2021年11月23日火曜日

お知らせ(6)「木曽願書の条」を大幅に更新

原作者の存在を考証の(1)「木曽願書の条」を更新

原文から覚明さがしをはじめ、最初に取り上げた条です。

現代文訳を省略した部分が多く、覚明に迫るには省略をしないで、条の全文を自分なりに辞書を頼りに現代文訳をすることで、さらに迫ることが出来ます。

そこで、全体考察(小見出し付き)、原文、現代文訳、部分考察(小見出し付き)の順ではっきり構成しました。

今後も、各条を見直し、修正し、更新することがあるかも知れませんが、よろしくご了承お願い致します。

(長左衛門・記)

2021年11月2日火曜日

お知らせ(5)考察部分に小見出しで見やすく

      考察部分に小見出しを付け見やすく

最初から、当ブログを修正なしで送り出したいと願っていますが、なかなか、そうはいきません。

当ブログ掲載の「平家物語」の原文原稿は、最初にワープロソフト一太郎のテキスト形式で少しずつ打ち込みます。

原文が長いと、時間が掛かり、誤植を防ぐため、校正をしっかりしないとなりません。

原文は旧漢字が多く、一太郎の手書きモードで探し、どうしても見つからないときは、一太郎に併載の辞書である岩波国語辞典で何とか探し、それで打ち込んだつもりでも、打ち込みを完成し、Googleのブログソフトに移すと、消えている旧漢字があります。

これを見つける為に校閲が必要ですが、見落とすことがあります。

一人で作業していますので、ブログ公開後に、たまたま後で脱字を見つけることがあります。そのときは、冷や汗ものです。 出来るだけ注意していますが、完璧は大変です。

それでも困るのは、気づいても表示されない旧漢字があります。その場合は仕方ないので常用漢字を使います。数は多くないのですが、時たま遭遇します。もし、当ブログで、研究などで厳密に旧漢字を追求する方はご注意をお願いします。

当ブログの目的は、原作者捜しなので、考察部分に力を入れています。

しかし、殆どこれと言う資料がないため、研究者(学者)の論文のように、過去の研究文献の検索は付記していません。参考にした主な論文は、当ブログから検索できるように、それぞれにリンクを貼っています。

なを、今回、「妓王の条」からは、見やすくするために、各考察部分に小見出しを付け読みやすくしました。今後、既掲載の各条も順次遡り、小見出しをつけ読みやすくします。

もし、すでに当ブログをプリントアウトして御覧の方は、時々、修正しておりますので誠に勝手ながら、現時点の当ブログが、年表部分も含め最新版と認識されますようお願い致します。悪しからずご了承よろしくお願い致します。

(長左衛門・記)


2021年10月19日火曜日

こぼればなし(6)信濃前司行長か、信濃前司幸長か

     信濃滋野氏嫡流の海野系図では本名海野幸長

兼好法師の「徒然草」で、「平家物語」の作者は、信濃前司行長・信濃入道・行長入道となっています。

これを信頼出来ると信じて、

信濃前司行長・信濃入道・行長入道のキーワードを手掛かりに、現存の「平家物語」の原文を熟読して、本当のオリジナルの作者を捜しています。

キーワードを絞ると信濃・入道・行長です。


今までに分かったことは、「平家物語」には原作が有り、その原作が「治承物語(号平家)」であることが分かりました。

しかし、その原作「治承物語」は現存しません。

現存の「平家物語」の作者は不詳と表記されることが未だに多いのです。

これだけの大作を残したのに、いまだに作者不詳と言われるのは残念です。

最近では、「平家物語」の作者は伝・信濃前司行長と表記されるものもあります。

そこで、信濃前司行長の経歴を、残された数々の著作や資料から辿ると、

本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸長です。

本人は九十七歳の長い人生で、本名以外で、八つの名前を使い人生を終えています。


注目点!

