2020年11月12日木曜日

原作者の存在を考証(12) 殿上闇討の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(12)

この「殿上闇討の条」も覚明が慈円とその周辺を取材して書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の殿上闇討の条

(考察)

          覚明は、当初、唱導師が唱導するように、琵琶を奏しながら詠じた

 覚明はこの条を書く前に、慈園に書き上げた「祇園精舎の条」を見せました。そして、慈園の前で琵琶を弾きながら琵琶法師よろしく声を上げ演奏をしました。

“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。

沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。

奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ”

覚明は比叡山に逃げて来る前の鎌倉で、箱根権現の法師として祭司を務めていたくらいの人気のある導師でした。

もともと箱根は安居院流の唱導の盛んな地で、覚明もそれなりに唱導師としての品格を備えていました。

このころは、当然ですが、まだ、平曲※を語る琵琶法師は生まれていませんでした。

琵琶法師( 琵琶を弾く盲目、僧体の人)には、

琵琶の伴奏により経文を唱えた盲僧の流れと、

琵琶の伴奏により叙事詩を謡った盲目の放浪芸人の流れがあり、

後者は鎌倉中期以降、もっぱら「平家物語」を語るようになり、平曲を語る琵琶法師として定着しました。

※平曲とは、

「平家物語」を琵琶に合わせて語る音曲。後鳥羽天皇のころ、盲人生仏(しょうぶつ)が先行の音曲の曲節を集大成して語り始めたという。南北朝期に明石検校覚一が大成。応永~永享(一三九四‐一四四一)ごろ最も盛行。その曲節は謡曲・浄瑠璃などに流入した。平曲。平家。平語。(日本国語大辞典)


そこで、この時、覚明は自分で唱導師が唱導するように、琵琶を奏しながら演じました。 

“遠く異朝をとぶらふに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にも從はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の亂れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者どもなり”から、

“近く本朝を窺ふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは奢れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね”までを、

朗朗と弾き語りました。

それはまるで後世(鎌倉中期以降)に平曲を語る琵琶法師を想像させるような芸術の誕生でした。

平曲とは平家物語を曲節をつけて語るもので、琵琶を前奏または間奏に用いるもので平家琵琶とも言われます。

「平家物語」の原作である「治承物語」誕生のプロデューサー役だった比叡山の座主慈園僧正は、覚明の弾き語りを目の当たりにして大いに満足したと思います。

慈円僧正は38歳で僧侶として最高位の62代天台座主となり、後鳥羽天皇から祈祷僧として信任を受けるとともに和歌によって親しく接していました。

御鳥羽天皇からは関白九条(藤原)兼実を通じて慈園に正式に“源平の死者鎮魂”のため、「平家物語」の原作である「治承物語」を制作するように依頼されていたのです。

建久七年十一 月に九条兼実は関白・氏長者を罷免され、一族も排斥されています。

そして、建久九年一月(1198・2・18)後鳥羽天皇が退位し、後鳥羽院政が始まりました。

吉田兼好の「徒然草」によれば、“後鳥羽院の御時に、信濃前司行長、この行長入道、平家物語を作りて”とあるので、これ以降に「治承物語(平家と号す)」が成立したものと思われます。

吉川英治の小説「親鸞」では、後鳥羽院の指示で作られたことになっていて、初春に慈園が実兄である藤原兼実の館に招かれ、琵琶法師に「平家物語」を語らせたとあります。この「平家物語」は、多分、まだ未完成の「治承物語」の一部分であったに違いないと思います。

この初春が何年の初春か定かには分かりませんが、多分、藤原兼実は関白を辞任し隠棲の身だったのではないかと思います。

この時に語らせた琵琶法師は誰だったかを考えると、徒然草によれば“信濃前司行長、この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり”とありますから、そのときは覚明本人ではなく、琵琶法師生佛ではなかったかと思います。

ところで、この生佛様は誰か

当時、比叡山には数カ所の寺院に分かれ、約三千人前後の学僧・堂衆・寺僧などの上級・中級・下級の僧がいたといいます。

その中には、琵琶の伴奏により経文を唱える盲僧も数人は寄宿していたと思います。

経を覚えるには記憶力が大切です。

特に、記憶力の勝れた盲僧は生き仏のように尊敬されました。

多分、お経を数回聞くだけで覚えてしまうのだと思います。

なかには、琵琶の伴奏により保元の乱や平治の乱の出来事を断片的に謡った盲目の放浪芸人上がりの盲僧たちもいたのではないかと思います。

日本文学史では、承久2(1220)年頃に、軍記ものが隆盛で「保元物語」や「平治物語」なるとされていますから、このころには、まだ、「保元物語」や「平治物語」は、叙事詩の作品として纏められた存在ではありませんでした。

