)をおく(送)られたりければ、けないふつき(家内富貴)して、たの(楽)しいこと(事)なのめ(斜)ならず。

 そもそも(抑)わがてう(朝)にしらびやうし(白拍子)のはじ(始)まりけること(事)は、むかし(昔)とばのゐん(鳥羽院)のぎよう(御宇)に、しま(島)のせんざい(千歳)、わか(和歌)のまへ(前)、かれらににん(二人)がま(舞)ひいだ(出)したりけるなり。はじめ(始)はすゐかん(水干)にたてゑぼし(立烏帽子)、しろざやまき(白鞘巻)をさいてま(舞)ひければをとこまひ(男舞)とぞまう(申)しける。しか(然)るをなかごろ(中頃)よりゑぼしかたな(烏帽子刀)をのけられて、すゐかん(水干)ばかりもち(用)ひたり。さてこそしらびやうし(白拍子)とはなづけけれ。

 きやうぢう(京中)のしらびやうし(白拍子)ども、ぎわう(妓王)がさいは(幸)ひのめでたき(目出度)やう(様)をき(聞)いて、うらや(羨)むもの(者)もあり、そね(猜)むもの(者)もあり。うらや(羨)むもの(者)どもは、「あなめでたのぎわうごぜん(妓王御前)のさいは(幸)ひや。おな(同)じあそびめ(遊女)とならば、たれ(誰)もみな(皆)あのやう(様)でこそありたけれ。いかさま(如何様)にもぎ(妓)といふもじ(文字)をな(名)について、かくはめでた(目出度)きやらん。いざやわれらもついてみ(見)ん」とて、ある(或)ひはぎいち(妓一)、ぎに(妓二)とつき、あるひ(或)はぎふく(妓福)、ぎとく(妓徳)などつくもの(者)もありけり。そね(猜)むもの(者)どもは、「なんでふ(名)なにより、もじ(文字)にはよるべき。さいは(幸)ひはただぜんぜ(先世)のむま(生)れつきでこそあんなれ」とて、つかぬもの(者)もおほ(多)かりけり。

 かくてさんねん(三年)といふに、また(又)しらびやうし(白拍子)のじやうず(上手)、いちにん(一人)い(出)でき(來)たり。かがのくに(加賀國)のもの(者)なり。な(名)をばほとけ(佛)とぞまう(申)しける。としじふろく(年十六)とぞきこ(聞)えし。
きやうぢう(京中)のじやうげ(上下)これをみ(見)て、むかし(昔)よりおほ(多)くのしらびやうし(白拍子)はみ(見)しかども、かかるまひ(舞)のじやうず(上手)はいま(未)だみ(見)ずとて、よ(世)のひと(人)もてなすこと(事)なのめ(斜)ならず。
 
 あるとき(時)ほとけごぜん(佛御前)まう(申)しけるは、「われてんが(天下)にもてあそばるるといへども、たうじ(當事)めでたうさか(榮)えさせたま(給)ふへいけだいじやうのにふだうどの(平家太政上入道殿)へ、め(召)されぬことこそほい(本意)なけれ。あそびもの(遊者)のなら(習)ひ、なに(何)かくる(苦)しかるべき。
すゐさん(推參)してみ(見)ん」とて、あるとき(或時)にしはちでうどの(西八条殿)へぞさん(參)じたる。
                             
 ひとごぜん(人御前)にまゐ(參)つて、「たうじ(當事)みやこ(都)にきこ(聞)えさふらふ(候)ほとけごぜん(佛御前)がまゐ(參)つてさふらふ(候)」とまう(申)しければ、にふだうしやうこく(入道相国)おほ(大)きにいか(怒)つて、「なんでふ、さやうのあそびもの(遊者)は、ひと(人)のめし(召)にてこそまゐ(參)るものなれ、さうなうすゐさん(推參)するやう(様)やある。そのうへ(上)、かみ(神)ともいへ、ほとけ(佛)ともいへ、ぎわう(妓王)があらんずるところ(所)へはかな(叶)ふまじきぞ。とうとうまか(罷)りい(出)でよ」とぞのたま(宣)ひける。
ほとけごぜん(佛御前)は、すげなういはれたてま(奉)つて、すで(既)にい(出)でんとしけるを、ぎわう(妓王)にふだうどの(入道殿)にまう(申)しけるは、「あそびもの(遊者)のすゐさん(推參)は、つね(常)のなら(習)ひでこそさぶら(候)へ。そのうへ(上)とし(年)もいま(未)だをさなうさぶらふ(候)なるが、たまたまおも(思)ひた(立)つてまゐ(參)つてさぶらふ(候)を、すげなうおほ(仰)せられて、かへ(返)させたま(給)はんこそふびん(不便)なれ。いかばかりはづか(恥)しう、かたはらいたくもさぶらふ(候)らん。わがた(立)てしみち(道)なれば、ひと(人)のうへ(上)ともおぼ(覺)えず。
たと(縦)ひまひ(舞)をごらん(御覧)じ、うた(歌)をこそきこ(聞)しめ(召)さずとも、ただ(唯)り(理)をまげて、め(召)しかへ(返)いてごたいめん(御對面)ばかりさぶら(候)ひて、かへ(返)させたま(給)はば、ありがた(有難)きおんなさけ(御情)でこそさぶら(候)はんずれ」とまう(申)しければ、にふだうしやうこく(入道相国)、「いでいでさらば、わごぜがあま(餘)りにいふこと(事)なるに、たいめん(對面)してかへ(返)さん」とて、おつかひ(御使)をた(立)てて、め(召)されけり。

