幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(1)幸長入道29歳の時、範宴(後の親鸞)誕生
幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(2)18歳の範宴(後の親鸞)は比叡山をおり奈良の法隆寺で修行。
幸長入道(覚明・西仏)と親鸞(3)幸長入道52歳の時、比叡山で24歳の範宴(後の親鸞)に出会う
専修念仏の法然上人に出会った範宴(親鸞)と浄寛(信救こと西仏)はその弟子となる。
朝廷や公家寄りの興福寺や延暦寺の旧仏教勢力の反発による「承元の法難」で、朝廷は庶民の専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞を越後に配流。
幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行き数年を過ごしました。
その後、親鸞は流罪赦免され、越後から東国布教に向かいます。
幸長こと西仏坊はそのすべてヘ親鸞と行を共にします。
そして、親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会いました。
そこで、近くの海野庄(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する日々を送ります。
(注)親鸞の名前について
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞
俗名(配流時)- 藤井善信
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
(長左エ門・記)
奈良から戻ったばかりの範宴の法話を聞き、幸長入道は弟子入りする
52歳の幸長入道は、年下の24歳の範宴の人柄と法話に魅せられ弟子入りする。
その翌年、25歳の範宴には御所から召状が来て、少僧都に任じられ、聖光院門跡に捕せられる。
(長左エ門・記)
幸長入道は、のちに親鸞※と行をともにすることになる。
1173(承安3)年
幸(行)長入道29歳
甥の海野小太郎幸氏(数え年)2歳。
木曽義仲の嫡男義高(数え年)2歳。
興福寺僧徒、多武峰を焼く。
南都十五大寺の荘園を没収。
4月1日(1173・5・14)浄土真宗の祖範宴(後の親鸞)誕生(一歳)
※【親鸞】しんらん
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別名、範宴・綽空・善信。諡(おくりな)は見真大師。日野有範の子。治承五年(一一八一)青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、二〇年間学行につとめたが、建仁元年(一二〇一)二九歳のときに法然の門にはいり、専修念仏の人となる。建永二年(一二〇七)の念仏停止の際は越後国国府(新潟県上越市)に流され、四年後に罪をとかれると関東に行き、文暦二年(一二三五)頃京都に帰った。開宗宣言に相当する主著「教行信証」の初稿本は、関東在住の元仁元年(一二二四)頃に成る。恵信尼との結婚は越後国に流されてまもなくと思われ、二人の間に善鸞・覚信尼が生まれたが、善鸞は晩年、義絶された。門下に真仏・性信・唯円など。著書に「教行信証」のほか「浄土和讚」「愚禿鈔(ぐとくしょう)」「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」など。承安三~弘長二年(一一七三‐一二六二)
日本国語大辞典 小学館
「平家物語」は、国際的にも知られているようです。
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日本
アメリカ合州国
カナダ
ドイツ
オランダ
スウェーデン
スイス
エジプト
インド
シンガポール
などです。
その時々で入れ替わりがあります。
(長左エ門・記)
これまで平家物語原作者の存在を考証(一覧)してきました
この考証一覧の番号は、考証した条の順番です。これまで不思議と次の条が自然に暗示されて来ました。それが「主上都落の条」を最後に原作者覚明の存在が消えました。
まだ、幾つかあるのかも知れません。多分、無理に存在をこじつけて探せばあるのでしょう。が、一応、ここで最後にすることにしました。
現存の平家物語には各条の順がありますが、それなりの意味があるのでしょう。この考証一覧の各条の順は、あくまでも自然に導かれてきて考証した順です。
(長左エ門・記)
弟で海野幸(行)長の父海野幸親 は後白河天皇側
◎保元の乱※で海野家も兄弟で二派に分かれる。
摂関家藤原氏は、忠実の長子忠通と次子頼長が対立。
忠通は鳥羽法皇と結び、頼長は崇徳上皇と組んでいた。
そして、鳥羽法皇が逝去されるや、上皇は頼長と謀って源為義、平忠正らの武士を招いて挙兵。
これに対し、後白河天皇は忠通とともに源義朝(為義の長子)、平清盛(忠正の甥)を味方にして、戦乱となる。
崇徳上皇方は、義朝らの夜討ちを受けて大敗し、上皇は讃岐に流され、頼長は戦死、為義、忠正は投降して斬られた。
この乱は皇室の皇位継承の争いであり、藤原氏一族の権力闘争が表面化したものであって、貴族の無力さと、武士階級の政治への進出を促したものとされ、古代から中世への転機となる歴史的事件だった。
この時、海野幸(行)長(覚明)の父海野幸親 は望月氏や禰津氏、諏訪氏らと共に後白河天皇側に付く(後、官軍となる)
父の兄信濃守海野幸通は崇徳上皇側に付く(後、賊軍となる)
その後、源平の戦乱が続き、信濃守の任命記録は見られません。
そのため、信濃前司行長は下野守藤原行長という誤った通説が流布したものと思われます。
「徒然草」著者吉田兼好の誤りではなく、兼好法師の名誉のためにも、ここで訂正しておきたいと思います。
(長左衛門・記 )
幸長こと信救(出家名)は、28歳で「新楽府略意(二巻)」を著す。
「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
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[徒然草226段の原文]
【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】
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近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家した
「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
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[徒然草226段の原文]
【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】
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注目点!
兼好法師の徒然草226段の書きだしでは「後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の誉れありけるが、」となっていますが、重大なことに気付かされました。
稽古の誉れがあったのは、後鳥羽院の御時ではなかったのです。
82代後鳥羽天皇の在位は1183(寿永2) 年から1198(建久9)年までで、それから1221(承久3)年までが後鳥羽院の御時になります。
その時の海野幸(行)長は、54歳から77歳です。稽古の誉れありけるという年齢ではありません。
幸長出家名の信救著作「仏法伝来次第」の経歴によると、近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家したとあります。
そこで、信濃前司幸(行)長(本名海野幸長)の誕生から出家、修業遍歴を年表風に一覧にして見ました。
「近衛天皇在位之昔」とは?
1141(永治元)年から1155(久寿2)年の14年間のことです。
「稽古の誉れ」があったのは?
近衛天皇15歳ごろ、行長は10歳ごろ、10歳前後で出家※。
2年後に、近衛天皇は17歳で薨去。
※徒然草で、幸(行)長は、「五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」となっていますが、当時、10歳前後の本人は相当重く心憂き事として捉えたのでしょう。急に学問の道である奈良東大寺国立勧学院進士を捨て、比叡山の黒谷に行き、出家してしまったということのようです。
(長左エ門・記)
生佛様をはじめ複数の盲目僧がいたと深読み
「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、信濃入道,行(幸)長入道なる人物が「平家物語」の作者であり、生佛(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があります。
当ブログでは、生佛は一人称ではなく、生佛様をはじめ複数の盲目僧がいたと深読みしました。
[徒然草226段の原文]
【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】
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注目点!
初稿作者の行長入道(幸長・覚明)は、慈園(プロデューサー)に書き上げた「祇園精舎の条」を見せました。
そして、慈園の前で琵琶を弾きながら琵琶法師よろしく声を上げ演奏をしました。
“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。
奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ”
覚明は比叡山に逃げて来る前の鎌倉で、箱根権現の法師として祭司を務めていたくらいの人気のある導師でした。
もともと箱根は安居院流の唱導の盛んな地で、覚明もそれなりに唱導師としての品格を備えていました。
長左衛門こぼればなし一覧
こぼればなし(1)覚明西仏終焉の地
こぼればなし(2) 米沢長命寺元祖は覚明
こぼればなし(3) なんと凄い!長寿ですね
こぼればなし(4)第四貞保親王が覚明の先祖
こぼればなし(5)さだやす親王か、ていほう親王か
こぼればなし(6)信濃前司行長か、信濃前司幸長か
こぼればなし(7)信濃前司行長、信濃入道、行長入道
こぼればなし(8)生佛は一人称ではなく数人いた
こぼればなし(9)稽古の誉れがあったのは、後鳥羽院の御時ではなかった
信濃前司行長とは、下野前司行長の誤りとする通説は正しいか
「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、信濃入道,行(幸)長入道なる人物が「平家物語」の作者であり、生佛(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があります。
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[徒然草226段の原文]
【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】
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注目点!
