2022年8月26日金曜日

お知らせ(9)「平家山門への連署の条」を更新

 原作者の存在を考証の(4)「平家山門への連署の条」を更新

原文から覚明さがしをはじめ、四番目に取り上げた条です。

一部を修正しました。

全体考察(小見出し付き)、原文、現代文訳、部分考察(小見出し付き)の順ではっきり構成しました。

今後も、各条を見直し、修正し、更新することがあるかも知れませんが、よろしくご了承お願い致します。

(長左衛門・記)

2022年8月18日木曜日

原作者の存在を考証(17)祇園女御の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(17)

この「祇園女御の条」で、僧浄寛(覚明)は、清盛の出生の秘密に触れる

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!                        

☆「平家物語」の祇園女御の条                         

(考察)

      覚明は、清盛公が白河院の御落胤であったと確信

 「鱸の条」の後半でも触れたとおり、覚明は「清盛の出世の早さに改めて感心し、その繁栄のもとは奈辺に有りや?」と思っていました。
それで、表向きは、世間でも言われていた通り熊野権現の御利益ということで「鱸の条」の原稿を纏めました。
しかし、この条で語られるように真相は、清盛が白河院(白河天皇)の御落胤だったということです。やはり、皇室との関係が繁栄の源だったというのです。
覚明は箱根山から比叡山に落ち着き、「治承物語(平家)」を書くために清盛公の足跡をじっくり調べているうちに、このことを叡山の僧侶達からも仄聞したようです。
何しろ、比叡山には前にも触れたように平家に関する情報が沢山眠っていました。
覚明がこの条を書いたとき、平清盛は、もう、故人になっていたので世間の口も軽くなっていて、様々な噂が飛び交っていたのだと思います。
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(原文では)

 又故い人の申しけるは、清盛公は直人にはあらず。誠には白河院の御子なり。
その故は去んぬる永久の頃ほひ、祇園女御とて、幸人おはしき。件の女房の住居所は、東山の麓、祇園の邊にてぞありける。白河院常は彼處へ御幸なる。
 或時殿上人一兩人、北面少々召具して、忍びの御幸ありしに、頃は五月二十日餘り、まだ宵の事なるに、五月雨さへ掻暮れて、萬づ物いぶせかりける折節、件の女房の宿所近う御堂あり。
御堂の傍邊りより、光り物こそ出で來たれ。
頭は銀の針を磨きたてたる様にきらめき、片手には槌の様なる物を持ち、片手には光る物をぞ持つたりける。
  これぞ誠の鬼と覺ゆる。手に持てる物は、聞ゆる打出の小槌なるべし。
如何せんとて、君も臣も大きに騒がせおはします。
その時忠盛、北面の下﨟にて、供奉せられたりけるを、御前へ召して、「この中には汝ぞあるらん。あの者射も殺し、斬りも留めなんや」と仰せければ、畏り承つて歩み向ふ。
忠盛内々思ひけるは、この者さして猛き者とは見えず、思ふに狐狸の所爲にてぞあるらん。
これを射も殺し、斬りも留めたらんは、無下に念無からまし。
同じくは生捕りにせんと思うて、歩み向ふ。
と許りあつてはさつとは光り、と許りあつてはさつとは光り、二三度しけるを、忠盛走り寄つてむずと組む。
組まれて、「こは如何に」と騒ぐ。變化の者にて無かりけり。人にてぞ候ひける。その時上下手々に火を燃いて、これを御覧じ見給ふに、六十許りの法師なり。たとへば御堂の承仕法師にてありけるが、佛に御明を參らせんとて、片手には手瓶と云ふ物に油を入れて持ち、片手には土器に火を入れてぞ持つたりける。
雨はいにいて降る。
濡れじとて、小麥の藁を引結んで被いたりけるが、土器の火に耀いて、偏に銀の針の如くには見えけるなり。
事の體一々次第に顯はれぬ。
「これを射も殺し、斬りも留めたらんは、如何に念な無からまし。忠盛が振舞こそ誠に思慮深けれ。弓矢取りは優しかりけるものかな」とて、
さしも御最愛と聞えし祇園女御を、忠盛にこそ下されけれ。
この女御胎み給へり。
「産めらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば、忠盛取りて、弓矢取りに仕立てよ」とぞ仰せける。
即ち男を産めり。
事に觸れては披露せざりけれども、内々はもてなしけり。
この事如何にもして奏せばやと思はれけれども、然るべき便宜も無かりけるが、或時白
河院、熊野へ御幸なる。紀伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき据ゑさせ、暫く御休息ありけり。                                  
その時忠盛、藪に幾らもありける零餘子を、袖にもり入れ、御前へ參り畏つて、
いもが子は這ふ程にこそなりにけれ
と申されたりければ、院やがて御心得あつて、
ただもり取りてやしなひにせよ
とぞ付けさせましましける。
さてこそわが子とはもてなされけれ。
この若君、餘りに夜泣をし給ひしかば、院聞し召して、一首の御詠をあそばいてぞ下されける。
夜泣すと忠盛立てよ末の世に清く盛ふることもこそあれ 
それよりしてこそ清盛とは名乘られけれ。
十二の歳元服して兵衛佐になり、十八の歳四品して、四位兵衛佐と申せしを、子細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは」と申されければ、鳥羽院は知し召して、
「清盛が華族は人に劣らじ」とこそ仰せけれ。