 ほとけごぜん(佛御前)は、すげなういはれたてま(奉)つて、くるま(車)にの(乘)
つてすで(既)にい(出)でんとしけるが、め(召)されてかへ(歸)りまゐ(參)りたり。
にふだう(入道)やがてい(出)であひたいめん(對面)したま(給)ひて、「いかにほとけ(佛)、けふ(今日)のげんざん(見參)はあるまじかりつれども、ぎわう(妓王)がなに(何)とおも(思)ふやらん、あま(餘)りにまう(申)しすすむるあひだ(間)、かやうにげんざん(見參)はしつ。げんざん(見參)するうへ(上)ではいか(如何)でかこゑ(聲)をもき(聞)かであるべき。ま(先)づいまやう(今様)ひと(一)つうた(歌)へかし」とのたま(宣)へば、ほとけごぜん(佛御前)、「うけたまは(承)りさぶらふ(候)」とて、いまやう(今様)ひと(一)つぞうた(歌)うたる。
 
きみ(君)をはじ(始)めてみ(見)るとき(時)は 
ちよ(千代)もへ(經)ぬべしひめこまつ(姫小松)

おまへ(御前)のいけ(池)なるかめをか(龜岡)に
つる(鶴)こそむれゐてあそ(遊)ぶめれ

と、おしかへ(推返)しおしかへ(推返)し、さんべん(三返)うた(歌)ひすましたりければ、けんもん(見聞)のひとびと(人々)、みな(皆)じぼく(耳目)をおどろ(驚)かす。にふだう(入道)もおもしろ(面白)きこと(事)におも(思)ひたま(給)ひて、
「さてわごぜは、いまやう(今様)はじやうず(上手)にてありけるや。このぢやう(定)ではまひ(舞)もさだ(定)めてよからん。いちばんみ(一番見)ばや、つづみうちめ(鼓打召)せ」とてめさ(召)れけり。う(打)たせていちばんまう(一番舞)たりけり。
ほとけごぜん(佛御前)は、かみすがた(髪姿)よりはじ(始)めて、みめ(眉目)かた
ちよ(世)にすぐれ、こゑ(聲)よくふし(節)もじやうず(上手)なりければ、なじかはま(舞)ひはそん(損)ずべき。こころ(心)もおよ(及)ばずま(舞)ひすましたりければ、にふだうしやうこく(入道相国)まひ(舞)にめでたま(給)ひて、ほとけ(佛)にこころ(心)をうつ(移)されけり。