当ブログでは、身びいきと言われるかも知れませんが、親しみを込めて(行長)入道を(幸長)入道と年表などに表示しています。
滋野流海野氏一門の系図を元に判読して、幸長入道に間違いないと確信しています。
巷間、信濃前司行長とは、下野前司行長の誤りとする通説がありますが、『徒然草』では、信濃前司行長、信濃入道、行長入道と三回も表現しています。
これを兼好法師の杜撰さだと片づけてきたこれまでの通説は、いかがなものかと思います。
当ブログでは、信濃前司行長の正体を10年以上にわたり追跡調査して来ました。
既に、これまで読まれてきた方は、重複になりますが、信濃前司行長とは、滋野流海野族海野行親の次男行(幸)長です。
(長左衛門・記)
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(20)
この主上都落の条で、覚明は源氏側が平家側を都から追い出したと語る。
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
(考察)
覚明は自分を二度も登場させ、平家側の慌てぶりを克明に描いている
平家物語の原作「治承物語」は、この条が最後に書かれたものと推察します。
何故なら、作者の覚明は、この条のあとには作品に登場してこないからです。
これを書いた後、覚明(浄寛)は、親鸞(範宴)とともに、比叡山から京都・吉水に下って法然上人の弟子になり、西仏として僧本来の道を追求し始めます。
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☆主上都落の条
(原文では)
同じき七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀叛平げて、菊池、原田、松浦黨三千餘騎を召具して上洛す。
鎮西の謀叛をば、わづかに平げたれども、東国北国の軍は、如何にも鎮らず。
同じき二十二日の夜半許り、六波羅の邊夥しう騒動す。
馬に鞍置き、腹帯しめ、物ども東西南北へ運び隱す。只今敵の討入つたる様なりけり。
明けて後聞えしは、美濃源氏に、佐渡衛門尉重貞と云ふ者あり。去んぬる保元の合戦のと時、鎮西八郎爲朝が院方の軍に負けて、落人となつたりしを、搦めて出したりし勤賞に、もとは兵衛尉たりしが、その時右衛門尉になりぬ。
これ依つて一門には怨まれて、この頃平家を諂ひけるが、夜六波羅に馳せ參り、
「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、天台山、東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山に競ひ登り、三千の衆徒同心して、只今都へ亂れ入る」由申しければ、平家の人々大きに騒いで、方々へ討手を差向けらる。
大將軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、三千餘騎で先づ山科に宿せらる。越前三
位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋を固めらる。
左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。
源氏の方には十郎藏人行家、數千騎で宇治橋を渡って都へ入る。
陸奥新判官義康子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申しあへり。
又摂津國河内の源氏等同心して、同じう都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々、
「この上は力及ばず、只一所で如何もなり給へ」とて、
方々へ向けられたりける討手ども、皆都へ呼び返されけり。
帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし。
治まれる世だにもかくの如し。
況んや亂れたる世に於てをや。
吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども、諸國七道悉く背きぬ。何くの浦か穏しかるべき。
三界無安、猶如火宅として、如来の金言、一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。
(現代文訳)
同七月十四日、肥後守平貞能※は、鎮西※(九州の別称)の謀叛を平げて、菊池(次郎髙直)、原田(大夫種直)、松浦党※三千余騎を召し連れて上洛しました。
九州の謀叛を、わづかに平定したけれど、東国、北国の戦いは、どうにも静まりません。
同二十二日の夜半ごろ、六波羅のあたりは著しく騒がしくなりました。
馬に鞍を置き、腹帯をしめ、物資を東西南北へ運び隠しました。今にも敵が討入つてくるような有様でした。
夜が明けてのち、分かったことは、美濃源氏に佐渡衛門尉重貞※というものがいて、去る保元の乱のとき、鎮西の源八郎爲朝が院方の軍に負け、味方が落人になっていたのを絡め取り、差し出して、恩賞として、もとは兵衛尉だったが、その時右衛門尉になりました。
これによって、源氏一門に恨まれて、平家にへつらっていましたが、(前夜)、六波羅に馳せ参じて、
「木曾軍は、既に北國より五万余騎で攻め上り、天台山(比叡山)の東坂本に充ち満ちております。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千余騎が比叡山に競ひ登り、三千の衆徒は味方して、今にも都へ乱れ入ろうとしています」と告げました。
平家の人々は大いに騒いで、方々へ討手を差向けました。
大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿が三千余騎で先づ山科に宿陣しました。越前三位通盛、能登守教経は二千余騎で宇治橋を固めました。
左馬頭行盛、薩摩守忠度は、一千余騎で淀路を守備しました。
源氏の方には十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋を渡って都へ入るとのこと。
陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清は、大江山※を経由して上洛すると申し合わせました。
また、摂津国河内の源氏等も同心して、同じう都へ乱れ入るという噂なので、
平家の人々は「この上は力及ばず、只一所でなんとかなるだろう」といって、
方々へ向けられた討手ども、皆都へ呼び返されました。
帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし※(帝都は名誉と利益に追われる所で、鶏が鳴く頃から安居することがない)
治まれる世だにもかくの如し。
まして亂れたる世に於てをや。
吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども、諸国七道、ことごとく背いている。どこの浦に隠れれば平穏だろうか。
三界無安※(現世に安心なく)、猶如火宅※(苦しみに満ちている)として、釈迦如来の金言、法華経の妙文なので、どうして少しも違ふはずがないのです。
※肥後守平貞能
筑後守平家貞の子。
※【鎮西】ちん‐ぜい
(天平一五年(七四三)に、大宰府を一時「鎮西府」と改称したところからいう) 九州の別称。
日本国語大辞典 小学館
※【松浦党】まつら‐とう
中世、肥前松浦郡に割拠していた小武士団の連合組織。嵯峨源氏を中心に他氏をも擬制的同族組織の中に組み入れて団結を固め、武装的貿易業、漁業などに従事し、倭寇・水軍としても活躍した。
日本国語大辞典小学館
※佐渡衛門尉重貞
清和源氏満政流、重実の三男。
※楯六郎親忠(1162~1184)
滋野流望月族根井行親の六男。年少の為、義仲の傍に仕える。
※【大江山】おおえ‐やま
(「大枝山」とも) 京都市西京区と亀岡市の境にある老坂峠の古名。源頼光が山賊を退治した所と伝えられる。大枝峠。
日本国語大辞典 小学館
※帝都名利の地
白氏文集巻五「帝都名利場、鶏鳴き無安居」と。
※【三界無安】さんがい‐むあん
〘名〙 (「法華経‐譬喩品」の「三界無安、猶如火宅」による語) 仏語。この世は苦しみが多く、あたかも火に包まれた家にいるように、しばしも心が安まらない意。三界火宅。三界に家なし。
日本国語大辞典小学館
(考察)
覚明は、比叡山の僧三千も源氏に味方し、入洛したと
ここで、覚明は自分を再び登場させ、「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、天台山、東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山に競ひ登り、三千の衆徒同心して、只今都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々大きに騒いで、方々へ討手を差向けらる」と、木曾軍の動きを念を押すように書いています。
「木曾山門諜状の条」でも、考証したように比叡山の僧三千人も源氏に味方し、入洛したと言うのです。ここは山門への諜状を書いて比叡山を味方にした覚明が強調したいところです。
しかも、この部分は後の世の覚一本では、重複しているので省略されていてありません。この部分は原作の「治承物語」には重複して、覚明がこの条に書き残していたのです。
ここは覚明が強調したいところで省略するはずがありません。
そして、平家側の慌てぶりを詳細に描いています。
また、他の源氏軍の動きにも触れています。
しかし、なぜか、ここでは木曾義仲個人の名には触れていません。
多分、ここでの大将軍は木曾義仲だったと思います。
しかし、郎等の楯六郎親忠と手書の大夫房覺明の名しか書いていません。
楯六郎親忠は年少のため義仲の傍に仕え、覚明も祐筆なので義仲と共にいたと思われますが、覚明は義仲の名を省略しています。
なぜか、気になる省略です。
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(原文つづく)
同じき二十四日のさ夜更け方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅池殿に参つて申されけるは、
「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちて候。
郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候。
人々は只都の内にて、如何にもならんと申し合はれけれども、親り女院、二位殿に、憂目を見せ參らせん事の口惜しく候へば、院を内を取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をも、なし参らせばやと思ひなつてこそ候へ」と申されければ、
女院、「今は只ともかうも、足下の計らひでこそあらんずらめ」とて、御衣の御袂に餘る御涙、塞きあへさせ給はねば、大臣殿も直衣の袖絞る許りに見えられける。
