2019年7月4日木曜日

原作者の存在を考証(9) 善光寺炎上の条


平家物語の各条から原作者の存在を考証する(9)
 この善光寺炎上は覚明ならではの閃きで書かれたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の善光寺炎上の条

(考察)
             覚明の阿弥陀如来様との結縁の初体験は、善光寺であった

 三井寺炎上の条を書いたとき、覚明の脳裏には奈良東大寺と興福寺の炎上に対する怒りが背景にありました。平家一門により東大寺の大仏像も被害を受けていたのです。
三井寺の有り難い本尊像も焼けて失われていました。 三井寺の本佛は天武天皇の御本尊です。その本尊像を含めて三井寺では仏像二千餘體が燃えてしまったのです。
覚明は仏像が如何に大切なものなのか、信州善光寺の一光三尊阿弥陀如来像のことが頭をよぎり、ここでその由来を書くことで、自分の仏像に対する敬慕を人々に伝えたいと思ったに違いありません。

覚明は信濃の千曲川沿いの海野荘大屋(現上田市)というところで生まれました。
幼い頃に遊んだ千曲川を下ると善光寺(長野市)があります。
覚明は年寄りに連れられ善光寺参りは何度も経験していたと思います。
望月の駒で有名な馬の産地ですから乗馬を利用する陸路は勿論、当時は千曲川には舟運があり、信濃川まで通じていました。
覚明の阿弥陀如来様との結縁の初体験は、この善光寺であったと思います。

それに、この条を書いたときは、箱根から比叡山に来たばかりだと思います。
覚明は箱根権現にいたとき「曽我物語」を書いています。
曽我十郎と五郎兄弟の仇討ち事件の関係者を覚明(当時は信救得業)は見知っていました。
そして事件で亡くなった十郎の生前の愛人である19歳の虎女(禅修比丘尼)に供養の旅をすすめ、ともに善光寺詣でをしています。
善光寺には行ってきたばかりで、箱根権現で出家したばかりの虎女との旅の思い出もあり、覚明にとっては縁が深い寺でした。

現在の善光寺のホームページでは、
「信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております」とあります。

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原文では、

その頃信濃国善光寺炎上の事ありけり。
かの如来は、昔中天竺舎衞國に、五種の悪病起つて、人僧多く滅びし時、月蓋長者が致請によつて、龍宮城より閻浮檀金を得て、佛、目連長者、心を一にして、鑄顯はし給へる一ちゃく手半の彌陀の三尊、三國無雙の靈像なり。

佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事五百餘歳、されども佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝聖明王、わが朝の帝欽明天皇の御宇に及びて、かの國よりこの國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜をらせおはします。
常に金色の光を放たせ給ふ。
これに依つて年號をば金光と號す。

同じき三年三月上旬に、信濃国の住人大海の本田善光、都へ上り、如来に逢ひ奉り、やがて誘ひ参らせて下りけるが、晝は善光如来を負ひ奉り、夜は善光如来に負はれ奉つて、信濃国へ下り、水内郡に安置し奉つしより以来、星霜は五百八十餘歳、されども炎上はこれ始とぞ承る。

王法盡きんとては、佛法先づ亡ずと云へり。
さればにや、さしもやんごとなかりつる靈寺靈山の多く亡び失せぬる事は、王法の末になりぬる先表やらんとぞ人申しける。

 (現代文訳)

その頃(治承3年3月24日)、信濃国の善光寺が炎上(原因不明)したことがあります。
ここの阿弥陀如来像は、昔、中天竺の舎衞國(毘舎離國)に、五種類の疫病が流行し、人も僧も多く死んだので、月蓋長者(インド毘舎離大城の富豪)の要請によつて、龍宮城より閻浮檀金(良質の金)を得て、釈迦、目連長者(釈迦の十大弟子の一人で神通第一と称せらる)が心を一にして、鋳造された一尺三寸の阿弥陀三尊で、三國(天竺・中国・日本)に二つとない魂が宿った像なのです。

釈迦が入滅されて後、像は天竺にとどまられて五百余年、しかしながら佛法が東方に広まる道理により、百濟國に移られて、一千年の後、百濟の帝、聖明王(百濟國第26代の王)が、わが國の帝、欽明天皇(第29代天皇)の御代に像を百済から日本に移されて、攝津國の難波の浦にて、歳月を送られていました。
像は常に金色の光を放っておられたので、これに依つて年号を金光と号しました。(私年号の九州年号で金光元年は570年、575年までの六年間)

同じき(金光)三年三月上旬に、信濃国の住人大海(伊那郡宇沼村麻績、現在の飯田市)の本田善光が、都へ上り、如来像に逢ひ奉り、やがてお連れ申して下りけるが、晝は善光が如来像を負ひ奉り、夜は善光が如来像に負はれ奉つて、信濃国に下り、水内郡(現在の飯田市座光寺)に安置し奉りました。
それ以来、歳月は五百八十余年、しかし、炎上はこれが始めてとお聴きしました。

王法が尽きるとき、佛法が先づ亡ぶと言います。
それゆえ、そのように並々ならぬ靈寺靈山の多くが亡び失せる事は、王法の末になりぬる先触れと人びとは言います。

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(考察)
             覚明は、平家に護られていた王法は尽きたかも・・・という

「王法盡きんとては、佛法先づ亡ずと云へり」
ここで覚明は、平家一門に亡ぼされている仏法(例えば三井寺炎上や奈良炎上)があるということは、平家一門に護られていた王法も尽きたかもしれないということを言いたかったのだと思います。

そして、平家一門が亡びる前触れは、遡って治承3年の善光寺の炎上にあったのではないかと、やや、こじつけですが、ここに取り上げ述べているのだと思います。

現在の善光寺のホームページでは、 その由緒を次のように掲載しています。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。
皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました」とあります。

以上から、この善光寺炎上の条は、覚明ならではの閃きで書かれたものではないかと推察されます。
これからもわかるように、覚明が「平家物語」の原作である「治承物語」の作者(信濃前司幸長)ということは疑いのない事実です。
この善光寺炎上の条も「治承物語」にあったと確信して良いのではないかと思います。

(長左衛門・記)
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(参照)
                                                                       
「平家物語」の善光寺炎上の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の善光寺炎上を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
                                                                       
善光寺炎上の全文(信州善光寺の炎上) 

そのころ(頃)しなののくに(信濃国)ぜんくわうじ(善光寺)えんしやう(炎上)のこと(事)ありけり。

かのによらい(如来)は、むかし(昔)ちうてんぢくしやゑこく(中天竺舎衞國)に、ごしゆ(五種)のあくびやう(悪病)おこ(起)つて、じんそう(人僧)おほ(多)く、ほろ(滅)びしとき(時)、ぐわつかいちやうじや(月蓋長者)がちせい(致請)によつて、りゆうぐうじやう(龍宮城)よりえんぶだごん(閻浮檀金)をえ(得)て、ほとけ(佛)、もくれんちやうじや(目連長者)、こころ(心)をひとつ(一)にして、い(鑄)あら(顯)はしたま(給)へるいつちやくしゆはん(一ちゃく手半)のみだ(彌陀)のさんぞん(三尊)、さんごくぶさう(三國無雙)のれいざう(靈像)なり。

ぶつ(佛)めつど(滅度)ののち(後)、てんぢく(天竺)にとどま(留)らせたま(給)ふこと(事)ごひやくよさい(五百餘歳)、されどもぶつぽふとうぜん(佛法東漸)のことわり(理)にて、はくさいこく(百濟國)にうつ(移)らせたま(給)ひて、いつせんざい(一千歳)ののち(後)、はくさい(百濟)のみかどせいめいわう(帝聖明王)、わがてう(朝)のみかどきんめいてんわう(帝欽明天皇)のぎよう(御宇)におよ(及)びて、かのくに(國)よりこのくに(國)へうつら(移)せたま(給)ひて、つのくになんば(攝津國難波)のうら(浦)にして、せいざう(星霜)をおく(送)らせおはします。