 ほとけごぜん(佛御前)、「こはなにごと(何事)にてさぶらふ(候)ぞや。もとよりわらは(妾)はすゐさん(推參)のもの(者)にて、すで(既)にいだ(出)されまゐ(參)らせしを、ぎわうごぜん(妓王御前)のまうし(申)じやう(状)によつてこそ、め(召)しかへ(返)されてもさぶらふ(候)。はやはやいとま(暇)たま(賜)はつて、いだ(出)させおはしませ」とまう(申)しければ、
にふだうしやうこく(入道相国)、「すべてそのぎ(儀)かな(叶)ふまじ。ただ(但)しぎわう(妓王)があるによつて、さやうにはばか(憚)るか。そのぎ(儀)ならばぎわう(妓王)をこそいだ(出)さめ」とのたま(宣)へば、
ほとけごぜん(佛御前)、「これまた(又)いかでさるおんこと(御事)さぶら(候)ふべき。ともにめ(召)しお(置)かれんだに、はづか(恥)しうさぶらふ(候)べきに、ぎわうごぜん(妓王御前)をいだ(出)させたま(給)ひて、わらは(妾)をいちにん(一人)め(召)しお(置)かれなば、ぎわうごぜん(妓王御前)のおも(思)ひたま(給)はんこころ(心)のうち(中)、いかばかりはづか(恥)しう、かたはらいたくもさぶらふ(候)べき。おのづからのち(後)までもわす(忘)れたま(給)はぬおんこと(御事)ならば、め(召)されてまた(又)はま(參)ゐるとも、けふ(今日)はいとま(暇)をたま(給)はらん」とぞまう(申)しける。にふだう(入道)、「そのぎ(儀)ならば、ぎわう(妓王)とうとうまか(罷)りい(出)でよ」と、おつかひ(御使)かさ(重)ねてさんど(三度)までこそたて(立)られけれ。
                               
 ぎわう(妓王)はもとよりおも(思)ひまう(設)けたるみち(道)なれども、さすがきのふけふと(昨日今日)はおも(思)ひもよらず。にふだうしやうこく(入道相国)、いかにもかな(叶)ふまじきよし(由)、しき(頻)りにのたま(宣)ふあひだ(間)、は(掃)きのご(拭)ひ、ちり(塵)ひろ(拾)はせ、い(出)づべきにこそさだ(定)めけれ。いちじゆ(一樹)のかげ(陰)にやど(宿)りあひ、おな(同)じなが(流)れをむす(掬)ぶだに、わか(別)れはかな(悲)しきなら(習)ひぞかし。いはんやこれはみとせ(三年)があひだ(間)すみ(住)な(馴)れしところ(所)なれば、なごり(名残)もを(惜)しくかな(悲)しくて、かひな(甲斐無)きなみだ(涙)ぞすすみける。
さてしもあるべきこと(事)ならねば、ぎわう(妓王)いま(今)はかうとてい(出)でけるが、なからんあと(跡)のわす(忘)れがたみ(形見)にもとやおも(思)ひけん、しやうじ(障子)にな(泣)くな(泣)くいつしゆ(一首)のうた(歌)をぞか(書)きつけける。

 も(萠)えい(出)づるもか(枯)るるもおな(同)じのべ(野邊)のくさ(草)
 いづ(何)れかあき(秋)にあはでは(果)つべき 
 
 さてくるま(車)にの(乘)つてしゆくしよ(宿所)へかへ(歸)り、しやうじ(障子)のうち(内)にたふれ(倒)ふ(伏)し、ただな(泣)くよりほか(外)のこと(事)ぞなき。はは(母)やいもと(妹)これをみ(見)て、いかにやいかにとと(問)ひけれども、ぎわう(妓王)とかうのへんじ(返事)にもおよ(及)ばず、ぐ(具)したるをんな(女)にたづ(尋)ねてこそ、さる(事)ありともし(知)つてげれ。

 さるほど(程)にまいぐわつ(毎月)おく(送)られけるひやくこくひやくくわん(百石百貫)をもおしと(推止)められて、いま(今)はほとけごぜん(佛御前)のゆかりのもの(者)どもぞ、はじ(始)めてたの(楽)しみさか(榮)えける。きやうぢう(京中)のじやうげ(上下)、このよし(由)をつた(傳)へき(聞)いて、
「まこと(誠)やぎわう(妓王)こそ、にしはちでうどの(西八条殿)よりいとま(暇)たま(賜)はつていだ(出)されたんなれ。いざやげんざん(見參)してあそ(遊)ばん」とて、あるひ(或)はふみ(文)をつか(遣)はすもの(者)もあり、あるひ(或)はししや(使者)をた(立)つるひと(人)もありけれども、ぎわう(妓王)、いまさら(今
更)また(又)ひと(人)にたいめん(對面)して、あそ(遊)びたはむ(戯)るべきにもあらねばとて、ふみ(文)をだにと(取)りいる(入)ること(事)もなく、ましてつかひ(使)をあひしらふまでもな(無)かりけり。ぎわう(妓王)これにつけても、いとどかな(悲)しくて、かひなきなみだ(涙)ぞこぼれける。