以下はその各別名です。

一、蔵人通廣(幼名は通廣、この時、勧学院進士,先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王)

二、最乗房信救(この時、比叡山で出家、この名で「仏法伝来次第」を書く)

三、信阿(この名で、「和漢朗詠集私注(六巻)」を書く)

四、信救撰(この名で「新楽府略意(二巻)」を書く)

五、大夫房覚明(この名で、木曽義仲の祐筆)

六、信救得業(この時、箱根権現で「筥根山縁起並序」「曽我物語(初稿)」を書く)

七、円通院浄寛(この時、比叡山慈鎭和尚のもとで「治承物語三巻(初稿)」を書く)※後に号平家六巻の記録あり

八、西仏(この時、法然上人門下、親鸞と行動をともにする。覚明の名で「三教指帰註」を書く)

以上、晩年の最後の呼称が西仏坊(西仏法師)です。


今と違い、本人は、その時、その場で、さまざまな名を使い分けていますので、これと言う代表的な名前はないのです。


強いて言うなら、

比叡山での出家名は信救。

「平家物語」関係を述べるときは信濃前司行(幸)長か、物語にも登場する木曽義仲の祐筆名の覚明。

法然・親鸞との宗教活動の関係を述べるときには、西仏、

となります。


整理すると、

本名は(海野)幸長、

幼名は(海野)通廣、

出家名は信救、

木曽義仲の祐筆名では覚明、

吉田兼好の徒然草では信濃前司行長または幸長、

晩年は西仏、

となります。

当ブログの年表では、親しみを込め「幸長入道」と総称しています。

以上は、ブログに既に書いたことですが、再確認のつもりで取り上げました。


ここまで、たどり着けたのは、パソコンでのネット検索と数々の研究者の論文のおかげです。また、このブログに、これだけの情報を掲載できるのはGoogleのブログサービスとワープロ一太郎のおかげです。

八十歳を過ぎていますので手書きではとうてい無理です。

視力も衰えていますので、プリンターとパソコンの拡大機能に助けられています。

今だからこそ、ここまで出来ると感謝しながら、日々、健康管理に気をつけ精進しておりますので、今後ともよろしくご愛読下さい。

(長左衛門・記)


2021年10月13日水曜日

原作者の存在を考証(16)妓王の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(16)

この「妓王の条」で、僧浄寛(覚明)は清盛入道の女性問題を追及。

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!                        

☆「平家物語」の妓王の条

(考察)

     覚明は、清盛の女性に対する横暴さを、この「妓王の条」で描く

 安藝國嚴島の内侍(巫女)が腹に一人や九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(下位女官)の常盤の腹に一人だけではなく、出家して入道になっても清盛の権勢と威力は、女性問題を大いに発展させていました。さすがに、年のせいか子供の記録は途絶えています。

 覚明は、女性に対する清盛の横暴さを、その例として、この「妓王の条」で描いています。主人公の一人は二十一で尼になる妓王で、もう一人は十九で尼になる仏御前です。

そして、この二人の女性が、どうして、そうなったのか、本人たちに取材して、経緯を詳しく、僧の覚明らしく語っています。

 覚明は、若い女性が尼になる話を二回書いています。

一回目は、この条を書く前に、箱根で「曽我物語」に登場する兄十郎の妾虎御前のことを描いています。十郎の恋人であった大磯の遊女虎(とら)は、十郎の死後、十九歳で尼となり、信濃の善光寺へ詣でて十郎の骨を納め、曾我の大御堂で念仏三昧の生活を送り、大往生を遂げます。

 二回目が、この妓王の条になります。

 一回目は、関わった亡き男の供養を信濃國の善光寺で行いをすまして、往生を遂げさせていますが、この二回目では清盛の供養はさせていません。

 覚明は、それぞれの女たちが、若いときの汚れてしまった生活を、尼になって修業することで、心身共に浄化し、人生を終えることを教訓としていたようです。

 この妓王の条は、他の条と比べると少し長いですが、叙事詩的なものではなく、 叙情詩的なものなので、優しい文章になっています。

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(妓王の原文)では、

 太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は、世の誹りをも憚らず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をのみし給へり。

譬へば、その頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王、妓女とて、おととひあり。とぢといふ白拍子が娘なり。

然るに姉の妓王を、入道相国寵愛し給ふ上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜ならず。母とぢにもよき屋造つて取らせ、毎月に百石百貫をおくられたりければ、家内富貴して、楽しい事斜ならず。