昔も天智天皇、胎み給へる女御を大織冠に賜ふとて、
「この女御の産めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、則ち男を産めり。多武峰の本願定慧和尚これなり。

上代にもかかる例ありければ、末代にも清盛公、誠には白河院の皇子として、さしも容易からぬ天下の大事、都遷りなど云ふ事をも、思ひ立たれけるにこそ。

(現代文訳)

また、故い※(年老いた)人が申すことには、清盛公は直人※(ただびと)にはあらず。誠には白河院※(白河天皇)御子※(おおんこ[補注]参照)ということだそうです。
(意訳)【故老が言うには、清盛公はふつうの人ではない。本当は白河天皇の落胤※(らくいん)です】

※【古・旧・故】ふる・い            
〘形口〙 ふる・し 〘形ク〙 昔のことであるさま、以前からあるさま、年月を経ているさまをいう。
① 遠い昔のことに属するさま。現在にかかわらない前の時代のことであるさま。
② 現在まで時間を経ているさま。年老いているさま。時代がたっているさま。
③ 特に、長い年月を経ていることに対するさまざまな評価を加えて用いる。
㋑ 年月の重みが加わっている。古雅な趣がある。年功を積んでいる。経験が深い。
日本国語大辞典小学館

※白河院
【白河天皇】しらかわ‐てんのう 
第七二代天皇。後三条天皇の第一皇子。母は藤原茂子。名は貞仁。延久四年(一〇七二)即位。応徳三年(一〇八六)幼少の堀河天皇に譲位の後も、上皇として院政をはじめ、堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代、四三年間執政した。嘉保三年(一〇九六)出家して法皇となる(法名融覚)。仏教に深く帰依したが、造寺や寺社参詣をしきりに行ない、その財源を富裕な受領層に求めた。その治世の破綻は、「天下三不如意」(山法師・賀茂川の水・双六のさい)として伝えられる。天喜元~大治四年(一〇五三‐一一二九)
日本国語大辞典小学館 

※【御子・皇子・皇女】み‐こ
〘名〙 (「み」は接頭語)
① 神の子。天皇の子。天皇の子孫。男女ともにいう。
② 親王(しんのう)。天皇の皇子で、親王宣下を受けたもの。
[補注]
「御子」という表記は親王・皇子以外の高貴な子女に関しても用いるが、平安時代の仮名文学では「おおんこ」と読みならわされている。
日本国語大辞典小学館 

※【落胤】らく‐いん
〘名〙 身分の高い男が、正妻以外の身分の低い女性に産ませた子。おとしだね。
日本国語大辞典小学館


(考察)

