幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(1)幸長入道29歳の時、範宴(後の親鸞)誕生
幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(2)18歳の範宴(後の親鸞)は比叡山をおり奈良の法隆寺で修行。
幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(3)幸長入道52歳の時、比叡山で24歳の範宴(後の親鸞)に出会う
原作者が信濃前司行長こと幸長入道!
専修念仏の法然上人に出会った範宴(親鸞)と浄寛(信救こと西仏)はその弟子となる。
朝廷や公家寄りの興福寺や延暦寺の旧仏教勢力の反発による「承元の法難」で、朝廷は庶民の専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞を越後に配流。
幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行き数年を過ごしました。
その後、親鸞は流罪赦免され、越後から東国布教に向かいます。
幸長こと西仏坊はそのすべてヘ親鸞と行を共にします。
そして、親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会いました。
そこで、近くの海野庄(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する日々を送ります。
(注)親鸞の名前について
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞
俗名(配流時)- 藤井善信
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
(長左エ門・記)
奈良から戻ったばかりの範宴の法話を聞き、幸長入道は弟子入りする
52歳の幸長入道は、年下の24歳の範宴の人柄と法話に魅せられ弟子入りする。
その翌年、25歳の範宴には御所から召状が来て、少僧都に任じられ、聖光院門跡に捕せられる。
(長左エ門・記)
幸長入道は、のちに親鸞※と行をともにすることになる。
1173(承安3)年
幸(行)長入道29歳
甥の海野小太郎幸氏(数え年)2歳。
木曽義仲の嫡男義高(数え年)2歳。
興福寺僧徒、多武峰を焼く。
南都十五大寺の荘園を没収。
4月1日(1173・5・14)浄土真宗の祖範宴(後の親鸞)誕生(一歳)
※【親鸞】しんらん
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別名、範宴・綽空・善信。諡(おくりな)は見真大師。日野有範の子。治承五年(一一八一)青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、二〇年間学行につとめたが、建仁元年(一二〇一)二九歳のときに法然の門にはいり、専修念仏の人となる。建永二年(一二〇七)の念仏停止の際は越後国国府(新潟県上越市)に流され、四年後に罪をとかれると関東に行き、文暦二年(一二三五)頃京都に帰った。開宗宣言に相当する主著「教行信証」の初稿本は、関東在住の元仁元年(一二二四)頃に成る。恵信尼との結婚は越後国に流されてまもなくと思われ、二人の間に善鸞・覚信尼が生まれたが、善鸞は晩年、義絶された。門下に真仏・性信・唯円など。著書に「教行信証」のほか「浄土和讚」「愚禿鈔(ぐとくしょう)」「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」など。承安三~弘長二年(一一七三‐一二六二)
日本国語大辞典 小学館
「平家物語」は、国際的にも知られているようです。
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(長左エ門・記)
これまで平家物語原作者の存在を考証(一覧)してきました
この考証一覧の番号は、考証した条の順番です。これまで不思議と次の条が自然に暗示されて来ました。それが「主上都落の条」を最後に原作者覚明の存在が消えました。
まだ、幾つかあるのかも知れません。多分、無理に存在をこじつけて探せばあるのでしょう。が、一応、ここで最後にすることにしました。
現存の平家物語には各条の順がありますが、それなりの意味があるのでしょう。この考証一覧の各条の順は、あくまでも自然に導かれてきて考証した順です。
(長左エ門・記)