彼らの記憶力は琵琶の音に研ぎ澄まされて高まり、中には生きている仏さまではないかと思はせるほどの方も数人はいたと思います。

覚明は慈園の了解を得て、そんな盲僧たちに声をかけ協力してもらいました。

あくまでも想像ですが、覚明は手始めに、盲僧たちを中心とした内輪の集まり「治承の乱を語る」を企画し、始めに「祇園精舎の条」を覚明本人が琵琶を抱え原稿(又は台本)を見ながら正確に唱導したと思います。

すると驚いたことに、覚明がこの「祇園精舎の条」を終えると同時に、数人の盲僧たちが覚明の口調を真似て、

“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり”から“猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ”までを口々に呟き始めました。

さすがの記憶力です。覚明は自信を持ちました。

そこで、さらに「奈良炎上の条」を覚明本人が台本を見ながら正確に唱導しました。

一同は静かに聞いておりました。そして最後になると拍手喝采が起こりました。

覚明の語りが上手だったからではなく、新作の内容に自分たちが知らなかった事実が盛り込まれていたからです。

その後、放浪芸人上がりの盲僧たちからは、必ずしも正確ではない平家一門の悪行が数本語られてお開きになりました。

覚明は放浪芸人上がりの盲僧たちからは、治承の乱の叙事詩でもある過去の出来事をいくつか取材することも出来ました。

いまで言うなら、彼らは歩くボイスレコーダーやハードディスクのような人たちでもありました。覚明はそのような人たちのなかから数人を選び、「治承物語」を語る琵琶法師生佛様に仕立てたと思います。

それ故、吉田兼好がいう生佛は一人ではなく数人はいたのだと思います。その彼らが通称で生仏と呼ばれたのです。

当初、「平家物語」の原作「治承物語」が三巻で短かったとしても、一巻に十数条はあったと思いますので、一人ですぐに全部を覚えきれるものではありません。数人の生仏様で手分けしてチームを組んでいたと思います。

生佛は覚明本人だという説もありますが、覚明は徒然草にもあるように記憶力に自信がなく、盲目でもありません。

始めに覚明が作品を語り、琵琶法師たちに口調を教えたと言うのが正しいのではないでしょうか。

徒然草には「武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけりとありますが、

この生仏は東国のものにてが一人称なので覚明本人ではないかという説があります。

しかし、武士に聞くまでもなく、覚明は作品のなかで自分を文武両道と書いているくらいですから武士の事、弓馬のわざはお手のものです。

特に弓馬については自信がありました。生まれた土地が馬の産地である信濃御牧ヶ原海野郷です。幼少の頃から馬には馴染んでいました。兄幸廣(備中水島の戦いで戦死)の息子で甥の海野小太郎幸氏は鎌倉幕府の御家人になり、鶴岡八幡宮の流鏑馬行事では有名な弓馬の達人として活躍しました。


祇園精舎の条に、平家一門のルーツが語られているのは、「平家物語」の原作である「治承物語」は、平清盛を中心とした平家の悪行を描いた歴史物語ですから、平家の物語としての書き出しには、清盛が何者であるかは必要不可欠な部分です。

この「殿上闇討の条」にも、清盛が何者であるかが引き続き書かれてあり、最初は祇園精舎の条に含まれていたのではないかとも思われます。

吉川英治「親鸞」では、初春に慈園が実兄である藤原兼実の館に招かれ、琵琶法師に平家物語を語らせたとありますが、この時のものは「平家物語」の原作である「治承物語」の祇園精舎の条と殿上闇討の条と鱸の条までぐらいだったのではないかと想像します。

吉川英治氏は小説「親鸞」で、慈園は琵琶法師にかなり先まで搔い摘まんで語らせたとありますが、多分、このときは藤原兼実に作品の出来具合を披露するのが目的で、正月でもありますので、作品の宗教的な哲理と主人公が平清盛であることを示すだけだったのではないかと思います。