つね(常)にこんじき(金色)のひかり(光)をはな(放)たせたま(給)ふ。
これによ(依)つてねんがう(年號)をばこんくわう(金光)とかう(號)す。

おな(同)じきさんねんさんぐわつじやうじゆん(三年三月上旬)に、しなののくに(信濃国)の住人おほみ(大海)のほんだよしみつ(本田善光)、みやこ(都)へのぼ(上)り、によらい(如来)にあ(逢)ひたてまつ(奉)り、やがていざな(誘)ひまゐ(参)らせてくだ(下)りけるが、ひる(晝)はよしみつ(善光)によらい(如来)をお(負)ひたてまつ(奉)り、よる(夜)はよしみつ(善光)によらい(如来)にお(負)はれたてま(奉)つて、しなののくにへ(信濃国)くだ(下)り、みのちのこほり(水内郡)にあんぢ(安置)したてま(奉)つしよりこのかた(以来)、せいざう(星霜)はごひやく
はちじふよさい(五百八十餘歳)、されどもえんしやう(炎上)はこれはじめ(始)とぞうけたまは(承)る。

わうぼふ(王法)つ(盡)きんとては、ぶつぽふ(佛法)ま(先)づばう(亡)ずとい(云)へり。さればにや、さしもやんごとなかりつるれいじれいさん(靈寺靈山)のおほ(多)くほろ(亡)びう(失)せぬること(事)は、わうぼふ(王法)のすゑ(末)になりぬるぜんべう(先表)やらんとぞひと(人)まう(申)しける。

 作成/矢久長左衛門

2019年6月19日水曜日

お知らせ(4)「原作者存在の考証一覧」

  平家物語の各条から原作者の存在を考証(一覧)


考証した順にサブタイトルを並べて、アクセスし易いようにリンクを貼りました。
考証といっても裏付ける資料が乏しく、信濃前司行長、信濃入道こと信救・覚明の系図や経歴、そして作品を手がかりに考察する作業を重ねた上での、想像を交えたものです。












(12)「殿上闇討の条」も覚明が慈円とその周辺を取材して書いたもの







 

(19)北国下向の条(清水冠者含む覚明は頼朝と義仲の対立にふれる


(20)主上都落の条」で、覚明は源氏側が平家側を都から追い出したと語る


以上は、平家物語の原作「治承物語」に存在した可能性が最も濃厚な各条です。

治承物語は当初三巻と言われていますが、一巻に何条あったのかは不明です。
まだ、覚明が書いた条があるかもしれませんが、一応、確信できるもの20本を、ここに掲載しました。


(長左衛門・記)


2019年6月17日月曜日

原作者の存在を考証(8) 三井寺炎上の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(8)

この三井寺炎上は覚明が大津で焼け跡を見てきて書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 ☆「平家物語」の三井寺炎上の条

(考察)

   覚明は、焼け跡に立ち「めでたき聖跡なれど今は何もない」と、その印象を

 三井寺からの南都牒状の条と興福寺からの南都返蝶の条を比叡山で思い出しながら書いた覚明は、次に、書いておきたい条が、この三井寺炎上の条でした。

木曽義仲の祐筆であったことがばれて箱根に居られなくなった覚明は、比叡山への逃亡の途上、近江の大津を経由してきたに違いありません。

そこで、その後の三井寺がどうなっているか、気がかりだったため平家に焼き討ちされた三井寺の焼け跡に立ち寄ったと思います。

そこは茫漠とした焼け跡となっており、「めでたき聖跡なれど今は何もない」と、その印象を簡潔に描写しています。

それは実際に見てきた実感のこもった名文です

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原文では

日頃は山門の大衆こそ、發向の猥しき訴へ仕るに、今度は如何思ひけん、穏便を存じて音もせず。
然るを南都三井寺同心して、或は宮請取り參らせ、或は御迎ひに參る條、これ以て朝敵なり。
然らば奈良をも、寺をもせ攻めらるべしと聞えしが、先づ三井寺を攻めらるべしとて、同じき五月二十七日、大將軍には左兵衛督知盛、副將軍には薩摩守忠度、都合その勢一萬餘騎、園城寺へ發向す。

寺にも大衆一千人、甲の緒をしめ、掻楯掻き、逆茂木引いて、待ちかけたり。
卯の刻より矢合して、一日戦ひ暮し、夜に入りければ、大衆以下法師ばらに至るまで、三百餘人討たれぬ。
夜軍になつて、暗さは闇し、官軍寺中に攻め入りて、火を放つ。

 (現代文訳)

日ごろは比叡山の衆徒こそが、分別のない訴えを致すのに、今度は何を思ったのか、穏便を心がけて音沙汰もない。
それなのに、奈良興福寺と大津三井寺は心を一つに、もしかすると高倉宮(以仁王)をおひきうけし、またはお迎えに参るということで、これは朝敵である(つまり、朝廷と一体の平家に対する謀叛でもある)。
それで、(平家軍は)三井寺も興福寺も攻撃すべきであるとして、
同(治承4)年五月二十七日、大将軍には清盛の四男左兵衛督平知盛、、副將軍には清盛の異母弟薩摩守平忠度、しめてその勢力一万余騎が園城寺(三井寺)へ向かって進軍した。

寺では衆徒一千人が甲の緒をしめ、矢を防ぐ盾を垣のように並べ、
木の枝の先端をすべて鋭くとがらしたものを敷いて、待ち受けた。

卯の刻(ほぼ午前五時から七時まで)より矢合(開戦の矢を敵味方から射込むこと)して、一日戦ひ暮し、夜に入りければ、大衆以下法師ばらに至るまで、三百余人が討たれた。
夜の戦いになつて、暗さは闇し、官軍(平家軍)は寺の中に攻め入りて、火を放つた。

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(考察)

          覚明が、この条の書き出しで、三井寺に同情的なのは当然

 覚明がこの書き出し部分を書いたとき、圓城寺からの救援依頼状に対し比叡山がどんな対応をしたかを既に詳しく知っていました。
そこで、三井寺の立場に同情して「日頃は山門の大衆こそ、發向の猥しき訴へ仕るに、今度は如何思ひけん、穏便を存じて音もせず」と、やや揶揄的に述べています。
この当時の山門の天台座主は明雲大僧正です。
そのときの日和見的対応について覚明は批判的です。
後に描かれる法住寺合戦の条では、悲しいことに明雲大僧正は木曽義仲軍に攻められ非業の死を迎えています。
残念ながらそこには祐筆の覚明もいました。
日和見を決め込んで平家に味方した明雲大僧正のために失われたのは高倉宮らを始めとして、この三井寺だけで大衆以下法師ら三百余人です。
この条の書き出しで覚明が三井寺に同情的なのは当然です。
それに南都返牒の条でも触れたように「克く梁園左右の陣を固めて、宜しく吾等が進發の告げを待つべし」と書いた信救(覚明)は、あまりにも事が急展開したために三井寺への救援も間に合わず慚愧の念を抱えたまま、事ここに至り、この条を書き始めることになったのです。

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続いて原文では

焼くる所、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、大寶院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊、竝びに本尊像等、八間四面の大講堂、鐘楼、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御寶殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、竝びに智證の渡し給へる一切經七千餘巻、佛像二千餘體、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。
諸天五妙の楽しみも、この時長く盡き、龍神三熱の苦しみも、彌盛んなるらんとぞ見えし。

(現代文訳)
焼けた所は、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、大寶院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊(智証大師作の教待和尚の像を安置する堂)、並びに本尊像等、八間四面の大講堂、鐘楼、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇(佛法擁護の神)、新熊野の御寶殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、並びに智證(円珍)の渡し給へる一切經七千餘巻(延暦寺五世の座主で入唐帰朝後に円城寺を創建)、佛像二千餘體、それらがまたたく間に煙となってしまったのは悲しい。
天上界の諸神の五妙の楽(宮・商・角・徴・羽の五音が美しく妙なる音楽)も、この時より長く尽き、龍神が受ける三つの(燃えあがる炎の熱の激しさを三段に分けた)苦しみも、ますます盛んになることと思われる。

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(考察)

         覚明は、平家への憎しみを再燃させ、執筆のエネルギーにした

覚明がこれを書いたとき、焼ける前の三井寺の伽藍の全体を知っていたとは思えません。
多分、延暦寺の書庫で資料をあさって主なものを書き出したり、聞き込みをしたりして、これだけのものを並べたのだと思います。
その中に円城寺を創建した円珍から引き継がれた一切經七千餘巻があったことを知り、それも經藏とともに燃えてしまったことを覚明は惜しんでいます。
この三井寺の炎上で、極楽浄土への道も途絶え、畜生道でうける三熱の激しい苦しみもますますひどくなると思った覚明は、平家への憎しみを再燃させ、執筆のエネルギーにしたのではないかと想像出来ます。