    覚明が、興福寺の学問僧の頃に聞いた噂が真相だった

 覚明が興福寺の学問僧のころに聞いた噂では、白河院は中宮となった藤原賢子との仲が非常に睦まじく、賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持ったという話でした。
白河院の晩年の寵妃となった祇園女御も、どうやらその一人だったのです。
白河院が関係を持った女性を寵臣に与えたことから、清盛が「白河法皇の御落胤」だということは間違いないと覚明は確信し、この条で叡山に来て聞き込んだエピソードを含めて真相を書くことにしたのだと思います。

(現代文訳)続く        
                 
 と言うのは、去る永久の頃※(鳥羽天皇の時の年号、白河上皇の院政時代)のこと。
祇園女御という幸人※(世に時めいた人)がいました。この女房の住まいどころは、東山のふもと、祇園のあたりにありました。白河院はいつもこちらへ御幸※(おでまし)なさいました。


※永久の頃
平安時代、鳥羽天皇の代の年号。東大寺、興福寺の僧徒の騒動や火災、悪疫流行などの不吉な事件が続いたため天永四年(一一一三)七月一三日改元。永久六年(一一一八)四月三日に至り次の元永に代わる。白河上皇の院政時代にあたる。
日本国語大辞典小学館

※【幸人】さいわい‐びと
〘名〙 世に時めいて、幸福がずっと続いている人。

※【御幸】ご‐こう
〘名〙 上皇、法皇、女院のおでまし。みゆき。

【行幸・御行・御幸】み‐ゆき
(「み」は接頭語)
〘名〙
① 行くことを敬っていう語。
② 特に、天皇の外出をいう。行幸(ぎょうこう)。臨幸。古くは上皇・法皇・女院にもいったが、後には御幸(ごこう)と音読して区別した。皇后・皇太子には行啓(ぎょうけい)という。

(現代文訳)続く

ある時、殿上人※(公卿に次ぐ身分)の一人か二人と、北面※(上皇の御所を守護する武士)を数人召し連れ お忍びでお出ましになられました。ころは五月二十日すぎの、まだ宵のことなのに、五月雨※(降り続く長雨)のうえ、掻暮※(かいくれ、すっかり日暮れ)て、いろんな物が不気味に見える折節、例の女房の住まいの近くに御堂があり、その御堂の傍らあたりより光る物が出て来ました。

 ※【殿上人】てんじょう‐びと
〘名〙
① 清涼殿の殿上の間(ま)に昇ることを許された人。公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人(くろうど)をいう。平安中期頃より、公卿(上達部)に次ぐ身分を表わす称となった。
② 上皇・東宮・女院の御所に昇ることを許された者。
日本国語大辞典小学館 

※【北面】ほくめん の=侍(さぶらい・さむらい)[=武士(ぶし)・者(もの)]
上皇の御所を守護する武士。白河院の時初めて設置されたもの。四位・五位を上北面、六位を下北面という。きたおもて。
日本国語大辞典小学館 

※【五月雨】さみだれ
〘名〙
① 陰暦五月頃に降りつづく長雨。また、その時期。つゆ。梅雨(ばいう)。さつきあめ。《季・夏》
日本国語大辞典小学館 

※【掻暮】かい‐くれ
(動詞「かきくれる(掻暗)」の連用形から)
 〘名〙 すっかり日が暮れること。
日本国語大辞典小学館 

※いぶせ
(形容詞「いぶせし」の語幹) 気分のはればれとしないこと。いとわしいこと。また、きたならしいこと。
いぶせ・し
〘形ク〙
① 心がはればれとしないで、うっとうしい。気がふさぐ。気づまりだ。
[語誌]
(1)中世、近世には口語形「いぶせい」も見られる。
(2)「何らかの障害があって、対象の様子が不分明なところから来る不安感・不快感」を示すのが原義と見られる。上代においては「おほほし」と類義的に用いられる。
(3)中世以降「きたならしい、むさくるしい」また「気味がわるい、恐ろしい」の意に用いられるが、現在では方言として残存するのみである。
日本国語大辞典小学館