 抑わが朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前、かれら二人が舞ひ出したりけるなり。

始は水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ男舞とぞ申しける。

然るを中頃より烏帽子刀をのけられて、水干ばかり用ひたり。

さてこそ白拍子とはなづけけれ。

 京中の白拍子ども、妓王が幸ひの目出度き様を聞いて、羨む者もあり、猜む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの妓王御前の幸ひや。同じ遊女とならば、誰も皆あの様でこそありたけれ。如何様にも妓といふ文字を名について、かくは目出度きやらん。いざやわれらもついて見ん」とて、

或ひは妓一、妓二とつき、或は妓福、妓徳などつく者もありけり。

猜む者どもは、「なんでふ名なにより、文字にはよるべき。幸ひはただ先世の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬ者も多かりけり。


(現代文訳)

 太政入道※(清盛)は、かくのごとく天下を掌中に握っているので、世の非難をも遠慮せず、人の嘲笑も顧みず、不思議(仏語。思いはかることも、ことばで言い表わすこともできない)なことをしました。

  例えば、その頃、京中で評判の白拍子※の上手な妓王※という姉と妓女※という妹がいました。とぢという白拍子の娘です。

その姉のほうの妓王を入道相国が寵愛したので、妹の妓女をも、世の人がもてはやすこと格別でした。

母とぢにも良い家屋を造つてやり、毎月に百石の米と百貫の銭を贈られたので、家中が富み栄えて、楽しいこと格別でした。

 さて、わが国で白拍子の始まったのは、昔、鳥羽院の御世に、島の千歳、和歌の前という、かれら二人が舞い出してからです。

始は水干(水張りにして干した布)の狩衣に立烏帽子(前をおしこめて固くぬりかためた烏帽子)、白鞘巻(柄、鞘などに銀金具をつけた脇差し)をさして舞ったので男舞と言っていました。

しかし、中頃より烏帽子、刀を除いて、水干だけを用いました。ですから、白拍子となづけられました。

 京中の白拍子たちは、妓王が幸運でめでたい様子を聞いて、羨む者もあり、妬む者もありました。羨む者たちは、「ああ、めでたい妓王御前の幸せよ。同じ遊女(宇加礼女)であるならば、誰も皆、あの様でこそありたい。どうかというと、妓という文字を名に付けているから、その様にめでたいのでしょう。さあ、われらもつけてみましょう」といって、

あるものは妓一、妓二とつけ、あるものは妓福、妓徳などとつけるものもありました。妬む者たちは、「なんで、名や文字によるものか、運は、ただ前世からの生れつきであるそうだ」といって、妓の字を付けない者も多くありました。


※【太政入道】だいじょう‐にゅうどう〘名〙

もと太政大臣であった人が剃髪出家して仏門にはいった後の称。だじょうにゅうどう。日本国語大辞典小学館

※【白拍子・素拍子】しら‐びょうし 〘名〙

① 雅楽の拍子の名。笏(しゃく)拍子だけで歌うもの。

② 平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを歌い舞う遊女。初めは水干、立烏帽子に白鞘巻の太刀をさして舞ったので男舞といい、後に水干だけを用いたので白拍子というともいわれる。囃子としては笛、鼓、銅鈸子(どびょうし)などが用いられ、多くは今様(いまよう)をうたいながら舞った。〔兵範記‐仁安二年(1167)一一月一五日〕

[白拍子②〈七十一番職人歌合〉]

▷ 徒然草(1331頃)二二五

「禅師がむすめ、静と云ひける、この芸をつげり。これ白拍子の根元なり」

③ 江戸時代、遊女を俗にいう語。

▷ 俳諧・本朝文選(1706)四・説類・出女説〈木導〉

「傾城傾国は、唐人のつけたる名にして、白拍子ながれの女は、我朝のやはらぎなるべし」

[語誌]

(1)起源や呼称の由来は、装束に由来するとする説、声明の起源説、伴奏を伴わない拍子という義、など諸説ある。その女性たちには、女色を売る遊女としての側面もあった。

(2)仁和寺所蔵「今様之書」、「続古事談」、「世阿彌の三道」、「源平盛衰記」をはじめ、いくつかの中世資料により、その詞章、芸能の復元が試みられている。それによれば、和歌、朗詠、今様を謡う序段(ワカ)、本曲の歌舞(白拍子)、終段(セメ)で構成される、と推定され、また「かぞふ」と表現され、足を踏み廻す、などと形容されるところから、拍子舞であろうと考えられている。

