2020年9月26日土曜日

原作者の存在を考証(11) 祇園精舎の条

  平家物語の各条から原作者の存在を考証する(11)

当然に、この「祇園精舎の条」も原作者の覚明が書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた  

☆「平家物語」の祇園精舎の条

(考察)

          覚明は、琵琶の伴奏で語られることを考えながら名文を模索

  この条は現存の「平家物語」全体を編纂するために、誰かが後から付け加えたものと、考えられがちですが、平家物語の原作である「治承物語」に当初からあったものです。

従って、当然に、この「祇園精舎の条」も原作者の覚明が書いたものです。

当初からあったものとすると、“祇園精舎の鐘の聲”から“偏に風の前の塵に同じ”までは、愚管抄などを残している天台座主の慈園が書いて付け加えたものではないかと覚明を見くびる説がありますが、慈園は覚明より十一歳も年下です。藤原家の血筋で天台座主になってはいますが、覚明のそれなりの修業遍歴を認めていたので、そんなことはあり得ないのではないかと思います。

奈良への旅で改めて平家一門への怒りを抱えた覚明は、帰途は興福寺で一切経を読んでいる範宴(親鸞)を残し、一人で叡山に戻り、「奈良炎上の条」を一気に書き上げました。

そして、奈良の状況を報告がてら座主の慈園に見せました。

多分、慈円からは、これまでに出来た原稿を内輪で披露してはどうかと声が掛かり、それについては、各条の前に語る序曲乃至序文がほしいと注文が出たと思います。

いまで言うなら作品全体のテーマを伝えるリード部分です。

その部分には、作者のこれまでの修業の成果と心情が込められたものが期待されます。

覚明は琵琶の伴奏で語られることを考えながら名文を模索したに違いありません。

この段階では覚明が自分で琵琶を奏して、琵琶の調べ(先行の音曲と曲節)に乗りやすい冒頭の名句を探り出したと思います。

覚明の先祖は後世に琵琶譜を書き残したほどの琵琶の名人貞保親王です。

それ故に管弦長者と呼ばれたくらいです。

親王は覚明が生まれた信濃海野郷(現東御市・上田市)では伝説の人です。

親王が壮年のころ、兵部卿として官牧の御牧ヶ原の視察にやって来て、牧監の信濃滋野一族の館に長期に滞在しました。

貞保親王が残された琵琶譜の序文には「琵琶は馬上の楽なり」とあります。

視察には琵琶を抱え馬に乗ったに違いありません。

多分、その頃から、信濃海野郷では琵琶が普及したのではないかと想像されます。

覚明も子どもの頃は屋敷に転がっている古びた琵琶を玩具に遊んだ事だと思います。

箱根で覚明(当時は信救得業)が「曽我物語」を書いたときも語りには琵琶や鼓の伴奏が使われました。その時、覚明は自分の先祖である貞保親王について曽我物語(寛永版流布本)にこう記しています。

「清和天皇の皇子、数多御座します。第四を貞保(ていほう)親王、此の皇子は御琵琶の上手にて御座します。桂の皇子とも申しけり。心を懸けらる女は月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む。此の御子の御事なり、今のしけの(滋野)この先祖なり」とあります。

この信濃滋野氏は覚明が生まれたころには海野氏(弓上手)、望月氏(馬上手)、祢津氏(鷹上手)の三家に分かれていました。

覚明の海野家は信濃滋野氏の嫡流で滋野海野氏とも呼ばれていました。次男なので幼少の頃から修学児として奈良東大寺に遊学に出されました。

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原文では

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。

奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。

偏に風の前の塵に同じ。

遠く異朝をとぶらふに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にも從はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の亂れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者どもなり。

近く本朝を窺ふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは奢れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね。


(現代文訳)

祇園精舎※(中印度舎衛國にあった祇陀樹給弧独園に建立された寺の名で、精舎は精錬行者のいるところ)の鐘の音※には、諸行無常※(一切の万物はすべて生滅輪廻して常がなく)の響があります。

沙羅雙樹の花の色※(沙羅林の樹下で釈迦が涅槃に入った時、皆枯れて白くなった)は、勢い盛んな者も必ず衰えるという道理をあらわしています。

栄華に増長する者も行末は短い、ただ春の夜の夢のようなものです。勢い盛んな者も遂には滅びてしまうものです。それはひたすら風の前の塵と同じようなものなのです。

祇園精舎とは、

須達長者が舎衛国の祇陀太子の庭園を買って、釈迦のために施入した寺院。釈迦の教化活動の拠点の一つ。中インド舎衛城の南郊に遺跡がある。祇陀林。祇陀林寺。ぎおん。(日本国語大辞典)

祇園精舎の鐘とは

祇園図経の説では、祇園精舎の無常院に無常堂という堂があって、それには鐘が八つあり、四つは白銀、四つは頗梨(はり)で、その頗梨の鐘から、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の声を出し、または「無常、苦、空、無我」の音を出したという(日本国語大辞典)

※諸行無常とは、

仏教の根本主張である三法印の一つで、世の中のいっさいの造られたものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ(日本国語大辞典)

沙羅雙樹の花の色とは、

釈迦が涅槃にはいった時、その四方に二本ずつはえていた、娑羅の木。(岩波国語辞典)釈迦が涅槃に入る際、その四方に二本ずつあったという木。釈迦が涅槃に入るや、時ならぬ白い花を開いたという(大修館四字熟語辞典)


(現代文訳)つづく、

遠く異國を例にあげれば、秦の趙高(宦官)※、漢の王莽(外戚)※、梁の朱异(佞臣)※、唐の祿山(節度使)※、これらはみな、もとの主君や皇帝の政治にも從はず、楽しみを追い、諫言をも思ひ入れず、天下の乱れることも気づかず、庶民の憂いているところを知らなかったので、長く続かずして滅亡してしまった者どもです。

秦の趙高(宦官)とは、

中国、秦の宦官(かんがん)。始皇帝の死後、丞相の李斯(りし)と謀って、始皇帝の長子扶蘇を殺し、次子の胡亥(こがい)を二世皇帝とした。のち、李斯、二世皇帝をも殺して、子嬰を位につけ、権力をふるったが、子嬰に一族ともども殺された。馬を鹿だと無理に言って、この反応で敵味方を判別した故事は有名。前二〇七年没。(日本国語大辞典)

漢の王莽(外戚)とは、

中国、前漢末期の政治家(前四五‐後二三)。新の建設者。字(あざな)は巨君。哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得る。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された。在位一五年。(日本国語大辞典)

梁の朱异(佞臣)とは、

南北朝時代の南朝の梁の武帝に仕えた官僚。武帝の治世末期に北朝からの亡命者だった侯景という武将が反乱。朱异はこの反乱事件に主君に口先うまくこびへつらう臣下として絡む。

唐の祿山(節度使)とは、

中国唐代の武将(705~757)。ソグド人。安史の乱の首謀者。玄宗皇帝に信頼されて平盧 (へいろ) ・范陽 (はんよう) ・河東の三節度使を兼任していたが、755年、反乱を起こして洛陽・長安を攻略。大燕皇帝を自称したが、子の慶緒 (けいしょ) に殺された。(小学館大辞泉)


(現代文訳)つづく、

近くわが国を調べ探すと、承平の平將門※、天慶の藤原純友※、康和の源義親※、平治の藤原信頼※、これらは気ままな振る舞いをすることも猛々しい心も、みなそれぞれだが、最近では、六波羅(平家の六波羅亭)の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申した人の有様を、伝え聞くことこそ、心に思いも及ばず、言葉にも言い尽くせません。

承平の平將門とは、

平安中期の武将(?〜940)。下総国の人。相馬小二郎とも。上洛して藤原忠平に仕えたが希望が叶えられず憤慨して関東に戻った。同族内の領地争いから伯父の平国香を殺し、武蔵国や常陸国の紛争に介入するなど、関東に勢力を拡げた。自ら新皇と称し文武百官を置いて、関東独立を図ったが、朝廷の追討軍との争いに破れた。一説に京都で処刑され、首が飛び帰って葬られたのが、大手町将門首塚とされる。神田明神などに祀られている。(weblio辞書)

