平家物語の各条から原作者の存在を考証する(11)
当然に、この「祇園精舎の条」も原作者の覚明が書いたもの
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の祇園精舎の条
(考察)
覚明は、琵琶の伴奏で語られることを考えながら名文を模索
この条は現存の「平家物語」全体を編纂するために、誰かが後から付け加えたものと、考えられがちですが、平家物語の原作である「治承物語」に当初からあったものです。
従って、当然に、この「祇園精舎の条」も原作者の覚明が書いたものです。
当初からあったものとすると、“祇園精舎の鐘の聲”から“偏に風の前の塵に同じ”までは、愚管抄などを残している天台座主の慈園が書いて付け加えたものではないかと覚明を見くびる説がありますが、慈園は覚明より十一歳も年下です。藤原家の血筋で天台座主になってはいますが、覚明のそれなりの修業遍歴を認めていたので、そんなことはあり得ないのではないかと思います。
奈良への旅で改めて平家一門への怒りを抱えた覚明は、帰途は興福寺で一切経を読んでいる範宴(親鸞)を残し、一人で叡山に戻り、「奈良炎上の条」を一気に書き上げました。
そして、奈良の状況を報告がてら座主の慈園に見せました。
多分、慈円からは、これまでに出来た原稿を内輪で披露してはどうかと声が掛かり、それについては、各条の前に語る序曲乃至序文がほしいと注文が出たと思います。
いまで言うなら作品全体のテーマを伝えるリード部分です。
その部分には、作者のこれまでの修業の成果と心情が込められたものが期待されます。
覚明は琵琶の伴奏で語られることを考えながら名文を模索したに違いありません。
この段階では覚明が自分で琵琶を奏して、琵琶の調べ(先行の音曲と曲節)に乗りやすい冒頭の名句を探り出したと思います。
覚明の先祖は後世に琵琶譜を書き残したほどの琵琶の名人貞保親王です。
それ故に管弦長者と呼ばれたくらいです。
親王は覚明が生まれた信濃海野郷(現東御市・上田市)では伝説の人です。
親王が壮年のころ、兵部卿として官牧の御牧ヶ原の視察にやって来て、牧監の信濃滋野一族の館に長期に滞在しました。
貞保親王が残された琵琶譜の序文には「琵琶は馬上の楽なり」とあります。
視察には琵琶を抱え馬に乗ったに違いありません。
多分、その頃から、信濃海野郷では琵琶が普及したのではないかと想像されます。
覚明も子どもの頃は屋敷に転がっている古びた琵琶を玩具に遊んだ事だと思います。
箱根で覚明(当時は信救得業)が「曽我物語」を書いたときも語りには琵琶や鼓の伴奏が使われました。その時、覚明は自分の先祖である貞保親王について曽我物語(寛永版流布本)にこう記しています。
「清和天皇の皇子、数多御座します。第四を貞保(ていほう)親王、此の皇子は御琵琶の上手にて御座します。桂の皇子とも申しけり。心を懸けらる女は月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む。此の御子の御事なり、今のしけの(滋野)この先祖なり」とあります。
この信濃滋野氏は覚明が生まれたころには海野氏(弓上手)、望月氏(馬上手)、祢津氏(鷹上手)の三家に分かれていました。
覚明の海野家は信濃滋野氏の嫡流で滋野海野氏とも呼ばれていました。次男なので幼少の頃から修学児として奈良東大寺に遊学に出されました。
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原文では、
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。
奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。
偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらふに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にも從はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の亂れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者どもなり。
近く本朝を窺ふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは奢れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね。
(現代文訳)
祇園精舎※(中印度舎衛國にあった祇陀樹給弧独園に建立された寺の名で、精舎は精錬行者のいるところ)の鐘の音※には、諸行無常※(一切の万物はすべて生滅輪廻して常がなく)の響があります。