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さらに続いて原文では

それ三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄せ奉りて、御願となす。
本佛もかの御門の御本尊、然るを生身の彌勒と聞え給ひし教待和尚、百六十年行うて、大師に附嘱し給へり。
都史多天上、摩尼寶殿より天降り、遙かに龍華下生の曉を待せ給ふとこそ聞きつるに、こは如何にしつる事どもぞや。
大師この所を傳法灌頂の霊跡として、井花水の三つを掬び給ひし故にこそ、三井寺とは名づけたれ。

かかるめでたき聖跡なれども、今はなに何ならず。顯蜜須臾に亡びて、伽藍更に跡もなし。
三密道場も無ければ、鈴の聲も聞えず。一夏の花も無ければ、閼伽の音もせざりけり。

宿老碩徳の名師は、行學に怠り、受法相承の弟子は、又經教に別れんだり。
寺の長吏圓慶法親王は、天王寺の別當をも停められさせたまふ。
その外僧綱十三人、闕官せられて、皆檢非違使に預けらる。
堂衆は筒井の浄妙明秀に至るまで、三十餘人流されけり。

「かかる天下の亂れ、国土の騒ぎ、只事とも覺えず、平家の世の末になりぬる先表やらん」とぞ人申しける。

(現代文訳)

この三井寺は、近江の義大領(郡司)が所有する私的な寺であったものを、天武天皇に寄進して、御願寺となしたものである。
本佛も天武天皇の御本尊、それをそのまま、生身の彌勒といわれなさった教待和尚が百六十年修業して、智証大師(円珍)にお渡しなさった。
都史多天上(彌勒菩薩の浄土)は、摩尼(珠)寶殿より天降り、はるか後に龍華下生(彌勒菩薩がこの世に下生して龍華という樹木の下に座して成道し三会の説法をする)の日を待せていると聞いているのに、これはどうしたことであろうか。
智証大師はこの場所を傳法灌頂(真言蜜教の儀式の一つ)の霊跡として、井花水(丑寅の時刻の若水)の水をおくみなされたので三井寺と名づけられた。

このようなめでたき聖跡であるが、今はなにもない。
顯蜜(天台真言の仏法)は一昼夜の三十分の一で亡び、そのうえ伽藍の跡もない。三密道場(真言秘密の道場、三密は身口意の秘密の行法)も無ければ、鈴の音も聞えず。安居(一夏の修業)の花も無ければ 、 仏前に供える水を入れる器の音もしない。

長老で徳の高い高僧は修業と学問に滞りが出るし、また法を受けつぐ弟子は經文や教義から離れてしまった。
三井寺の長吏、圓慶法親王(円恵法親王)は、天王寺の別當をもやめさせられた。
その外の僧綱十三人は退官させられて、みんな檢非違使に預けられた。
堂衆(下級僧侶で僧兵)は筒井の浄妙明秀に至るまで、三十余人が流された。

「かかる天下の亂れ、国土の騒ぎ、只事とも覺えず、平家の世の末になりぬる先表(前兆)やらん」と人びとは言った。

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(考察)

       覚明は、奈良興福寺と東大寺の炎上についても書かねばならぬと思った
 
  覚明は、ここまで書いてきて奈良興福寺と東大寺の炎上についても書かねばならぬと思ったに違いありません。
それは是非書かねばならぬ東大寺「伽藍ノ罰」だからです。
しかし、その前に善光寺炎上にも触れておきたいと思いました。
何故なら平家の滅びの前兆はその時からあったことに気づいたからです。

(長左衛門・記)
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(参照)

「平家物語」の三井寺炎上の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の三井寺炎上を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
                                                                       
三井寺炎上の全文(大津圓城寺の炎上) 

ひごろ(日頃)はさんもん(山門)のだいしゆ(大衆)こそ、はつかう(發向)のみだりがは(猥)しきうつた(訴)へつかまつ(仕)るに、こんど(今度)はいかがおも(如何思)ひけん、をんびん(穏便)をぞん(存)じておと(音)もせず。

しか(然)るをなんとみゐでら(南都三井寺)どうじん(同心)して、あるひ(或)はみや(宮)うけとり(請取)りまゐ(參)らせ、あるひ(或)はおんむか(御迎)ひにまゐ(參)るでう(條)、これもつ(以)ててうてき(朝敵)なり。

しか(然)らばなら(奈良)をも、てら(寺)をもせ(攻)めらるべしときこ(聞)えしが、ま(先)づみゐでら(三井寺)をせ(攻)めらるべしとて、おな (同)じきごぐわつにじふしちにち (五月二十七日)、たいしやうぐん (大將軍)にはさひやうゑのかみ (左兵衛督)知盛、ふくしやうぐん (副將軍)にはさつまのかみただのり(薩摩守忠度)、つがふ (都合)そのせい(勢)いちまんよき(一萬餘騎)、をんじやうじ(園城寺)へはつかう(發向)す。

てら(寺)にもだいしゆいつせんにん(大衆一千人)、かぶと(甲)のを(緒)をしめ、かいだて(掻楯)か(掻)き、さかもぎ(逆茂木)ひ(引)いて、ま(待)ちかけたり。

う(卯)のこく(刻)よりやあはせ(矢合)して、いちにち(一日)たたか(戦)ひくら(暮)し、よ(夜)にい(入)りければ、だいしゆいげほふし(大衆以下法師)ばらにいた(至)るまで、さんびやくよにん(三百餘人)う(討)たれぬ。

よいくさ(夜軍)になつて、くら(暗)さはくら(闇)し、くわんぐん(官軍)じちう(寺中)にせ(攻)めい(入)りて、ひ(火)をはな(放)つ。

や(焼)くるところ(所)、ほんがくゐん(本覺院)、じやうきゐん(成喜院)、しんによゐん(眞如院)、けをんゐん(花園院)、だいほうゐん(大寶院)、しやうりうゐん(清瀧院)、ふげんだう(普賢堂)、けうだいくわしやう(教待和尚)のほんばう(本坊)、なら(竝)びにほんぞうとう(本尊像等)、はちけんしめん(八間四面)のだいかうだう(大講堂)、しゆろう(鐘楼)、きやうざう(經藏)、くわんぢやうだう(灌頂堂)、ごほふぜんじん(護法善神)のしやだん(社壇)、いまぐまの(新熊野)のごほうでん(御寶殿)、すべてだうじやたふべうろくぴやくさんじふしちう(堂舎塔廟六百三十七宇)、おほつ(大津)のざいけいつせんはつぴやくごじふさんう(在家一千八百五十三宇)、なら(竝)びにちしよう(智證)のわた(渡)したま(給)へるいつさいきやうしちせんよくわん(一切經七千餘巻)、ぶつざうにせんよたい(佛像二千餘體)、たちま(忽)ちにけぶり(煙)となるこそかな(悲)しけれ。

しよてんごめう(諸天五妙)のたの (楽)しみも、このとき (時)なが (長)くつ (盡)き、りうじんさんねつ (龍神三熱)のくる (苦)しみも、いよいよ (彌)さか (盛)んなるらんとぞみ (見)えし。

それみゐでら(三井寺)は、あふみ(近江)のぎだいりやう(義大領)がわたくし(私)のてら(寺)たりしを、てんむてんわう(天武天皇)によ(寄)せたてまつ(奉)りて、ごぐわん(御願)となす。
ほんぶつ(本佛)もかのみかど(御門)のごほんぞん(御本尊)、しか(然)るをしやうじん(生身)のみろく(彌勒)ときこ(聞)えたま(給)ひしけうだいくわしやう(教待和尚)、ひやくろくじふねん(百六十年)おこな(行)うて、だいし(大師)にふぞく(附嘱)したま(給)へり。
としたてんじやう(都史多天上)、まにほうでん(摩尼寶殿)よりあまくだ(天降)り、はる(遙)かにりうげげしやう(龍華下生)のあかつき(曉)をまた(待)せたま(給)ふとこそき(聞)きつるに、こはいか(如何)にしつること(事)どもぞや。
だいし(大師)このところ(所)をでんぽふくわんぢやう(傳法灌頂)のれいせき(霊跡)として、ゐけすゐ(井花水)のみ(三)つをむす(掬)びたま(給)ひしゆゑ(故)にこそ、みゐでら(三井寺)とはな(名)づけたれ。