天慶の藤原純友とは、

平安中期の貴族。良範の子。伊予掾となって下向、瀬戸内海の海賊と結んでその棟梁となり、伊予の日振島を根城に公私官物の略奪など東は播磨、西は大宰府まで、ほとんど内海全域に勢力を拡げたが、天慶三年(九四〇)、小野好古・源経基に敗れ、捕えられて殺された。天慶四年(九四一)没。(日本国語大辞典)

康和の源義親とは、

平安後期の武将、源義家の2男(?〜1108)。対馬守在任中の1101年九州で反し,隠岐 (おき) へ配流された。のち出雲国で再び反し,白河法皇の命によって平正盛により誅せられた。その結果,源氏は一時衰えた。(旺文社日本史事典) 

平治の藤原信頼とは、

平安後期の公卿。忠隆の子。後白河法皇に愛されて院別当となる。権勢高い通憲に官途を妨害されたのを不満として、源義朝と結んで平治の乱を起こし通憲を殺したが、平清盛に敗れて、六条河原で殺された。長承二~平治元年(一一三三‐五九)。(日本国語大辞典)

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(考察)

             覚明は、作品に一貫して流れる哲理を「無常」とした

 覚明は「平家物語」の原作「治承物語」をまとめるに当たり、作品に一貫して流れる哲理ともいうべきものを「無常」としました。

それが最初の句である“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす”です。

覚明はこれまでに法師として修業し、著作として「和漢朗詠集私注」(上・下巻)を残しています。その下巻の雑歌に無常の項目があり、「年年歳々花相似 歳々年々人不同」などの和漢の八首があり、私注を施しています。

“無常”に関しては単なる思いつきではないのです。

そして、過ごしてきた人生を振り返って考えるに、世の中は生滅変転して、常住ではない、つまり、現世におけるすべてのものはすみやかに移り変わって、しばしも同じ状態にとどまらないことを見てきたので、人間はいつ死ぬか分からない、多くの生命のはかなさを実感していたことでもあり、そこで源信著の「往生要集」※を思い出しました。

かって源信は比叡山横川の恵心院にいた日本浄土教の祖とも言われている僧都で四十歳過ぎに「往生要集」をまとめました。

その著作で、仏教本来の目的は極楽に往生することであることを強く説かれ、往生のための念仏の行儀を尋常、別時、臨終の三種に分け、「臨終の勧念」として臨終に念仏を修することについて「臨終の一念は百年の業に勝る」としています。

そして、その臨終の場は祇園精舎の西方の角、日の没する方所に無常院がつくってあるとしています。

往生要集とは、

平安中期の仏書。三巻。源信著。永観二~寛和元年((九八四‐九八五))成立。厭離穢土、欣求浄土、極楽証拠、正修念仏、助念方法、別時念仏、念仏利益、念仏証拠、諸行往生、問答料簡の十門からなる。鎌倉時代の浄土教の確立を促したばかりでなく、さまざまな面で後世に多大の影響を与えた。(日本国語大辞典)


覚明はこの無常院で聞こえる鐘の音を“諸行無常の響あり・・・・”と連想して引用したものと思われます。

当然、覚明は祇園精舎の鐘の音を聞いたことはないのです。あくまでも想像なのです。

この原文の冒頭の“祇園精舎の鐘の聲”から、“心も詞も及ばれね”までの部分は、物語の各条の語りの前に琵琶法師たちにしばしば使われたに違いがありません。

そうすることで聴衆を物語に引き込んでから、適宜、各条が語られていたと思います。

覚明はこの祇園精舎の条を書くに当たり、物語の主人公である入道前太政大臣平朝臣清盛公とは何者かを、改めて調べ、ここで正式に紹介しています。

それが以下の原文です。

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原文では

その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。かの親王の御子髙視王無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望王の時、始めて平の姓を賜はつて、上總介になり給ひしより以來、忽ちに王氏を出でて人臣に連なる。その子鎮守府將軍良望、後には國香と改む。國香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ許されず。


(現代文訳)

清盛公の先祖を調べると、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王から九代目の子孫讃岐守正盛の孫で、刑部卿忠盛朝臣の嫡男です。

葛原親王の御子、髙視王は官職も官位もないまま亡くなられました。その御子高望王の時、初めて平の姓を賜わって、上總介になられてから、ただちに皇籍を出で臣下に連なりました。その子鎮守府将軍良望は、後には國香と改名したが、國香より正盛にいたるまでの六代は、諸国の長官ではあったが、殿上人として昇殿することは、まだ許されていませんでした。

(注)大石寺本の「曽我物語」に、“平家とは・・・・”とあり、同じような記述がありますが、後に大石寺の僧により「平家物語」を見て、真似て書き足したものと思われます。

原「曽我物語」に近いと思われる現存の寛永版流布本「曽我物語」には、“平家とは・・・・”の記述はありません。

原「曽我物語」の作者は覚明ですが、“平家とは・・・・”の部分は書いていません。源氏のことのみ書いてあります。

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(考察)

     覚明は、平家が奈良炎上という大罪を犯した無情さを許せなかった

  この“その先祖を尋ぬれば”から“殿上の仙籍をば未だ許されず”までは、次の条の「殿上闇討の条」の頭にあってもおかしくないものですが覚明はここに先出ししています。

あえて、この先出しを意味づけて考えると、覚明は自分とはそれほど違わない別の一族が奈良炎上という大罪を犯した無情さを、法師として許せないと感じていたからだと思います。

ちなみに信濃滋野嫡流の海野幸長(覚明)のルーツをこの「祇園精舎の条」の平清盛の記述風に辿るとこうなります。それは何故か、源氏と平家の違いはあれど、恐ろしく似た流れなのです。

【信濃滋野氏嫡流海野氏(覚明)の先祖】

「その先祖を尋れば、清和天皇の第四皇子二品式部卿貞保親王十代の後胤信濃守幸親(保元の乱で兄信濃守幸通戦死)の次男なり。かの親王の御子目宮王(基淵)無官無位にして失せ給ひぬ。その御子善淵王の時、始めて(滋野善淵)の姓を賜はつて、信濃守になり給ひしより以來、忽ちに王氏を出でて人臣に連なる。その子信濃判官滋氏、その子中納言為広より幸親にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ許されず」

覚明はこうして自分の先祖をなぞるように、原文では清盛の先祖を同じように辿り、親王の後裔と言われる一族の悲哀を見ていきます。

(長左衛門・記)

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(参照)

「平家物語」の祇園精舎の条(原文)      

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の祇園精舎を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

祇園精舎の全文  

祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の聲(こゑ)、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。しやらさうじゆ(沙羅雙樹)のはな(花)のいろ(色)、じやうしやひつすゐ(盛者必衰)のことわり(理)をあら(顯)はす。

おご(奢)れるもの(者)もひさ(久)しからず、ただはる(春)のよ(夜)のゆめ(夢)のごと(如)し。たけ(猛)きひと(人)もつひ(遂)にはほろ(滅)びぬ。ひとへ(偏)にかぜ(風)のまへ(前)のちり(塵)におな(同)じ。

とほ(遠)くいてう(異朝)をとぶらふに、しん(秦)のてうかう(趙高)、かん(漢)のわうまう(王莽)、りやう(梁)のしゆい(朱异)、たう(唐)のろくさん(祿山)、これらはみな(皆)きうしゆせんくわう(舊主先皇)のまつりごと(政)にもしたが(從)はず、たの(楽)しみをきは(極)め、いさ(諫)めをもおも(思)ひい(入)れず、てんが(天下)のみだ(亂)れんこと(事)をもさと(悟)らずして、みんかん(民間)のうれ(憂)ふるところ(所)をし(知)らざりしかば、ひさ(久)しからずして、ばう(亡)じにしもの(者)どもなり。