この「殿上闇討の条」では、「祇園精舎の条」で紹介された物語の主人公清盛の父忠盛がどうやってのし上がってきたかが紹介されています。

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原文では

然るに忠盛、未だ備前守たりしとき時、鳥羽院の御願、得長壽院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一體の御佛を据ゑ奉らる。

供養は天承元年三月十三日なり。勸賞には闕國を賜ふべき由仰せくだ下されける。

折節但馬国のあきたりけるをぞ下されける。上皇なほ御感の餘りに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。

雲の上人これを猜みいきどほり、同じき年の十一月二十三日、五節豊明の節會の夜、忠盛を闇討にせんとぞ議せられける。忠盛、この由を傳へ聞いて、

「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはん事、家の爲、身の爲心憂かるべし。詮ずる所、身を全うして君に仕へ奉れといふ本文有り」とて、

かねて用意を致す。參内の始より、大きなる鞘巻を用意し、束帯の下にしどけなげに差しほらし、火のほの暗き方に向つて、やはらこの刀を抜き出いて、鬢に引當てられたりけるが、餘所よりは、氷などの様にぞ見えける。諸人目をすましけり。                                       

又忠盛の郎等、もとは一門たりし平木工助貞光が孫、進三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞という者あり。薄青の狩衣の下に、萠黄縅の腹巻を著、弦袋つけたる太刀脇挟んで、殿上の小庭に畏つてぞ候ひける。

貫首以下、あやしみをなして、

「うつほ柱より内、鈴の綱の邊に、法衣の者の候は何者ぞ。狼藉なり。とうとう罷り出よ」と、

六位を以ていはせられたりければ、家貞畏つて申しけるは、

「相傳の主備前守殿の今夜闇討にせられ給ふべき由承つて、そのならん様を見んとて、かくて候なり。えこそ出づまじ」とて、又畏つてぞ候ひける。

これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討無かりけり。

忠盛又御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替へて、

「伊勢瓶子は醯甕なりけり」とぞはやされける。

かけまくも忝く、この人々は柏原天皇の御末とは申しながら、中頃は都の住居もうとうとしく、地下にのみ振舞ひなつて、伊勢國に住國深かりしかば、その國の器に事寄せて、伊勢平氏とぞはやされける。

その上忠盛の目の眇まれたりける故にこそ、かやうに拍されけるなれ。

忠盛いかにすべき様もなくして、御遊も未だ終らざる前に、御前を罷り出でらるるとて、紫宸殿の御後にして、人々の見られける所にて、横だへさされたりける腰の刀をば、主殿司に預け置きてぞ出でられける。

家貞、待ちうけ奉つて、

「さて如何候ひつるやらん」と申しければ、かうとも謂はまほしうは思はれけれども、まさしういひつる程ならば、やがて殿上までも斬り上らんずる者の面魂にてある間、「別の事なし」とぞ答へられける。

五節には、「白薄様、こぜんじの紙、巻あげの筆、巴かいたる筆の軸」なんどいふ、さまざまかやうに面白事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中頃太宰權帥季仲卿といふ人ありけり。餘りに色の黒かりければ、時の人、黒帥とぞ申しける。この人未だ藏人頭なりし時、御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替へて、「あな黒々、黒き頭かな。如何なる人の漆ぬりけん」とぞ拍されける。

又花山院の前太政大臣忠雅公、未だ十歳なりし時、父中納言忠宗卿におくれ給ひて、孤子にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿、その時は未だ播磨守にておはしけるが、聟に取つて、はなやかにもてなされしかば、これも五節には、「播磨米は木賊か、椋の葉か、人の綺羅を磨くは」とぞはやされける。

上古にはかやうの事どもおほかりしかども、事出でこず。末代如何あらんずらん、覺束無しとぞ人々申しあはれける。

案の如く五節はてにしかば、院中の公卿殿上人、一同に訴へ申されけるは、

「それ雄劍を帯して公宴に列し、兵仗を賜はつて宮中を出入するは、皆これ格式の禮を守る、綸命由ある先規なり。しかるを忠盛朝臣、或は年來の郎從と號して、布衣の兵を殿上の小庭に召置き、或は腰の刀を横だへさいて、節會の座に列る。兩條希代未だ聞かざる狼藉なり。事既に重疊せり。罪科尤も遁れ難し。早く殿上の御簡を削つて、闕官停任行はるべきか」と、