(3)鎌倉時代初頭に最盛期を迎え、宮廷社会、とくに後鳥羽院の愛着などが著名である。その芸能は、寺院の延年舞に取り入れられ、また、室町時代以降の衰退と相俟って、曲舞、早歌などに、影響を与え、また吸収されていった。日本国語大辞典小学館

 ※ 【祇王・妓王】ぎおう

 「平家物語」に登場する人物。京堀川の白拍子。祇女(ぎじょ)の姉。近江国祇王村の出身。平清盛に愛されたが、のち推参した白拍子仏御前に寵(ちょう)を奪われると、妹、母とともに嵯峨の往生院に隠れ、尼となる。清盛の許を出た仏御前と共に、往生をとげる。

謡曲。三番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。古名「仏祇王(ほとけぎおう)」。喜多流では「二人祇王(ふたりぎおう)」という。「平家物語」「源平盛衰記」による。平清盛をめぐる仏御前と祇王の二人の白拍子の悲哀を描いたもの。二人の相舞(あいまい)が見せ場となっている。日本国語大辞典小学館 

※【伎女・妓女】ぎ‐じょ〘名〙

① 平安時代、内教坊に所属して、女舞を行なった女。

② 伎楽を奏する女

③ 芸妓。娼妓。遊び女。日本国語大辞典小学館

※【祇女・妓女】ぎじょ

「平家物語」に登場する人物。京、堀川の白拍子。祇王(ぎおう)の妹。近江の人。平清盛の寵(ちょう)を失った姉とともに嵯峨の山里にはいり、尼となり、姉や仏御前と共に往生する。ぎにょ。日本国語大辞典小学館

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(考察)

    覚明は、白拍子の祇王・妓女の姉妹が尼になったという噂に惹かれる

 覚明は、ここまで書いてきて、妓王と妓女の姉妹について、噂以外に、詳しいことは何も知らないことに気づきました。

その後もどうなっているかよく知りません。

比叡山の僧達に聞き込んでも、詳しく知る僧はいませんでした。

噂で分かっていることは、尼になっていて、京から離れた鄙びた土地の庵に住んでいるということぐらいです。

 覚明は、清盛のお気に入りで知られたあの祇王が尼になっているという噂に惹かれていました。

なぜなら、「曽我物語」の十郎の恋人だった虎御前が尼になるとき、覚明は箱根で立ち会っていたからです。

何があったのか、その経緯は「曽我物語」に書いています。

覚明は、清盛と妓王の関係に、どんな経緯があったのか、妓王に会って知りたくなりました。

そこで、山をおり、白拍子たちのいる京の堀川へ行き、噂の真相を確かめることにしました。

一人で行くのではなく、無駄骨にならないように琵琶法師生仏様を同道することにしました。

無駄骨にならないようにということは、覚明は既に、数回は「治承物語」を語る会を叡山のあちこちの寺で開催していました。

出来上がった条の端から数人の生仏様たちに覚えさせて語らせていました。

その噂を聞いた京のあちこちの寺からも、是非、聞きたいという要望があったからです。「妓王の条」の取材のついでに、各寺に寄ることで、お布施稼ぎも狙っていました。

関係者以外での公開は初めてになるので、今回は藤原兼実の館で試演した「祇園精舎の条」を完全にものにしている琵琶法師正仏様にも来て貰うことにしました。

 京の堀川では、妓王・妓女の姉妹がどこに居るか、すぐに分かりました。

嵯峨の奥の往生院※の敷地の庵でした。

往生院は法然(源空)の門弟念仏房良鎮によって始められたと伝えられる寺で、覚明は法然の法話を何度か聴講したことがあり、その時、既に門弟の良鎮の名を知っていたと思います。なぜなら、覚明は、この「治承物語」を書き終えた後、親鸞とともに法然の門にはいり専修念仏※の道にすすんだからです。


※【往生院】おうじょう‐いん

 京都市右京区嵯峨鳥居本にあった寺。「平家物語」などによると、滝口入道、祇王、祇女らが遁世したという。明治二八年(一八九五)、その庵跡に祇王寺が建てられた。日本国語大辞典小学館

※【専修念仏】せんじゅ‐ねんぶつ〘名〙 (「せんじゅねんぶち」とも) 仏語。

他の行をしないでひたすら念仏だけを唱えること。主として法然流の念仏をさすことが多い。専念。

▷ 念仏大意(1212頃)