沙羅雙樹の花の色※(沙羅林の樹下で釈迦が涅槃に入った時、皆枯れて白くなった)は、勢い盛んな者も必ず衰えるという道理をあらわしています。
栄華に増長する者も行末は短い、ただ春の夜の夢のようなものです。勢い盛んな者も遂には滅びてしまうものです。それはひたすら風の前の塵と同じようなものなのです。
※祇園精舎とは、
須達長者が舎衛国の祇陀太子の庭園を買って、釈迦のために施入した寺院。釈迦の教化活動の拠点の一つ。中インド舎衛城の南郊に遺跡がある。祇陀林。祇陀林寺。ぎおん。(日本国語大辞典)
※祇園精舎の鐘とは、
祇園図経の説では、祇園精舎の無常院に無常堂という堂があって、それには鐘が八つあり、四つは白銀、四つは頗梨(はり)で、その頗梨の鐘から、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の声を出し、または「無常、苦、空、無我」の音を出したという(日本国語大辞典)
※諸行無常とは、
仏教の根本主張である三法印の一つで、世の中のいっさいの造られたものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ(日本国語大辞典)
※沙羅雙樹の花の色とは、
釈迦が涅槃にはいった時、その四方に二本ずつはえていた、娑羅の木。(岩波国語辞典)釈迦が涅槃に入る際、その四方に二本ずつあったという木。釈迦が涅槃に入るや、時ならぬ白い花を開いたという(大修館四字熟語辞典)
(現代文訳)つづく、
遠く異國を例にあげれば、秦の趙高(宦官)※、漢の王莽(外戚)※、梁の朱异(佞臣)※、唐の祿山(節度使)※、これらはみな、もとの主君や皇帝の政治にも從はず、楽しみを追い、諫言をも思ひ入れず、天下の乱れることも気づかず、庶民の憂いているところを知らなかったので、長く続かずして滅亡してしまった者どもです。
※秦の趙高(宦官)とは、
中国、秦の宦官(かんがん)。始皇帝の死後、丞相の李斯(りし)と謀って、始皇帝の長子扶蘇を殺し、次子の胡亥(こがい)を二世皇帝とした。のち、李斯、二世皇帝をも殺して、子嬰を位につけ、権力をふるったが、子嬰に一族ともども殺された。馬を鹿だと無理に言って、この反応で敵味方を判別した故事は有名。前二〇七年没。(日本国語大辞典)
※漢の王莽(外戚)とは、
中国、前漢末期の政治家(前四五‐後二三)。新の建設者。字(あざな)は巨君。哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得る。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された。在位一五年。(日本国語大辞典)
※梁の朱异(佞臣)とは、
南北朝時代の南朝の梁の武帝に仕えた官僚。武帝の治世末期に北朝からの亡命者だった侯景という武将が反乱。朱异はこの反乱事件に主君に口先うまくこびへつらう臣下として絡む。
※唐の祿山(節度使)とは、
中国唐代の武将(705~757)。ソグド人。安史の乱の首謀者。玄宗皇帝に信頼されて平盧 (へいろ) ・范陽 (はんよう) ・河東の三節度使を兼任していたが、755年、反乱を起こして洛陽・長安を攻略。大燕皇帝を自称したが、子の慶緒 (けいしょ) に殺された。(小学館大辞泉)
(現代文訳)つづく、
近くわが国を調べ探すと、承平の平將門※、天慶の藤原純友※、康和の源義親※、平治の藤原信頼※、これらは気ままな振る舞いをすることも猛々しい心も、みなそれぞれだが、最近では、六波羅(平家の六波羅亭)の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申した人の有様を、伝え聞くことこそ、心に思いも及ばず、言葉にも言い尽くせません。
※承平の平將門とは、
平安中期の武将(?〜940)。下総国の人。相馬小二郎とも。上洛して藤原忠平に仕えたが希望が叶えられず憤慨して関東に戻った。同族内の領地争いから伯父の平国香を殺し、武蔵国や常陸国の紛争に介入するなど、関東に勢力を拡げた。自ら新皇と称し文武百官を置いて、関東独立を図ったが、朝廷の追討軍との争いに破れた。一説に京都で処刑され、首が飛び帰って葬られたのが、大手町将門首塚とされる。神田明神などに祀られている。(weblio辞書)
※天慶の藤原純友とは、
平安中期の貴族。良範の子。伊予掾となって下向、瀬戸内海の海賊と結んでその棟梁となり、伊予の日振島を根城に公私官物の略奪など東は播磨、西は大宰府まで、ほとんど内海全域に勢力を拡げたが、天慶三年(九四〇)、小野好古・源経基に敗れ、捕えられて殺された。天慶四年(九四一)没。(日本国語大辞典)
※康和の源義親とは、
平安後期の武将、源義家の2男(?〜1108)。対馬守在任中の1101年九州で反し,隠岐 (おき) へ配流された。のち出雲国で再び反し,白河法皇の命によって平正盛により誅せられた。その結果,源氏は一時衰えた。(旺文社日本史事典)