諸卿一同に訴へ申されければ、上皇大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前へ召して御尋ねあり。

陳じ申されけるは、「先づ郎從小庭に伺候の由、全く覺悟仕らず。但し近日人々相たくまるる旨、子細あるかの間、年來の家人、事を傳へ聞くかによつて、その恥を助けんが爲に、忠盛には知らせずして,竊に參候の條、力及ばざる次第なり。

若し咎あるべくは、かの身を召し進ずべきか。次に刀の事は、主殿司に預け置き候ひ畢んぬ。

これを召し出され、刀の實否によつて、咎の左右行はるべきか」と申されたりければ、この儀尤も然るべしとて、急ぎかの刀を召し出いて叡覽あるに、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、中は木刀に銀箔をぞ押いたりける。

「當座の恥辱を遁れんが爲に、刀を帯する由顯はすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意の程こそ神妙なれ。弓箭に携はらん程の者の謀には、尤もかうこそあらまほしけれ。兼ねては又郎従小庭に伺候のこと、かつうは武士の郎等の習ひなり。忠盛が咎にはあらず」とて、却つて叡感に預つし上は、敢て罪科の沙汰は無かりけり。


(現代文訳)

しかるが故に(平)忠盛※が、まだ備前守であった時、鳥羽院の勅願である得長寿院(白河の千体観音堂、今の三十三間堂とは異なる)を建立して献上し、三十三間の御堂を建てて、一千一體(一体は本尊)の仏像を安置し差し上げました。

供養の法会は天承元年三月十三日に営まれました。功績の褒美として国守が欠けている國を賜るとの仰せがありました。

ちょうどその時、但馬国の国守の席が空いていたので下賜されました。上皇はお喜びのあまり、さらに、清涼殿への昇殿も許されました。忠盛は三十六歳にして初めて昇殿したのです。

殿上人らはこれをうらやみねたんで、同じ年の十一月二十三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇討にしようと謀議しました。

忠盛は、これを人伝に聞いて、

「私は文官の身ではない、武門の家に生れて、今、不慮の恥辱を受ける事は、家のためにも、わが身のためにもつらいこと。つづまる所、身を守って君に仕へ奉れという昔からの言葉がある」と言って、事前に用意しました。

参内のはじめから大きな鞘巻を用意して、束帯の下に無造作に差し、灯のほの暗い方に向かって、やおら、この刀を抜き出し、耳際の髭に引き当てられたが、刃は氷のように見えました。

殿上人たちは目を凝らしました。

また、忠盛の郎等で、もとは一門だった平木工助貞光の孫、進三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞という者がいました。薄青の狩衣の下に、萠黄縅の腹巻を着けて、弦袋をつけた太刀を脇に挟んで、殿上の小庭にかしこまって控えていました。

蔵人頭以下の人々は怪しく思い、

「うつほ柱の内側にある鈴の綱のあたりに、法衣(無紋の狩衣)の者が控えているのは何者か。無礼なり。すぐに退出せよ」と、六位の蔵人に言わせたところ、

家貞がかしこまって言うには、

「先祖代々仕えている主人の備前守殿が、今夜、闇討にされるだろうと言う話を給わりましたので、その成り行きを見届けようとして、このようにして控えて居ります。退出致しかねます」と、なお、かしこまって控えていました。

これらを仕方なし思われたのか、その夜の闇討はありませんでした。

また、忠盛が鳥羽院の前に召されて舞を舞われると、人々は拍子を変えて、

「伊勢の瓶子(平氏を瓶子とかけ)は醯甕(眇目を醯甕とかけ)なりける」とはやされた。

言葉に出して言うことさえも畏れ多いことですが、この平氏の人々は柏原天皇(桓武帝)

の御子孫とは申しながら、あまり遠くない昔に都での生活も疎遠になり、地下人として振る舞うようになっていて伊勢の国に住むことが長く、その国の器(焼物の瓶子)にかこつけて伊勢平氏とはやされました。

その上、忠盛は目が斜視だったので、この様にはやされました。

忠盛はいかんともしがたく、御遊(管弦のあそび)もまだ終わらないうちに、御前を退出しようとして、紫宸殿の御後(賢聖障子の北側の広廂)で殿上人たちに見られるところで、横に差していた刀を主殿司(宮中の雑役を司る女官)に預け置いて出て行かれました。