ちか(近)くほんてう(本朝)をうかが(窺)ふに、しようへい(承平)のまさかど(將門)、てんぎやう(天慶)のすみとも(純友)、かうわ(康和)のぎしん(義親)、へいぢ(平治)のしんらい(信頼)、これらはおご(奢)れること(事)もたけ(猛)きこころ(心)も、みな(皆)とりどりなりしかども、まぢかくはろくはら(六波羅)のにふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあそんきよもりこう(入道前太政大臣平朝臣清盛公)とまう(申)ししひと(人)のありさま(有様)、つた(傳)へうけたまは(承)るこそ、こころ(心)もことば(詞)もおよ(及)ばれね。

そのせんぞ(先祖)をたづ(尋)ぬれば、くわんむてんわうだいご(桓武天皇第五)のわうじ(皇子)、いつぽんしきぶきやうかづらはらのしんわうくだい(一品式部卿葛原親王九代)のこういん(後胤)、さぬきのかみまさもり(讃岐守正盛)がそん(孫)、ぎやうぶきやうただもりのあそん(刑部卿忠盛朝臣)のちやくなん(嫡男)なり。

かのしんわう(親王)のみこたかみのわう(御子髙視王)むくわんむゐ(無官無位)にしてう(失)せたま(給)ひぬ。そのおんこたかもちのわう(御子高望王)のとき(時)、はじ(始)めてたひら(平)のしやう(姓)をたま(賜)はつて、かづさのすけ(上總介)になりたま(給)ひしよりこのかた(以來)、たちま(忽)ちにわうし(王氏)をい(出)でてじんしん(人臣)につら(連)なる。そのこちんじゆふのしやうぐんよしもち(子鎮守府將軍良望)、のち(後)にはくにか(國香)とあらた(改)む。くにか(國香)よりまさもり(正盛)にいたるまでろくだい(六代)は、しよこく(諸国)のじゆりやう(受領)たりしかども、てんじやう(殿上)のせんせき(仙籍)をばいま(未)だゆる(許)されず。

作成/矢久長左衛門 



2020年9月1日火曜日

原作者の存在を考証(10) 奈良炎上の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(10)

この奈良炎上は覚明がどうしても書かねばならなかったもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の奈良炎上の条

(考察)

    覚明は焼ける前の奈良を思いだし、取材をもとに想像して書く

  この条を書くに当たり、覚明には奈良への旅が必要でした。

そのころ、奈良が炎上してから、15年以上経過していました。

その後の南都がどうなっているのか、人びとの噂さだけではなく、現地を自分で踏査して、東大寺・興福寺が炎上した状況を詳しく知りたく、うずうずしていました。

この頃(建久7年)、比叡山には後に親鸞と呼ばれるようになった24歳の範宴が、52歳の覚明(当時は円通院浄寛)と同じく天台座主慈円僧正の弟子として修業中でした。

この時、範宴はすでに「磯長の夢告(建久2年)」と呼ばれる 聖徳太子のお声を聞くという霊示を得た高名な若い僧侶でした。

建久2年の9月に当時19歳の範宴は、磯長(しなが)の叡福寺で七日七晩参籠して霊示を受けましたが、その前に奈良の法隆寺で1年間の修業を終え、その帰りに立ち寄った叡福寺で参籠して得た聖徳太子の夢告でした。

奈良帰りの範宴は覚明が知りたいその後の南都についての状況をよく知っていたと思います。好奇心の強い覚明ですから比叡山で範宴に会い奈良の状況を聞いたことでしょう。

範宴は建久7年の夏までは比叡山にある無動寺の一乗院にいましたが、その後、再び奈良に行き興福寺で一切経を読んだと言われます。

この時に覚明も叡山の座主慈円の許可を得て奈良に同行したと思われます。

範宴は一切経を五ヶ月で読了し、その冬のうちに比叡山に帰山しています。

この時、覚明は奈良から戻ったばかりの範宴の法話を横川の禿谷の講堂で聞き、範宴に弟子入りしています。

覚明は比叡山での出会いや奈良への旅に同行して範宴の人柄や信条に惹かれるものがあったのだと思います。

奈良の興福寺まで同行したあと、、範宴と別れた覚明は炎上当時の興福寺や東大寺の状況を取材し、先に比叡山に戻り、この「奈良炎上の条」を執筆したものと思われます。

この時に奈良で見てきた興福寺は、既に東金堂・西金堂は再建(治承5年8月16日上棟)され、、講堂と食堂も再建(文治2年10月10日)され、南円堂も再建(文治5年9月28日)されていて、諸仏開眼供養も済んでいました。

また、東大寺の大仏も既に後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」(文治2年)が行われ、大仏殿再建の供養(建久6年3月12日)も源頼朝以下の東国武士が出席し済んでいました。

奈良が炎上(治承4年12月28日)したころ、覚明は平家に名指しで追われていて、まだ信濃へ向かう途中で現地にはいませんでした。

そこで、覚明は焼ける前の自分が居た頃の奈良を思いだし、取材をもとに想像して書くしかありません。

そのためか、物語には炎上時の臨場感はなく、客観的に冷静に描かれています。

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原文では、

都には又、「南都三井寺同心して、或は宮請取り参らせ、或ひは御迎ひに参る條、これ以て朝敵なり。然らば奈良をも攻めらるべし」と聞えしかば、大衆大きに蜂起す。

關白殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」とて、有官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起つて、「乘物より取つて引落せ、髻切れ」とひしめく間、忠成色を失ひて逃げ上る。

次に右衞門督親雅を下されたりけれども、これをも、「髻切れ」とひしめきければ、取る物も取りあへず、急ぎ都へ上られけり。

その時は勸學院の雜色二人 が髻切られてけり。

南都には又大きなる毬杖の玉を作りて、これこそ入道相国の頭と名づけて、「打て、蹈め」などぞ申しける。

「詞の漏し易きは、殃を招く媒なり。詞の慎まざるは、破れを取る道なり」といへり。

かけまくも忝く、この入道相国は、當今の外祖にておはします。

それをかやうに申しける南都の大衆、凡そは天魔の所爲とぞ見えし。

(現代文訳)

京(平家)では、また、「奈良(興福寺)は、三井寺(円城寺)に同調し、あるいは反平家の宮(高倉宮以仁王)をお受け取り、あるいはお迎えに上がるとのこと、これはまさに朝敵なり(このとき平家はまだ朝廷側)。それゆえ奈良をも攻めるべきだ」という声が聞こえてきた。そこで奈良の衆徒たちは一斉に蜂起した。

關白(摂政基通)殿から、「言いたいことがあるならば、何度でも奏上を聞こう」といわれ、平家は有官の別当藤原忠成(藤原氏の学問所の勧学院の院務を司る長官)を差し向けてきたが、衆徒が「乘物から引きずり下ろせ、髻を切れ」と騒いだので、忠成は色を失ひ京に逃げ帰った。

次に右衞門督親雅を差し向けたが、これも、「髻を切れ」と衆徒が騒いだので取る物も取りあへず、急いで京都へ帰ってしまった。その時は勸學院の雜色二人が髻を切られてしまいました。

また、興福寺の僧徒たちは毬打の大きな玉を作って、これを入道相国(平清盛)の頭と名づけて、「打て」「踏め」などと口々に叫んだ。

「言葉を安易に漏らすは禍となる。言葉には慎重でなければ負ける」と言えます。

恐れ多くも申し訳なくも、平清盛は、今上陛下の外祖父でいらっしゃいます。

それをこの様にはやし立てた興福寺の衆徒は、平家側にはほとんど天魔(天欲界六天の頂上、第六天にいる魔王)の為せる行いに見えたことでしょう。

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(考察)

   覚明は「言葉は禍のもと、言葉を慎まなければ」と実感した

原文の
詞の漏し易きは、殃を招く媒なり。詞の慎まざるは、破れを取る道なり」とは、
中国唐代の典籍『臣軌』の慎蜜の章に「言易漏召禍之媒。事不慎者取敗之道也(言漏れ易きは禍を招く媒なり。事慎しまざるは敗を取る道なり)」とあり、書いた覚明はそれから引用したものと思われます。 
「言易漏召禍之媒。事不慎者取敗之道也」とは、 国会図書館デジタルコレクション「 帝範臣軌 : 和訳纂註」の解訳では、「(俗に言う)口軽る者は禍をまねく媒にして、(俗にもいう)粗忽者は事を破る者なり」とあります。