 かくてことし(今年)もく(暮)れぬ。
あくるはる(春)にもなりしかば、にふだうしやうこく(入道相国)、ぎわう(妓王)がもと(許)へししや(使者)をた(立)てて、
「いか(如何)にぎわう(妓王)、そののち(後)はなにごと(何事)かある。ほとけご
ぜん(佛御前)があま(餘)りにつれづれげにみ(見)ゆるに、まゐ(參)つていまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)などをもま(舞)うて、ほとけ(佛)なぐさめよ」とぞのたま(宣)ひける。ぎわう(妓王)とかうのおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばず、なみだ(涙)をおさへてふ(伏)しにけり。にふだう(入道)かさ(重)ねて、「なに(何)とてぎわう(妓王)は、ともかうもへんじ(返事)をばまう(申)さぬぞ。まゐ(參)るまじきか。まゐ(參)るまじくは、そのやう(様)をまう(申)せ。じやうかい(浄海)もはか(計)らふむね(旨)あり」とぞのたま(宣)ひける。
                                 
 はは(母)とぢこれをき(聞)くにかな(悲)しくて、な(泣)くな(泣)くけうくん(教訓)しけるは、「なに(何)とてぎわう(妓王)はともかうもおんぺんじ(御返事)をばまう(申)さで、かやうにしか(叱)られまゐ(參)らせんよりは」といへば、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をおさへてまう(申)しけるは、「まゐ(參)らんとおも(思)ふみち(道)ならばこそ、やがてまゐ(參)るべしともまう(申)すべけれ。なかなかまゐ(參)らざらんものゆゑ(故)に、なに(何)とおんぺんじ(御返事)をばまう(申)すべしともおぼ(覺)えず。このたび(度)め(召)さんにまゐ(參)らずは、はか(計)らふむね(旨)ありとおほ(仰)せらるるは、さだ(定)めてみやこ(都)のほか(外)へいだ(出)さるるか、さらずはいのち(命)をめ(召)さるるか、これふた(二)つにはよもす(過)ぎじ。たと(縦)ひみやこ(都)をいだ(出)さるるとも、なげ(歎)くべきみち(道)にあらず。また(又)いのち(命)をめ(召)さるるともを(惜)しかるべきわがみ(身)かは。いちど(度)う(憂)きもの(者)におも(思)はれまゐ(參)らせて、ふたたび(二度)おもて(面)をむか(向)ふべしともおぼ(覺)えず」とて、なほおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばざりしかば、はは(母)とぢな(泣)くな(泣)くまた(又)けうくん(教訓)しけるは、
「あめ(天)がした(下)にす(住)まんには、ともかうもにふだうどの(入道殿)のおほ(仰)せをば、そむ(背)くまじきこと(事)にてあるぞ。そのうへ(上)わごぜは、をとこをんな(男女)のえん(縁)、しゆくせ(宿世)、いま(今)にはじ(始)めぬこと(事)ぞかし。せんねんまんねん(千年萬年)とはち(契)ぎれども、やがてわか(別)るるなか(中)もあり。あからさまとはおも(思)へども、ながらへはつること(事)もあり。よ(世)にさだ(定)めなきものは、をとこをんな(男女)のなら(習)ひなり。いは(況)んやわごぜは、このみとせ(三年)があひだ(間)おも(思)はれまゐ(參)らせたれば、あ(有)りがた(難)きおんなさけ(御情)でこそさぶら(候)へ。このたび(度)め(召)さんにまゐ(參)らねばとて、いのち(命)をめ(召)さるるまではよもあらじ。さだ(定)めてみやこ(都)のほか(外)へぞいだ(出)されんずらん。たとひみやこ(都)をいだ(出)さるるとも、わごぜたち(達)はとし(年)いま(未)だわか(若)ければ、いか(如何)ならんいはき(岩木)のはざま(間)にても、すご(過)さんこと(事)やすかるべし。わがみ(身)はとし(年)お(老)いよはひ(齢)おとろ(衰)へたれば、ならはぬひな(鄙)のすまひ(住居)を、かねておも(思)ふこそかな(悲)しけれ。ただわれをばみやこ(都)のうち(中)にてすみ(住)はてさせよ。それぞこんじやうごしやう(今生後生)のけうやう(孝養)にてあらんずるぞ」
といへば、ぎわう(妓王)まゐ(參)らじとおも(思)ひさだ(定)めしみち(道)なれども、はは(母)のめい(命)をそむ(背)かじとて、な(泣)くな(泣)くまた(又)いでたち(出立)ける、こころ(心)のうち(中)こそむざん(無慚)なれ。