「当世専修念仏の行者において、もはら難をくはへてあざけりをなすともがらおほくきこゆるにや」日本国語大辞典 小学館

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 (妓王の原文)つづく、

 かくて三年といふに、又白拍子の上手、一人出で來たり。加賀國の者なり。名をば佛とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。

京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かかる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事斜めならず。

 ある時佛御前申しけるは、「われ天下にもてあそばるるといへども、當事めでたう榮えさせ給ふ平家太政上入道殿へ、召されぬことこそ本意なけれ。遊者の習ひ、何か苦しかるべき。推參して見ん」とて、

或時に西八条殿へぞ參じたる。

人御前に參つて、「當事都に聞え候佛御前が參つて候」と申しければ、入道相国大きに怒つて、

「なんでふ、さやうの遊者は、人の召にてこそ參るものなれ、さうなう推參する様やある。その上、神ともいへ、佛ともいへ、妓王があらんずる所へは叶ふまじきぞ。とうとう罷り出でよ」とぞ宣ひける。

佛御前は、すげなういはれ奉つて、既に出でんとしけるを、妓王入道殿に申しけるは、

「遊者の推參は、常の習ひでこそ候へ。その上年も未だをさなう候なるが、たまたま思ひ立つて參つて候を、すげなう仰せられて、返させ給はんこそ不便なれ。いかばかり恥しう、かたはらいたくも候らん。わが立てし道なれば、人の上とも覺えず。縦ひ舞を御覧じ、歌をこそ聞し召さずとも、唯理をまげて、召し返いて御對面ばかり候ひて、返させ給はば、有難き御情でこそ候はんずれ」と申しければ、

入道相国、「いでいでさらば、わごぜが餘りにいふ事なるに、對面して返さん」とて、御使を立てて、召されけり。

 佛御前は、すげなういはれ奉つて、車に乘つて既に出でんとしけるが、召されて歸り參りたり。

 入道やがて出であひ對面し給ひて、「いかに佛、今日の見參はあるまじかりつれども、妓王が何と思ふやらん、餘りに申しすすむる間、かやうに見參はしつ。見參する上では如何でか聲をも聞かであるべき。先づ今様一つ歌へかし」と宣へば、

佛御前、「承り候」とて、今様一つぞ歌うたる。

 君を始めて見る時は 千代も經ぬべし姫小松

  御前の池なる龜岡に 鶴こそむれゐて遊ぶめれ

と、推返し推返し、三返歌ひすましたりければ、見聞の人々、皆耳目を驚かす。

入道も面白き事に思ひ給ひて、

「さてわごぜは、今様は上手にてありけるや。この定では舞も定めてよからん。一番見ばや、鼓打召せ」とて召されけり。打たせて一番舞うたりけり。

 佛御前は、髪姿より始めて、眉目かたち世にすぐれ、聲よく節も上手なりければ、なじかは舞ひは損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国舞にめで給ひて、佛に心を移されけり。

佛御前、「こは何事にて候ぞや。もとより妾は推參の者にて、既に出され參らせしを、妓王御前の申状によつてこそ、召し返されても候。はやはや暇賜はつて、出させおはしませ」と申しければ、

入道相国、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによつて、さやうに憚るか。その儀ならば妓王をこそ出さめ」と宣へば、

佛御前、「これ又いかでさる御事候ふべき。ともに召し置かれんだに、恥しう候べきに、妓王御前を出させ給ひて、妾を一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥しう、かたはらいたくも候べき。おのづから後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は參るとも、今日は暇を給はらん」とぞ申しける。

入道、「その儀ならば、妓王とうとう罷り出でよ」と、御使重ねて三度までこそ立てられけれ。

 妓王はもとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。

入道相国、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、掃き拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。

一樹の陰に宿りあひ、同じ流れを掬ぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。

いはんやこれは三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、甲斐無き涙ぞすすみける。

さてしもあるべき事ならねば、妓王今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。

 萠え出づるも枯るるも同じ野邊の草 何れか秋にあはで果つべき 

 さて車に乘つて宿所へ歸り、障子の内に倒れ伏し、ただ泣くより外の事ぞなき。

母や妹これを見て、いかにやいかにと問ひけれども、妓王とかうの事にも及ばず、具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知つてげれ。