かかるめでたきせいぜき(聖跡)なれども、いま(今)はなに(何)ならず。けんみつ(顯蜜)しゆゆ(須臾)にほろ(亡)びて、がらん(伽藍)さら(更)にあと(跡)もなし。さんみつだうぢやう(三密道場)もな(無)ければ、れい(鈴)のこゑ(聲)もきこ(聞)えず。いちげ(一夏)のはな(花)もな(無)ければ、あか(閼伽)のおと(音)もせざりけり。

しゆくらうせきとく(宿老碩徳)のめいし(名師)は、ぎやうがく(行學)におこた(怠)り、じゆほふさうじよう(受法相承)のでし(弟子)は、また(又)きやうげう(經教)にわか(別)れんだり。

てら(寺)のちやうりゑんけいほつしんわう(長吏圓慶法親王)は、てんわうじ(天王寺)のべつたう(別當)をもとど(停)められさせたまふ。
そのほか(外)そうがうじふさんにん(僧綱十三人)、けつくわん(闕官)せられて、みな(皆)けんぴゐし(檢非違使)にあづ(預)けらる。
だうじゆ(堂衆)はつつゐ(筒井)のじやうめうめいしう(浄妙明秀)にいた(至)るまで、さんじふよにん(三十餘人)なが(流)されけり。

「かかるてんが(天下)のみだ(亂)れ、こくど(国土)のさわ(騒)ぎ、ただごと(只事)ともおぼ(覺)えず、へいけ(平家)のよ(世)のすゑ(末)になりぬるぜんべう(先表)やらん」とぞひと(人)まう(申)しける。

 作成/矢久長左衛門

2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(7) 南都返諜の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(7

この南都返牒は、覚明が記憶を頼りに冷静になってから書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 平家物語」の南都返牒の条 

(考察)

         覚明は、すべて記憶を頼りに、この三井寺への返牒の条を書いた

 南都返牒とは、反平家で立ち上がった帝の子以仁王(第二の皇子高倉宮)に逃げ込まれた三井寺(円城寺)が、興福寺に味方してくれるように要請した文書(南都牒状)への返事、つまり、奈良の興福寺から近江大津の三井寺への返牒のことです。

木曾願書の条でも触れられているように、当時、興福寺にいた36歳の信救(覚明)が、その協力要請文書(南都牒状)を見て、この有名な「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒する檄文(南都返牒)を書きました。

しかし、覚明(当時は浄寛と改名)が比叡山でこの平家物語の原作「治承物語」の南都返牒の条を書く時点では、興福寺から来た現物はもう三井寺には残っていませんでした。

なぜなら、平家物語の「三井寺炎上」でも語られるように三井寺が平家に襲われたとき、数多の経典と共に焼失してしまったものと推定されます。

そこで、覚明は、当時を思い起こし、すべて記憶を頼りに、この三井寺への返牒(南都返牒)の条を書いたものと思われます。

奈良で急ぎ書いた現物としては緊迫感が少し欠けているようにも思えますが、改めて趣旨が整理され格調高く書かれています。

この条は流布本の平仮名版では、独立の条としてではなく、前の南都牒状の条の続きのようにして書かれていて、この南都返牒の部分が添付されています。

これから見てもこの部分は覚明本人でなければ書けなかったものだと思います。

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原文では

南都の大衆この状を披見して、一味同心に僉議して、やがて返牒をこそ送りけれ。
その返牒に云く、
「興福寺牒す、園城寺の衙。
來牒一紙に載せられたり。
右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を亡ぼさんとする由の事牒す。
玉泉玉花兩家の宗義を立つと雖も、金章金句、同じう一代の教文より出でたり。
南京北京と共に以て如来の弟子たり。
自寺他寺、互に調達が魔障を伏すべし。


(現代文訳)

奈良の興福寺の衆徒はこの南都牒状を見て、一同で心を一つに詮議し、引き続き園城寺(三井寺)に返事を出しました。

その返事に言わく、
「興福寺より、園城寺の寺務所へ。
送られた牒状一枚に記載されている件。
右、入道淨海(平清盛の出家名)がために、貴寺の佛法が亡ぼされようとしているとのこと、ご返事いたします。

中国の玉泉寺由来の天台宗(園城寺)、中国の玉花宮由来の法相宗(興福寺)と、両寺は別の宗義に立つといえども 、佛法の章句は同じで、釈迦一代の教文から出ています。

興福寺(南京)、園城寺(北京)は共に釈迦如来の弟子です。

自分の寺も他の寺も、お互いに調達(釈迦の従兄弟で仏敵となった調婆達多の略)のような悪人を屈伏させるべきです。

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(考察)

      覚明は、自分の寺も他の寺も釈迦如来の弟子、共に佛敵に対抗しようと

 ここでは、出家後に信救の名で「佛法伝来次第」を書いた覚明らしく、両寺の宗義に対し均衡の取れた考え方を述べています。

信救著作「佛法伝来次第」は、佛法伝来以来の歴史の概略を述べたもので、佛教史の起源である天竺から書き起こしたものです。

佛法の章句は釈迦一代の教文から出ていて、共に釈迦如来の弟子なので、自分の寺も他の寺も佛敵には、お互いに力を合わせて対抗しましょうと述べているのです。

そして、この後では、 佛敵に平家一門を見たて、その存在を疑問視し、清盛の横暴さを、身分の低い出自までをあげつらって、激しく弾劾しています。


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続いて原文では

抑清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。
祖父正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。
大藏卿爲房、加州刺史の古、檢非所に補し、修理大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。
然るを親父忠盛、昇殿を許されし時、都鄙の老少、皆蓬戸の瑕瑾を惜しみ、内外の榮幸、各馬臺の讖文に泣く。
忠盛青雲の翅をかい刷ふと雖も、世の民猶白屋の種を輕んず。名を惜しむ青侍、その家に望む事無し。
然れば則ち去んぬる平治元年十二月、太上天皇一戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以來、高く相國に上つて、兼ねて兵仗を賜はる。
男子或は台階を辱うし、或は羽林に列なり、女子或は中宮職に備はり、或は准后の宣を蒙る。
群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫かの甥、悉く竹符を割く。
加之九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕従となす。
一毛心に違へば、王侯と雖もこれを捕へ、片言耳に逆ふれば、公卿と雖もこれを搦む。
これに依つて、或は一旦の身命を延べんが爲、或は片時の凌蹂を遁れんと思つて、萬乘の聖主、猶面轉の媚をなし、重代の家君、却つて膝行の禮を致す。
代々相傳の家領を奪ふ雖も、上宰も恐れて舌を捲き、宮々相承の荘園を取ると雖も、權威に憚つてものいふ事なし。

(現代文訳)

そもそも、清盛入道は平氏のぬかかす、武家のちりあくたなり。

祖父の平正盛は、五位の役人の家に仕へて、諸国の國司のもとで下働きをしていました。

大藏卿爲房が加賀国の太守の昔に檢非所の役人に採用され、修理大夫顯季が播磨守たりし昔には厩舎の役職に任ぜられました。

ところが、清盛の親父の忠盛が清涼殿に立ち入ることを許されたとき、都や田舎の老いも若きも、皆、蓬戸の瑕瑾(鳥羽上皇の過失)を惜しみ、内外の榮幸(内典・外典に優れた学者)は、各々、馬臺の讖文(野馬台の詩で未来記)が現実となり朝家の衰微を嘆いた。

忠盛は高位高官に上り威儀を整えましたが、世間の人々は貧賎の家の出自を軽蔑していました。名を惜しむ若い侍は、その家に仕官することを望みませんでした。

ところが、すなわち去る平治元年十二月に、後白河上皇が一戰の功に感心して、清盛に破格の賞を授け給ひしより以來、太政大臣に上つて、併せて随身を賜りました。

平家一門の男子は、あるいは大臣、あるいは近衛府の将につらなり、女子は、あるいは中宮に、あるいは准后の宣旨を賜っています。

多くの弟や庶子は、皆、公卿になり、その孫や甥は、ことごとく国司の任を受けています。

そればかりでなく、日本全国を統治、領有し、官僚の任免を勝手にし、国の男も女もしもべにしています。

少しでも意に添わなければ、皇族といえども逮捕し、ひと言でも逆らえば、公卿といえども搦めとります。

そのため、あるいはその場しのぎの延命のため、あるいは一時のはずかしめを逃れんと思い、天皇も、また、面前で媚び、代々家柄の良き藤原長者も膝でいざって平伏しております。