家貞が忠盛を待ちうけ申して、

「さて、いかがでございましたか」と申し上げたので、かくかくしかじかであったと言おうともしたが、事実を言おうものなら、直ぐに殿上までも斬り上らんとする顔つきの者なので「別に何でも無い」と答へました。

五節には、

「白薄様、こぜんじの紙、巻あげの筆、巴かいたる筆の軸」などと言う、さまざまなかやうに面白い事をのみ歌ひ舞はれるのに、なかごろの昔、太宰權帥(太宰府の政務官)季仲卿という人がいました。あまりに色が黒かったので、当時の人は黒帥とあだ名で呼びました。この人がまだ藏人頭のとき、御前の召に舞はれると、人々は拍子を替へて、「あな黒々、黒き頭かな。如何なる人の漆ぬりけん」とはやされた。

また、花山院の前の太政大臣忠雅公が、まだ十歳なりし時、父の中納言忠宗卿に残されて、孤児でおられたのを、故中御門藤中納言家成卿が、その時は未だ播磨守であったときに、

聟に取つて、派手にもてなされたので、これも五節には、「播磨の米は木賊(砥草で木地、骨、爪などをみがくのに用いる)か、椋の葉(古来、木、竹、骨などの細工ものや、道具、建材などをみがくのに用いる)か、人の綺羅(きらびやかなよそおい)を磨くは」とぞはやされけました。

「大昔にはこのようなことが多かったが何事も起こらなかった。末代の今はどうであろうか、心配です」と人々は申しました。

案の上、五節が終わると、院中の公卿殿上人たちは、一致して上皇に訴へ申しあげました。

「忠盛が帯刀して公の宴に列し、家来を連れて宮中を出入するのは規則違反だ。皆が格式の禮を守るべきであり、これは勅命に由来する先例です。ところが、忠盛朝臣、あるいは代々の家来と称して、布衣の兵を殿上の小庭に召置き、或は腰の刀を横にさして、節會の座に連なる。両方とも世にもまれな、いまだ聞いたことのない無法です。事はすでに重ねられており。先例破りはいかにも許されません。早く殿上の御簡(昇殿を許され宮中の殿上の間に出仕する者の姓名を記した木簡)を削つて、解官し任務を停止するべきです」と、諸卿一同が訴へ申うされたので、上皇は大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前へ召して御尋ねなさった。

忠盛が釈明し申すには、

「まづ、家来が小庭に控えていたことは、全く存じません。但し、最近、人々が共に私を落とし入れる企みをしているとのことがあるので、年來の家人が、その事を伝え聞くかして、その恥を受けないように、自分(忠盛)には知らせずして、ひそかに控えていたことは、私の力が及ばないことです。もし、咎めがあるならば、その者を召し出しましょうか。

次に刀の事は、主殿司に預けて置きましたので、それを召しだされ、刀が本物かどうかを見られてから、咎めのあるやなしやをお決めになられてはどうでしょうか」と申されたりければ

「この儀もっとも然るべし」とて、

急ぎ、かの刀を召し出されてご覧になると、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、中は木刀に銀箔が貼ってありました。

「その場の恥辱を逃れんが爲に、刀を帯びているように見せかけていたが、後日の訴訟を予見して、木刀を帯しける用意の程こそ神妙なれ。弓矢に携はらん程の者(武士)の謀(思いめぐらすこと)には、もっともこのようでありたいものだ。それにまた、家来が小庭に控えていたことは、一方においては武士の郎等の習ひなり。忠盛が咎にはあらず」とて、かえって感心なさり、敢て罪科の沙汰(罪科におこなうという命令)はありませんでした。


※【平忠盛】たいら‐の‐ただもり

平安末期の武将。正盛の子。清盛の父。白河院の寵を得て、延暦寺衆徒の強訴を退け、山陽・南海の海賊を討つなど功をあげ、鳥羽上皇の時、内昇殿を許された。また、日宋貿易に尽力し平氏繁栄の基をつくった。歌人としても知られる。永長元~仁平三年(一〇九六‐一一五三)精選版日本国語大辞典小学館 

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(考察)

    この事件は殿上人の間では有名な語りぐさで、覚明が取材しまとめあげた

この殿上闇討の条は、清盛の父忠盛が朝廷の殿上人のあいだで、どのように思われていたかが描かれていて、物語の舞台が宮殿の中のことなので作者の覚明が実際に見たことではありません。