 さる程に毎月送られける百石百貫をも推止められて、今は佛御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ榮えける。

京中の上下、この由を傳へ聞いて、

「誠や妓王こそ、西八条殿より暇賜はつて出されたんなれ。いざや見參して遊ばん」とて、

或は文を遣はす者もあり、或は使者を立つる人もありけれども、妓王、今更又人に對面して、遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取り入るる事もなく、まして使をあひしらふまでも無かりけり。妓王これにつけても、いとど悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。


(現代文訳)

 こうして三年ばかりして、また、(京の堀川に)白拍子の上手が一人出てきました。加賀の国(能美郡鶴来町、手取川の右岸に仏原というところがある)の者で、名を佛と申しました。年は十六ということでした。

京中の上下の人びとは、これを見て、昔より多くの白拍子を見たけれど、このような舞の上手はまだ見たことがないと、世間の人がもてはやこと格別でした。

 ある時、佛御前がいうには、「私は、天下にもてはやされるけど、いま、めでたく繁栄されている平家の太政上入道殿に、召されぬことは不本意です。遊び者の習わしとして、何か無礼なことがあるでしょうか、押しかけてみましょう」と、ある時、西八条殿(八条坊門南櫛司西)※へ参上しました。

 取り次ぎの人が清盛の御前に来て「いま、都で評判の仏御前が参っております」と申し上げると、入道相国は大変怒つて、「何を言うか!、そのような遊女は、人に呼ばれて来るものだ、左右無く押しかけるやつがあるか。その上、神といおうが、佛といおうが、妓王が居るところへは許されないぞ。早く早く退出させよ」と言いました。


※【西八条殿】にしはちじょう‐どの 

平清盛の邸宅。平安京左京八条北、八条坊門南、大宮、坊城間の東西三町南北二町(京都市下京区、JR梅小路貨物駅付近)を占めていた。屋舎五十余あったと伝える。治承五年(一一八一)閏二月炎上。再興したものも寿永二年(一一八三)の都落ちの際に平家が自ら焼いた。日本国語大辞典小学館


(現代文訳)つづく、

 佛御前は、つれなく言われて、すでに出ようとしていましたが、祇王が入道殿に申したことには「遊び者の押しかけるは、いつもの習いですよ。
それに年もまだ幼いようです。
たまたま思い立ってきたのに、すげなく返されては不憫ですよ。
どのくらい恥ずかしいかかわいそうです。
わたしが身を立てた道ですから、人ごととは思えません。
たとえ、舞を御覧にならず、歌をお聞きにならずとも、ただ、道理を曲げて、召し返してお会いになるだけで帰しても、有り難きお情けでしょう」と申したので、

入道相国「そうかそうか、さようならば、わしの祇王がそこまで言うのなら、会うだけは会って返そうか」と、使いをやって、召しました。

 佛御前は、つれなく言われて、車に乗って既に出ようとしていましたが、召されて帰って来ました。

入道はすぐさま出てきて、對面し、「どうしてか、佛、今日の引見はしないはずであったが、妓王が何と思ったのか、余りに申しすすめるので、このように引見している。
会ったからには声を聞かずにはなるまい。
先づ今様(当世風の七五の調四句よりなる歌曲)を一つ歌へ」と言えば、

佛御前は、「うけたまわり候」とて、今様をひとつ歌いました。

〽君を始めて見る時は 千代も經ぬべし姫小松
   〽御前の池なる龜岡に 鶴こそむれゐて遊ぶめれ

と、繰り返し、繰り返し、三度、立派に歌い上げたので、聞いていた人びとの関心を引きました。
入道も面白く思い、
「さて、お前は、今様は上手であったぞ。この分では舞も定めし上手かろう。一番見てみよう、鼓打を呼べ」と、呼んで、鼓を打たせ、一番舞わせました。

 佛御前は、髪型を始め容姿に優れ、声よく節も上手でしたので、どうして舞をし損じましょうか。
想像も及ばぬほど立派に舞ったので、入道相国は舞に心引かれて、仏に心を移されました。

佛御前は、「これは何ごとでしょうか。もとより私は押しかけ者で、すでに追い出されたものを、妓王御前の口ききで呼び返されました。そうそうにお暇賜り、帰らせてくださいませ」と言いました。