※平治の藤原信頼とは、
平安後期の公卿。忠隆の子。後白河法皇に愛されて院別当となる。権勢高い通憲に官途を妨害されたのを不満として、源義朝と結んで平治の乱を起こし通憲を殺したが、平清盛に敗れて、六条河原で殺された。長承二~平治元年(一一三三‐五九)。(日本国語大辞典)
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(考察)
覚明は、作品に一貫して流れる哲理を「無常」とした
それが最初の句である“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす”です。
覚明はこれまでに法師として修業し、著作として「和漢朗詠集私注」(上・下巻)を残しています。その下巻の雑歌に無常の項目があり、「年年歳々花相似 歳々年々人不同」などの和漢の八首があり、私注を施しています。
“無常”に関しては単なる思いつきではないのです。
そして、過ごしてきた人生を振り返って考えるに、世の中は生滅変転して、常住ではない、つまり、現世におけるすべてのものはすみやかに移り変わって、しばしも同じ状態にとどまらないことを見てきたので、人間はいつ死ぬか分からない、多くの生命のはかなさを実感していたことでもあり、そこで源信著の「往生要集」※を思い出しました。
かって源信は比叡山横川の恵心院にいた日本浄土教の祖とも言われている僧都で四十歳過ぎに「往生要集」をまとめました。
その著作で、仏教本来の目的は極楽に往生することであることを強く説かれ、往生のための念仏の行儀を尋常、別時、臨終の三種に分け、「臨終の勧念」として臨終に念仏を修することについて「臨終の一念は百年の業に勝る」としています。
そして、その臨終の場は祇園精舎の西方の角、日の没する方所に無常院がつくってあるとしています。
※往生要集とは、
平安中期の仏書。三巻。源信著。永観二~寛和元年((九八四‐九八五))成立。厭離穢土、欣求浄土、極楽証拠、正修念仏、助念方法、別時念仏、念仏利益、念仏証拠、諸行往生、問答料簡の十門からなる。鎌倉時代の浄土教の確立を促したばかりでなく、さまざまな面で後世に多大の影響を与えた。(日本国語大辞典)
覚明はこの無常院で聞こえる鐘の音を“諸行無常の響あり・・・・”と連想して引用したものと思われます。
当然、覚明は祇園精舎の鐘の音を聞いたことはないのです。あくまでも想像なのです。
この原文の冒頭の“祇園精舎の鐘の聲”から、“心も詞も及ばれね”までの部分は、物語の各条の語りの前に琵琶法師たちにしばしば使われたに違いがありません。
そうすることで聴衆を物語に引き込んでから、適宜、各条が語られていたと思います。
覚明はこの祇園精舎の条を書くに当たり、物語の主人公である入道前太政大臣平朝臣清盛公とは何者かを、改めて調べ、ここで正式に紹介しています。
それが以下の原文です。
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原文では、
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。かの親王の御子髙視王無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望王の時、始めて平の姓を賜はつて、上總介になり給ひしより以來、忽ちに王氏を出でて人臣に連なる。その子鎮守府將軍良望、後には國香と改む。國香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ許されず。
(現代文訳)
清盛公の先祖を調べると、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王から九代目の子孫讃岐守正盛の孫で、刑部卿忠盛朝臣の嫡男です。
葛原親王の御子、髙視王は官職も官位もないまま亡くなられました。その御子高望王の時、初めて平の姓を賜わって、上總介になられてから、ただちに皇籍を出で臣下に連なりました。その子鎮守府将軍良望は、後には國香と改名したが、國香より正盛にいたるまでの六代は、諸国の長官ではあったが、殿上人として昇殿することは、まだ許されていませんでした。
(注)大石寺本の「曽我物語」に、“平家とは・・・・”とあり、同じような記述がありますが、後に大石寺の僧により「平家物語」を見て、真似て書き足したものと思われます。
原「曽我物語」に近いと思われる現存の寛永版流布本「曽我物語」には、“平家とは・・・・”の記述はありません。
原「曽我物語」の作者は覚明ですが、“平家とは・・・・”の部分は書いていません。源氏のことのみ書いてあります。
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(考察)