 ぎわう(妓王)ひと(獨)りまゐ(參)らんこと(事)の、あま(參)りにこころう(心憂)しとて、いもと(妹)のぎによ(妓女)をもあひぐ(相具)しけり。そのほか(外)しらびやうしににん(白拍子二人)、そう(惣)じてしにん(四人)、ひと(一)つくるま
(車)にとりの(取乘)つて、にしはちでうどの(西八条殿)へぞさん(參)じたる。
ひごろ(日頃)め(召)されつるところ(所)へはい(入)れられずして、はるか(遙)にさがりたるところ(所)に、ざしき(座敷)しつらうてぞお(置)かれける。
ぎわう(妓王)、「こはさればなにごと(何事)ぞや。わがみ(身)にあやま(過)つこと(事)はなけれども、いだ(出)されまゐ(參)らするだにあるに、あまつさへざしき(座敷)をだにさげらるること(事)のくちを(口惜)しさよ。いかに(如何)せん」とおも(思)ふを、ひと(人)にし(知)らせじと、おさ(押)ふるそで(袖)のひま(隙)よ
りも、あま(餘)りてなみだ(涙)ぞこぼれける。
 ほとけごぜん(佛御前)これをみ(見)て、あま(餘)りにあは(哀)れにおぼ(覺)えければ、にふだうどの(入道殿)にまう(申)しけるは、「あれはいか(如何)に、ぎわう(妓王)とこそみまゐ(見參)らせさぶら(候)へ。ひごろ(日頃)め(召)されぬところ(所)にてもさぶら(候)はばこそ。これへめ(召)されさぶら(候)へかし。さらずはわらは(妾)にいとま(暇)をたべ。い(出)でまゐ(參)らせん」とまう(申)しけれども、にふだう(入道)いかにもかな(叶)ふまじきとのたま(宣)ふあひだ(間)、ちからおよ(力及)ばでい(出)でざりけり。

 にふだう(入道)やがてい(出)であひたいめん(對面)したま(給)ひて、「いかにぎわう(妓王)、そののち(後)はなにごと(何事)かある。ほとけごぜん(佛御前)があま(餘)りにつれづれげにみ(見)ゆるに、いまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)なんどをもま(舞)うて、ほとけなぐさ(佛慰)めよ」とぞのたま(宣)ひける。ぎわう(妓王)、まゐ(參)るほど(程)では、ともかくもにふだうどの(入道殿)のおほ(仰)せをば、そむ(背)くまじきものをとおも(思)ひ、なが(流)るるなみだ(涙)をおさ(押)へつつ、いまやう(今様)ひと(一)つぞうた(歌)うたる。

ほとけ(佛)もむかし(昔)はぼんぶ(凡夫)なり
               われらもつひ(終)にはほとけ(佛)なり。
  
いづ(何)れもぶつしやうぐ(佛性具)せるみ(身)を
               へだ(隔)つるのみこそかな(悲)しけれ

と、な(泣)くな(泣)くにへん(二返)うた(歌)うたりければ、そのざ(座)にな(並)みゐ(居)たま(給)へるへいけいちもん(平家一門)のくぎやうてんじやうびと(公卿殿上人)、しよだいぶ(諸大夫)、さぶらひ(侍)にいた(至)るまで、みな(皆)かんるゐ(感涙)をぞもよほ(催)されける。
にふだう(入道)もげにもとおも(思)ひたま(給)ひて、
「とき(時)にと(取)つてはしんべう(神妙)にもまう(申)したり。さてはまひ(舞)もみ(見)たけれども、けふ(今日)はまぎるること(事)い(出)できたり。こののち(後)はめ(召)さずともつね(常)にまゐ(參)りて、いまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)などをもま(舞)うて、ほとけ(佛)なぐさ(慰)めよ」
とぞのたま(宣)ひける。
ぎわう(妓王)とかうのおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばず、なみだ(涙)をおさへてい(出)でにけり。