(現代文訳)続く 

(その光る物のようすは)頭は銀の針を磨きたてたる様にきらめき、片手には槌の様なる物を持ち、片手には光る物を持つていました。
これこそ本当の鬼と覚りました。手に持っている物は、伝え聞く打出の小槌(心のままに様々な財宝を打ち出すという小槌)でした。
どうしょうと、君臣も大いに騒ぎたてました。
その時、平忠盛は、北面の下﨟(院を守護する身分の低い武士)にて、お供していたところを、白河院が御前へ召して、「この中ではお前だ。あの者を射殺すか、斬り捨てるかせよ」と仰せになり、忠盛は畏まり、承って、(その不審な者に)歩み向かいました。
忠盛は内々に、この者はさして強き者とはみえず、思ふには狐か狸の類いであろうかと思いました。これを射殺し、斬り殺したら、無用に後悔することになる。生捕りにせんと思い、歩み向かいました。
と許りあつてはさつとは光り、と許りあつてはさつとは光り、二三度しけるを、忠盛走り寄つてむずと組む。
(相手は)組まれて、「これは如何に」と騒ぎました。變化の者ではありませんでした。(それは)人でありました。
この時、身分の高い人も低い人も明かりを掲げ、これを御覧になり、見たところ六十歳くらいの法師でした。具体的には(御堂の仏具、法事などの雑務に従う)※承仕法師で、佛に燈明を灯そうとして、片手には手瓶※(把手のついている瓶)に油を入れて持ち、片手には土器に火を入れ持っていました。
雨はいにいて(沃に沃て=ざあざあと)降っていました。
濡れないように、小麦の藁をひき結び、被っていましたが、土器の火の輝きで、いっそう銀の針のごとくにみえたのでした。

※【承仕】じょう‐じ
〘名〙 (「しょうじ」とも。「じょう」は「承」の呉音。「しょう」は漢音)
① 仏語。僧の役名。寺社の内殿の掃除や荘厳仏具の管理、灯火・香華の用意など、雑用にあたる僧。宮寺承仕法師ともいう。しばしば上皇御所・摂関家などに召使われその雑用をつとめた。承仕法師。
日本国語大辞典 小学館

※【御明】お‐あかし
〘名〙 (「お」は接頭語) 明かり。特に、神仏に供える灯明。みあかし。
日本国語大辞典 小学館

※【手瓶】て‐がめ
〘名〙 把手(とって)のついている瓶。
▷ 高野本平家(13C前)六
「手瓶(テカメ)といふ物に油を入てもち」
日本国語大辞典 小学館


(現代文訳)続く 

ことの様子が一つ一つ次第にはっきりとしました。
「これ(法師)を射殺し、斬り殺したら、無用に後悔することになるところだった。忠盛の振る舞いは、誠に思慮深く、武士にしては優しい」と、あれほど御最愛といわれた祇園女御を、忠盛に下げ渡されました。
この女御は(既に)妊娠していました。
(白河院は)「生まれた子が、女子なら朕の子にしょう。男子ならば、忠盛が子にし、武士に育てよ」と、仰せられました。
すぐに、男の子が産まれたのです。
とくに、(このことは)披露もされなかったが、内々にはとりはかられていたようです。
(忠盛は)この事を、どのようにしてつたえるべきか思案していましたが、然るべき機会もなく、或る時、白河院、熊野へ御幸なさり、伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき据ゑさせ、暫く御休息なさいました。               
 その時、忠盛は藪にいくつもある零餘子(むかご=山のいもの葉の間にできるいも)を袖に盛入れ、御前へ参り、畏つて、              
いもが子は這ふ程にこそなりにけれ(いもの子はつるが這うほどに成長しました)
と申しあげると、院はそのまま御理解なさり、
ただもり取りてやしなひにせよ(忠盛が引き取り養子にしなさい)
と付けくわえられました。
さて、それ以来、(忠盛が)我が子として大事に育ててきました。
この若君は、あまりに夜泣きをするので、白河院が伝え聞き、一首の歌をお詠みになり下さいました。
夜泣すと忠盛立てよ末の世に清く盛ふることもこそあれ(夜泣きをするとしても、忠盛 
育てよ、後の世には清くさかえることもあろう)
それより清盛と名乘られました。
十二の歳に元服して兵衛佐(公卿補任)になり、十八の歳に四品に叙せられて、四位兵衛佐と申されましたが、くわしいことを知らない人は、「華族でもこうは・・・・」と申されたが、鳥羽院※(鳥羽天皇)は内実をご存知の様子で、
「清盛は華族の人に劣ることはあるまい」とおっしゃいました。
昔も天智天皇※は、妊娠している女御を大織冠※(中臣鎌足)にお与えになるとき「この女御の産めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、則ち男を産めり。多武峰※本願定慧和尚※(寺院の創建者)がその人です。
上代にもこのような例があったので、末代にも清盛公は、誠には白河院の皇子であられたのであろう。
それで、あれほど容易ではない天下の大事である遷都などというものを、思ひ立たれたのでしょう。