多分、この事件は殿上人たちの間では有名な語りぐさとなっていて、プロデューサー役の慈円も殿上人の多い藤原一門育ちなので漏れ聞いたエピソードだったのではないかと思われます。

覚明が慈円やその周辺から取材して、まとめあげた条と思われますが如何がでしょう。

(長左衛門・記)

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(参照)

「平家物語」の殿上闇討の条(原文)      

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の殿上闇討を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

殿上闇討の全文     

しか(然)るにただもり(忠盛)、いま(未)だびぜんのかみ(備前守)たりしとき(時)、とばのゐん(鳥羽院)のごぐわん(御願)、とくぢやうじゆゐん(得長壽院)をざうしん(造進)して、さんじふさんげん(三十三間)のみだう(御堂)をた(建)て、いつせんいつたい(一千一體)のおんほとけ(御佛)をす(据)ゑたてまつ(奉)らる。

くやう(供養)はてんじようがんねんさんぐわつじふさんにち(天承元年三月十三日)なり。けんじやう(勸賞)にはけつこく(闕國)をたま(賜)ふべきよし(由)おほ(仰)せくだ(下)されける。をりふし(折節)たじまのくに(但馬国)のあきたりけるをぞくだ(下)されける。しやうくわう(上皇)なほぎよかん(御感)のあま(餘)りに、うち(内)のしようでん(昇殿)をゆる(許)さる。ただもり(忠盛)さんじふろく(三十六)にてはじ(始)めてしようでん(昇殿)す。

くも(雲)のうへびと(上人)これをそね(猜)みいきどほり、おな(同)じきとし(年)のじふいちぐわつにじふさんにち(十一月二十三日)、ごせつとよのあかり(五節豊明)のせちゑ(節會)のよ(夜)、ただもり(忠盛)をやみうち(闇討)にせんとぞぎ(議)せられける。ただもり(忠盛)、このよし(由)をつた(傳)へき(聞)いて、

「われいうひつ(右筆)のみ(身)にあらず、ぶよう(武勇)のいへ(家)にむま(生)れて、いま(今)ふりよ(不慮)のはぢ(恥)にあはんこと(事)、いへ(家)のため(爲)、み(身)のため(爲)こころう(心憂)かるべし。せん(詮)ずるところ(所)、み(身)をまつた(全)うしてきみ(君)につか(仕)へたてまつ(奉)れといふほんもん(本文)あ(有)り」とて、

かねてようい(用意)をいた(致)す。さんだい(參内)のはじめ(始)より、おほ(大)きなるさやまき(鞘巻)をようい(用意)し、そくたい(束帯)のした(下)にしどけなげにさ(差)しほらし、ひ(火)のほのぐら(暗)きかた(方)にむか(向)つて、やはらこのかたな(刀)をぬ(抜)きいだ(出)いて、びん(鬢)にひきあ(引當)てられたりけるが、よそ(餘所)よりは、こほり(氷)などのやう(様)にぞみ(見)えける。しよにん(諸人)め(目)をすましけり。                                       

また(又)ただもり(忠盛)のらうどう(郎等)、もとはいちもん(一門)たりしたひらのむくのすけさだみつ(平木工助貞光)がまご(孫)、しんのさぶらうだいふいへふさ(進三郎大夫家房)がこ(子)に、さひやうゑのじよういへさだ(左兵衛尉家貞)といふもの(者)あり。うすあを(薄青)のかりぎぬ(狩衣)のした(下)に、もよぎをどし(萠黄縅)のはらまき(腹巻)をき(著)、つるぶくろ(弦袋)つけたるたちわきばさ(太刀脇挟)んで、てんじやう(殿上)のこには(小庭)にかしこま(畏)つてぞさぶら(候)ひける。

くわんじゆいげ(貫首以下)、あやしみをなして、

「うつほばしら(柱)よりうち(内)、すず(鈴)のつな(綱)のへん(邊)に、ほうい(法衣)のもの(者)のさぶらふ(候)はなにもの(何者)ぞ。らうぜき(狼藉)なり。とうとうまか(罷)りいで(出)よ」と、