覚明は「詞の漏し易きは、殃を招く媒なり。事の慎まざるは、破れを取る道なり」と書かずに前半と後半ともに詞(言葉)としています。
これは単純に、これまでの口伝や書き写しで誰かが間違えたものとして見過ごすことも出来ますが、これこそ覚明ならではのこだわりの部分ではないかと推察します。
なぜなら、この奈良で覚明は、過去に筆渦を起こしています。
当時は信救と言いましたが奈良炎上の前には学僧として興福寺にいました。その興福寺から三井寺への南都返牒で「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と辛辣な檄文を書いていたのです。
そのため、これを書いた信救は、平家にばれて清盛を怒らせてしまい、興福寺にはいられなくなり、奈良から命がけで逃亡しました。この事は「木曾願書の条」で本人の覚明が書いています。
その時のことを思うと覚明は「言葉は禍のもと、言葉を慎まなければ」と実感したのです。この奈良に来て見て、当時の重大な被害を見聞すると、ここで自分が得たこの教訓を書かずにいられない気分だったと思います。
そこで覚明は以下を平家の立場になって書いています。
原文では「 かけまくも忝く、入道相国は、當今の外祖にておはします。
それをかやうに申しける南都の大衆、凡そは天魔の所爲とぞ見えし」と。
現代文訳では「恐れ多くも申し訳なくも、平清盛は、今上陛下の外祖父でいらっしゃいます。それをこの様にはやし立てた興福寺の衆徒は、平家側にはほとんど天魔(第六天にいる魔王)の為せる行いに見えたことでしょう」と冷静に述べているのです。
覚明は以下に述べられている奈良炎上の経過と重大な結果を見て、自分が撒いた棘のある言葉の重みを平家側の立場でも考え反省したのだと思います。
そのために、ここでは「詞の漏し易きは、殃を招く媒なり。詞の慎まざるは、破れを取る道なり」と書いたと解釈出来ます。
そう言う意味で、この条も覚明が書いたと推定して良いのではないでしょうか。   

それにしても、奈良炎上の経過と重大な結果は、幼い頃に奈良東大寺の大仏のもとで学んだ覚明にとり、平家一門を仏敵として許せないものでした。

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原文では

入道相国、かつがつ先づ南都の狼藉を鎮めんとて、瀬尾太郎兼康を、大和國の檢非所に補せらる。
兼康五百餘騎で馳せ向ふ。

「相構へて、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かかる内議をば知らずして、兼康が餘勢六十餘人搦め取つて、一々に頸を斬つて、猿澤の池の端にぞ懸け竝べたりける。

入道相國大きに怒りて、「さらば南都を攻めよや」とて、大將軍には、頭中將重衡、中宮亮通盛、都合その勢四萬餘騎、南都へ發向す。

南都にも老少嫌はず七千餘人、甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路を堀り切つて、搔楯かき、逆茂木引いて待ちかけたり。

平家四萬餘騎を二手に分つて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押寄せて、鬨をどつとぞ作りける。

大衆は歩立打物なり。官軍は馬にて驅け廻し驅け廻し攻めければ、大衆數をつくして討たれにけり。

卯の刻より矢合して、一日戰ひ暮し、夜に入りければ、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭共に破れぬ。

(現代文訳)

入道相国(平清盛)は、とりあえず、先づ奈良の興福寺の狼藉を鎮圧しようと、備中國の住人、瀬尾太郎兼康を、大和國の検非違使役所へ任命された。
兼康は五百余騎で奈良へ馳せ向かった。

「用心し、衆徒が乱暴しても、お前たちはしてはならない。武具を持たず、弓矢を身に帯びるな」といわれ派遣されたが、奈良興福寺の大衆は、そのような内々にての評議のことを知らず、平家方の兼康の勢力六十余人を捕まえ、それぞれの首を斬り、猿澤の池の端に並べ懸けてしまった。

入道相國は大いにいきどうり「それならば奈良興福寺を攻めよや」と、大將軍には、蔵人頭兼左近衛中將重衡、以下に中宮亮通盛ら、都合その勢力四萬余騎を奈良へ出發させた。

興福寺には年齢を問わず、七千余人が兜の緒を締め、奈良坂と般若寺の二箇所の道を堀り切つて、楯を垣のように並べ、木の枝の先端を鋭く尖らしたものを敷いて待ち構えた。

平家軍は四萬余騎を二手に分けて、奈良坂、般若寺の二箇所の城郭に押寄せ、鬨の声をどつとあげた。

興福寺の衆徒たちは徒歩で手には刀剣、薙刀(なぎなた)、槍などだった。
平家軍は、馬で駆け回り駆け回り攻め、衆徒たちは数多く討たれてしまった。

午前六時頃から矢を射合わせ、一日戦い暮し、夜に入って奈良坂と般若寺の二箇所の城郭は共に破られた。

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(考察)

 覚明は、この悲劇は平家方だけでなく、奈良の僧兵たちも悪かったと反省

 原文の
「相構へて、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ、弓箭な帯せそ」とは、清盛から「用心し、衆徒が乱暴しても、お前たちはしてはならない。武具を持たず、弓矢を身に帯びるな」といわれ兼康ら五百余騎が派遣されたのに奈良興福寺の僧侶たちは、そのような内々にての評議のことを知らず、平家方の兼康の勢力六十余人を捕まえ、それぞれの首を斬り、猿澤の池の端に並べ懸けてしまったのだと作者の覚明は述べています。

覚明がこの「かかる内議をば知らずして」と述べるのは、覚明本人も潜伏中の箱根から鎌倉に出入りしていたときに、平家の落武者らの取り調べの中で判明したことを伝聞で知っていたからに違いありません。

この戦端の残念な悲劇は平家方だけが悪いのではなく、奈良興福寺の僧兵たちも悪かったのではないかと覚明は反省し平家を弁護しています。

しかし、それはそれです。

この奈良に来て、覚明は取材して廻ることでさらに本当の悲劇を知りました。

しかし、その前にどうしても気になる知り合いの僧兵のことがありました。
その男は信救(後に覚明)が奈良から逃げるときにはまだ興福寺にいた頼もしい男で坂四郎永覺という勇猛な僧侶でした。その男の働きぶりがどうであったか知りたく生き残りの僧たちに聞いて廻りました。

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原文では、

落ち行く衆徒の中に、坂四郎永覺とい云ふ悪僧あり。
これは力の強さ、弓箭打物取つては、七大寺十五大寺にも勝れたり。
萠黄縅の鎧に、黒絲縅の腹巻二領重ねてぞ著たりける。
帽子甲に五枚甲の緖をしめ、茅の葉の如くにそつたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀、左右の手に持つ儘に、同宿十餘人前後左右に立て、天蓋の門より打つて出でたり。

これぞ暫く支へたる。多くの官兵等馬の足薙がれて、多く亡びにけり。

されども官軍は大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めければ、永覺が防ぐ所の同宿皆討たれにけり。永覺心は猛う思へども、後あばらになりしかば、力及ばず、只一人南を指してぞ落ち行きける。
 
(現代文訳)

落ちていく衆徒のなかに、坂四郎永覺という武芸に優れた荒法師がいました。
彼は弓矢をとっても刀をとっても、力の強さは七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)、十五大寺(さらに加えて新薬師寺・本元興寺・招提寺・西寺・四天王寺・崇福寺・弘福寺・東寺、異説も有り)のなかでも勝れていました。

萠黄縅(黒絲縅では?の説有り)の鎧と黒絲縅(萠黄縅では?の説有り)の腹巻を重ねて着ていました。帽子甲に五枚甲の緖をしめ、茅(ちがや)の葉の如くにそつた白柄(木地のままにて塗らない柄)の大長刀と黒漆の大太刀を左右の手に持つたまま、仲間の僧兵十餘人前後を左右に立て、天蓋の門(碾磑門のこと、大仏殿の西北に現存する東大寺の門)より打つて出ました。