※【鳥羽天皇】とば‐てんのう 
第七四代天皇(在位一一〇三‐二三)。堀河天皇の第一皇子。名は宗仁(むねひと)。母は藤原苡子。譲位後、崇徳・近衛・後白河三代二八年間院政を行なった。皇子崇徳上皇と不和となり、後白河天皇をたてたことから保元の乱が起こる。あつく仏教を信仰し、古書を好み、故事、音楽に通じ、笛に堪能であったという。康和五~保元元年(一一〇三‐五六)
日本国語大辞典小学館

鳥羽院
平安後期の天皇(在位1107~23)。名は宗仁(むねひと)。康和(こうわ)5年1月16日生まれ。堀河(ほりかわ)天皇の第一皇子。母は藤原実季(さねすえ)の娘苡子(いし)。生後7か月で立太子。父堀河天皇の病死の後を受けて1107年(嘉承2)5歳で即位したが、専制的な院政を行っていた祖父白河(しらかわ)上皇により23年(保安4)皇太子顕仁(あきひと)親王に譲位させられた(崇徳(すとく)天皇)。29年(大治4)白河の死後、崇徳、近衛(このえ)、後白河(ごしらかわ)三天皇28年間にわたって院政を行った。
日本大百科全書(ニッポニカ)「鳥羽天皇」の解説

 ※【天智天皇】てんじ‐てんのう
第三八代天皇(在位六六八‐六七一)。舒明天皇の子。母は皇極天皇。名は葛城。中大兄皇子ともいう。中臣鎌足と謀って蘇我氏を滅ぼし、孝徳・斉明両朝の皇太子として大化の改新の諸政策を行なった。斉明天皇崩御後も皇太子のまま称制し、百済援助の軍を派遣したが、白村江で唐・新羅軍に大敗。以後、都を大津に移して即位し、はじめて戸籍(庚午年籍)をつくり、また漏剋(水時計)をつくって時刻を知らせ、成文法の最初である近江令の制定を行なう。推古三四~天智一〇年(六二六‐六七一)
日本国語大辞典 小学館

※【大織冠】たい‐しょっかん
 〘名〙 孝徳天皇の大化三年(六四七)に定められた一三階の冠位の最高位。その後天智天皇の時までに一九階、二六階と増階されたが、いずれも、その冠位の最高位。後の正一位に相当する。実際には、天智天皇の八年(六六九)に、藤原鎌足が授けられただけである。だいしきのかぶり。だいしき。たいしょかん。
▷ 名語記(1275)九
「これには、大職冠の御事につきて、甚深の義侍べり」
 藤原鎌足の称。
▷ 今昔(1120頃か)三一
「多武の峯は大織冠の御廟也」
日本国語大辞典 小学館