さる程に法皇をば平家取り奉つて、西國の方へ落ち行くべしなど申す事を、内々聞し召旨もやありけん、その夜の夜半許り、按察史大納言資賢卿の子息、右馬頭資時許りを御供にて、竊に御所を出でさせ給ひて、御行方も知らずぞ御幸なる。
人これを知らざりけり。
平家の侍に橘内左衛門尉秀康とい云ふ者あり。さかざかしき男にて、院にも召使はれけるが、その夜しも御宿直に參つて、遙に遠う候ひけるが、常の御所の御方様、よに物騒がしう、女房達忍音に泣きなどし給へり。
何事なるらんと聞きければ、
「俄に法皇の見えさせましまさぬは、何方への御幸やらん」と申す聲に聞く程に、あなあさましとて、急ぎ六波羅へ馳せ參り、この由申したりければ、大臣殿、「定めて僻事でぞあるらん」とは宣ひながら、急ぎ參つて見參らさせ給ふに、げにも法皇渡らせましまさず。
御前に候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も動き給はず。
「如何にや」と問ひ參らさせ給へども、「われこそ法皇の御行方へ知り參らせたり」と申さるる女房達、一人もおはせざりければ、大臣殿も力及ばせ給はず、泣く泣く六波羅へぞ歸られける。
さる程に、法皇都の中に渡らせ給はずと申す程こそありけれ、京中の騒動斜ならず。
況んや平家の人々の周章て騒がれける有様は、家々に敵の討入つたりとも、限りあれば、これには過ぎじとぞ見えし。
平家日頃は院をも内をも取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をもなし參らせんと支度せられたりしかども、かく打捨てさせ給ひぬれば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地ぞせられける。「せめては行幸許りをもなし參らせよや」とて、明くる卯の刻に行幸の神輿を寄せたりければ、主上は今年六歳、未だ、幼うましましければ、何心なく召されける。
御同輿には、御母儀建禮門院參らせ給ふ。
「神璽、寶劍、内侍所、印鑰、時の簡、玄上、鈴鹿などをも取り具せよ」と、
平大納言時忠卿下知 せられたりけれども、餘り周章 て騒 いで、取 り落 す物ぞ多かりける。
晝の御座の御劍などをも、取り忘れさせ給ひけり。
やがてこの時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実、父子三人、衣冠にて供奉せらる。
近衛司、御綱佐、甲冑弓箭を帯して、行幸の御供仕る。七條を西へ、朱雀を南へ行幸なる。
明くれば七月二十五日なり。
漢天既にひらけて、雲と東嶺にたなびき、明け方の月白くさえて、鶏鳴又いそがはし。夢にだにかかる事は見ず。
一年都遷りとて、俄にあわたたしかりしは、かかるべかりける先表とも、今こそ思ひし知られけれ。攝政殿も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子の、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字顯はれたる。
春の日と書いては、春日と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、
いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ
共に候進藤左衛門尉髙直を召して、「この世の中の有様を御覧ずるに、行幸はなれども御幸はならず。行末頼もしからず思し召すは如何に」と仰せければ、御牛飼に目をきつと見合せたり。心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに、飛ぶが如くに仕り、北山の邊、知足院へぞ入らせ給ひける。
(現代文訳)
同七月二十四日のさ夜※更け方に、前内大臣平宗盛公※が、建礼門院のいらっしゃる六波羅の池殿※(賴盛の邸)にきて申されたことには、
「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候。 人々は、ただ、都の中でどのようにでもなろうと話し合っていますが、親り(主だった)女院(建礼門院)、二位殿(清盛の妻從二位時子)に悲しい思いをさせることも口惜しいので、院(後白河法皇)と内(安徳天皇)もお連れ申して、西国の方へ御幸、行幸をなされるようにさせていただいてはと思います」と申しました。
女院は「今は、ただ、ともかくも、そこもとの計らひによりましょう」と、御衣の御袂にあまる御涙を抑えかね、大臣殿も直衣の袖を絞るほどに涙しておられるように見えました。
※【小夜】さ‐よ
〘名〙 (「さ」は接頭語) よ。夜(よる)。
▷ 万葉(8C後)一二・二九〇六
「他国(ひとくに)によばひに行きて大刀が緒もいまだ解かねば左夜(サよ)そ明け
日本国語大辞典小学館
※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり
平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)
日本国語大辞典小学館
※【池殿】いけ‐どの
京都市東山区池殿町にあった平清盛の継母池禅尼、その子平頼盛の邸宅。平氏六波羅第の一つ。また、その主たる池禅尼および平頼盛(池大納言)の別称。
日本国語大辞典小学館
(現代文訳)つづく
そうしてるうちに、法皇をば平家がお連れ申して、西国の方へ落ち行くべしなどと申す事を、内々に聞し召す旨もあったのでしょう、その夜(七月二十日)の夜半許り、按察史大納言資賢卿の子息、右馬頭資時だけを御供にして、ひそかに御所をお出になり、御行方も知らず御幸なる。
人々はこれを知りませんでした。
平家の侍に橘内左衛門尉秀康とい云ふ者がいました。利口な男で、院(法住寺殿)にも召使はれていましたが、その夜しも御宿直に參つて、遙に離れてはいますが、常の御座所の方がたいそう物騒がしく、女房達たちが忍び泣きなどしていました。
何事なるらんと聞きければ、
「俄に法皇の見えさせましまさぬは、何方への御幸やらん」と申す聲に聞く程に、ああ、驚いたと言って、急ぎ六波羅へ馳せ參り、この由申したりければ、大臣殿(前内大臣宗盛)、「いや、間違いであろう」といいながら、急ぎ參つて見參らさせ給ふに、ほんとうに法皇がいないのでした。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下一人も身動きしません。
「如何にや」と問ひ參らさせ給へども、「われこそ法皇の御行方へ知り參らせたり」と申さるる女房達、一人もおはせざりければ、大臣殿も力及ばせ給はず、泣く泣く六波羅へぞ帰られける。
やがて、法皇が都の中に渡らせ給はずと申す程こそありけれ、京中の騒動は尋常ではありませんでした。
まして、平家の人々の慌て騒がれける有様は、家々に敵が討入つたりとも、限りあれば、これに過ぎることはないと思われました。
平家は、日頃、院も内をも取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をもなし參らせんと支度せられたりしかども、かく打捨てさせ給ひぬれば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地ぞせられける(兼盛集、天の原くもれば悲し人知れずたのむ木の下雨ふりしより)。
「せめては行幸許りをもなし參らせよや」とて、明くる卯の刻に行幸の神輿を寄せたりければ、主上は今年六歳、未だ、幼うましましければ、何心なく召されける。
御同輿には、御母儀建礼門院參らせ給ふ。
(以下、三種の神器)「神璽、寶劍、内侍所(温明殿の別称、神鏡をいう)、印鑰(天皇の正印と諸司の藏の鍵)、時の簡(時刻を記す簡)、玄上(現象、累代宝物として伝わった琵琶の名)、鈴鹿(和琴の名)などをも取り具せよ」と、
平大納言時忠卿下知 せられたりけれども、余り慌て騒いで、取り落 す物も多かりける。
晝の御座の御劍(清涼殿に安置されている御剣)などをも、取り忘れました。
やがてこの(平)時忠卿、内蔵頭信基(内藏寮の長官、平信範の子)、讃岐中将時実(平時忠の子)、父子(覚一本は父子の字なし。父子は誤りとのこと。)三人だけで、衣冠にて供奉せらる。
近衛司(近衛府役人)、御綱佐(御輿の綱をとる役人)、甲冑弓箭を帯して、行幸の御供仕る。七條大路を西へ、朱雀大路を南へ行幸される。
明くれば七月二十五日なり。
漢天※(天の川の見える空)は既にひらけて、雲は東嶺※(東山)にたなびき、明け方の月は白くさえて、鶏の鳴き声は、また、いそがしい。夢にさえこのようなことは見ません。
先年(治承四年)都遷りとて、俄にあわただしかりしは、かかるべかりける先表(きざし)とも、今こそ思ひし知られけれ。
攝政殿(藤原基通)も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子が、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字が現れました。
春の日と書いては、春日と読めば、法相宗※を擁護の春日大明神、大織冠(藤原鎌足)の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、
いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ
(藤原氏の子孫が衰退するのはどうしたらよいだろう、ただ、春日大明神にお任せしてみるがよい)
共に居た進藤左衛門尉髙直を召して、「この世の中の有様を御覧ずるに、行幸はなれども御幸はならず。行末頼もしからず思し召すは如何に(この先、不安に思われるがどうか)」と仰せければ、(髙直は)御牛飼と目をきつと見合せました。直ぐ心得て、御車を遣りかへし、大宮通りを上りに、飛ぶ如くに仕り、北山の辺、知足院(紫野辺にあった)へぞ、お入りになりました。
※【漢天】かん‐てん
〘名〙 天の川の見える空。
▷ 元祿版本新撰万葉(893‐913)下・恋
「漢天早湍無レ浮レ舟、生死瀑河不レ留レ人」
▷ 平家(13C前)七
「明くれば七月廿五日也。漢天既にひらきて、雲東嶺にたなびき」
日本国語大辞典小学館
※【東嶺】とう‐れい
〘名〙 東方の山。
▷ 曾我物語(南北朝頃)一二
「月とうれいに出ぬれば、たれともしらぬ人をまつ」
京都の東山(ひがしやま)の異称。
日本国語大辞典小学館
※【法相宗】ほっそう‐しゅう
〘名〙 (「ほっそうじゅう」とも) 仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである。法相大乗。唯識宗。ほうそうしゅう。
日本国語大辞典小学館
(補足)
幼少の安徳天皇の攝政 藤原基通(後の近衛基通)
治承5年閏2月に清盛が薨去して平家は急速に衰退した。寿永2年7月に源義仲の攻勢の前に都落ちを余儀なくされたときは、これまでの縁の深さから平家と行動を共にするよう平家側に迫られるが、最終的にこれを拒絶し、後白河法皇のもとへ逃れた。その後は法皇の側近として仕え、後鳥羽天皇の擁立にも貢献した。(ウィキペディアから)
(考察)
覚明は、この条で同じ事を二度書いています。
「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちてさふらふ(候)。
郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候」の部分が重複しているのです。
よほど、強調したかったのです。
後の世に出た覚一本(注)では、ここの重複部分は省略されています。
(注)覚一本とは?(ArtWikiは立命館大学アート・リサーチセンターが運営する、学術的wikiサイトです。)
応安四年(1371)、琵琶法師の明石検校覚一が、自分の死後に弟子たちの間で論争が起きないようにするために証本として作らせた本。ただし、覚一が口述し弟子有阿に筆記させた原本は現存せず、写本が残るのみである。「平家物語」の正当であるかのような権威化が進み、現在ではもっとも読まれる本となった。(artwikiより)
しかし、平家物語の原作「治承物語」には、重複して書いてあったに違いありません。
この事実を見ても、治承物語は覚明が書いたと証明できます。
たぶん、京への上洛一番乗りは覚明が自分だと強調したかったのです。
ですから、あえて、木曾義仲の名をここに書かなかったのだと思います。
覚明がここの部分を書くとき、入洛は一段落つきましたが、木曽義仲の評判が巷でも朝廷でも悪い方に流れていました。
例えば、当時、、飢饉で食糧が京では不足していました。そこへ木曾軍を中心に五万余騎が流れ込んだのです。洛中は混乱しました。馬の飼い葉も不足し、田畑も荒らしました。後から源氏側についてきた各地の山賊どもは、洛中の庶民から掠奪を始めたそうです。
木曾義仲個人も朝廷から田舎者扱いされ、木曾義仲の統率する源氏の評判は洛中では散々でした。
平家を滅ぼす先駆けとして活躍してきた木曾義仲の運命は、ここから暗転します。
鎌倉に居た源頼朝は、源義経を派遣して源義仲を切り捨てます。
覚明は「治承物語」に、そこまでは書いていません。
従って、覚明の登場もそこまでです。
平家物語の原作「治承物語」は、ここで終わっており、書籍としては残っていないのです。
最後に、唐突に藤原氏のことが、書かれています。
以下の部分です。
「(幼少の安徳天皇の)攝政殿(藤原基通、後の近衛基通、妻は清盛の娘)も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子が、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字が現れました。
春の日と書いては、春日と読めば、法相宗※を擁護の春日大明神、大織冠(藤原鎌足)の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、
いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ
(藤原氏の子孫が衰退するのはどうしたらよいだろう、ただ、春日大明神にお任せしてみるがよい)」
この部分は、覚明が最後に締めくくりとして、自分の気持ちを付記するために述べたものと思います。
覚明の先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王です。
前にも触れましたが、平家による藤原一門の没落は許せません。
今は、覚明(西仏)法師らしく、神と佛にすがるしかないと言っているのだと思います。
長左エ門・記
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(参照)
「平家物語」の主上都落の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の主上都落を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
☆主上都落の条
おな(同)じきしちぐわつじふしにち(七月十四日)、ひごのかみさだよし(肥後守貞能)、ちんぜい(鎮西)のむほん(謀叛)たひら(平)げて、きくち(菊池)、はらだ(原田)、
まつらたう(松浦黨)さんぜんよき(三千餘騎)をめし(召具)ぐしてしやうらく(上洛)す。
ちんぜい(鎮西)のむほん(謀叛)をば、わづかにたひら(平)げたれども、とうごくほくこく(東国北国)のいくさ(軍)は、いか(如何)にもしづま(鎮)らず。おな(同)
じきにじふににち(二十二日)のやはんばか(夜半許)り、ろくはら(六波羅)のへん(邊)おびたた(夥)しうさうどう(騒動)す。
むま(馬)にくら(鞍)お(置)き、はるび(腹帯)しめ、もの(物)どもとうざいなんぼく(東西南北)へはこ(運)びかく(隱)す。ただいま(只今)かたき(敵)のうちい(討入)つたるさま(様)なりけり。
あけ(明)てのち(後)きこ(聞)えしは、みのげんじ(美濃源氏)に、さどのゑもんのじようしげさだ(佐渡衛門尉重貞)とい(云)ふもの(者)あり。さ(去)んぬるほうげ
ん(保元)のかつせん(合戦)のとき(時)、ちんぜいのはちらうためとも(鎮西八郎爲朝)がゐんがた(院方)のいくさ(軍)にま(負)けて、おちう(落人)となつたりしを、
から(搦)めていだ(出)したりしけんじやう(勤賞)に、もとはひやうゑのじよう (兵衛尉)たりしが、そのとき (時)うゑもんのじよう (右衛門尉)になりぬ。これによ (依)つていちもん (一門)にはあた (怨)まれて、このころ (頃)へいけ(平家)
をへつら(諂)ひけるが、そのよ (夜)ろくはら(六波羅)には (馳)せまゐ (參)り、
「きそ(木曾)すで(既)にほくこく(北國)よりごまんよき(五萬餘騎)でせ(攻)めのぼ(上)り、てんだいさん(天台山)、ひがしざかもと(東坂本)にみ(充)ちみ(満)ちてさふらふ(候)。らうどう(郎等)にたてのろくらうちかただ(楯六郎親忠)、てかき(手書)にだいぶばうかくめい(大夫房覺明)、ろくせんよき(六千餘騎)てんだいさん(天台山)にきほ(競)ひのぼ(登)り、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)どうしん(同心)して、ただいま(只今)みやこ(都)へみだ(亂)れいる」よし(由)まう(申)しければ、へいけ(平家)のひとびと(人々)おほ(大)きにさわ(騒)いで、はうばう(方々)へうつて(討手)をさしむ(差向)けらる。
たいしやうぐん(大將軍)にはしんぢうなごんとももりのきやう(新中納言知盛卿)、ほんざんみのちうじやうしげひらのきやう(本三位中将重衡卿)、さんぜんよき(三千餘騎)でま(先)づやましな(山科)にしゆく(宿)せらる。ゑちぜんのさんみみちもり(越前三位通盛)、のとのかみのりつね(能登守教經)、にせんよき(二千餘騎)でうぢばし(宇治橋)をかた(固)めらる。
さまのかみゆきもり(左馬頭行盛)、さつまのかみただのり(薩摩守忠度)、いつせんよき(一千餘騎)でよどぢ(淀路)をしゆご(守護)せられけり。
げんじ(源氏)のかた(方)にはじふらうくらんどゆきいへ(十郎藏人行家)、すせんぎ(数千騎)でうじばし(宇治橋)をわた(渡)ってみやこ(都)へ入る。
みちのくにのしんはんかんよしやすがこ(陸奥新判官義康が子)やたはんぐわんだいよし
きよ(矢田判官代義清)、おほえやま(大江山)をへ(經)てしやうらく(上洛)すともまう(申)しあへり。
また(又)つのくにかはち(摂津國河内)のげんじら(源氏等)どうしん(同心)して、
おな(同)じうみやこ(都)へみだ(亂)れい(入)るよし(由)まう(申)しければ、へいけ(平家)のひとびと(人々)、
「このうへ(上)はちから(力)およ(及)ばず、ただ(只)いつしよ(一所)でいかに(如何)もなりたま(給)へ」とて、はうばう(方々)へむ(向)けられたりけるうつて(討手)ども、みな(皆)みやこ(都)へよ(呼)びかへ(返)されけり。
ていとみやうり(帝都名利)のち(地)、にはとり(鶏)な(鳴)いてやす(安)きこと(事)なし。
をさ(治)まれるよ(世)だにもかくのごと(如)し。いは(況)んやみだ(亂)れたるよ(世)におい(於)てをや。
よしのやま(吉野山)のおく(奥)のおく(奥)へもい(入)りなばやとはおぼ(思)しめ(召)されけれども、しよこくしちだう(諸國七道)ことごと(悉)くそむ(背)きぬ。いづ(何)くのうら(浦)かおだ(穏)しかるべき。
さんがいむあん(三界無安)、いうによくわたく(猶如火宅)として、によらい(如来)
のきんげん(金言)、いちじよう(一乘)のめうもん(妙文)なれば、なじかはすこ(少)しもたが(違)ふべき。
おな(同)じきにじふしにち(二十四日)のさよふ(夜更)けがた(方)に、さきのないだいじんむねもりこう(前内大臣宗盛公)、けんれいもんいん(建礼門院)のわた(渡)らせたま(給)ふろくはらいけどの(六波羅池殿)にまゐ(参)つてまう(申)されけるは
「きそ(木曾)すで(既)にほくこく(北國)よりごまんよき(五萬餘騎)でせ(攻)めのぼ(上)り、ひえいさんひがしざかもと(比叡山東坂本)にみ(充)ちみ(満)ちてさふらふ(候)。
らうどう(郎等)にたてのろくらうちかただ(楯六郎親忠)、てかき(手書)にだいぶばうかくめい(大夫房覺明)、ろくせんよき(六千餘騎)てんだいさん(天台山)へきほ(競)ひのぼ(上)り、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)ひきぐ(引具)して、ただいま(只今)みやこ(都)へみだ(乱)れい(入)るよし(由)きこ(聞)えさふらふ(候)。 ひとびと(人々)はただ(只)みやこ(都)のうち(内)にて、いか(如何)にもならんとまう(申)しあ(合)はれけれども、まのあた(親)りにようゐん(女院)、にゐどの(二位殿)に、う(憂)きめ(目)をみ(見)せまゐ(參)らせんこと(事)のくちを(口惜)しくさふら(候)へば、ゐん(院)をもうち(内)をもと(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へごかうぎやうがう(御幸行幸)をも、なしまゐ(参)らせばやとおも(思)ひなつてこそさふら(候)へ」とまう(申)されければ、
にようゐん(女院)、「いま(今)はただ(只)ともかうも、そこ(足下)のはか(計)らひでこそあらんずらめ」とて、ぎよい(御衣)のおんたもと(御袂)にあま(餘)るおんなみだ(御涙)、せ(塞)きあへさせたま(給)はねば、おほいとの(大臣殿)もなほし(直衣)のそで(袖)しぼ(絞)るばか(許)りにぞみ(見)えられける。
さるほど(程)にほふわう(法皇)をばへいけ(平家)と(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へお(落)ちゆ(行)くべしなどまう(申)すことを、ないない(内々)きこ(聞)しめす(召)むね(旨)もやありけん、
そのよ(夜)のやはんばか(夜半許)り、あぜつしだいなごんすけかたのきやう(按察史大納言資賢卿)のしそく(子息)、むまのかみすけとき(右馬頭資時)ばか(許)りをおんとも(御供)にて、ひそか(竊)にごしよ(御所)をい(出)でさせたま(給)ひて、おんゆくへ(御行方)もし(知)らずぞごかう(御幸)なる。
ひと(人)これをし(知)らざりけり。