これがしばらく平家官軍の攻撃を支へました。多くの官軍兵は馬の足をなで切られて討たれてしまいました。

しかし、官軍は大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めたてたので、永覺の前後左右で防戦していた仲間の僧兵はみんな討たれてしまいました。

永覺は勇猛でしたが、背後ががら空きになり力及ばず、只一人南を指して落ちて行きました。

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(考察)

 覚明は、多数の平家軍の前では勇猛な僧兵も逃げ出すほど劣勢だったと知る

 作者の覚明が気になっていた坂四郎永覺という荒法師は、覚明が興福寺にいたときは、衆徒らに武芸を訓練していた人物に違いなく、特に武に優れた法師だったことがうかがえます。

当時の信救(後に覚明)は“'文”に優れた自分の対極にあった“武”の達人だったのでよく覚えていました。

しかし、彼のような猛者でも官軍兵の圧倒的多数の前では逃げ出すしかないほどの劣勢だったということを、象徴的に語りたかったので覚明はここで書き加えたのだと解釈します。

そして、いよいよその夜になっての大悲劇、東大寺大仏殿の阿鼻叫喚の様を覚明は以下のように書いています。

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原文では

夜軍になつて、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立つて、暗さは暗し、「火を出せ」との宣へば、播磨國の住人、福井の庄の下司、次郎大夫友方と云ふもの、楯を破り續松にして、在家に火を懸けたりける。

頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻許りの事なれば、折節風は烈しし、火本は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。

凡そ恥をも思ひ、名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にして討たれにけり。

行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へぞ落ち行きける。

歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども女童は、若しや助かると、大佛殿の二階の上、山階寺の内へ、われ先にとぞ逃げ入りける。
大佛殿の二階の上には、千餘人上りあがり、敵の續くを上せじとて、階を引きてげり。
猛火は正しう押懸けたり。喚き叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻、焔の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。

(現代文訳)

夜戦になつて、大將軍頭中將重衡は、般若寺の門前に立つて、暗すぎるので「火をかけよ!」と命じた。

平家方の播磨國の住人で福井庄の下司、次郎大夫友方という者が、楯を割り松明にして、在家に火をかけました。

頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻許りの事なれば、折節風は烈しく、火元は一つでしたが、吹き乱れる風に、多くの伽藍に吹きかかりました。 

おおよそ、恥を知り、名を惜しむほどの者は、奈良坂で討ち死にし、般若寺で討たれてしまいました。

歩くことができる者は、吉野、十津川の方へ落ちて行きました。

歩くことも出来ない老僧や、けなげな修學者と幼い子や女児は、もしや助かるかと、東大寺の大佛殿の二階や、山階寺(興福寺)の中へ、われ先に逃げ入りました。

大佛殿の二階の上には、千余人が上り、敵が続いてくるのを登らせまいと階段を引き上げました。

猛火はまさしく押しかけました。

おめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻、地獄の炎の底にいる罪人も、これ以上ではあるまいと思われました。

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(考察)

  覚明は、現地で聞き及んだ事実を想像して書くしかありませんでした

作者の覚明は、そこにはいませんでした。
奈良に来た覚明は当時の様子を知る人を誰彼と無く捕まえては聞き込みました。その結果が上記の原文なのです。
聞き及んだ事実を想像して書くしかありません。
興福寺と東大寺が炎上するさなかでの老僧や、けなげな修學者と幼い子や女児が焼死する様は想像するだに忘れられない出来事です。
覚明は幼少(通廣6歳から10歳)の頃、空海が設置した奈良東大寺南院(真言院)の僧侶育成機関の潅頂道場(国立勧学院)で学びました。東大寺は自分が過ごした学び舎です。
もし、その頃であれば幼い修學者であった自分も巻き込まれて生きていなかったのではと想像したに違いありません。
そこで、以下に興福寺と東大寺、それぞれについて触れています。
この部分は覚明でないと書けないほどの個人的な蘊蓄です。
興福寺が先に書かれているのは、そこが奈良炎上の中心舞台で、自分が学僧として数年前まで過ごしていた記憶に新しい場所だからだと思います。
東大寺には一段と思い入れがあり、既に大仏は再建されてはいましたが焼け落ちた時の金銅十六丈の盧舎那佛を想像し、その時の仏法の滅亡を嘆き悲しんでいます。

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原文では、

興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします佛法最初の釋迦の像、西金堂におはします自然湧出の觀世音、瑠璃を雙べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。                           

東大寺は常在不滅、實報寂光の生身の御佛と思し召し准へて、聖武皇帝、手づから自ら瑩き立て給ひし金銅十六丈の盧舎那佛、烏瑟高く顯はれて、半天の雲にかくれ、白毫新たに拝まれさせ給へる滿月の尊容も、御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあひて山の如し。
八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空しう十悪の風に漂ひ、煙は中天に滿ち滿ちて、炎は虛空に隙もなし。親り見奉る者は更に眼をあてず、幽かに傳へ聞く人は、肝魂を失へり。

法相三論の法門聖教、すべて一巻も残らず。わが朝は申すに及ばず、天竺震旦にもこれ程の法滅あるべしとも覺えず。
優塡大王の紫磨金を瑩き、毘須羯磨が赤栴壇を刻みしも、纔に等身の御佛なり。況んやこれは南閻浮堤の中には、唯一無雙の御佛、長く朽損の期あるべしとも思はざりしに、今毒焔の塵に交つて、久しく悲しみを残し給へり。

梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。
法相擁護の春日大明神、如何なる事をかおぼしけん、されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音も恨むる様にぞ聞えける。

(現代文訳)

興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願による藤原氏代々の氏寺です。
東金堂にいらっしゃる佛法最初の釋迦の像、西金堂にいらっしゃる自然に湧き出た觀世音像、瑠璃を並べた四面の回廊、朱丹を交へた二階の楼(興福寺の喜多院の二階堂)、九輪が空に輝いていた二基の塔(五重塔と三重塔)など、たちまちに煙となってしまったのは悲しいことです。

東大寺では、常にあって滅びることのない、實報、寂光(天台宗でいう四土の実報土と寂光土、仏の住む真如の世界)の生身の御佛であるかのようになぞらえて、聖武天皇が、御自身の御手で磨き立てられた金銅十六丈の盧舎那佛の烏瑟(梵語で仏頂の意)が高く現れて、中空の雲にかくれ、白毫(仏の眉の間の光を放つ毛)があらたかに拝まれなさった滿月のように尊い容姿も、御頭は焼け落ちて大地にあり、御身体は溶けて山のようになっていました。

八萬四千の相好(仏の形相)は、秋の月が早く五重(五逆罪)の雲に隱れるように仏の光が消え失せ、四十一地(菩薩に至る階級)の瓔珞(仏像や天蓋にさげる飾り)は、夜の星が空しく十悪(十種の罪悪)の風に漂うようであり、煙は中空に滿ち滿ちて、炎は虛空に隙間もない。目の当たりに拝見する者は更に眼も当てられない、遠くで傳へ聞く人は、肝魂(きもったま)を奪われました。

法相宗(興福寺)三論宗(東大寺)の法門聖教(経典)は、すべて一巻も残りませんでした。わが国は言うまでもなく、天竺震旦(インド、シナ)にもこれ程の仏法の滅亡があろうかとも思えません。

優塡大王(中天竺の王)が紫磨金(純精の黄金)を磨き、毘須羯磨(仏工の神)が赤栴壇(天竺に産する香木)に彫刻したものも、わずかに等身の御佛(身長五尺の仏像)だけが残りました。ましてやこれは南閻浮堤の中では、二つとない御佛で、長く毀損する時があろうとも思えなかったのに、今、現世の塵に交つてしまって、永久に悲しみをお残しなさりました。