※【多武峰・談武峰】とう‐の‐みね
奈良県桜井市の南部にある山。山頂を御破裂山という。藤原鎌足が中大兄皇子(天智天皇)と蘇我氏討伐をはかった所とされ、談山(かたりやま)とも呼ばれる。山腹に鎌足をまつる談山神社がある。紅葉が美しく、「関西の日光」の称がある。談山(だんざん)。後吾台山。
日本国語大辞典 小学館

※定慧和尚又は定恵和尚
没年:天智4.12.23(666.2.2)
生年:皇極2(643)
飛鳥時代の僧。藤原(中臣)鎌足の長男。白雉4(653)年に遣唐使に従い入唐、長安の慧日の道場に住し、神泰について学ぶ。天智4(665)年に唐の劉徳高の船により帰国するが、同年12月23日、大和国(奈良県)大原に没した。時に23歳。百済人による毒殺であるという。後世、彼を天智天皇の落胤とする説や、和銅1(708)年に帰国して大和多武峯を開き、鎌足の遺骸を摂津国安威山(大阪府)より改葬して十三重塔を建立し、同7年に70歳で没したとする説もあるが、信憑性には疑問がある。
(若井敏明)
出典 朝日日本歴史人物事典

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(考察)

   覚明は、具体的な事例まで挙げているので、やはり、信頼出来る

 この条で、覚明は興福寺と比叡山で聞き込んだ様々な噂から、白河院と平忠盛の関係を覚明らしく一本のエピソードに仕立て上げ、もっともらしく、清盛が白河院の御落胤であると述べています。
覚明が興福寺の学問僧のころに聞いた話でも、過去に天智天皇と中臣鎌足※(藤原鎌足)との事例があり、このようなことはあり得ることだと締めくくっています。
それにしても、天智天皇の事例は昔の事なので説得力がない事例ともみえますが、そうでもないようです。
というのは、覚明が学問僧として興福寺にいたのは、覚明の先祖は藤原高子につながるので藤原氏一族のための興福寺にいたことは不思議ではないのです。
そこで、覚明は、個人的好奇心と学問僧の習い性として、先祖の藤原鎌足のことを当然に調べていたと思います。
興福寺の前身は山階寺で、藤原鎌足の本葬もこの山階寺で行われました。二人の息子のうちの長男が貞慧または定恵ともいわれ、この方が天智天皇の御落胤だったのです。
覚明はその事を平家の清盛にも引用し、「天智天皇が、妊娠している女御を大織冠※(中臣鎌足)にお与えになるとき、この女御の産めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、則ち男を産めり。多武峰※の本願定慧和尚※(寺院の創建者)がその方です」と、具体的に事例を挙げているので信頼できるのではと思います。

※【藤原鎌足】ふじわら‐の‐かまたり
飛鳥時代の中央豪族。初め、中臣鎌子、のち鎌足。父は御食子(みけこ)。中大兄皇子らと蘇我氏を滅ぼして大化改新を断行、改新政府の重鎮となり、内臣(うちつおみ)として律令体制の基礎をつくる。臨終の際、天智天皇(中大兄皇子)から大織冠の冠位と藤原の姓を賜わり、藤原氏の祖となった。推古二二~天智八年(六一四‐六六九)
日本国語大辞典 小学館

(長左衛門・記)

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(参照)

「平家物語」の祇園女御の条(原文)

本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の祇園女御を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

「平家物語」の祇園女御の条(全文)
                