代々相続してきた領土を奪われても、宰相は恐れて黙ってしまい、宮様方が受け継いできた荘園が取り上げられても、権力 に遠慮して物言うこともありません。
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(考察)

             覚明は36歳のころ、興福寺の僧を代表して返牒を書いた

 以上のことは、現在の感覚では、出家した僧が、ここまで個人攻撃し、俗世のことを具体的に述べ、国、皇族、公卿、 貴族、庶民を代弁して発言すると、
「あんたは何者?」となります。

しかし、覚明の出自を調べて見ますと、清和天皇の第四皇子
で兵部卿・式部卿の貞保親王(ていほうしんのう、母親は藤原高子)から十六代目の子孫にあたる信濃豪族滋野氏嫡流海野幸親の次男海野幸(行)長なのです。

信濃の滋野三家(海野族・望月族・禰津族)は代々にわたり信濃「御牧が原」の朝廷の官牧(望月の駒で代表される数千頭の馬)を任されており、以前の清盛の家よりは裕福でした。

当時、東大寺や興福寺には、皇族や貴族の血を引く地方豪族の子弟も遊学のために預けられていました。

出家し信救と称する前は勧学院進士で蔵人通広と称していた覚明もその一人だったのです。

そして、その出家後の36歳のころ、信救法師が藤原一門の寺である興福寺の僧を代表して返牒を書いたのです。

それから考えると、これくらいのことを書いても本人は当たり前の気持ちだったのではないかと思います。


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さらに続いて原文では

勝に乘る餘り、去年の冬十一月、太上皇の栖を追捕して、博陸公の身を推流す。叛逆の甚しきこと、誠に古今に絶えたり。
その時我等、須らく賊衆に行き向つて、その罪を問ふべしと雖も、或は
神慮に相憚り、或は綸言と稱ずるに依つて、鬱陶を押へて、光陰を送る間、重ねて軍兵を起して、一院第二の親王宮を打圍む處に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送り付けて、新羅扉に預け奉る。
王法盡きざる旨著けし。
仍つて貴寺身命を棄てて守護し奉る條、含識の類、誰か随喜せざらん。
この時吾等遠域に在つて、その情を感ずる處に、清盛公、尚兇器を起して、貴寺に入らんとする由、風に傳へ承るに依つて、兼ねて用意を致す。
十八日辰の一點に大衆を發し、諸寺に牒奏し、末寺に下知して、軍士を得てのち、案内を達せんとする處に、青鳥飛び來つて芳翰を投げたり。
數日の鬱念一時に解散す。
彼の唐家清涼一山の
苾蒭、猶武宗の官兵を返す。 
況んや和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらん。
克く梁園左右の陣を固めて、宜しく吾等が進發の告げを待つべし。
状を察して疑胎を作すこと莫かれ。
以つて牒す。件の如し。治承四年五月二十一日、大衆等」
とぞ書いたりける。

(現代文訳)

勢いに乗るあまり、昨年の冬十一月、後白河上皇の御所を没収して、関白を流刑に処しました。

叛逆のはなはだしいことは、誠に未曾有です。

そのとき、我らは、当然に賊徒に立ち向かって、その罪を問わねばならないといえども、或は神慮に相い憚り、或いは綸旨(天皇の言葉)と称するものに、鬱とうしさを抑えて、時を過ごす間に、(平家一門は)重ねて軍兵を動員して後白河院第二皇子の高倉宮(以仁王)を包囲しました。

そこへ、八幡三所(応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神を祀る)、春日大明神が、密かにお姿を現され、お乗物を捧げ奉り、以仁王を貴寺(円城寺)に送り届けて、新羅大明神の社にお 預け奉りました。

王法が尽きてないことは明らかです。

それゆえ、貴寺が命をかけてお守り奉るとのこと、有識者で喜ばない人はいないでしょう。

この時、我らは遠くにいて、同じような気持ちでいたところに、清盛公が兵乱を起こし、さらに、貴寺に入らんとするとのこと、その噂を聞き、兼ねてより用意をしていました。

十八日辰の一點に衆徒を出発させ、諸寺に伝達し、末寺にも知らせて、軍士を揃えてのち、案内を届けようとしたところに、そちらの書信の使者がきてお手紙を受け取りました。

數日の鬱念は一時に晴れました。

かの唐家清涼一山の僧侶らが、武宗の官兵を追い返しました。

まして、日本国の南(興福寺)北(円城寺)兩門の衆徒が、皇室に謀反をたくらむ臣下のよくないことがらをうち払うことができないということはないでしょう。

十分に、竹園(高倉宮)の左右の陣を固めて、宜しく我らが進發の告げをお待ちください。

この状を察して疑いをなすことがないように。
以つて牒す。件の如し。
治承四年五月二十一日、大衆等」
とぞ書いたりける。

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(考察)

            覚明が書いたこの内容は教養や知性が盛り込まれ個性的

 当時、これを書いた信救(覚明)が、平家にばれて興福寺にいられなくなり奈良から命がけで逃亡したことは、木曾願書の条で本人が書いています。

その原文では
「高倉宮、園城寺へ入御の時、山、奈良へ牒状を遣はされけるに、南都の大衆如何思ひけん、その返牒をば、この信救にぞ書かせける。
抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥とぞ書いたりける。
入道大きに怒つて、
何條その信救めが、浄海(清盛の出家名)程の者を、平氏の糟糠、武家の塵芥と書くべき様こそ奇怪なれ。
急ぎその法師搦め捕つて、死罪に行へと宣ふ間、これに依つて南都には堪へずして、北国へ落ち下り、木曽殿の手書して、大夫坊覺明と名乗る」とあります。

高倉宮(以仁王)が源頼政と平家討伐のために挙兵した折に、比叡山や奈良へ牒状を遣はされました。その返牒を奈良にいた信救が書くことになり、
この有名な「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥 」の檄文を書いたのです。

清盛は大いに怒り信救法師を捕えて殺せと命令しました。

信救は奈良に居られず北國に落ち延び、木曽義仲の祐筆として大夫坊覺明と改名したと自ら述べているのです。

しかし、この南都返牒の現物は三井寺(円城寺)に宛てて送られたものです。

言わば一点ものの蜜書です。

なぜ、平家に知られたのでしょうか。

興福寺から漏れたのでしょうか。

興福寺では大衆で詮議して信救(覚明)が代表して書いたとなっています。

でも、この南都返牒の内容には覚明の教養や知性が盛り込まれ個性的です。

興福寺でこの南都返牒の下書きが大衆に公開されたのでしょうか。

多分、宛先の三井寺で公開されたのだと思います。公開と言っても掲示板に貼り出されたのだと思います。

それを潜り込んでいた平家の親派が見て、平家一門に御注進したと思われます。

清盛に知られたことで、信救は奈良に居られなくなり、行く先々で検問に会い、逃げ切れないことを悟り、「源平盛衰記」新八幡願書事の条によれば、窮余の一策として、漆を湯に沸して身に浴び、腫れて癩病患者の如く変そうしたとのことです。

当時、癩病患者がいたので、ひどい漆かぶれはそれと間違えられ、検問を逃れることができたのです。

でも、三井寺の人たちがこの南都返牒を信救が書いたとは知りません。

やはり、興福寺にも平家の親派がいて信救が書いたことがばれたということでしょう。

平家一門は清盛の案で、「平家物語」の禿童の条にあるように情報機関を制度化していたくらいですから、凡ゆるところにスパイ網を張り巡らしていたということではないでしょうか。

