2023年7月27日木曜日

こぼればなし(8)生佛は一人称ではなく数人いた

       

      生佛様をはじめ複数の盲目僧がいたと深読み


「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。

信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、信濃入道,行(幸)長入道なる人物が「平家物語」の作者であり、生佛(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があります。

当ブログでは、生佛は一人称ではなく、生佛様をはじめ複数の盲目僧がいたと深読みしました。

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[徒然草226段の原文]

後鳥羽院の御時信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】

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注目点!

初稿作者の行長入道(幸長・覚明)は、慈園(プロデューサー)に書き上げた「祇園精舎の条」を見せました。

そして、慈園の前で琵琶を弾きながら琵琶法師よろしく声を上げ演奏をしました。


“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。

沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。

奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ”


覚明は比叡山に逃げて来る前の鎌倉で、箱根権現の法師として祭司を務めていたくらいの人気のある導師でした。

もともと箱根は安居院流の唱導の盛んな地で、覚明もそれなりに唱導師としての品格を備えていました。


このころは、当然ですが、まだ、平曲※を語る琵琶法師は生まれていませんでした。

琵琶法師( 琵琶を弾く盲目、僧体の人)には、
琵琶の伴奏により経文を唱えた盲僧の流れと、
琵琶の伴奏により叙事詩を謡った盲目の放浪芸人の流れがあり、
後者は鎌倉中期以降、もっぱら「平家物語」を語るようになり、平曲※を語る琵琶法師として定着しました。

※平曲
「平家物語」を琵琶に合わせて語る音曲。
後鳥羽天皇のころ、盲人生仏(しょうぶつ)が先行の音曲の曲節を集大成して語り始めたという。南北朝期に明石検校覚一が大成。応永~永享(一三九四‐一四四一)ごろ最も盛行。その曲節は謡曲・浄瑠璃などに流入した。平曲。平家。平語。(日本国語大辞典小学館)


そこで、この時、覚明は自分で唱導師が唱導するように、琵琶を奏しながら演じたのです。

 
“遠く異朝をとぶらふに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にも從はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の亂れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者どもなり”から、

“近く本朝を窺ふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは奢れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね”までを、

朗朗と弾き語りました。

それはまるで後世(鎌倉中期以降)に平曲を語る琵琶法師を想像させるような芸術の誕生でした。

平曲とは平家物語を曲節をつけて語るもので、琵琶を前奏または間奏に用いるもので平家琵琶とも言われます。

「平家物語」の原作である「治承物語」誕生のプロデューサー役だった比叡山の座主慈園僧正は、覚明の弾き語りを目の当たりにして大いに満足したと思います。

慈円僧正は38歳で僧侶として最高位の62代天台座主となり、後鳥羽天皇から祈祷僧として信任を受けるとともに和歌によって親しく接していました。
御鳥羽天皇からは関白九条(藤原)兼実を通じて慈園に正式に“源平の死者鎮魂”のため、「平家物語」の原作である「治承物語」を制作するように依頼されていたのです。

建久七年十一 月に九条兼実は関白・氏長者を罷免され、一族も排斥されています。

そして、建久九年一月(1198・2・18)後鳥羽天皇が退位し、後鳥羽院政が始まりました。

吉田兼好の「徒然草」によれば、“後鳥羽院の御時に、信濃前司行長、この行長入道、平家物語を作りて”とあるので、これ以降に「治承物語(平家と号す)」が成立したものと思われます。

吉川英治の小説「親鸞」では、後鳥羽院の指示で作られたことになっていて、初春に慈園が実兄である藤原兼実の館に招かれ、琵琶法師に「平家物語」を語らせたとあります。この「平家物語」は、多分、まだ未完成の「治承物語」の一部分であったに違いないと思います。

この初春が何年の初春か定かには分かりませんが、多分、藤原兼実は関白を辞任し隠棲の身だったのではないかと思います。

この時に語らせた琵琶法師は誰だったかを考えると、徒然草によれば“信濃前司行長、この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり”とありますから、そのときは作者幸(行)長入道(覚明)本人ではなく、琵琶法師生佛ではなかったかと思います。


ところで、この生佛様は誰か。

当時、比叡山には数カ所の寺院に分かれ、約三千人前後の学僧・堂衆・寺僧などの上級・中級・下級の僧がいたといいます。
その中には、琵琶の伴奏により経文を唱える盲僧も数人は寄宿していたと思います。
経を覚えるには記憶力が大切です。
特に、記憶力の勝れた盲僧は生き仏のように尊敬されました。
多分、お経を数回聞くだけで覚えてしまうのだと思います。
なかには、琵琶の伴奏により保元の乱や平治の乱の出来事を断片的に謡った盲目の放浪芸人上がりの盲僧たちもいたのではないかと思います。