 ぎわう(妓王)、「まゐ(參)らじとおも(思)ひさだ(定)めしみち(道)なれども、はは(母)のめい(命)をそむ(背)かじと、つらきみち(道)におもむ(赴)いて、ふたたび(二度)う(憂)きはぢ(恥)をみ(見)つること(事)のくちをし(口惜)さよ。かくてこのよ(世)にあるならば、また(又)もう(憂)きめ(目)にあはんずらん。いま(今)はただみ(身)をな(投)げんとおも(思)ふなり」といへば、
いもうと(妹)のぎによ(妓女)これをき(聞)いて、
「あね(姉)み(身)をな(投)げば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げん」といふ。
はは(母)とぢこれをき(聞)くにかな(悲)しくて、な(泣)くな(泣)くまた(又)かさ(重)ねてけうくん(教訓)しけるは、
「さやうのこと(事)あるべしともし(知)らずして、けうくん(教訓)してまゐ(參)らせつること(事)のうらめしさよ。まこと(誠)にわごぜのうら(恨)むるもことわり(理)なり。ただ(但)しわごぜがみ(身)をな(投)げば、いもうと(妹)のぎによ(妓女)もとも(共)にみ(身)をな(投)げんといふ。わか(若)きむすめ(娘)どもをさきだて(先立)て、とし(年)おい(老)よはひ(齢)おとろ(衰)へたるはは(母)、いのち(命)い(生)きてもなに(何)にかはせんなれば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げんずるなり。いま(未)だしご(死期)もきた(來)らぬはは(母)に、み(身)をな(投)げさせんずることは、ごぎやくざい(五逆罪)にてやあらんずらん。このよ(世)はかりのやどり(宿)なれば、は(恥)ぢてもは(恥)ぢてもなに(何)ならず。ただながきよ(世)のやみ(闇)こそこころう(心憂)けれ。こんじやう(今生)でもの(物)をおも(思)はするだにあるに、ごしやう(後生)でさへあくだう(悪道)へおもむ(赴)かんずること(事)のかな(悲)しさよ」と、さめざめとかきくど(口説)きければ、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をはらはらとなが(流)いて、「げにもさやうにさぶら(候)はば、ごぎやくざい(五逆罪)うたが(疑)ひなし。いつたん(一旦)うきはぢ(恥)をみ(見)つること(事)のくちをし(口惜)さにこそ、み(身)をな(投)げんとはまう(申)したれ。ささぶら(候)はばじがい(自害)をばおも(思)ひとど(止)まりさぶら(候)ひぬ。かくてみやこ(都)にあるならば、また(又)もう(憂)きめ(目)をみ(見)んずらん。いま(今)はただみやこ(都)のほか(外)へい(出)でん」とて、
ぎわう(妓王)にじふいち(二十一)にてあま(尼)になり、さが(嵯峨)のおく(奥)なるやまざと(山里)に、しば(柴)のいほり(庵)をひきむす(結)び、ねんぶつ(念佛)してぞゐ(居)たりける。
いもうと(妹)のぎによ(妓女)これをき(聞)いて、「あね(姉)み(身)をな(投)げば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げんとこそちぎ(契)りしか。ましてさやうによ(世)をいと(厭)はんに、たれ(誰)かおと(劣)るべき」とて、じふく(十九)にてさま(様)をかへ、あね(姉)といつしよ(一所)にこも(籠)りゐ(居)て、ひとへ(偏)にごせ(後生)をぞねが(願)ひける。
はは(母)とぢこれをき(聞)いて、
「わか(若)きむすめ(娘)どもだに、さま(様)をかふるよ(世)のなか(中)に、とし(年)お(老)いよはひ(齢)おとろ(衰)へたるはは(母)、しらが(白髪)をつけてもなに(何)にかはせん」とて、
しじふご(四十五)にてかみ(髪)をそ(剃)り、ふたり(二人)のむすめ(娘)もろともに、いつかうせんじゆ(一向専修)にねんぶつ(念佛)して、ごせ(後生)をねが(願)ふぞあは(哀)れなる。

 かくてはる(春)す(過)ぎなつ(夏)たけぬ。あき(秋)のはつかぜ(初風)ふ(吹)
きぬれば、ほしあひ(星合)のそら(空)をなが(眺)めつつ、あま(天)のとわた(戶渡)るかぢ(梶)のは(葉)に、おも(思)ふこと(事)か(書)くころ(頃)なれや。ゆふひ(夕日)のかげ(影)のにし(西)のやま(山)のは(端)にかくるるをみ(見)
ても、ひ(日)のい(入)りたま(給)ふところ(所)は、さいはうじやうど(西方淨土)にてこそあんなれ。いつかわれらもかしこにむま(生)れて、もの(物)もおも(思)はですご(過)さんずらんと、す(過)ぎにしかた(方)のう(憂)きこと(事)どもおも
(思)ひつづけて、ただつき(盡)せぬものはなみだ(涙)なり。