その後、信救は奈良から北国を経由して東国へ逃亡する途中に、三河の国府で十郎蔵人行家に出会いました。

行家は平家追討の為に、東国から都へ攻め上るところで、墨俣河で戦い平家に打ち負かされたところでした。

旅で汚れた信救は湯を浴びて手当されると、本当の癩病ではないので腫れは次第に引き本来の信救に戻りました。

この時、行家が三河の国府より伊勢太神宮へ納めた祭文も、信救が代筆しました。その祭文は今も伊勢神宮に宝物として保存されています。

その後、信救は行家とともに信濃に行き、木曾義仲と合流して大夫房覚明と改名したのです。


(長左衛門・記)



(参照)

「平家物語」の南都返牒の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の南都返牒を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

南都返牒の全文(奈良興福寺から三井寺への返牒)

なんと(南都)のだいしゆ(大衆)このじやう()をひけん(披見)して、いちみどうしん(一味同心)にせんぎ(僉議)して、やがてへんてふ(返牒)をこそおく(送)りけれ。
そのへんてふ(返牒)にいは(云)く、

「こうぶくじ(興福寺)てつ(牒)す、をんじやうじ(園城寺)のが(衙)。
らいてふ(來牒)いつし(一紙)にの(載)せられたり。
みぎにふだうじやうかい(右入道淨海)がため(爲)に、きじ(貴寺)のぶつぽふ(佛法)をほろ(亡)ぼさんとするよし(由)のこと(事)てつ(牒)す。
ぎよくせんぎよくくわりやうか(玉泉玉花兩家)のしうぎ(宗義)をたつ(立)といへど(雖)も、きんしやうきんく(金章金句)、おな(同)じういちだい(一代)のけうもん(教文)よりい(出)でたり。
なんきやうほくきやう(南京北京)とも(共)にもつ(以)てによらい(如来)のでし(弟子)たり。
じじたじ(自寺他寺)、たがひ(互)にでうだつ(調達)がましやう(魔障)をぶく(伏)すべし。

そもそも(抑)きよもりにふだう(清盛入道)はへいじ(平氏)のさうかう(糟糠)、ぶけ(武家)のぢんがい(塵芥)なり。

そぶ(祖父)まさもり(正盛)、くらんどごゐ(藏人五位)のいへ(家)につか(仕)へて、しよこくじゆりやう(諸國受領)のむち(鞭)をとる。おほくらきやうためふさ(大藏卿爲房)、かしうしし(加州刺史)のいにしヘ(古)、けんびしよ(檢非所)にふ(補)し、しゆりのだいぶあきすゑ(修理大夫顯季)、はりま(播磨)のたいしゆ(大守)たりしむかし(昔)、むまや(厩)のべつたうしき(別當職)ににん(任)ず。しか(然)るをしんぶただもり(親父忠盛)、しようでん(昇殿)をゆる(許)されしとき(時)、とひ(都鄙)のらうせう(老少)、みな(皆)ほうこ(蓬戸)のかきん(瑕瑾)をを(惜)しみ、ないげ(内外)のえいかう(榮幸)、おのおのばだい(各馬臺)のじんもん(讖文)にな(泣)く。
ただもり(忠盛)せいうん(青雲)のつばさ(翅)をかいつくろ(刷)ふといへど(雖)も、よ(世)のたみ(民)なほ(猶)はくをく(白屋)のたね(種)をかろ(輕)んず。な(名)をを(惜)しむせいし(青侍)、そのいへ(家)にのぞ(望)むこと(事)な(無)し。
しか(然)ればすなは(則)ちさ(去)んぬるへいぢぐわんねんじふにんぐわつ(平治元年十二月)、だじやうてんわう(太上天皇)いつせん(一戰)のこう(功)をかん(感)じて、ふじ(不次)のしやう(賞)をさづ(授)けたま(給)ひしよりこのかた(以來)、たか(高)くしやうこく(相國)にのぼ(上)つて、か(兼)ねてひやうぢやう(兵仗)をたま(賜)はる。
なんし(男子)あるひ(或)はたいかい(台階)をかたじけな(辱)うし、あるひ(或)はうりん(羽林)につら(列)なり、によし(女子)あるひ(或)はちうぐうしき(中宮職)にそな(備)はり、あるひ(或)はじゆんごう(准后)のせん(宣)をかうぶ(蒙)る。
くんていそし(群弟庶子)、みな(皆)きよくろ(棘路)にあゆ(歩)み、そのまご(孫)かのをひ(甥)、ことごと(悉)くちくふ(竹符)をさ(割)く。
しかのみならず(加之)きうしう(九州)をとうりやう(統領)し、はくし(百司)をしんだい(進退)して、ぬび(奴婢)みな(皆)ぼくじう(僕従)となす。いちまう(一毛)こころ(心)にたが(違)へば、わうこう(王侯)といへど(雖)もこれをとら(捕)へ、へんげん(片言)みみ(耳)にさか(逆)ふれば、くぎやう(公卿)といへど(雖)もこれをから(搦)む。
これによ(依)つて、あるひ(或)はいつたん(一旦)のしんみやう(身命)をの(延)べんがため(爲)、あるひ(或)はへんし(片時)のりようじよく(凌蹂)をのが(遁)れんとおも(思)つて、ばんじよう(萬乘)のせいしゆ(聖主)、なほ(猶)めんてん(面轉)のこび(媚)をなし、ぢうだい(重代)のかくん(家君)、かへ(却)つてしつかう(膝行)のれい(禮)をいた(致)す。
だいだいさうでん(代々相傳)のけりやう(家領)をうば(奪)ふといへど(雖)も、しやうさい(上宰)もおそ(恐)れてした(舌)をま(捲)き、みやみやさうじよう(宮々相承)のしやうゑん(荘園)をと(取)るといへど(雖)も、けんゐ(權威)にはばか(憚)つてものいふこと(事)なし。
かつ(勝)にの(乘)るあま(餘)り、きよねん(去年)のふゆ(冬)じふいちぐわつ(十一月)、だ[い]じやうくわう(太上皇)のすみか(栖)をつゐふく(追捕)して、はくりくこう(博陸公)のみ(身)をおしなが(推流)す。ほんぎやく(叛逆)のはなはだ(甚)しきこと、まこと(誠)にこきん(古今)にた(絶)えたり。
そのとき(時)われら(我等)、すべか(須)らくぞくしゆ(賊衆)にゆ(行)きむか(向)つて、そのつみ(罪)をと(問)ふべしといへど(雖)も、あるひ(或)はしんりよ(神慮)にあひはばか(相憚)り、あるひ(或)はりんげん(綸言)としよう(稱)ずるによ(依)つて、うつたう(鬱陶)をおさ(押)へて、くわういん(光陰)をおく(送)るあひだ(間)、かさ(重)ねてぐんびやう(軍兵)をおこ(起)して、いちゐんだいに(一院第二)のしんわうぐう(親王宮)をうちかこ(打圍)むところ(處)に、はちまんさんじよ(八幡三所)、かすがだいみやうじん(春日大明神)、ひそか(竊)にやうがう(影向)をた(垂)れ、せんひつ(仙蹕)をささ(捧)げたてまつ(奉)り、きじ(貴寺)におく(送)りつ(付)けて、しんらの(新羅)とぼそ(扉)にあづ(預)けたてまつ(奉)る。

わうぼふ(王法)つ(盡)きざるむね(旨)あきら(著)けし。
よ(仍)つてきじ(貴寺)しんみやう(身命)をす(棄)ててしゆご(守護)したてまつ(奉)るでう(條)、がんじき(含識)のたぐひ(類)、たれ(誰)かずゐき(随喜)せざらん。
このとき(時)われら(吾等)ゑんゐき(遠域)にあ(在)つて、そのなさけ(情)をかん(感)ずるところ(處)に、きよもりこう(清盛公)、なほ(尚)きようき(兇器)をおこ(起)して、きじ(貴寺)にい(入)らんとするよし(由)、ほのか(風)につた(傳)へうけたまは(承)るによ(依)つて、か(兼)ねてようい(用意)をいた(致)す。
じふはちにち(十八日)たつ(辰)のいつてん(一點)にだいしゆ(大衆)をおこ(發)し、しよじ(諸寺)にてつそう(牒奏)し、まつじ(末寺)にげぢ(下知)して、ぐんし(軍士)をえ(得)てのち、あんない(案内)をたつ(達)せんとするところ(處)に、せいてう(青鳥)と(飛)びきた(來)つてはうかん(芳翰)をな(投)げたり。
すうじつ(數日)のうつねん(鬱念)いちじ(一時)にげさん(解散)す。か(彼)のたうかしやうりやういつさん(唐家清涼一山)のひつしゆ(苾蒭)、なほ(猶)ぶそう(武宗)のくわんびやう(官兵)をかへ(返)す。
いは(況)んやわこくなんぼくりやうもん(和國南北兩門)のしゆと(衆徒)、なん(何)ぞぼうしん(謀臣)のじやるゐ(邪類)をはら(掃)はざらん。
よ(克)くりやうゑん(梁園)さう(左右)のぢん(陣)をかた(固)めて、よろ(宜)しくわれら(吾等)がしんぱつ(進發)のつ(告)げをま(待)つべし。じやう(狀)をさつ(察)してぎたい(疑胎)をな(作)すことな(莫)かれ。も(以)つててつ(牒)す。くだん(件)のごと(如)し。ぢしようしねんごぐわつにじふいちにち(治承四年五月二十一日、だいしゆら(大衆等)」
とぞか(書)いたりける。