梵釋四王(梵天、帝釈天、四天王)、龍神八部(仏教の守護神)、冥官冥衆(地獄の閻魔王の眷族)も、驚き騒がれることであろうと思われました。

法相宗を擁護する春日大明神は、どのようなことを思われたでしょう。それ故、春日野の露の色も変わり、三笠山の風の音も恨むように聞えました。

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(考察)

  覚明は、興福寺の五重塔がその場に無いことで平家の暴虐を改めて実感

久し振りに覚明が興福寺を訪れたとき、東金堂、西金堂はすでに再建(治承5年8月16日上棟)されていました。講堂、食堂(文治2年10月10日上棟)も、そして南円堂(文治5年9月28日上棟)も再建されていました。
しかし、九輪が空に輝いていた五重塔の空間だけは、ぽっかり空いていて、まだ再建されていませんでした。再建されたのはこの数年後の元久2年2月22日でした。
覚明は興福寺の象徴であった五重塔がその場に無いことで平家の暴虐を改めて実感し、これらが仏像や経典とともにたちまちに煙となってしまったのは悲しいことだと嘆いているのです。
原文では簡潔に「興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします佛法最初の釋迦の像、西金堂におはします自然湧出の觀世音、瑠璃を雙べし四面の廊、朱丹を交へ二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽ちに煙となるこそ悲しけれ」と、藤原氏の累代の氏寺である興福寺が焼ける前の記憶を交えて慨嘆しているのです。

そして、当時の様子を東大寺で聞き込んだ覚明は、東大寺の金銅十六丈の盧舎那佛は大仏殿の大火災のため、御頭は焼け落ちて大地にあり、御身体は溶けて山のようになっていたのだと述べています。

覚明は幼い頃から崇拝してきた焼ける前の大仏像を「常にあって滅びることのない、實報、寂光(天台宗でいう四土の実報土と寂光土、仏の住む真如の世界)の生身の御佛であるかのようになぞらえて、聖武天皇が、御自身の御手で磨き立てられた金銅十六丈の盧舎那佛の烏瑟(梵語で仏頂の意)が高く現れて、中空の雲にかくれ、白毫(仏の眉の間の光を放つ毛)があらたかに拝まれなさった滿月のように尊い容姿」と、ありがたさをうたいあげています。

さらに、焼ける時の様子を覚明は想像して「八萬四千の相好(仏の形相)は、秋の月が早く五重(五逆罪)の雲に隱れるように仏の光が消え失せ、四十一地(菩薩に至る階級)の瓔珞(仏像や天蓋にさげる飾り)は、夜の星が空しく十悪(十種の罪悪)の風に漂うようであり、煙は中空に滿ち滿ちて、炎は虛空に隙間もない。目の当たりに拝見する者は更に眼も当てられない、遠くで傳へ聞く人は、肝魂(きもったま)を奪われました」と述べています。

多分、覚明もこの惨事を離れた場所で初めて伝え聞いたとき魂消(たまげ)て「肝魂(きもったま)を奪われた」ことでしょう。

「三井寺炎上」や「善光寺炎上」でも述べられたように覚明にとり経典と仏像は大切なものでした。
ここでも「法相宗(興福寺)三論宗(東大寺)の法門聖教(経典)は、すべて一巻も残りませんでした。わが国は言うまでもなく、天竺震旦(インド、シナ)にもこれ程の仏法の滅亡があろうかとも思えません」と述べています。
そして、仏像も「優塡大王(中天竺の王)が紫磨金(純精の黄金)を磨き、毘須羯磨(仏工の神)が赤栴壇(天竺に産する香木)に彫刻したものも、わずかに等身の御佛(身長五尺の仏像)だけが残りました。ましてやこれは南閻浮堤の中では、二つとない御佛で、長く毀損する時があろうとも思えなかったのに、今、現世の塵に交つてしまって、永久に悲しみをお残しなさりました」と述べています。

これらは「梵釋四王(梵天、帝釈天、四天王)、龍神八部(仏教の守護神)、冥官冥衆(地獄の閻魔王の眷族)も、驚き騒がれることであろうと思われました」と法師らしく述べています。
また「法相宗(興福寺)を擁護する春日大明神は、どのようなことを思われたでしょう。それ故、春日野の露の色も変わり、三笠山の風の音も恨むように聞えました」と散文的に述べています。

そして、この「奈良炎上の条」の締めくくりとして、被害者数をあげ、この嘆かわしい惨事に対する京での反応などに触れ、東大寺の聖武天皇の御自筆の御記文を引用して終わります。

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原文では

焔の中にて焼け死ぬる人數を數へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。
戰場にして討たるる大衆千餘人、少々は般若寺の門に切りかけさせ、少々は首ども持つて都へ上られけり。

明くる二十九日、頭中將重衡、南都亡ぼして北京へ歸り入らる。
凡そは入道相国計りこそ、憤り晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「縦ひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。

日頃は衆徒の首大路を渡いて、獄門の木にかけらるべしと、公卿僉議ありしかども、
東大寺興福寺の亡びぬるあさましさに、何の沙汰にも及ばず。ここや彼處の溝や堀にぞ捨て置きける。

聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「わが寺興福せば、天下も興福すべし。わが寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せん事、疑ひなしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。 
 
(現代文訳)

 炎の中で焼け死んだ人数を数えると、大仏殿の二階の上で一千七百余人、山階寺で八百余人、ある御堂で五百余人、ある御堂では三百余人、整えて記すと三千五百余餘人です。

戦場で討たれた衆徒は千余人、少々は般若寺の門前に首を斬ってさらされ、少々の首は持つて都へ。

翌二十九日には、頭中將平重衡は、奈良を滅ぼして京都へ帰りました。
おおよそだが入道相国(清盛入道)だけが憤りが晴れて喜んだことでしょう。
中宮、一院、上皇は、「たとえ悪僧を滅ぼしても、多くの伽藍を破滅すべきであったろうか」と、お嘆きになられた。

日頃は衆徒の首は都大路を引き回して、獄門の木にかけられるのだが、公卿も詮議したようだが、東大寺、興福寺の焼失に驚き、何の命令もしなかった。そのため、首はあちこちの溝や堀に捨て置かれました。

聖武天皇の御自筆の御記文には「わが寺が興福すれば、天下も興福し。わが寺が衰微すれば、天下も衰微するであろう」とお書きになっている。
それ故、天下の衰微することも疑いないと思われた。

嘆かわしいその年も暮れて、治承も五年になりました。 
 
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(考察)

覚明は「わが寺興複せば天下興複し、わが寺衰弊せば天下衰弊せむ」と正確に引用

 最後に、締めくくりとして、聖武天皇の御自筆の御記文が引用されています。
原文では、
聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「わが寺興福せば、天下も興福すべし。わが寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる、
とあります。
  
一見、このわが寺は興福寺のことと解釈してしまいがちですが、どうやら違うようです。これは作者が覚明だからこそ引用した聖武天皇の御自筆の御記文なのです。
このわが寺とは東大寺のことなのです。

講談社平家物語(上)の高橋貞一校注によると、聖武皇帝の銅板詔書に「代々の国王を以てわが寺の檀越となし、若しわが寺興複せば、天下興複し、わが寺衰弊せば、天下衰弊せむ」(東大寺要録巻六、古京遺文)とあるそうです。

これは覚明が当初の原文では「わが寺興複せば、天下興複し。わが寺衰弊せば、天下衰弊せむ」と正確に引用したに違いありません。

なぜなら、覚明は幼少の頃に東大寺の学舎で、このことを学んでいるに違いないからです。
長い間の口承で興複が興福に、衰弊が衰微に変化してきたものと思われます。

このことからも、この「奈良炎上の条」も覚明が作者であることは明白であると思います。

(長左衛門・記)
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(参照)
                                                                        
「平家物語」の奈良炎上の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の奈良炎上を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

 奈良炎上の全文(南都東大寺・興福寺の炎上)  