日本文学史では、承久2(1220)年頃に、軍記ものが隆盛で「保元物語」や「平治物語」なるとされていますから、このころには、まだ、「保元物語」や「平治物語」は、叙事詩の作品として纏められた存在ではありませんでした。

彼らの記憶力は琵琶の音に研ぎ澄まされて高まり、中には生きている仏さまではないかと思はせるほどの方も数人はいたと思います。

覚明は慈園の了解を得て、そんな盲僧たちに声をかけ協力してもらいました。

あくまでも想像ですが、覚明は手始めに、盲僧たちを中心とした内輪の集まり「治承の乱を語る」を企画し、始めに「祇園精舎の条」を覚明本人が琵琶を抱え原稿(又は台本)を見ながら正確に唱導したと思います。

すると驚いたことに、覚明がこの「祇園精舎の条」を終えると同時に、数人の盲僧たちが覚明の口調を真似て、

“祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり”から“猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ”までを口々に呟き始めました。

さすがの記憶力です。覚明は自信を持ちました。

そこで、さらに「奈良炎上の条」を覚明本人が台本を見ながら正確に唱導しました。

一同は静かに聞いておりました。そして最後になると拍手喝采が起こりました。

覚明の語りが上手だったからではなく、新作の内容に自分たちが知らなかった事実が盛り込まれていたからです。

その後、放浪芸人上がりの盲僧たちからは、必ずしも正確ではない平家一門の悪行が数本語られてお開きになりました。

覚明は放浪芸人上がりの盲僧たちからは、治承の乱の叙事詩でもある過去の出来事をいくつか取材することも出来ました。

いまで言うなら、彼らは歩くボイスレコーダーやハードディスクのような人たちでもありました。覚明はそのような人たちのなかから数人を選び、「治承物語」を語る琵琶法師生佛様に仕立てたと思います。

それ故、吉田兼好がいう生佛は一人ではなく数人はいたのだと思います。その彼らが通称で生仏と呼ばれたのです。

当初、「平家物語」の原作「治承物語」が三巻で短かったとしても、一巻に十数条はあったと思いますので、一人ですぐに全部を覚えきれるものではありません。数人の生仏様で手分けしてチームを組んでいたと思います。

生佛は覚明本人だという説もありますが、覚明は徒然草にもあるように記憶力に自信がなく、盲目でもありません。

始めに覚明が作品を語り、琵琶法師たちに口調を教えたと言うのが正しいのではないでしょうか。

徒然草には「武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり」とありますが、
この生仏は東国のものにてが一人称なので覚明本人ではないかという説があります。
しかし、武士に聞くまでもなく、覚明は作品のなかで自分を文武両道と書いているくらいですから武士の事、弓馬のわざはお手のものです。
特に弓馬については自信がありました。
生まれた土地が馬の産地である信濃御牧ヶ原海野郷です。幼少の頃から馬には馴染んでいました。
兄幸廣(備中水島の戦いで戦死)の息子で覚明の甥の海野小太郎幸氏は鎌倉幕府の御家人になり、鶴岡八幡宮の流鏑馬行事では有名な弓馬の達人として活躍したくらいです。

これで、生仏は覚明本人でないかという説は、誤りであることは明白だと思います。


(長左エ門・記)









2023年7月23日日曜日

こぼればなし(7)信濃前司行長、信濃入道、行長入道

    信濃前司行長とは、下野前司行長の誤りとする通説は正しいか

「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。

信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、信濃入道行(幸)長入道なる人物が「平家物語」の作者であり、生佛(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があります。

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[徒然草226段の原文]

【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】

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注目点!

当ブログでは、身びいきと言われるかも知れませんが、親しみを込めて(行長)入道を(幸長)入道と年表などに表示しています。

滋野流海野氏一門の系図を元に判読して、幸長入道に間違いないと確信しています。

巷間、信濃前司行長とは、下野前司行長の誤りとする通説がありますが、『徒然草』では、信濃前司行長、信濃入道、行長入道と三回も表現しています。

これを兼好法師の杜撰さだと片づけてきたこれまでの通説は、いかがなものかと思います。

当ブログでは、信濃前司行長の正体を10年以上にわたり追跡調査して来ました。

既に、これまで読まれてきた方は、重複になりますが、信濃前司行長とは、滋野流海野族海野行親の次男行(幸)長です。

(長左衛門・記)