へいけ(平家)のさぶらひ(侍)にきちないざゑもんのじようすゑやす(橘内左衛門尉秀康)とい(云)ふもの(者)あり。さかざかしきをのこ(男)にて、ゐん(院)にもめしつか(召使)はれけるが、そのよ(夜)しもおとのゐ(御宿直)にまゐ(參)つて、はるか(遙)にとほ(遠)うさふら(候)ひけるが、つね(常)のごしよ(御所)のおんかたざま(御方様)、よにものさわ (物騒)がしう、にようばうたち (女房達)しの (忍)びね (音)にな (泣)きなどしたま (給)へり。
なにごと (何事)なるらんとき (聞)きければ、
「にはか (俄)にほふわう (法皇)のみ (見)えさせましまさぬは、いづかた (何方)へのごかう (御幸)やらん」とまう (申)すこゑ (聲)にき (聞)くほど (程)に、あなあさましとて、いそ (急)ぎろくはら(六波羅)へは (馳)せまゐ (參)り、このよし(由)まう(申)したりければ、おほいとの(大臣殿)、「さだ(定)めてひがごと(僻事)でぞあるらん」とはのたま(宣)ひながら、いそ(急)ぎまゐ(參)つてみまゐ(見參)らさせたま(給)ふに、げにもほふわう(法皇)わた(渡)らせましまさず。
ごぜん(御前)にさぶら(候)はせたま(給)ふにようばうたち(女房達)、にゐどのたんごどの(二位殿丹後殿)いげいちにん(以下一人)もはたら(動)きたま(給)はず。「いか(如何)にや」とと(問)ひまゐ(參)らさせたま(給)へども、「われこそほふわう(法皇)のおんゆく(御行方)へし(知)りまゐ(參)らせたり」とまう(申)さるるにようばうたち(女房達)、いちにん(一人)もおはせざりければ、おほいとの(大臣殿)もちから(力)およ(及)ばせたま(給)はず、な(泣)くな(泣)くろくはら(六波羅)へぞかへ(歸)られける。
さるほど(程)に、ほふわう(法皇)みやこ(都)のうち(中)にわた(渡)らせたま(給)はずとまう(申)すほど(程)こそありけれ、きやうぢう(京中)のさうどう(騒動)なのめ(斜)ならず。
いは(況)んやへいけ(平家)のひとびと(人々)のあわ(周章)てさわ(騒)がれけるありさま(有様)は、いへいへ(家々)にかたき(敵)のうちい(討入)つたりとも、かぎ(限)りあれば、これにはす(過)ぎじとぞみ(見)えし。
へいけ(平家)ひごろ(日頃)はゐん(院)をもうち(内)をもと(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へごかうぎやうがう(御幸行幸)をもなしまゐ(參)らせんとしたく(支度)せられたりしかども、かくうちす(打捨)てさせたま(給)ひぬれば、たの(頼)むこ(木)のもと(下)にあめ(雨)のたまらぬここち(心地)ぞせられける。
「せめてはぎやうがう(行幸)ばか(許)りをもなしまゐ(參)らせよや」とて、あ(明)くるう(卯)のこく(刻)にぎやうがう(行幸)のみこし(神輿)をよ(寄)せたりければ、しゆしやう(主上)はこんねんろくさい(今年六歳)、いま(未)だ、いとけなう(幼)ましましければ、なにごころ(何心)なくぞめ(召)されける。
ごどうよ(御同輿)には、おんぼぎ(御母儀)けんれいもんいん(建禮門院)まゐ(參)らせたま(給)ふ。
「しんし(神璽)、ほうけん(寶劍)、ないしどころ(内侍所)、いんやく(印鑰)、とき(時)のふだ(簡)、げんじやう(玄上)、すずか(鈴鹿)などをもと(取)りぐ(具)せよ」と、
たいらだいなごん(平大納言)ときただのきやう(時忠卿)げぢ(下知) せられたりけれども、あま(餘) りにあわ(周章) てさわ(騒) いで、と(取) りおと(落) すもの(物)ぞおほ(多) かりける。
ひ(晝)のござ(御座)のぎよけん(御劍)などをも、と(取)りわす(忘)れさせたま(給)ひけり。
やがてこのとき(時)ただのきやう(時忠卿)、くらのかみのぶもと(内蔵頭信基)、さぬきのちうじやうときざね(讃岐中将時実)、ふしさんにん(父子三人)、いくわん(衣冠)にてぐぶ(供奉)せらる。
こんゑつかさ(近衛司)、みつなのすけ(御綱佐)、かつちうきうせん(甲冑弓箭)をたい(帯)して、ぎやうがう(行幸)のおんともつかまつ(御供仕)る。しちでう(七條)をにし(西)へ、しゆしやか(朱雀)をみなみ(南)へぎやうがう(行幸)なる。
あ(明)くればしちぐわつにじふごにち(七月二十五日)なり。
かんてん(漢天)すで(既)にひらけて、くも(雲)とうれい(東嶺)にたなびき、あ(明)けがた(方)のつき(月)しろ(白)くさえて、けいめい(鶏鳴)また(又)いそがはし。ゆめ(夢)にだにかかること(事)はみ(見)ず。
ひととせ(一年)みやこ(都)うつ(遷)りとて、にはか(俄)にあわたたしかりしは、かかるべかりけるぜんべう(先表)とも、いま(今)こそおも(思)ひし(知)られけれ。せつしやうどの(攝政殿)もぎやうがう(行幸)にぐぶ(供奉)して、ぎよしゆつ(御出)ありけるが、しちでうおほみや(七條大宮)にて、びんづら(鬟)ゆ(結)うたるどうじ(童子)の、おんくるま(御車)のまへ(前)を、つとはし(走)りとほ(通)るをごらん(御覧)ずれば、かのどうじ(童子)のひだん(左)のたもと(袂)に、はる(春)の
ひ(日)といふもじぞ(文字)あら(顯)はれたる。
はる(春)のひ(日)とか(書)いては、かすが(春日)とよ(讀)めば、ほつさうおうご(法相擁護)のかすがだいみやうじん(春日大明神)、たいしよくくわん(大織冠)のおんすゑ(御末)をまも(守)りたま(給)ふにこそと、たの(頼)もしうおぼ(思)し(召)めすところ(處)に、くだん(件)のどうじ(童子)のこゑ(聲)とおぼしくて、
いかにせむふぢ(藤)のすゑば(末葉 )のか(枯)れゆ(行)くをただはる(春)のひ(日)にまかせたらなむ
とも(共)にさふらふ(候)しんどうさゑもんのじようたかなほ(進藤左衛門尉髙直)をめ(召)して、「このよ(世)のなか(中)のありさま(有様)をごらん(御覧)ずるに、ぎやうがう(行幸)はなれどもごかう(御幸)はならず。ゆくすゑ(行末)たの(頼)もしからずおぼ(思)しめ(召)すはいか(如何)に」とおほ(仰)せければ、おんうしかひ(御牛飼)にめ(目)をきつとみあは(見合)せたり。やがてこころえ(心得)て、おんくるま(御車)をや(遣)りかへし、おほみや(大宮)をのぼ(上)りに、と(飛)ぶ
がごと(如)くにつかまつ(仕)り、きたやま(北山)のへん(邊)、ちそくゐん(知足院)へぞい(入)らせたま(給)ひける。
作成/矢久長左衛門
原作者の存在を考証(19)北國下向の条
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(19)
この北國下向の条で、覚明は頼朝と義仲の対立にふれる。
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の北国下向の条
(考察)
義仲の嫡男清水冠者と覚明の甥海野幸氏らが鎌倉へ人質に
木曾(源)義仲と源頼朝の間に一悶着があり、木曾義仲の嫡男義重(義高)※と覚明の甥海野小太郎幸氏※らが、頼朝の人質として鎌倉に行くことが決まる。
この人質問題で、後に頼朝の慎重さと狡猾さが証明されますが、覚明はそこまではここに書いていません。
この件は頼朝が上手だったことが、後に歴史が教えてくれます。
※【冠者】かんじゃ
①元服してかんむりをつけた男子。かじゃ。
②昔、六位で官位のなかった人。
※木曾義仲の嫡男義重(義高)
吾妻鏡寿永三年五月一日故清水冠者義髙とある。
尊卑文脈に義基とあり、「清水冠者と号す。母今井四郎兼平女」とある。
※覚明の甥海野小太郎幸氏
吾妻鏡寿永三年四月二十一日「海野小太郎幸氏は清水冠者と同年也」とある。
(注)後に「備中水島の戦い」で戦死する覚明の兄幸広の子。
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☆北国下向(ほくこくげかう)の条(注:冒頭に清水冠者の条あり)
(原文では)
寿永二年三月上旬に、木曾冠者義仲と兵衛佐頼朝、不快の事ありと聞えけり。
さる程に鎌倉の前兵衛佐頼朝、木曾追討の爲にとて、その勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。
木曾は頃依田城にありけるが、その勢三千餘騎で、城を出でて、信濃と越後の境なる熊坂山に陣を取る。
兵衛佐も同じき國の内、善光寺にこそ著き給へ。
木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者にて、兵衛佐の許へ遣はす。
「抑御邊は東八箇國を討ち随へて、東海道より攻め上り、平家を追ひ落さんとはし給ふなり。
義仲も東山北陸兩道を討ち随へて、北陸道より攻め上り、今一日も先に平家を亡ぼさんとする事でこそあるに、如何なる子細あつてか、御邊と義仲、中を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき。
但し叔父の十郎蔵人殿こそ、御邊を恨み奉ることありとて、義仲が許へおはしつるを、義仲さへ、すげなうあひしらひもてなし申さん事、如何ぞや候へば、これまでは打連れ申したり。義仲に於ては全く意趣思ひ奉らず」と宣ひ遣はされたりければ、兵衛佐の返事に、
「今こそさやうに宣へども、正しう頼朝討つべき由の謀叛の企てありと、告げ知らする者あり。但しそれには依るべからず」とて、
土肥、梶原を先として、数萬騎の軍兵を差向けらるる由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顕はさんが為に、嫡子に清水冠者義重とて、生年十一歳になりける小冠者に、海野、望月)、諏訪、藤澤など云ふ一人當千の兵を相添へて、兵衛佐の許へ遣はす。
兵衛佐、「この上は誠に意趣なかりけり。頼朝未だ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。
(現代文訳)
寿永二年三月上旬に、木曾冠者源義仲と兵衛佐源頼朝の間で、不快※(不愉快)なことありと聞えてきました。
やがて、鎌倉の前兵衛佐頼朝が、木曾追討のために、その軍勢十万余騎で、信濃国へ進発しました。
木曾は依田城(上田市の南)にいましたが、その軍勢三千余騎(木曾義仲の取り巻き一千と信濃豪族滋野一族二千)で、城を出て、信濃と越後の境なる熊坂山(長野県上水内郡信濃町にある山)に陣取りました。
兵衛佐も同じ国のうちの、善光寺(長野市)へ到着しました。
木曾義仲は、乳母子の今井四郎兼平※(もり役の子。信濃権守兼遠の子。)を使者として、兵衛佐の許へ派遣しました。
(今井)「いったい、そちら(頼朝)は東八国を討ち従えて、東海道より攻め上り、平家を追い追い落とそうとなさっている。
義仲も東山、北陸両道を討ち従えて、北陸道より攻め上り、今一日でも先に平家を亡ぼそうとしているところです。どうして(どんな事情があるのか)、頼朝と義仲が仲間割れをして、平家に笑はれるようなことをしようと思いましょうや。
ただし、叔父十郎蔵人殿(源行家、為義の子)が、頼朝を恨みなさることが有り、義仲のもとにいらっしゃるが、義仲が愛想もなくもてなすことは、いかがかとおもい、これまでは連だっております。義仲には遺恨は全く御座いません」と言いにいかせました。
頼朝からの返事に「今は、そのように言うけど、たしかに頼朝討つべしとの謀反の計画ありと、告げ口する者が有ります。ただし、その話は信用することは出来ない」といって、