作成/矢久長左衛門

原作者の存在を考証(6) 南都諜状の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(6

南都牒状は、覚明が記憶を頼りに思い出しながら書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 平家物語」の南都牒状の条 


(考察)
                  覚明は、当時を知る衆徒たちからも聞き込み纏めた 

 南都牒状とは、反平家で立ち上がった帝の子以仁王(第二の皇子高倉宮)に逃げ込まれた三井寺(円城寺)が、山門(延暦寺)以外に奈良の興福寺にも味方してくれるよう要請した文書のことです。

当時、興福寺にいた36歳の信救(覚明)は、その協力要請文書を見て、かの有名な「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒する檄文(南都返牒)を書きました。

しかし、この条を書く時点では、三井寺からきた牒状の現物は興福寺にはもう残っていません。

なぜなら、平家物語の「奈良炎上」の条でも語られるように興福寺が平家に襲われたとき、数多くの経典と共に焼失してしまったものと推定されます。

その同じ時の三井寺からの「山門への牒状(現物)」が、比叡山延暦寺の書庫に保存してあったのです。

それを見た覚明は、当時を思い起こし、この奈良興福寺への牒状(南都牒状)は、記憶を頼りに書いたものと思われます。

そして、この条の後半に添付したものと思われます。

この条の前半には、山門がどのように反応したかが書かれています。
覚明は個人的にも興味があったものと思われ、滞在している山門の峰々、谷々の宿坊を歩き、当時を知る衆徒たちから状況を聞き込み、以下のように纏めました。

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原文では、

山門の大衆、この状を披見して、
「こは如何に、當山の末寺でありながら、鳥の左右の翅の如く、又車の二つの輪に似たりと、押へ書く條、これ以て奇怪なり」とて、返牒にも及ばず。
その上入道相國、天台座主明雲大僧正に、衆徒を鎭めらるべき由の宣ひければ、座主急ぎ登山して、大衆を鎭め給ふ。
かかりし程に、宮の御方へは、不定の由をぞ申しける。
又入道相國の謀に、近江米二萬石、北國の織延絹三千匹、往來の為に山門へ寄せらる。
これを谷々に嶺々へ引かれけるに、俄の事にてありければ、一人して數多取る大衆もあり、又手を空しうして、一 つも取らぬ衆徒もあり。
何者の所爲にやありけん、落書をぞしたりける。

 山法師織延衣薄くして恥をばえこそ隠さざりけれ 

又絹にもあたらぬ大衆の詠みたりけるにや、
 
 織延を一きれも得ぬわれらさへ薄恥をかく數に入るかな 


(現代語訳)

比叡山の衆徒らは、三井寺からの山門への牒状を開いて見て、
「これは何だ、比叡山の末寺でありながら、鳥の左右の羽根の如く、又、車の両輪に似たりと、同列に見て書くのはおかしなことだ」と、返事も出さなかった。

その上、入道相國(平清盛)が、延暦寺の天台座主明雲大僧正に、山門の衆徒を静めるようにと言ったので、座主は急ぎ比叡山に登山して、衆徒らを静めなさった。

こうした間に、高倉宮(以仁王)の御方へは、去就未定だと申し伝えた。

又、清盛のたくらみで、近江米二萬石、美濃の織延絹三千疋を、あいさつとして山門へ寄進された。

これらは比叡山の谷々や嶺々の宿坊へ配られたが、急なことなので、一人で數多く取る大衆もあり、又、手をこまねいていて一 つも取らぬ衆徒もあった。

誰の仕業であろうか、こんな落書があった。

◯山法師織延衣薄くして恥をばえこそ隠さざりけれ 
(恥も外聞もなく織延絹を受け取った比叡山の法師は、織延の衣が薄いので恥を隠すこともできなかったようだ)

又、織延絹を受け取らなかった衆徒が詠んだものか

◯織延を一きれも得ぬわれらさへ薄恥をかく數に入るかな
(清盛からの織延絹を一きれも受け取らなかった法師たちも薄恥をかく数に入るのだろうかと心配している)

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(考察)
            覚明は山門に疑問を持ち、既存仏教に限界を感じ始めていた

 この落書き二首は、清盛からの贈り物を受け取った山門の卑しさを批判する覚明の感想とも受けとれます。

この辺りから覚明は山門に疑問を持ち、朝廷や公家のための既存仏教に限界を感じ始めていて、後に範宴(親鸞)と共に山を降り、法然の弟子西仏坊となっていくきっかけとなったのではなかったかと思われます。

この条の後半に添付された三井寺からの「南都への牒状」の全文は、覚明が記憶を頼りに思い出しながら書いたものです。

其れは凡そ、以下のとおりで現物に近い正確なものと判断出来ます。

なぜなら、この牒状に返事(南都返牒)を書いたのが覚明(当時は信救)本人だからです。

これは平家物語の原作である「治承物語」にも書かれていたものであることは間違いありません。

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原文では

又南都への状に云く、
「園城寺牒す、興福寺の衙。
殊に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと乞ふ状。
右佛法の殊勝なる事は、王法を守らんが爲、王法又長久なる事、すなわち佛法に依る。
爰に入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、恣に國威を竊にし、朝政を亂り、内につけ外につけ、恨みをなし、歎きをなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子不慮の難を遁れんが爲に、俄に入寺せしめ給ふ。
爰に院宣と號して出し奉るべき旨、頻りに責め有りと雖も、衆徒一向惜しみ奉つて、出し奉るに能はず。
仍つて彼の禪門、武士を當寺へ入れんとす。
佛法といひ、王法といひ、一時に正には破滅せんとす。
昔の唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を亡ぼさしめし時、清涼山の衆、合戰を致して、これを防ぐ。
王權猶かくの如し。
何に況んや謀叛八逆の輩に於てをや。
誰の人か恐誠すべきぞや。
就中南京は例無くして、罪無き長者を配流せらる。
この時に非ずんば、何れの日か會稽を遂げん。
願はくは衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には悪逆の伴類を退けば、同心の至り、本懐に足んぬべし。
衆徒の僉議かくの如く、仍つて牒奏件の如し。
治承四年五月十八日、大衆等」
とぞ書いたりける。

(現代語訳)

また、奈良の興福寺への状に言わく、

「園城寺から、興福寺の寺務所へ。
とくに力を合わせて、当寺の破滅を助けられることを願う文書です。

右の佛法の特別なる事は、王法を守らんが爲です。王法が長く続く事は、すなわち佛法に依ります。

ここに、入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海は、ほしいままに國の威光をわが物にし、朝政を乱し、内(仏教のこと)外(王法のこと)に恨みをなし、われ等が嘆いてる間に、今月十五日の夜、一院(後白河院)第二の王子(以仁王)が思いがけない難を逃れるために、急に円城寺(三井寺)へ入られました。

ここに平家側からは院宣と称して、以仁王を寺から出されるよう頻りに責め立てられているとはいえども、衆徒はみな宮を惜しみ奉り、お出し奉ることができません。

そういうわけで、彼の禪門、在家のまま仏門に入り剃髪している清盛は武士を円城寺に立ち入れようとしています。

佛法といい、王法といい、一時に正に破滅しょうとしています。

むかし、唐の皇帝武宗(會昌天子)が、軍兵を以て佛教を亡ぼそうとした時、五大山の別名である清涼山の衆徒は、合戰を致して、これを防ぎました。王權でさえこのとおりです。