 たそかれどき(時)もす(過)ぎぬれば、たけ(竹)のあみど(編戸)をと(閉)ぢ
ふさ(塞)ぎ、ともしび(燈)かすか(幽)にかきたてて、おやこさんにん(親子三人)もろともにねんぶつ(念佛)してゐ(居)たるところ(所)に、たけ(竹)のあみど(編
戸)を、ほとほととうちたた(打叩)くもの(者)い(出)でき(來)たり。そのとき(時)あま(尼)どもきも(肝)をけ(消)し、
「あはれ、これは、いふかひ(甲斐)なきわれらがねんぶつ(念佛)してゐたるをさまた(妨)げんとて、まえん(魔緣)のき(來)たるにてぞあるらん。ひる(晝)だにもひと(人)もと(訪)ひこ(來)ぬやまざと(山里)の、しば(柴)のいほり(庵)のうち(内)なれば、よふ(夜更)けてたれ(誰)かはたづ(尋)ぬべき。わづか(僅)にたけ(竹)のあみど(編戸)なれば、あけずともお(押)しやぶ(破)らんことやす(易)かるべし。いま(今)はただ(唯)なかなかあけてい(入)れんとおも(思)ふなり。それになさけ(情)をかけずして、いのち(命)をうしな(失)ふものならば、としごろ(年頃)たの(頼)みたてまつ(奉)るみだ(彌陀)のほんぐわん(本願)をつよ(強)くしん(信)じて、ひま(隙)なくみやうがう(名號)をとな(唱)へたてまつ(奉)るべし。こゑ(聲)をたづ(尋)ねてむか(迎)へたま(給)ふなるしやうじゆ(聖衆)のらいかう(來迎)にてましませば、などかいんぜふ(引接)な(無)かるべき。あひかま(相構)へてねんぶつ(念佛)おこた(怠)りたま(給)ふな」
とたがひ(互)にこころ(心)をいまし(戒)めて、て(手)にて(手)をと(取)りく(組)み、たけ(竹)のあみど(編戸)をあ(開)けたれば、まえん(魔緣)にてはな(無)かりけり。ほとけごぜん(佛御前)ぞい(出)でき(來)たる。
 