土肥、梶原を先鋒として、数万騎の軍兵を差向けるという情報があり、木曾は眞實意趣なき由を顕はさんが為に、嫡子の清水冠者義重、生年十一歳になりける小冠者に、海野、望月、諏訪、藤澤などと云ふ一人当千の兵を相添へて、兵衛佐の許へ遣はすことにした。
兵衛佐は、「この上は誠に意趣なかりけり。頼朝未だ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へ帰られました。
※【不快】ふかい
①〘名ノナ〙快くないこと。不愉快。
日本国語大辞典小学館
(考察)
(以下原文どおりを引用)
(今井)「抑御邊は東八箇國を討ち随へて、東海道より攻めのぼ上り、平家を追ひ落さんとはし給ふなり。義仲も東山北陸兩道を討ち随へて、北陸道より攻め上り、今一日も先に平家を亡ぼさんとする事でこそあるに、如何る子細あつてか、御邊と義仲、中を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき」とありますが、
この言葉を聞き、特に「今一日も先に平家を亡ぼさんとする事」のところで、頼朝は心中穏やかでありませんでした。
この交渉のやり取りで「今一日も先に平家を亡ぼさんとする事」とは、言葉どうり義仲が先に京に行き平家を追い落とすと言うことであり、頼朝にとって面白くないことでした。
事実、京に早く着き平家を京から追い落とした義仲親子は、老獪な後白河法皇と義仲より上手の頼朝に操られ悲惨な悲劇の道を辿ります。
この交渉の場に覚明がいたかどうかは分かりませんが、居なかったとしても自分の甥も人質になるのですから交渉の成り行きは知っていた事でしょう。
ここで義仲側軍師である覚明は、入京後の義仲の行動までは統制できず、朝廷との政治では頼朝に負けていたことが歴史が教えています。
頼朝と義仲の差は、朝廷をよく知るか、知らないかの差でもあったということです。
平家との和平を探っていたフシがある覚明は、義仲にも頼朝にも受け入れられず、入京後は平家物語の表舞台に登場してきません。
(原文つづく)
さる程に木曾義仲は、東山北陸兩道を討ち随へて、既に都へ亂れ入る由聞えけり。
平家は去年の冬の頃より、
「明年は馬の草飼について、軍あるべし」と披露せられたりければ、山陰山陽、南海西海の兵ものども、雲霞の如くに馳せ集まる。
東山道は近江、美濃、飛騨の兵は参りたれども、東海道は遠江より東の兵は一人も参らず、西は皆参りたり。
北陸道は若狭より北の兵は一人も参らず。
平家の人々、先づ木曾義仲を討つて後、兵衛佐頼朝を討つべき由の公卿僉議ありて、北國へ討手を差向けらる。
大將軍には、小松三位中將維盛、越前三位通盛※、副將軍には、薩摩守忠度※、皇后宮亮經正※、淡路守清房※、三河守知度※、侍大將には、越中次郎兵衛盛嗣、上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景髙、河内判官秀國、高橋判官長綱、武蔵三郎佐衛門有國を先として、以上大將軍六人、然るべき侍三百四十餘人、都合その勢十萬餘騎、四月十七日の辰の一點に都を立つて、北國へこそ赴かれけれ。
片道※を賜はつてげれば、逢坂の關より始めて、路次に持つてあふ権門勢家の正税官物※をも恐れず、一々に皆奪ひとる。
志賀、唐崎、三日尻、眞野、高島、塩津、貝津の道の辺り※を、次第に追補※して通りければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。
(現代文訳)
ここでは、ここで述べられている通りなので現代文訳は省略します。
※越前三位通盛(清盛の弟、教盛の子)
※薩摩守忠度(清盛の弟)
※皇后宮亮經正(清盛の弟、経盛の子)
※淡路守清房(重盛の弟)
※三河守知度(重盛の弟)
※片道(軍費として往路にあたる国郡の租税・貢物の徴発を許される)
※正税官物(正税は朝廷に納める稲、官物は田租又は課役)
※追補(徴収して)
※志賀、唐崎、三日尻、眞野、高島、塩津、貝津の道(近江若狭街道の宿駅。志賀は大津市志賀里町)
(考証)
木曾義仲と頼朝の一悶着が、清水冠者義重が人質になるこことで、一応解決したので、この段階では軍師覚明としては、これから相手にする敵、平家の陣容が気になっていました。
そこで、その陣容をここで羅列しています。
ところが、清水冠者の人質問題は、解決していなかったのです。
後に、清水冠者義重(吾妻鏡では義高)は、源頼朝と北条政子の長女である大姫も絡み悲劇的な最後を迎えます。
ともに人質になった覚明の甥海野小太郎幸氏(後に許されて頼朝により鎌倉幕府御家人になる)の、その後を描いたブログ名「矢久のカヤ長野県指定天然記念物」の記事である「歴史的学術価値(3)海野小太郎幸氏の関連」 に詳述されています。
この覚明の甥海野小太郎幸氏は、頼朝の死後も北条氏に引き立てられ八十七歳まで生き亡くなりました。
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(18)
覚明は、清盛が「奈良を炎上させた罪」でもだえ死んだと書いている。
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の入道逝去の条
(考察)
清盛は「奈良の大仏を焼き亡ぼし給へる罪に依つて悶絶※躃地※し給へる」と断罪
この条で、覚明は、平家太政入道殿(清盛)の悪行超過として、東大寺の「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏」を、「焼き亡ぼし給へる罪に依つて悶絶※躃地※し給へる」 と断じた。
「奈良炎上の条」で、覚明が詳しく述べたように、仏敵の平家清盛は「伽藍炎上の罰」により、もだえ死んだというのである。
特に、覚明が幼い修学者の頃から東大寺で崇敬していた「聖武天皇がご自身の御手で磨き立てられた金銅十六丈の盧遮那仏である」大仏を見る影もなく焼き滅ぼしたということは畏れ多いことで、その罪の結末をこの条で覚明は触れずにはいられなかった。
※【悶絶】もん‐ぜつ
もだえ苦しんで気を失うこと。苦しさのあまり気絶すること。
三教指帰(797頃)下
「一則懐懼失魂、一則含哀悶絶」
史記抄(1477)七
「あまりのいたさに悶絶して、所在を不知そ」 〔梁書‐王僧弁伝〕
日本国語大辞典小学館
※【躃地】びやくち
地に倒れ伏して
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入道逝去の条
(原文では)
同じき二十三日、院の殿上にて、俄に公卿僉議あり。さきのうだいしやうむねもりのきやう(前右大將宗盛卿)の申されけるは、今度坂東へ討手は向うたりといへども、させる仕出したる事もなし。
今度は宗盛大將軍を承つて、東國北國の兇徒等を追討すべ由申されければ、諸卿色大して、「宗盛卿の申し状、ゆゆしう候ひなんず」とぞ申されける。
法皇大きに御感ありけり。公卿殿上人も、武官に備はり、少しも弓箭に携はらん程の人々は、宗盛を大將軍として、東國北國の兇徒等を、追討すべき由仰せ下さる。
(現代文訳)
同二十三日、院※(法住寺)の宮中にて、突然、公卿の会議がありました。
前右大將平宗盛卿※の申されたことには、「今般、坂東へ討手が向かったけれども、それほどの戦果を上げることもなかった。今度は宗盛が大將軍を承つて、東國北國の兇徒等を追討します」と申されました。
公卿達は追従して「宗盛卿の申し出は、すばらしく立派です」と申しました。
法皇も大いに感じいられました。
公卿、殿上人も、武官の地位にあり、少しでも弓矢に携はらん程の人々は、宗盛を大將軍として、東國北國の兇徒等を、追討すべきだとおっしゃられた。
※【法住寺】ほうじゅう‐じ
平安中期、一条天皇のときに藤原為光が創立した寺。現在、京都市東山区にある三十三間堂の東南方にあったと伝えられる。長元五年(一〇三二)焼失。永暦二年(一一六一)後白河法皇の御所(法住寺殿)が跡地に建てられた。
京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺。
日本国語大辞典小学館
※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり
平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)
日本国語大辞典小学館
(原文続く)
同じき二十七日門出して、既に打立たんとし給ひける夜半許りより、入道相國違例の心地とて、留まり給ひぬ。
明くる二十八日、重病を受け給へりと聞えしかば、京中六波羅ひしめきあへり。
「すはしつるは」。「さ見つる事よ」とぞ囁きける。
入道相國病ひつき給へる日よりして、湯水も喉へ入れられず、身の内の熱き事は、火を焼くが如し。臥し給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。只宣事とては、「あたあた」と許りなり。
誠に只事と見え給はず。餘りの堪へ難さにや、比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船に湛へ、それに下りて寒え給へば、水夥しう湧き上つて、程なく湯にぞなりにける。
若しやと筧の水をまかすれば、石や鐵などの焼けたる様に、水迸つて寄りつかず。
自ら當る水は、焔となつて燃えければ、黒烟殿中に充ち満ちて、炎渦巻いてぞ揚りける。
これや昔法藏僧都と云ひし人、閻王の請に赴いて、母の生所を尋ねしに、閻王憐み給ひて、獄卒を相添へて、焦熱地獄へ遣はさる。
鐵の門の内へさし入つ見れば、流星などの如くに、炎空に打上り、多百由旬に及びけんも、これには過ぎじとぞ覺えける。
又入道相國の北の方、八条の二位殿の、夢に見給ひける事こそ恐しけれ。たとへば猛火の夥しう燃えたる車の、主もなきを、門の内へ遣りれたるを見れば、車の前後に立つたる者は、或は牛の面の様なるもの者もあり、或は馬の様なるものもあり。
車の前には、無と云ふ文字ばかり顕はれたる、鐵の札をぞ打つたりけり。
二位殿夢の内に、「これは何くより何地へ」と問ひ給へば、「平家太政入道殿の悪行超過し給へるに依つて、閻魔王宮よりの御迎ひの御車なり」と申す。
「さてあの札は如何に」と問ひ給へば、「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏、焼き亡ぼし給へる罪に依つて、無間の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳にて御沙汰ありしが、無間の無をば書かれたれども、未だ間の字をば書かれぬなり」とぞ申しける。
二位殿夢覚めて後、汗水になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。
靈佛靈社へ金銀七寶を投げ、馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至るまで、取り出で運び出して、いのり申されけれども、叶ふべしとも見え給はず。
只男女の君達、跡枕にさしつどひて、嘆き悲しみ給ひけり。
閏二月二日の日、二位殿熱さ堪へ難けれども、入道相國の御枕によつて、