ろくゐ(六位)をもつ(以)ていはせられたりければ、いへさだ(家貞)かしこま(畏)つてまう(申)しけるは、

「さうでん(相傳)のしゆ(主)びぜんのかうのとの(備前守殿)のこんや(今夜)やみうち(闇討)にせられたま(給)ふべきよし(由)うけたまは(承)つて、そのならんやう(様)をみ(見)んとて、かくてさぶらふ(候)なり。えこそい(出)づまじ」とて、また(又)かしこま(畏)つてぞさぶら(候)ひける。

これらをよしなしとやおも(思)はれけん、そのよ(夜)のやみうち(闇討)な(無)かりけり。


ただもり(忠盛)また(又)ごぜん(御前)のめし(召)にま(舞)はれけるに、ひとびと(人々)ひやうし(拍子)をか(替)へて、

「いせへいじ(伊勢瓶子)はすがめ(醯甕)なりけり」とぞはやされける。

かけまくもかたじけな(忝)く、このひとびと(人々)はかしはばらのてんわう(柏原天皇)のおんすゑ(御末)とはまう(申)しながら、なかごろ(中頃)はみやこ(都)のすまひ(住居)もうとうとしく、ぢげ(地下)にのみふるま(振舞)ひなつて、いせのくに(伊勢國)にぢうこく(住國)ふか(深)かりしかば、そのくに(國)のうつはもの(器)にことよ(事寄)せて、いせへいじ(伊勢平氏)とぞはやされける。

そのうへただもり(忠盛)のめ(目)のすが(眇)まれたりけるゆゑ(故)にこそ、かやうにははや(拍)されけるなれ。

ただもり(忠盛)いかにすべきやう(様)もなくして、ぎよいう(御遊)もいま(未)だをは(終)らざるさき(前)に、ごぜん(御前)をまか(罷)りい(出)でらるるとて、ししんでん(紫宸殿)のごご(御後)にして、ひとびと(人々)のみ(見)られけるところ(所)にて、よこ(横)だへさされたりけるこし(腰)のかたな(刀)をば、とのもづかさ(主殿司)にあづ(預)けお(置)きてぞい(出)でられける。

いへさだ(家貞)、ま(待)ちうけたてま(奉)つて、

「さていかが(如何)さふら(候)ひつるやらん」とまう(申)しければ、かうともい(謂)はまほしうはおも(思)はれけれども、まさしういひつるほど(程)ならば、やがててんじ(殿上)やうまでもき(斬)りのぼ(上)らんずるもの(者)のつらだましひ(面魂)にてあるあひだ(間)、「べつ(別)のこと(事)なし」とぞこた(答)へられける。


ごせつ(五節)には、「しろうすやう(白薄様)、こぜんじのかみ(紙)、まき(巻)あげのふで(筆)、ともゑ(巴)かいたるふで(筆)のぢく(軸)」なんどいふ、さまざまかやうにおもしろき(面白)こと(事)をのみこそうた(歌)ひま(舞)はるるに、なかごろ(中頃)ださいのごんのそつすゑなかのきやう(太宰權帥季仲卿)といふひと(人)ありけり。あま(餘)りにいろ(色)のくろ(黒)かりければ、とき(時)のひと(人)、こくそつ(黒帥)とぞまう(申)しける。このひと(人)いま(未)だくらんどのとう(藏人頭)なりしとき(時)、ごぜん(御前)のめし(召)にま(舞)はれけるに、ひとびと(人々)ひやうし(拍子)をか(替)へて、「あなくろくろ(黒々)、くろ(黒)きとう(頭)かな。いか(如何)なるひと(人)のうるし(漆)ぬりけん」とぞはや(拍)されける。

また(又)くわざんのゐん(花山院)のさきのだいじやうだいじんただまさこう(前太政大臣忠雅公)、いま(未)だじつさい(十歳)なりしとき(時)、ちちちうなごんただむねのきやう(父中納言忠宗卿)におくれたま(給)ひて、みなしご(孤子)にておはしけるを、こなかのみかどのとうぢうなごんかせいのきやう(故中御門藤中納言家成卿)、そのとき(時)はいま(未)だはりまのかみ(播磨守)にておはしけるが、むこ(聟)にと(取)つて、はなやかにもてなされしかば、これもごせつ(五節)には、「はりまよね(播磨米)はとくさ(木賊)か、むく(椋)のは(葉)か、ひと(人)のきら(綺羅)をみが(磨)くは」とぞはやされける。「しやうこ(上古)にはかやうのこと(事)どもおほかりしかども、ことい(事出)でこず。まつだい(末代)いかが(如何)あらんずらん、おぼつかな(覺束無)しとぞひとびと(人々)まう(申)しあはれける。