覚明は、平家が奈良炎上という大罪を犯した無情さを許せなかった
あえて、この先出しを意味づけて考えると、覚明は自分とはそれほど違わない別の一族が奈良炎上という大罪を犯した無情さを、法師として許せないと感じていたからだと思います。
ちなみに信濃滋野嫡流の海野幸長(覚明)のルーツをこの「祇園精舎の条」の平清盛の記述風に辿るとこうなります。それは何故か、源氏と平家の違いはあれど、恐ろしく似た流れなのです。
【信濃滋野氏嫡流海野氏(覚明)の先祖】
「その先祖を尋れば、清和天皇の第四皇子二品式部卿貞保親王十代の後胤信濃守幸親(保元の乱で兄信濃守幸通戦死)の次男なり。かの親王の御子目宮王(基淵)無官無位にして失せ給ひぬ。その御子善淵王の時、始めて(滋野善淵)の姓を賜はつて、信濃守になり給ひしより以來、忽ちに王氏を出でて人臣に連なる。その子信濃判官滋氏、その子中納言為広より幸親にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ許されず」
覚明はこうして自分の先祖をなぞるように、原文では清盛の先祖を同じように辿り、親王の後裔と言われる一族の悲哀を見ていきます。
(長左衛門・記)
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(参照)
「平家物語」の祇園精舎の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の祇園精舎を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
祇園精舎の全文
祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の聲(こゑ)、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。しやらさうじゆ(沙羅雙樹)のはな(花)のいろ(色)、じやうしやひつすゐ(盛者必衰)のことわり(理)をあら(顯)はす。
おご(奢)れるもの(者)もひさ(久)しからず、ただはる(春)のよ(夜)のゆめ(夢)のごと(如)し。たけ(猛)きひと(人)もつひ(遂)にはほろ(滅)びぬ。ひとへ(偏)にかぜ(風)のまへ(前)のちり(塵)におな(同)じ。
とほ(遠)くいてう(異朝)をとぶらふに、しん(秦)のてうかう(趙高)、かん(漢)のわうまう(王莽)、りやう(梁)のしゆい(朱异)、たう(唐)のろくさん(祿山)、これらはみな(皆)きうしゆせんくわう(舊主先皇)のまつりごと(政)にもしたが(從)はず、たの(楽)しみをきは(極)め、いさ(諫)めをもおも(思)ひい(入)れず、てんが(天下)のみだ(亂)れんこと(事)をもさと(悟)らずして、みんかん(民間)のうれ(憂)ふるところ(所)をし(知)らざりしかば、ひさ(久)しからずして、ばう(亡)じにしもの(者)どもなり。
ちか(近)くほんてう(本朝)をうかが(窺)ふに、しようへい(承平)のまさかど(將門)、てんぎやう(天慶)のすみとも(純友)、かうわ(康和)のぎしん(義親)、へいぢ(平治)のしんらい(信頼)、これらはおご(奢)れること(事)もたけ(猛)きこころ(心)も、みな(皆)とりどりなりしかども、まぢかくはろくはら(六波羅)のにふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあそんきよもりこう(入道前太政大臣平朝臣清盛公)とまう(申)ししひと(人)のありさま(有様)、つた(傳)へうけたまは(承)るこそ、こころ(心)もことば(詞)もおよ(及)ばれね。
そのせんぞ(先祖)をたづ(尋)ぬれば、くわんむてんわうだいご(桓武天皇第五)のわうじ(皇子)、いつぽんしきぶきやうかづらはらのしんわうくだい(一品式部卿葛原親王九代)のこういん(後胤)、さぬきのかみまさもり(讃岐守正盛)がそん(孫)、ぎやうぶきやうただもりのあそん(刑部卿忠盛朝臣)のちやくなん(嫡男)なり。
かのしんわう(親王)のみこたかみのわう(御子髙視王)むくわんむゐ(無官無位)にしてう(失)せたま(給)ひぬ。そのおんこたかもちのわう(御子高望王)のとき(時)、はじ(始)めてたひら(平)のしやう(姓)をたま(賜)はつて、かづさのすけ(上總介)になりたま(給)ひしよりこのかた(以來)、たちま(忽)ちにわうし(王氏)をい(出)でてじんしん(人臣)につら(連)なる。そのこちんじゆふのしやうぐんよしもち(子鎮守府將軍良望)、のち(後)にはくにか(國香)とあらた(改)む。くにか(國香)よりまさもり(正盛)にいたるまでろくだい(六代)は、しよこく(諸国)のじゆりやう(受領)たりしかども、てんじやう(殿上)のせんせき(仙籍)をばいま(未)だゆる(許)されず。
作成/矢久長左衛門