「御有様見奉るに、日に添へて頼み少うこそ見えさせおはしませ。物の少しも覺えさせ給ふ時、思し召すことあらば、おほ仰せ置かれよ」とぞ宣ひける。
入道相國、日頃はさしもゆゆしうおはせしかども、今はの時にもなりしかば、世にも苦しげにて、息のした下にて宣ひけるは、
「當家は保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも一天の君の御外戚として、丞相の位に至り、栄花?に子孫に残す。今生の望みは、一事も思ひ置く事なし。只思ひ置く事とては、兵衛佐頼朝が頭を見ざりつる事こそ、何よりも又本意なけれ。
われ如何 にもなりなん後、佛事孝養をもすべからず、堂塔をも立つべからず。
急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎ねて、わが墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」との宣ひけるこそ、いとど罪深うは聞えし。若しや助かると、板に水を置きて、臥し轉び給へども、助かる心地もし給はず。
同じき四日の日、悶絶躃地して、遂にあづち死ににぞ給ひける。
馬車の馳せ違ふ音は、天も響き大地も揺ぐ許りなり。
一天の君、萬乘の主の、如何なる御事ましますとも、これにはいかでか勝るべき。
今年は六十四にぞなられける。
老死と云ふべきにはあらねども、宿運忽ちに盡きぬれば、大法祕法の效驗もなく、
神明佛陀の威光も消え、諸天も擁護したまはず。況んや凡慮に於てをや。
身に替り命に代らんと、忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に並み居たれども、これは目にも見えず、力にも拘はらぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰ひ返さず、
又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、只一所こそ赴かれけれ。されども日來作り置かれし罪業計りこそ、獄卒となつて迎ひにも來りけめ。哀れなりし事どもなり。
さてしもあるべき事ならねば、同じき七日の日、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけ、攝津國へ下り、經島にぞ納めめける。
さしも日本一州に名を揚げ、威を振ひし人なれども、身は一時の煙となつて、都の空へ立ち上り、骸は暫し徘徊ひて、濱の眞砂に戯れつつ、空しき土とぞなり給ふ。
(現代文訳)
同二十七日、出立ちということで、既に前右大將宗盛卿が勢いよく立ち上がろうとした夜中、入道相國が前例のない病の気持ということで中止されました。
明くる二十八日、清盛が重病にかかられたといって京中も六波羅※も騒ぎ立てました。
人々は「すはしつるは(あっ、そうなったか)」。「さ見つる事よ(さあ、見たことよ)」と
ささやきあった。
※【六波羅・六原】ろくはら
京都の鴨川の東岸、五条と七条との間の地。現在の京都市東山区松原通付近。平安時代、六波羅蜜寺の近くに平家の六波羅亭が置かれ、平家一門の邸宅が軒を並べ、鎌倉時代は六波羅探題が置かれた。
入道相國は寝付いた日より湯水も喉へ入れられず、身の内の熱き事は、火を焼くようであった。清盛が臥しているところの四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難く。
ただ、清盛は「あたあた(熱い、熱い)」と言うばかりであった。
本当に、ただ事とは見えなかった。
余りの耐えがたさに、比叡山から千手堂の井戸水をくんできて石の水槽に満たし、それに入って冷やしましたが、水は大変に湧き上がり、程なくお湯になってしまいました。
もしや助かるかと筧の水をかけたが、石や鉄などが焼けたように、水がほとばしってしまいました。
垂れた水は、火炎となって燃えたので、黒煙は殿中に充満し、炎は渦巻いて燃え上がりました。
これこそ、昔、法藏僧都と云った人が、閻魔王の要請に応じて、母がいるところを尋ねたが、閻魔王は憐れんで獄卒を伴わせて焦熱地獄へつかわされた。
鉄の門のなかに入ると、流星のように炎は空へ立ち上がり、高さは多百由旬(六町一里にて四十里)に及んだそうだが、それ以上ではないかと覚えさせられました。
また、入道相國の北の方、八条の二位殿※(八条大宮に住まれた從二位平時子)が、夢に
見られたことは恐ろしいことでありました。
たとへば、猛火で激しく燃えた車を、門の内へ引き入れたのを見れば、車の前後に立つたる者は、或は牛の面の様なる者もあり、或は馬の様なるものもあり。車の前には、無と云ふ文字ばかりが見える鐵の札がありました。
二位殿は夢の中で「これは何くより何地へ」と問ひなさると、「平家太政入道殿の悪行超過し給へるに依つて、閻魔王宮よりの御迎ひの御車なり」と申しました。
「さてあの札は如何に」と問ひなさると、「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏、焼き亡ぼし給へる罪に依つて、無間の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳にて御沙汰ありしが、無間の無をば書かれたれども、未だ間の字をば書かれぬなり」とぞ申しける。
二位殿は夢覚めて後、汗水になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人皆身の毛がよだちました。
※【平時子】たいら‐の‐ときこ
平清盛の妻。平時信の長女。宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后に準ぜられた。清盛死後剃髪して二位尼と称された。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて海中に投身。大治元~元暦二年(一一二六‐八五)
日本国語大辞典 小学館
霊験あらたかな寺院や神社に金銀七宝を喜捨し、馬鞍、鎧甲、弓箭、太刀、刀に至るまで
取り出し、運び出し、祈られましたが叶いませんでした。
ただ、男女の君達が足元、枕元に集まり、嘆き悲しみました。
閏二月二日の日、二位殿は熱さに耐え難かったが、入道相國の御枕によつて、「御有様見奉るに、日に日に頼みが少うなってるようにみえます。少しでも物事がお分かりになっている時に、思うことがあれば言ってください」と言われました。
入道相國、日頃は恐ろしげにおられたが、いまはの時になり、世にも苦しげに息の下から言われました。
「當家は保元、平治より以来、たびたび、朝敵を平げ、恩賞は身に余り、畏れ多いことに天皇の外祖父として、太政大臣の位に至り、栄花はすでに子孫に及んでいる。この世に
一つも思い残すことはない。
ただ、思い残すことは兵衛佐頼朝が首を見なかったことが何よりも残念である。
わしが死んだ後は、佛事孝養をもすべからず、堂塔も立てなくてよい。
急ぎ討手を下だし、頼朝が首を刎ねて、わが墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」と言いました。
それは一段と罪深く聞えましたが、もしや助かるかと、板に水を注いで、伏し転げましたが助かる心地もなさらなかった。
同じき四日の日、悶絶躃地(もだえ苦しみ転げ回る)して、遂にあづち死(もだえ死に)なさいました。
馬や牛車の走ってすれ違う音は、天に響き、大地も揺らぐほどでした。
天皇がどのようになられようと、これほどではあるまいと思われた。
この年で六十四歳でした。
老衰というべきではないが、きまった寿命がたちまちに尽きてしまわれたので、加持祈祷
の大法祕法の効果も無く、神佛の威光も消え、天界の神々もお守りにならなかった。
ましてや、凡人の考えではどうにもならない事でした。、
身に替り命に代らんとする、忠を知る數萬の軍団が、御殿の上下に居並んでいましたが、目にも見えず、力ではどうしょうもない無常の刹鬼(死のこと、鬼)を、少しの間でも、戦って追い返す事もできませんでした。
また、帰ってこれぬ死出の山、三瀬川※(三途の川)、黄泉※(冥土)への旅の空に、ただ、ひたすら向かわれました。
されども、日來作り置かれし罪業計りこそ、獄卒となつて迎ひにも來りけめ。
哀れなりし事どもなり。
※【三瀬川】みつせ‐がわ
仏語。亡者が冥土(めいど)に行く時に渡るという川。渡る所が三か所あり、生前の罪の有無軽重によってどこを渡るかを決定するとされる。みつのせがわ。三途の川。
蜻蛉(974頃)付載家集
「みつせがはあささのほどもしらはしと思ひしわれやまづ渡りなん」
日本国語大辞典小学館
※【黄泉】こう‐せん
(中国で、「黄」は地の色にあてるところから)
① 地下の泉。
② 地面の下にあり、死者が行くといわれる所。仏教でいう地獄(罪業のある者だけが行く)とは元来は別のものであるが、のちに、特に日本では、混同されるようになった。あの世。よみじ。冥土(めいど)。
(ここからは原文どおりで)
さてしもあるべき事ならねば、同じき七日の日、愛宕※(六波羅近くの愛宕寺)にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼(左大臣徳大寺実能の子)頸にかけ、攝津國へ下り、經島にぞ納めける。
さしも日本一州に名を揚げ、威を振ひし人なれども、身は一時の煙となつて、都の空へ立ち上り、骸は暫し徘徊※(さまよ)ひて、濱の眞砂に戯れつつ、空しき土とぞなり給ふ。
※【さ迷・彷徨・徘徊】さ‐まよ・う
① 気持が定まらなかったり迷ったりして、あたりを歩きまわる。うろうろと歩きまわる。また単に、いったりきたりする。
日本国語大辞典小学館
(考察)
清盛が死んだとき、覚明は平家から追われ、逃亡中で信濃にいました。ですから、その場に居たわけではありません。
これを書いたとき、覚明は頼朝のお膝元である箱根からも逃げてきて比叡山にいました。
比叡山で「治承物語」を書くことになり、この清盛の死の詳しい顛末は、叡山の僧侶達から聞き込んだ本当の話と思われます。
それに、覚明(当時は円通院浄寛と称した)法師らしい宗教的な想像を交え、誇張して描いたのがこの条だと思います。
故にこの条も覚明(幸長入道・信濃入道)の筆になることは明白です。
この条の後で、既述の「奈良炎上の条」を再読すると、改めて覚明の清盛入道への思いを確認することが出来ます。
日本語には、天罰※、天誅※、誅罰※という言葉があることを思い出します。
※【天罰】てん‐ばつ
天の下す罰。悪事の報いとして自然に来る禍。てんばち。
※【天誅】てん‐ちゅう
① 天の下す誅罰。天罰。
※【誅罰】ちゅう‐ばつ
罪を責めて罰すること。処罰。
続日本紀‐養老四年(720)六月戊戌
「誅二罰其罪一。尽二彼巣居一」
源平盛衰記(14C前)四六
「平家を誅罰(チウバツ)して天下を鎮たるは神妙なれ共」 〔史記‐呉王伝〕
日本国語大辞典小学館
長左衛門・記
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(参照)
「平家物語」の入道逝去の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の入道逝去を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