あん(案)のごと(如)くごせつ(五節)はてにしかば、ゐんぢう(院中)のくぎやうてんじやうびと(公卿殿上人)、いちどう(一同)にうつた(訴)へまう(申)されけるは、

「それゆうけん(雄劍)をたい(帯)してくえん(公宴)にれつ(列)し、ひやうぢやう(兵仗)をたま(賜)はつてきうちう(宮中)をしゆつにふ(出入)するは、みな(皆)これきやくしき(格式)のれい(禮)をまも(守)る、りんめい(綸命)よし(由)あるせんぎ(先規)なり。しかるをただもりのあそん(忠盛朝臣)、あるひ(或)はねんらい(年來)のらうじう(郎從)とかう(號)して、ほうい(布衣)のつはもの(兵)をてんじやう(殿上)のこには(小庭)にめしお(召置)き、あるひ(或)はこし(腰)のかたな(刀)をよこ(横)だへさいて、せちゑ(節會)のざ(座)につらな(列)る。りやうでうきたい(兩條希代)いま(未)だき(聞)かざるらうぜき(狼藉)なり。こと(事)すで(既)にちようでふ(重疊)せり。ざいくわ(罪科)もつと(尤)ものが(遁)れがた(難)し。はやく(早)てんじやう(殿上)のみふだ(御簡)をけづ(削)つて、けつくわんちやうにん(闕官停任)おこな(行)はるべきか」と、

しよきやういちどう(諸卿一同)にうつた(訴)へま(申)うされければ、しやうくわう(上皇)おほ(大)きにおどろ(驚)かせたま(給)ひて、ただもり(忠盛)をごぜん(御前)へめ(召)しておんたづ(御尋)ねあり。

ちん(陳)じまう(申)されけるは、「ま(先)づらうじう(郎從)こには(小庭)にし

こう(伺候)のよし(由)、まつ(全)たくかくご(覺悟)つかまつ(仕)らず。ただ(但)しきんじつひとびとあひ(近日人々相)たくまるるむね(旨)、しさい(子細)あるかのあひだ(間)、ねんらい(年來)のけにん(家人)、こと(事)をつた(傳)へき(聞)くかによつて、そのはぢ(恥)をたす(助)けんがために、ただもり(忠盛)にはし(知)らせずして,ひそか(竊)にさんこう(參候)のでう(條)、ちからおよ(力及)ばざるしだい(次第)なり。

も(若)しとが(咎)あるべくは、かのみ(身)をめ(召)ししん(進)ずべきか。つぎ(次)にかたな(刀)のこと(事)は、とのもづかさ(主殿司)にあづ(預)けお(置)きさふらひ(候)をは(畢)んぬ。

これをめ(召)しいだ(出)され、かたな(刀)のじつぷ(實否)によつて、とが(咎)のさう(左右)おこな(行)はるべきか」とまう(申)されたりければ、このぎ(儀)もつと(尤)もしか(然)るべしとて、いそ(急)ぎかのかたな(刀)をめ(召)しいだ(出)いてえいらん(叡覽)あるに、うへ(上)はさやまき(鞘巻)のくろ(黒)うぬ(塗)つたりけるが、なか(中)はきがたな(木刀)にぎんぱく(銀箔)をぞお(押)いたりける。

「たうざ(當座)のちじよく(恥辱)をのが(遁)れんがため(爲)に、かたな(刀)をたい(帯)するよし(由)あら(顯)はすといへども、ごにち(後日)のそしよう(訴訟)をぞんぢ(存知)して、きがたな(木刀)をたい(帯)しけるようい(用意)のほど(程)こそしんべう(神妙)なれ。きうせん(弓箭)にたづさ(携)はらんほど(程)のもの(者)のはかりごと(謀)には、もつと(尤)もかうこそあらまほしけれ。

か(兼)ねてはまた(又)らうじう(郎従)こには(小庭)にしこう(伺候)のこと、かつうはぶし(武士)のらうどう(郎等)のなら(習)ひなり。ただもり(忠盛)がとが(咎)にはあらず」とて、かへ(却)つてえいかん(叡感)にあづか(預)つしうへ(上)は、あへ(敢)てざいくわ(罪科)のさた(沙汰)はな(無)かりけり。

作成/矢久長左衛門