また(又)ふる(故)いひと(人)のまう(申)しけるは、きよもりこう(清盛公)はただびと(直人)にはあらず。まこと(誠)にはしらかはのゐん(白河院)のおんこ(御子)なり。そのゆゑ(故)はさ(去)んぬるえいきう(永久)のころ(頃)ほひ、ぎをんにようご(祇園女御)とて、さいはひじん(幸人)おはしき。くだん(件)のにようばう(女房)のすまひどころ(住居所)は、ひがしやま(東山)のふもと(麓)、ぎをん(祇園)のほとり(邊)にてぞありける。しらかはのゐん(白河院)つね(常)はかしこ(彼處)へごかう(御幸)なる。
あるとき(或時)てんじやうびと(殿上人)いちりやうにん(一兩人)、ほくめん(北面)せうせう(少々)めしぐ(召具)して、しの(忍)びのごかう(御幸)ありしに、ころ(頃)
はさつきはつか(五月二十日)あま(餘)り、まだよひ(宵)のこと(事)なるに、さみだれ(五月雨)さへかきく(掻暮)れて、よろ(萬)づもの(物)いぶせかりけるをりふ
し(折節)、くだん(件)のにようばう(女房)のしゆくしよ(宿所)ちか(近)うみだう(御堂)あり。
みだう(御堂)のかた(傍)ほと(邊)りより、ひか(光)りもの(物)こそい(出)で
き(來)たれ。
かしら(頭)はしろがね(銀)のはり(針)をみが(磨)きたてたるやう(様)にきらめき、かたて(片手)にはつち(槌)のやう(様)なるもの(物)をも(持)ち、かたて(片手)にはひか(光)るもの(物)をぞも(持)つたりける。
  これぞまこと(誠)のおに(鬼)とおぼ(覺)ゆる。
て(手)にも(持)てるもの(物)は、きこ(聞)ゆるうちで(打出)のこづち(小槌)なるべし。
いかが(如何)せんとて、きみ(君)もしん(臣)もおほ(大)きにさわ(騒)がせおはします。
そのとき(時)ただもり(忠盛)、ほくめん(北面)のげらふ(下﨟)にて、ぐぶ(供奉)せられたりけるを、ごぜん(御前)へめ(召)して、「このなか(中)にはなんぢ(汝)ぞあるらん。あのもの(者)い(射)もころ(殺)し、き(斬)りもとど(留)めなんや」とおほ(仰)せければ、かしこま(畏)りうけたまは(承)つてあゆ(歩)みむか(向)ふ。
ただもり(忠盛)ないない(内々)おも(思)ひけるは、このもの(者)さしてたけ(猛)
きもの(者)とはみえず、おも(思)ふにきつねたぬき(狐狸)のしわざ(所爲)にてぞあるらん。これをい(射)もころ(殺)し、き(斬)りもとど(留)めたらんは、むげ(無下)にねん(念)な(無)からまし。おな(同)じくはいけど(生捕)りにせんとおも(思)うて、あゆ(歩)みむか(向)ふ。
とばか(許)りあつてはさつとはひか(光)り、とばか(許)りあつてはさつとはひか(光)り、にさんど(二三度)しけるを、ただもり(忠盛)はし(走)りよ(寄)つてむずとく(組)む。く(組)まれて、「こはいか(如何)に」とさわ(騒)ぐ。へんげ(變化)のもの(者)にてはな(無)かりけり。ひと(人)にてぞさふら(候)ひける。そのとき(時)じやうげ(上下)てんで(手々)にひ(火)をとも(燃)いて、これをごらん(御覧)じみたま(見給)ふに、ろくじふばか(六十許)りのほふし(法師)なり。たとへばみだう(御堂)のじようじぼふし(承仕法師)にてありけるが、ほとけ(佛)にみあかし(御明)をまゐ
(參)らせんとて、かたて(片手)にはてがめ(手瓶)とい(云)ふもの(物)にあぶら(油)をい(入)れても(持)ち、かたて(片手)にはかはらけ(土器)にひ(火)をい(入)れてぞも(持)つたりける。
あめ(雨)はいにいてふ(降)る。
ぬ(濡)れじとて、こむぎ(小麥)のわら(藁)をひきむす(引結)んでかづ(被)いたりけるが、かはらけ(土器)のひ(火)にかがや(耀)いて、ひとへ(偏)にしろがね(銀)のはり(針)のごと(如)くにはみ(見)えけるなり。
こと(事)のてい(體)いちいち(一々)しだい(次第)にあら(顯)はれぬ。「これをい(射)もころ(殺)し、き(斬)りもとど(留)めたらんは、いか(如何)にねん(念)な(無)からまし。ただもり(忠盛)がふるまひ(振舞)こそまこと(誠)にしりよふか(思慮深)けれ。ゆみやと(弓矢取)りはやさ(優)しかりけるものかな」とて、さしもごさいあい(御最愛)ときこ(聞)えしぎをんにようご(祇園女御)を、ただもり(忠盛)にこそくだ(下)されけれ。このにようご(女御)はら(胎)みたま(給)へり。
「う(産)めらんこ(子)、によし(女子)ならばちん(朕)がこ(子)にせん。なんし(男子)ならば、ただもり(忠盛)と(取)りて、ゆみやと(弓矢取)りにした(仕立)てよ」とぞおほ(仰)せける。すなは(即)ちなん(男)をう(産)めり。こと(事)に
ふ(觸)れてはひろう(披露)せざりけれども、ないない(内々)はもてなしけり。