 ぎわう(祇王)、「あれはいか(如何)に、ほとけごぜん(佛御前)とみまゐ(見參)らするは。ゆめ(夢)かやうつつか」といひければ、
ほとけごぜん(佛御前)なみだ(涙)をおさへて、「かやうのこと(事)まう(申)せば、すべてことあたら(新)しうはさぶら(候)へども、まう(申)さずはまた(又)おも(思)ひし(知)らぬみ(身)ともなりぬべければ、はじめ(始)よりして、こまごま(細々)とありのままにまう(申)すなり。もとよりわらは(妾)はすゐさん(推參)のもの(者)にて、すで(既)にいだ(出)されまゐ(參)らせしを、わごぜのまう(申)しじやう(狀)によつてこそ、め(召)しかへ(返)されてもさぶらふ(候)に、をんな(女)のみ(身)のい(云)ふかひ(甲斐)なきこと、わがみ(身)をこころ(心)にまか(任)せずして、わごぜをいだ(出)させまゐ(參)らせて、わらは(妾)がおしとど(推留)められぬること(事)、いま(今)にはづか(恥)しうかたはらいたくこそさぶら(候)へ。
わごぜのい(出)でられたま(給)ひしをみ(見)しにつけても、いつかまた(又)わがみ(身)のうへ(上)ならんとおも(思)ひゐ(居)たれば、うれしとはさら(更)におも(思)はず。しやうじ(障子)にまた(又)、『いづれかあき(秋)にあはではつべき』とか(書)きお(置)きたま(給)ひしふで(筆)のあと(跡)、げにもとおも(思)ひさぶら(候)ひしぞや。いつぞやまた(又)わごぜのめ(召)されまゐ(參)らせて、いまやう(今様)をうた(歌)ひたま(給)ひしにも、おも(思)ひし(知)られてこそさぶら(候)へ。そののち(後)はざいしよ(在所)をいづくともし(知)らざりしに、このほど(程)き(聞)けば、かやうにさま(様)をかへ、ひと(一)つところ(所)にねんぶつ(念佛)しておはしつるよし(由)、あま(餘)りにうらやま(羨)しくて、つね(常)はいとま(暇)をまう(申)ししかども、にふだうどの(入道殿)さら(更)におんもち(御用)ひましまさず。つくづくものをあん(案)ずるに、しやば(娑婆)のえいぐわ(榮華)はゆめ(夢)のゆめ(夢)、たの(楽)しみさか(榮)えてなに(何)かせん。にんじん(人身)はう(受)けがた(難)く、ぶつけう(佛教)にはあ(遇)ひがたし。このたび(度)ないり(泥梨)にしづ(沈)みなば、たしやうくわうごふ(他生曠劫)をばへだ(隔)つとも、うか()びあが(上)らんこと(事)かた(難)かるべし。らうせうふぢやう(老少不定)のさかひ(境)なれば、とし(年)のわかき(若)をたの(頼)むべきにあらず。い(出)づるいき(息)のい(入)るをもま(待)つべからず。かげろふいなづま(稻妻)よりもなほ(猶)はかなし。いつたん(一旦)のえいぐわ(榮華)にほこ(誇)つて、ごせ(後世)をし(知)らざらんこと(事)のかな(悲)しさに、けさ(今朝)まぎれい(出)でて、かくなつてこそまゐ(參)りたれ」とて、かづ(被)いたるきぬ(衣)をうちの(打除)けたるをみ(見)れば、あま(尼)になつてぞい(出)でき(來)たる。
「かやうにさま(様)をかへてまゐ(參)りたるうへ(上)は、ひごろ(日頃)のとが(科)をばゆる(許)したま(給)へ。ゆる(許)さんとだにのたま(宣)はば、もろともにねんぶつ(念佛)して、ひと(一)つはちす(蓮)のみ(身)とならん。それにもなほ()こころ(心)ゆかずは、これよりいづちへもまよ(迷)ひゆ(行)き、いか(如何)ならんこけ(苔)のむしろ(筵)、まつ(松)がね(根)にもたふれふ(臥)し、いのち(命)のあらんかぎりはねんぶつ(念佛)して、わうじやう(往生)のそくわい(素懐)をと(遂)げんとおも(思)ふなり」とて、そで(袖)をかほ(顔)におし(押當)あてて、さめざめとかきくどきければ、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をおさへて、「わごぜのそれほど(程)までおも(思)ひたま(給)はんとはゆめ(夢)にもし(知)らず、う(憂)きよ(世)のなか(中)のさがなれば、み(身)のう(憂)きとこそおも(思)ひしに、ともすればわごぜのこと(事)のみうら(恨)めしくて、こんじやう(今生)もごしやう(後生)も、なまじひにしそん(損)じたるここち(心地)にてありつるに、かやうにさま(様)をか(替)へておはしつるうへ(上)は、ひごろ(日頃)のとが(科)は、つゆちり(露塵)ほどものこ(残)らず、いま(今)はわうじやう(往生)うたが(疑)ひなし。
このたび(度)そくわい(素懐)をと(遂)げんこそ、なに(何)よりもまた(又)うれ(嬉)しけれ。わらは(妾)があま(尼)になりしをだに、よ(世)にあ(有)りがた(難)きこと(事)のやう(様)に、ひと(人)もいひ、わがみ(身)もおもひ(思)さぶら(候)ひしぞや。それはよ(世)をうら(恨)み、み(身)をなげ(歎)いたれば、さま(様)をかふるもことわり(理)なり。わごぜはうら(恨)みもなくなげ(歎)きもなし。ことし(今年)はわづかじふしちに(僅十七)こそなりしひと(人)の、それほど(程)までゑど(穢土)をい(厭)とひ、じやうど(浄土)をねが(願)はんと、ふか(深)くおも(思)ひい(入)りたま(給)ふこそ、まこと(誠)のだいだうしん(大道心)とはおぼ
(覺)えさぶら(候)ひしか。うれ(嬉)しかりけるぜんぢしき(善知識)かな。いざもろともにねが(願)はん」とて、
しにん(四人)いつしよ(一所)にこも(籠)りゐ(居)て、あさゆふぶつぜん(朝夕佛前)にむか(向)ひ、はなかう(花香)をそな(供)へて、たねん(他念)なくねが(願)ひけるが、ちそく(遅速)こそありけれ、みな(皆)わうじやう(往生)のそくわい(素懐)をと()げけるとぞきこ(聞)えし。さればかのごしらかはのほふわう(後白河法皇)のちやうがうだう(長講堂)のくわこちやう(過去帳)にも、ぎわう(妓王)、ぎによ(妓女)、ほとけ(佛)、とぢら(等)がそんりやう(尊霊)と、しにんいつしよ(四人一所)にい(入)れられたり。あ(有)りがた(難)かりしこと(事)どもなり。

作成/矢久長左衛門