ましてや極めて重い八種の罪(謀反、謀大逆、謀叛、悪虐、不道、大不敬、不孝、不義)の輩に於て何ほどのことがありましょう。

誰かが正すべきことでしょう。

とくに、藤氏の氏寺である奈良興福寺は、前例無くして、罪無き氏の長者である藤原基房を配流せられてしまいました。

今でなければ、いつ、恥をすすげましょう。

願はくは衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には悪逆の一味を撃退すれば、同心の至り、本懐に足りることでしょう。

衆徒の詮議はこのとおりです。
よって牒状をこのように送ります。
治承四年五月十八日、大衆等」
とぞ、書いてありました。

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(考察)

      覚明は、山門側の反応を知ったことで、山門への疑問を持ち始めていた

 この 原文の「昔の唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を亡ぼさしめし時、清涼山の衆、合戰を致して、これを防ぐ。王權猶かくの如し」のくだりの、
 唐の會昌天子とは、唐朝の第18代皇帝武宗(ぶそう)のことで、會昌とは年号のことです。

皇帝武宗は道教に傾斜し「會昌の廃仏」と言われる廃仏令を出しています。

清涼山とは、 中国、山西省にある五台山の別名です。

そこは山深く仏教寺院が多くあったそうです。

日本の天台宗山門派の祖,円仁 (慈覚大師) の著作「入唐求法巡礼行記」(4巻)には、若い時に遣唐使とともに唐に渡り,滞在中 (838~847) の経験談や仏教寺院の状況などを日記風に記したものがあります。

唐時代の中国の状況や,政治上の状態を知るうえにも重要な資料となっており、特に皇帝武宗の仏教排斥運動も円仁が体験していて仏教史研究のうえでも重要な著作となっています。

それを覚明も信救時代の若い時に貪るように読んでいたに違いありません。

それが引用されていたのを心強く思い、次の条にも書かれている「南都返牒」の条の、かの檄文を昂ぶった気持ちで書いたのではないでしょうか。

しかし、以上の原文のくだりは山門への牒状にはなく、興福寺への牒状にのみ引用されています。

円城寺には山門との確執があり、山門側の立場も微妙で、牒状にそこまでは書けなかったのではないかと思われます。

しかし、覚明は、ここで、この違いを認識し、この時の山門側の反応を知ったことで、山門のあり方への疑問を持ち始めていたのではないかと思われます。


(長左衛門・記)



 (参照)

「平家物語」の南都牒状の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の南都牒状を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


南都牒状の全文(三井寺から奈良興福寺への牒状)

さんもん(山門)のだいしゆ(大衆)、このじやう(状)をひけん(披見)して、
「こはいか(如何)に、たうざん(當山)のまつじ(末寺)でありながら、とり(鳥)のさう(左右)のつばさ(翅)のごと(如)く、またくるま(又車)のふた(二)つのわ(輪)にに(似)たりと、おさ(押)へてか(書)くでう(條)、これもつ(以)てきくわい(奇怪)なり」とて、へんてふ(返牒)にもおよ(及)ばず。
そのうへ(上)にふだうしやうこく(入道相國)、てんだいざすめいうんだいそう
じやう(天台座主明雲大僧正)に、しゆと(衆徒)をしづ(鎭)めらるべきよし(由)のたま(宣)ひければ、ざす(座主)いそ(急)ぎとうざん(登山)して、だいしゆ(大衆)をしづ(鎭)めたま(給)ふ。
かかりしほど(程)に、みや(宮)のおんかた(御方)へは、ふぢやう(不定)のよし(由)をぞまう(申)しける。
また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のはかりごと(謀)に、あふみごめにまんごく(近江米二萬石)、ほくこく(北國)のおりのべぎぬさんぜんびき(織延絹三千匹)、わうらい(往來)のため(為)にさんもん(山門)へよ(寄)せらる。
これをたにだ(谷々)にみねみね(嶺々)へひ(引)かれけるに、にはか(俄)のこと(事)にてありければ、いちにん(一人)してあまた(數多)と(取)るだいしゆ(大衆)もあり、また(又)て(手)をむな(空)しうして、ひと(一)つもと(取)らぬしゆと(衆徒)もあり。
なにもの(何者)のしわざ(所爲)にやありけん、らくしよ(落書)をぞしたりける。

 やまぼふし(山法師)おりのべごろも(織延衣)うす(薄)くしてはぢ(恥)をばえこそかく(隠)さざりけれ 

また(又)きぬ(絹)にもあたらぬだいしゆ(大衆)のよ(詠)みたりけるにや、

 おりのべ(織延)をひと(一)きれもえ(得)ぬわれらさへうすはぢ(薄恥)をかくかず(數)にい(入)るかな 

また(又)なんと(南都)へのじやう(状)にいは(云)く、
「をんじやうじ(園城寺)てつ(牒)す、こうぶくじ(興福寺)のが(衙)。こと(殊)にがふりよく(合力)をいた(致)して、たうじ(當寺)のはめつ(破滅)をたす(助)けられんとこ(乞)ふじやう(状)。みぎぶつぽふ(右佛法)のしゆしよう(殊勝)なること(事)は、わうぼふ(王法)をまも(守)らんがため(爲)、わうぼふ(王法)また(又)ちやうきう(長久)なること(事)、すなは(卽)ちぶつぽふ(佛法)によ(依)る。
ここ(爰)ににふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあそんこう(入道前太政大臣平朝臣清盛公)、ほふみやうじやうかい(法名淨海)、ほしいまま(恣)にこくゐ(國威)をひそか(竊)にし、てうせい(朝政)をみだ(亂)り、ない(内)につけげ(外)につけ、うら(恨)みをなし、なげ(歎)きをなすあひだ(間)、こんぐわつじふごにち(今月十五日)のよ(夜)、いちゐんだいに(一院第二)のわうじ(王子)ふりよ(不慮)のなん(難)をのが(遁)れんがため(爲)に、にはか(俄)ににふじ(入寺)せしめたま(給)ふ。
ここ(爰)にゐんぜん(院宣)とかう(號)していだ(出)したてまつ(奉)るべきむね(旨)、しき(頻)りにせ(責)めあ(有)りといへど(雖)も、しゆと(衆徒)いつかう(一向惜)しみたてま(奉)つて、いだ(出)したてまつ(奉)るにあた(能)はず。
よ(仍)つてか(彼)のぜんもん(禪門)、ぶし(武士)をたうじ(當寺)へい(入)れんとす。
ぶつぽふ(佛法)といひ、わうぼふ(王法)といひ、いちじ(一時)にまさ(正)にはめつ(破滅)せんとす。
むかし(昔)たう(唐)のゑしやうてんし(會昌天子)、ぐんびやう(軍兵)をもつ(以)てぶつぽふ(佛法)をほろ(亡)ぼさしめしとき(時)、しやうりやうぜん(清涼山)のしゆ(衆)、かつせん(合戰)をいた(致)して、これをふせ(防)ぐ。
わうけん(王權)なほ(猶)かくのごと(如)し。
いか(何)にいは(況)んやむほんはちぎやく(謀叛八逆)のともがら(輩)におい(於)てをや。
たれ(誰)のひと(人)かきやうせい(恐誠)すべきぞや。
なかんづく(就中)なんきやう(南京)はれい(例)な(無)くして、つみ(罪)な(無)きちやうじや(長者)をはいる(配流)せらる。
このとき(時)にあら(非)ずんば、いづ(何)れのひ(日)かくわいけい(會稽)をと(遂)げん。
ねが(願)はくはしゆと(衆徒)、うち(内)にはぶつぽふ(佛法)のはめつ(破滅)をたす(助)け、ほか(外)にはあくぎやく(悪逆)のはんるゐ(伴類)をしりぞ(退)けば、どうしん(同心)のいた(至)り、ほんぐわい(本懐)にた(足)んぬべし。しゆと(衆徒)のせんぎ(僉議)かくのごと(如)く、よ(仍)つててつそう(牒奏)くだん(件)のごと(如)し。
治承しねんごぐわつじふはちにち(四年五月十八日)、だいしゆら(大衆等)」とぞか(書)いたりける。

作成/矢久長左衛門