入道逝去の条
おな(同)じきにじふさんにち(二十三日)、ゐん(院)のてんじやう(殿上)にて、にはか(俄)にくぎやうせんぎ(公卿僉議)あり。さきのうだいしやうむねもりのきやう(前
右大將宗盛卿)のまう(申)されけるは、こんどばんどう(今度坂東)へうつて(討手)はむか(向)うたりといへども、させるしいだ(仕出)したること(事)もなし。
こんど(今度)はむねもりたいしやうぐん(宗盛大將軍)をうけたまは(承)つて、とうごくほくこく(東國北國)のきようとら(兇徒等)をつゐたう(追討)すべきよし(由)まう(申)されければ、しよきやう(諸卿)しきだい(色大)して、「むねもりのきやう(宗盛卿)のまう(申)しじやう(狀)、ゆゆしうさふら(候)ひなんず」とぞまう(申)されける。
ほふわう(法皇)おほ(大)きにぎよかん(御感)ありけり。くぎやうてんじやうびと(公卿殿上人)も、ぶくわん(武官)にそな(備)はり、すこ(少)しもきうせん(弓箭)にたづさ(携)はらんほど(程)のひとびと(人々)は、むねもり(宗盛)をたいしやうぐん(大將軍)として、とうごくほくこく(東國北國)のきようとら(兇徒等)を、つゐたう(追討)すべきよし(由)おほ(仰)せくだ(下)さる。
おな(同)じきにじふしちにち(二十七日)かどで(門出)して、すで(既)にうつた(打立)たんとしたま(給)ひけるやはんばか(夜半許)りより、にふだうしやうこく(入道相國)ゐれい(違例)のここち(心地)とて、とど(留)まりたま(給)ひぬ。
あ(明)くるにじふはちにち(二十八日)、ぢうびやう(重病)をう(受)けたま(給)へりときこ(聞)えしかば、きやうぢうろくはら(京中六波羅)ひしめきあへり。
「すはしつるは」。「さみ(見)つること(事)よ」とぞささや(囁)きける。
にふだうしやうこく(入道相國)やま(病)ひつきたま(給)へるひ(日)よりして、ゆみづ(湯水)ものど(喉)へい(入)れられず、み(身)のうち(内)のあつ(熱)きことは、ひ(火)をた(焼く)くがごと(如)し。
ふ(臥)したま(給)へるところ(所)、しごけん(四五間)がうち(内)へい(入)るもの(者)は、あつ(熱)さたへ(堪)がた(難)し。ただ(只)のたま(宣)ふこと(事)とては、「あたあた」とばか(許)りなり。
まこと(誠)にただごと(只事)ともみ(見)えたま(給)はず。あま(餘)りのた(堪)へがた(難)さにや、ひえいさん(比叡山)よりせんじゆゐ(千手井)のみづ(水)をく(汲)みくだ(下)し、いし(石)のふね(船)にたた(湛)へ、それにお(下)りてひ(寒)えたま(給)へば、みづ(水)おびたた(夥)しうわ(湧)きあが(上)つて、ほど(程)なくゆ(湯)にぞなりにける。
も(若)しやとかけひ(筧)のみづ(水)をまかすれば、いし(石)やくろがね(鐵)などのや(焼)けたるやう(様)に、みづ(水)ほとばし(迸)つてよ(寄)りつかず。
おのづか(自)らあた(當)るみづ(水)は、ほむら(焔)となつても(燃)えければ、
こくえん(黒烟)てんちう(殿中)にみち(充)み(満)ちて、ほのほ(炎)うづま(渦巻)いてぞあが(揚)りける。
これやむかし(昔)ほふざうそうづ(法藏僧都)とい(云)ひしひと(人)、えんわう(閻王)のしやう(請)におもむ(赴)いて、はは(母)のしやうじよ(生所)をたづ(尋)ねしに、えんわう(閻王)あはれ(憐)みたま(給)ひて、ごくそつ(獄卒)をあひそ(相添)へて、せうねつぢごく(焦熱地獄)へつか(遣)はさる。
くろがね(鐵)のもん(門)のうち(内)へさしい(入)つてみ(見)れば、りうしやう(流星)などのごと(如)くに、ほのほ(炎)そら(空)にうちのぼ(打上)り、たひやくゆじゆん(多百由旬)におよ(及)びけんも、これにはす(過)ぎじとぞおぼ(覺)えける。
また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のきた(北)のかた(方)、はちでう(八条)のにゐどの(二位殿)の、ゆめ(夢)にみたま(見給)ひけること(事)こそおそろ(恐)しけれ。
たとへばみやうくわ(猛火)のおびたた(夥)しうも(燃)えたるくるま(車)の、ぬし(主)もなきを、もん(門)のうち(内)へや(遣)りい(入)れたるをみ(見)れば、くるま(車)のぜんご(前後)にた(立)つたるもの(者)は、あるひ(或)はうし(牛)のおもて(面)のやう(様)なるもの(者)もあり、あるひ(或)はむま(馬)のやう(様)なるものもあり。
くるま(車)のまへ(前)には、む(無)とい(云)ふもじ(文字)ばかりあら(顕)はれたる、くろがね(鐵)のふだ(札)をぞう(打)つたりけり。
にゐどの(二位殿)ゆめ(夢)のうち(内)に、「これはいづ(何)くよりいづち(何地)へ」とと(問)ひたま(給)へば、「へいけだいじやうのにふだうどの(平家太政入道殿)のあくぎやう(悪行)てうくわ(超過)したま(給)へるによ(依)つて、えんまわうぐう(閻魔王宮)よりのおんむか(御迎)ひのおんくるま(御車)なり」とまう(申)す。
「さてあのふだ(札)はいか(如何)に」とと(問)ひたま(給)へば、「なんえんぶだいこんどうじふろくぢやう(南閻浮堤金銅十六丈)のるしやなぶつ(盧遮那仏)、や(焼)きほろ(亡)ぼしたま(給)へるつみ(罪)によ(依)つて、むげん(無間)のそこ(底)にしづ(沈)めたま(給)ふべきよし(由)、えんま(閻魔)のちやう(廳)にておんさた(御沙汰)ありしが、むげん(無間)のむ(無)をばか(書)かれたれども、いまだ(未)けん(間)のじ(字)をばか(書)かれぬなり」とぞまう(申)しける。
にゐどの(二位殿)ゆめ(夢)さ(覚)めてのち(後)、あせみづ(汗水)になりつつ、これをひと(人)にかた(語)りたま(給)へば、き(聞)くひと(人)みな(皆)み(身)の毛よだちけり。
れいぶつれいしや(靈佛靈社)へこんごんしつぱう(金銀七寶)をな(投)げ、むまくらよろひかぶとゆみやたちかたな(馬鞍鎧甲弓箭太刀刀)にいた(至)るまで、と(取)りい(出)ではこ(運)びいだ(出)して、いの(祈)りまう(申)されけれども、かな(叶)ふべしともみ(見)えたま(給)はず。
ただ(只)なんによ(男女)のきんだち(君達)、あとまくら(跡枕)にさしつどひて、なげ(嘆)きかな(悲)しみたま(給)ひけり。
うるふにんぐわつふつか(閏二月二日)のひ(日)、にゐどの(二位殿)あつ(熱)さた
(堪)へがた(難)けれども、にふだうしやうこく(入道相國)のおんまくら(御枕)によつて、「おんありさま(御有様)みたてまつ(見奉)るに、ひ(日)にそ(添)へてたの(頼)みすくな(少)うこそみ(見)えさせおはしませ。
物の少しも(覺)えさせたま(給)ふとき(時)、おぼ(思)し(召)すことあらば、おほ(仰)せお(置)かれよ」とぞのたま(宣)ひける。
にふだうしやうこく(入道相國)、ひごろ(日頃)はさしもゆゆしうおはせしかども、いま(今)はのとき(時)にもなりしかば、よ(世)にもくる(苦)しげにて、いき(息)のした(下)にてのたま(宣)ひけるは、
「たうけ(當家)はほげんへいじ(保元平治)よりこのかた(以來)、どど(度々)のてうてき(朝敵)をたひら(平)げ、けんじやう(勸賞)み(身)にあま(餘)り、かたじけな(忝)くもいつてん(一天)のきみ(君)のごぐわいせき(御外戚)として、しようじやう(丞相)のくらゐ(位)にいた(至)り、えいぐわ(栄花)すで(既)にしそん(子孫)にのこ(残)す。
こんじやう(今生)ののぞ(望)みは、いちじ(一事)もおも(思)ひおく(置)こと(事)なし。ただ(只)おも(思)ひお(置)くこと(事)とては、ひやうゑのすけよりとも(兵衛佐頼朝)がかうべ(頭)をみ(見)ざりつること(事)こそ、なに(何)よりもまた(又)ほい(本意)なけれ。
われいか(如何) にもなりなんのち(後)、ぶつじけうやう(佛事孝養)をもすべからず、だうたふ(堂塔)をもた(立)つべからず。
いそ(急)ぎうつて(討手)をく(下)だし、よりとも(頼朝)がかうべ(首)をは(刎)ねて、わがはか(墓)のまへ(前)にか(懸)くべし。それぞこんじやうごしやう(今生後生)のけうやう(孝養)にてあらんずるぞ」
とのたま(宣)ひけるこそ、いとどつみふか(罪深)うはきこ(聞)えしも(若)しやたす(助)かると、いた(板)にみづ(水)をお(置)きて、ふ(臥)しまろ(轉)びたま(給)へども、たす(助)かるここち(心地)もしたま(給)はず。
おな(同)じきしにち(四日)のひ(日)、もんぜつびやくち(悶絶躃地)して、つひ()にあづちじ(死)ににぞしたま(給)ひける。
むまくるま(馬車)のはせ(馳)ちが(違)ふおと(音)は、てん(天)もひび(響)きだいぢ(大地)もゆる(揺)ぐばか(許)りなり。いつてん(一天)のきみ(君)、
ばんじよう(萬乘)のあるじ(主)の、いか(如何)なるおんこと(御事)ましますとも、これにはいかでかまさ(勝)るべき。
こんねん(今年)はろくじふし(六十四)にぞなられける。おいじに(老死)とい(云)ふべきにはあらねども、しゆくうん(宿運)たちま(忽)ちにつ(盡)きぬれば、だいほふひほふ(大法祕法)のかうげん(效驗)もなく、しんめいぶつだ(神明佛陀)のゐくわう(威光)もき(消)え、しよてん(諸天)もおうご(擁護)したまはず。
いは(況)んやぼんりよ(凡慮)におい(於)てをや。
み(身)にかは(替)りいのち(命)にかは(代)らんと、ちう(忠)をぞん(存)ぜしすまん(數萬)のぐんりよ(軍旅)は、たうしやうたうか(堂上堂下)にな(並)みゐ(居)たれども、これはめ(目)にもみ(見)えず、ちから(力)にもかか(拘)はらぬむじやう(無常)のせつき(刹鬼)をば、ざんじ(暫時)もたたか(戰)ひかへ(返)さず、
また(又)かへ(歸)りこ(來)ぬしで(死出)のやま(山)、みつせがは(三瀬川)、くわうせんちうう(黄泉中有)のたび(旅)のそら(空)に、ただ(只)いつしよ(一所)こそおもむ(赴)かれけれ。
されどもひごろ(日來)つく(作)りお(置)かれしざいごふ(罪業)ばか(計)りこそ、ごくそつ(獄卒)となつてむか(迎)ひにもきた(來)りけめ。
あは(哀)れなりしこと(事)どもなり。
さてしもあるべきこと(事)ならねば、おな(同)じきなぬか(七日)のひ(日)、おたぎ(愛宕)にてけぶり(煙)になしたてまつ(奉)り、こつ(骨)をばゑんじつほふげん(圓實法眼)くび(頸)にかけ、つのくに(攝津國)へくだ(下)り、きやうのしま(經島)にぞをさ(納め)めける。
さしもにつぽんいつしう(日本一州)にな(名)をあ(揚)げ、ゐ(威)をふる(振)ひしひと(人)なれども、み(身)はひととき(一時)のけぶり(煙)となつて、みやこ(都)のそら(空)へた(立)ちのぼ(上)り、かばね(骸)はしば(暫)しやすら(徘徊)ひ
て、はま(濱)のまさご(眞砂)にたはぶ(戯)れつつ、むな(空)しきつち(土)とぞなりたま(給)ふ。
作成/矢久長左衛門
これまでのブログタイトル「平家物語作者の正体」を、「(新名称)平家物語 信濃前司行長の正体」に変更しました。
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(矢久長左エ門・記)