都にはまた(又)、「なんとみゐでらどうしん(南都三井寺同心)して、あるひ(或)はみや(宮)うけと(請取)りまゐ(参)らせ、ある(或)ひはおんむか(御迎)ひにまゐ(参)るでう(條)、これもつ(以)ててうてき(朝敵)なり。しか(然)らばなら(奈良)をもせ(攻)めらるべし」ときこ(聞)えしかば、だいしゆ(大衆)おほ(大)きにほうき(蜂起)す。
くわんばくどの(關白殿)より、「ぞんぢ(存知)のむね(旨)あらば、いくたび(幾度)もそうもん(奏聞)にこそおよ(及)ばめ」とて、うくわん (有官) のべつたう (別当) ただなり (忠成) をくだ (下) されたりけるを、だいしゆ (大衆) おこ (起) つて、「のりもの (乘物) よりと(取)つてひきおと(引落)せ、もとどり(髻)き(切)れ」とひしめくあひだ(間)、ただなり(忠成)いろ(色)をうしな(失)ひてに(逃)げのぼ(上)る。
つぎ(次)にうゑもんのかみちかまさ(右衞門督親雅)をくだ(下)されたりけれども、これをも、「もとどり(髻)き(切)れ」とひしめきければ、と(取)るもの(物)もと(取)りあへず、いそ(急)ぎ都へのぼ(上)られけり。
そのとき(時)はくわんがくゐん(勸學院)のざつしきににん (雜色二人) がもとどり(髻)き(切)られてけり。
なんと(南都)にはまた(又)おほ(大)きなるぎつちやう(毬杖)のたま(玉)をつく(作)りて、これこそにふだうしやうこく(入道相国)のかうべ(頭)とな(名)づけて、「う(打)て、ふ(蹈)め」などぞまう(申)しける。
「ことば(詞)のもら(漏)しやす(易)きは、わざはひ(殃)をまね(招)くなかだち(媒)なり。ことば(詞)のつつし(慎)まざるは、やぶ(破)れをと(取)るみち(道)なり」といへり。
かけまくもかたじけな(忝)く、このにふだうしやうこく(入道相国)は、たうぎん(當今)のぐわいそ(外祖)にておはします。
それをかやうにまう(申)しけるなんと(南都)のだいしゆ(大衆)、およ(凡)そは
てんま(天魔)のしよゐ(所爲)とぞみ(見)えし。

にふだうしやうこく(入道相国)、かつがつま(先)づなんと(南都)のらうぜき(狼藉)をしづ(鎮)めんとて、せのをのたらうかねやす(瀬尾太郎康)を、やまとのくに(大和國)のけんびしよ(檢非所)にふ(補)せらる。
かねやす(康)ごひやくよき(五百餘騎)では(馳)せむか(向)ふ。
「あひかま(相構)へて、しゆと(衆徒)はらうぜき(狼藉)をいた(致)すとも、なんぢら(汝等)はいた(致)すべからず。もののぐ(物具)なせそ、きうせん(弓箭)なたい(帯)せそ」とてつか(遣)はされたりけるを、なんと(南都)のだいしゆ(大衆)、かかるないぎ(内議)をばし(知)らずして、かねやす(康)がよせい(餘勢)ろくじふよにん(六十餘人)から(搦)めと(取)つて、いちいち(一々)にくび(頸)をき(斬)つて、さるさは(猿澤)のいけ(池)のはた(端)にぞか(懸)けなら(竝)べたりける。
にふだうしやうこく(入道相國)おほ(大)きにいか(怒)りて、「さらばなんと(南都)をもせ(攻)めよや」とて、たいしやうぐん(大將軍)には、とうのちうじやうしげひら(頭中將重衡)、ちうぐうのすけみちもり(中宮亮通盛)、つがふ(都合)そのせい(勢)しまんよき(四萬餘騎)、なんと(南都)へはつかう(發向)す。なんと(南都)にもらうせう(老少)きら(嫌)はずしちせんよにん(七千餘人)、かぶと(甲)のを(緒)をしめ、ならざか(奈良坂)、はんにやじ(般若寺)、にかしよ(二箇所)のみち(路)をほ(堀)りき(切)つて、かいだて(搔楯)かき、さかもぎ(逆茂木)ひ(引)いてま(待)ちかけたり。
平家しまんよき(四萬餘騎)をふたて(二手)にわか(分)つて、ならざか(奈良坂)、はんにやじ(般若寺)、にかしよ(二箇所)のじやうくわく(城郭)におしよ(押寄)せて、とき(鬨)をどつとぞつく(作)りける。だいしゆ(大衆)はかちだちうちもの(歩立打物)なり。くわんぐん(官軍)はむま(馬)にてか(驅)けまは(廻)しか(驅)けまは(廻)しせ(攻)めければ、だいしゆ(大衆)かず(數)をつくしてう(討)たれにけり。   
う(卯)のこく(刻)よりやあはせ(矢合)して、いちにち(一日)たたか(戰)ひくら(暮)し、よ(夜)にい(入)りければ、ならざか(奈良坂)、はんにやじ(般若寺)、にかしよ(二箇所)のじやうくわく(城郭)とも(共)にやぶ(破)れぬ。
お(落)ちゆ(行)くしゆと(衆徒)のなか(中)に、さかのしらうやうがく(坂四郎永覺)とい(云)ふあくそう(悪僧)あり。
これはちから(力)のつよ(強)さ、ゆみやうちもの(弓箭打物)と(取)つては、しちだいじじふごだいじ(七大寺十五大寺)にもすぐ(勝)れたり。もよぎをどし(萠黄縅)のよろひ(鎧)に、くろいとをどし(黒絲縅)のはらまきにりやうかさ(腹巻二領重)ねてぞき(著)たりける。ばうしかぶと(帽子甲)にごまいかぶと(五枚甲)のを(緖)をしめ、ち(茅)のは(葉)のごと(如)くにそつたるしらえ(白柄)のおほなぎなた(大長刀)、こくしつ(黒漆)のおほだち(大太刀)、さう(左右)のて(手)にも(持)つまま(儘)に、どうしゆくじふよにん(同宿十餘人)ぜんごさう(前後左右)にた(立)て、てんがい(天蓋)のもん(門)よりう(打)つてい(出)でたり。
これぞしばら(暫)くささ(支)へたる。おほ(多)くのくわんびやうら (官兵等)むま(馬)のあし (足)な(薙)がれて、おほ(多)くほろ(亡)びにけり。
されどもくわんぐん(官軍)はおほぜい(大勢)にて、い(入)れかへ(替)へい (入)れか(替)へせ(攻)めければ、やうがく(永覺)がふせ(防)ぐところ(所)のどうじゆく(同宿)みな(皆)う(討)たれにけり。やうがく(永覺)こころ(心)はたけ(猛)うおも(思)へども、うしろ(後)あばらになりしかば、ちから(力)およ(及)ばず、ただいちにん(只一人)みなみ(南)をさ(指)してぞお(落)ちゆ(行)きける。
 