このこと(事)いか(如何)にもしてそう(奏)せばやとおも(思)はれけれども、しか(然)るべきびんぎ(便宜)もな(無)かりけるが、あるとき(或時)しらかはのゐん(白
河院)、くまの(熊野)へごかう(御幸)なる。きのくにいとがさか(紀伊國絲鹿坂)とい(云)ふところ(所)に、おんこし(御輿)かきす(据)ゑさせ、しばら(暫)くごき
うそく(御休息)ありけり。                                  
そのとき(時)忠盛、やぶ(藪)にいく(幾)らもありけるぬかご(零餘子)を、そで(袖)
にもりい(入)れ、ごぜん(御前)へまゐ(參)りかしこま(畏)つて、
いもが(子)こはは(這)ふほど(程)にこそなりにけれ
とまう(申)されたりければ、ゐん(院)やがておんこころえ(御心得)あつて、
ただもり(忠盛)と(取)りてやしなひにせよ
とぞつ(付)けさせましましける。
さてこそわがこ(子)とはもてなされけれ。
このわかぎみ(若君)、あま(餘)りによなき(夜泣)をしたま(給)ひしかば、ゐん(院)きこ(聞)しめ(召)して、いつしゆ(一首)のごえい(御詠)をあそばいてぞくだ(下)されける。
よなき(夜泣)すとただもり(忠盛)た(立)てよすゑ(末)のよ(世)にきよ(清)くさか(盛)ふることもこそあれ 

それよりしてこそきよもり(清盛)とはなの(名乘)られけれ。じふに(十二)のとし(歳)げんぶく(元服)してひやうゑのすけ(兵衛佐)になり、じふはち(十八)のとし(歳)しほん(四品)して、しゐのひやうゑのすけ(四位兵衛佐)とまう(申)せしを、しさいぞんぢ(子細存知)せぬひと(人)は、「くわぞく(華族)のひと(人)こそかうは」とまう(申)されければ、とばのゐん(鳥羽院)はしろ(知)しめ(召)して、
「きよもり(清盛)がくわぞく(華族)はひと(人)におと(劣)らじ」とこそおほ(仰)せけれ。

むかし(昔)もてんぢてんわう(天智天皇)、はら(胎)みたま(給)へるにようご(女御)をたいしよくくわん(大織冠)にたま(賜)ふとて、
「このにようご(女御)のう(産)めらんこ(子)、によし(女子)ならばちん(朕)がこ(子)にせん、なんし(男子)ならばしん(臣)がこ(子)にせよ」とおほ(仰)せけるに、すなは(則)ちなん(男)をう(産)めり。たふのみね(多武峰)のほんぐわんぢやうゑくわしやう(本願定慧和尚)これなり。

しやうだい(上代)にもかかるためし(例)ありければ、まつだい(末代)にもきよもりこう(清盛公)、まこと(誠)にはしらかはのゐん(白河院)のわうじ(皇子)として、さしもたやす(容易)からぬてんが(天下)のだいじ(大事)、みやこうつ(都遷)りなどい(云)ふこと(事)をも、おも(思)ひた(立)たれけるにこそ。

作成/矢久長左衛門