よいくさ(夜軍)になつて、たいしやうぐんとうのちうじやうしげひら(大將軍頭中將重衡)、はんにやじ(般若寺)のもん(門)のまへ(前)にうつた(打立)つて、くら(暗)さはくら(暗)し、「ひ(火)をいだ(出)せ」とのたま(宣)へば、はりまのくに(播磨國)のぢうにん(住人)、ふくゐ(福井)のしやう(庄)のげし(下司)、じらうたいふともかた(次郎大夫友方)とい(云)ふもの(者)、たて(楯)をわ(破)りたいまつ(續松)にして、ざいけ(在家)にひ(火)をぞか(懸)けたりける。ころ(頃)はじふにんぐわつにじふはちにち(十二月二十八日)のよ(夜)の、いぬ(戌)のこくばか(刻許)りのこと(事)なれば、をりふしかぜ(折節風)ははげ(烈)しし、ほもと(火本)はひと(一)つなりけれども、ふ(吹)きまよ(迷)ふかぜ(風)に、おほ(多)くのがらん(伽藍)にふ(吹)きかけたり。およ(凡)そはぢ(恥)をもおも(思)ひ、な(名)をもを(惜)しむほど(程)のもの(者)は、ならざか(奈良坂)にてうちじに(討死)し、はんにやじ(般若寺)にしてう(討)たれにけり。
ぎやうぶ(行歩)にかな(叶)へるもの(者)は、よしのとつかは(吉野十津川)のかた(方)へぞお(落)ちゆ(行)きける。
あゆ(歩)みもえ(得)ぬらうそう(老僧)や、じんじやう(尋常)なるしゆがくしや(修學者)、ちご(兒)どもをんなわらんべ(女童)は、も(若)しやたす(助)かると、だいぶつでん(大佛殿)のにかい(二階)のうへ(上)、やましなでら(山階寺)のうち(内)へ、われさき(先)にとぞに(逃)げい(入)りける。だいぶつでん(大佛殿)のにかい(二階)のうへ(上)には、せんよにんのぼ(千餘人上)りあがり、かたき(敵)のつづ(續)くをのぼ(上)せじとて、はし(階)をひ(引)きてげり。みやうくわ(猛火)はまさ(正)しうおしか(押懸)けたり。をめ(喚)きさけ(叫)ぶこゑ(聲)、せうねつ(焦熱)、だいせうねつ(大焦熱)、むげんあび(無間阿鼻)、ほのほ(焔)のそこ(底)のざいにん(罪人)も、これにはす(過)ぎじとぞみ(見)えし。

こうぶくじ(興福寺)はたんかいこう(淡海公)のごぐわん(御願)、とうじるゐだい(藤氏累代)のてら(寺)なり。とうこんだう(東金堂)におはしますぶつぽふさいしよ(佛法最初)のしやか(釋迦)のざう(像)、さいこんだう(西金堂)におはしますじねんゆじゆつ(自然湧出)のくわんぜおん(觀世音)、るり(瑠璃)をなら(雙)べししめん(四面)のらう(廊)、しゆたん(朱丹)をまじ(交)へしにかい(二階)のろう(樓)、くりん(九輪)そら(空)にかがや(輝)きしにき(二基)のたふ(塔)、たちま(忽)ちにけぶり(煙)となるこそかな(悲)しけれ。
とうだいじ(東大寺)はじやうざいふめつ(常在不滅)、じつぱうじやくくわう(實報寂光)のしやうじん(生身)のおんほとけ(御佛)とおぼ(思)しめ(召)しなぞら(准)へて、しやうむくわうてい(聖武皇帝)、て(手)づからみづか(自)らみが(瑩)きた(立)てたま(給)ひしこんどうじふろくぢやう(金銅十六丈)のるしやなぶつ(盧舎那佛)、うしつ(烏瑟)たか(高)くあら(顯)はれて、はんでん(半天)のくも(雲)にかくれ、びやくがう(白毫)あら(新)たにをが(拝)まれさせたま(給)へるまんぐわつ(滿月)のそんよう(尊容)も、みぐし(御頭)はや(焼)けお(落)ちてだいぢ(大地)にあり、ごしん(御身)はわ(鎔)きあひてやま(山)のごと(如)し。
はちまんしせん(八萬四千)のさうがう(相好)は、あき(秋)のつき(月)はや(早)くごぢう(五重)のくも(雲)にかく(隱)れ、しじふいちぢ(四十一地)のえうらく(瓔珞)は、よる(夜)のほし(星)むな(空)しうじふあく(十悪)のかぜ(風)にただよ(漂)ひ、けぶり(煙)はちうてん(中天)にみ(滿)ちみ(滿)ちて、ほのほ(炎)はこくう(虛空)にひま(隙)もなし。まのあた(親)りみ(見)たてまつ(奉)るもの(者)はさら(更)にまなこ(眼)をあてず、かす(幽)かにつた(傳)へき(聞)くひと(人)は、きもたましひ(肝魂)をうしな(失)へり。
ほつさうさんろん(法相三論)のほふもんしやうげう(法門聖教)、すべていつくわん(一巻)ものこ(残)らず。わがてう(朝)はまう(申)すにおよ(及)ばず、てんぢくしんだん(天竺震旦)にもこれほど(程)のほふめつ(法滅)あるべしともおぼ(覺)えず。うでんだいわう(優塡大王)のしまごん(紫磨金)をみが(瑩)き、びしゆかつま(毘須羯磨)がしやくせんだん(赤栴壇)をきざ(刻)みしも、わづか(纔)にとうじん(等身)のおんほとけ(御佛)なり。いは(況)んやこれはなんえ
んぶだい(南閻浮堤)のうち(中)には、ゆゐいつぶさう(唯一無雙)のおんほとけ(御佛)、なが(長)くきうそん(朽損)のご(期)あるべしともおも(思)はざりしに、いま(今)どくえん(毒焔)のちり(塵)にまじは(交)つて、ひさ(久)しくかな(悲)しみをのこ(残)したま(給)へり。
ぼんじやくしわう(梵釋四王)、りうじんはちぶ(龍神八部)、みやうくわんみやうしう(冥官冥衆)も、おどろ(驚)きさわ(騒)ぎたま(給)ふらんとぞみ(見)えし。
ほつさうおうご(法相擁護)のしゆんにちだいみやうじん(春日大明神)、いか(如何)なること(事)をかおぼしけん、さればかすがの(春日野)のつゆ(露)もいろかは(色變)り、みかさやま(三笠山)のあらし(嵐)のおと(音)もうら(恨)むるさま(様)にぞきこ(聞)えける。
ほのほ(焔)のなか(中)にてや(焼)けし(死)ぬるにんじゆ(人數)をかぞ(數)へたれば、だいぶつでん(大仏殿)のにかい(二階)のうへ(上)にはいつせんしち ひやくよにん(一千七百餘人)、やましなでら(山階寺)にははつぴやくよにん(八百餘人)、あるみだう(或御堂)にはごひやくよにん(五百餘人)、あるみだう(或御堂)にはさんびやくよにん(三百餘人)、つぶさ(具)にしる(記)いたりければ、さんぜんごひやくよにん(三千五百餘人)なり。
せんぢやう(戰場)にしてう(討)たるるだいしゆせんよにん(大衆千餘人)、せうせう(少々)ははんにやじ(般若寺)のもん(門)にき(切)りかけさせ、せうせう(少々)はくび(首)どもも(持)つてみやこ(都)へのぼ(上)られけり。

あ(明)くるにじふくにち(二十九日)、とうのちうじやうしげひら(頭中將重衡)、
なんと(南都)ほろ(亡)ぼしてほくきやう(北京)へかへ(歸)りい(入)らる。およ(凡)そはにふだうしやうこく(入道相国)ばか(計)りこそ、いきどほ(憤)りは(晴)れてよろこ(喜)ばれけれ。ちうぐう(中宮)、いちゐん(一院)、しやうくわう(上皇)は、「たと(縦)ひあくそう(悪僧)をこそほろ(亡)ぼさめ、おほ(多)くのがらん(伽藍)をはめつ(破滅)すべきやは」とぞおんなげ(御嘆)きありける。ひごろ(日頃)はしゆと(衆徒)のくび(首)おほぢ(大路)をわた(渡)いて、ごくもん(獄門)のき(木)にかけらるべしと、くぎやう(公卿)せんぎ(僉議)ありしかども、とうだいじこうぶくじ(東大寺興福寺)のほろ(亡)びぬるあさましさに、なん(何)のさた(沙汰)にもおよ(及)ばず。ここやかしこ(彼處)のみぞ(溝)やほり(堀)にぞす(捨)てお(置)きける。

しやうむくわうてい(聖武皇帝)のしんぴつ(宸筆)のごきもん(御記文)にも、「わがてら(寺)こうぶく(興福)せば、てんが(天下)もこうぶく(興福)すべし。わがてら(寺)すゐび(衰微)せば、てんが(天下)もすゐび(衰微)すべし」とぞあそ(遊)ばされたる。さればてんが(天下)のすゐび(衰微)せんこと(事)、うたが(疑)ひなしとぞみ(見)えたりける。あさましかりつるとし(年)もく(暮)れて、治承もごねん(五年)になりにけり。 
 
作成/矢久長左衛門