入道相国は「すべて、その願い叶わぬ。但し、祇王がいるによって、そのように気兼ねするのか。その事ならば祇王こそ追い出そう」とおっしゃる。

佛御前は「これは又なんということでしょう。ともに召し置かれることでさえ恥ずかしいのに、妓王御前を出して、私を一人召し置かれるならば、妓王御前のお気持ちはどんなにか恥ずかしく、いたたまれないでしょう。そのうち、後々、お忘れでなかったら呼ばれて、又、参りましょう。今日はお暇致します」と申しました。

すると、入道は「それなら、祇王を直ぐに、出ていかせる」と、お使いを三度も立てられました。
  祇王は、平生から覚悟はしていたことではありますが、さすが、昨日今日とは思いもよらないことでした。
入道相国は、どうしても駄目と何度も言うので、その間、祇王は部屋を掃き清め、塵を拾わせ、出て行く覚悟をしました。
                               
  一本の樹の陰に宿りあい、同じ川の水を掬いあうなかでも、別れは悲しいものです。
ましてや、三年間住み慣れた所なので、名残も惜しく悲しくて、不甲斐なく涙がこぼれます。
そのままでいることも出来ないので、祇王は今はこうするしか無いと出ることにしましたが、去った跡の忘れ形見にと思い、障子に泣きながら、一首の歌を書きつけました。

 萠え出づるも枯るるも同じ野邊の草 何れか秋にあはで果つべき 
 
そして、車に乗り宿所(宿舎)へ帰り、障子のうちに倒れ伏して、ただ泣くより外はありませんでした。
母や妹はこれを見て、何があったのか問いましたが、祇王は答えません、付き添ってきた女に尋ねて、その事情を知りました。

やがて、毎月送られていた百石百貫も差し止められて、今は仏御前の親族縁者が、はじめて豊かになり栄えました。
京中の上下の人びとはこのことを伝え聞いて、
「本当か、祇王が、清盛入道から暇を出されたなんて、それでは出かけて遊ぼうか」とか、
或いは文を送ってくる者とか、或いは使者を立ててくる人もありましたが、祇王は、今更
又、人に会い遊び戯れるべきではないと、文に返事することも無く、ましてや、使いをもてなすこともしませんでした。
祇王は、これらのことも、ますます悲しくて、不甲斐なさに涙がこぼれました。

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(考察)

       覚明は、尼姿の祇王姉妹に会い、噂の真相を確かめる

 僧衣の覚明は、メモを取りながら祇王の話をここまで聞いて、清盛入道の気まぐれに辟易しました。
同道してきた琵琶法師生仏様は祇王の声のする方向を向き、ひと言も聞き逃すまいと念を入れていて、身じろぎもしませんでした。
嵯峨の往生院の祇王たちの庵は狭いので、院の座敷を借り、そこに尼姿の妓王御前と妹の妓女が座っていました。
突然、訪れたのに姉妹は飾るまでも無く、美しい尼姿でした。
清盛との出来事からは十数年がたち、そろそろ、二十年前後にもなろうかというころです。
この時、覚明は五十二、三歳でした。
祇王姉妹は尼になってから二十年前後経過していましたので四十歳前後になっていたと思います。
覚明の質問に、祇王姉妹の記憶は鮮明でした。
清盛との男女の機微にも触るので、覚明は生仏様にも来てもらい良かったと思いました。盲目の生仏様がいるので二人の尼は緊張することもなく、ありのままを話してくれます。
清盛入道の権力者らしい気まぐれの話は、まだ、まだ続きます。

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(祇王の原文)つづく、

  かくて今年も暮れぬ。
あくる春にもなりしかば、入道相国、妓王が許へ使者を立てて、
「如何に妓王、その後は何事かある。
佛御前が餘りにつれづれげに見ゆるに、參つて今様をも歌ひ、舞などを舞うて、佛なぐさめよ」とぞ宣ひける。

妓王とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて伏しにけり。

入道重ねて、「何とて妓王は、ともかうも返事をば申さぬぞ。參るまじきか。參るまじくは、その様を申せ。浄海も計らふ旨あり」
とぞの宣ひける。
                                
 母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、「何とて妓王はともかうも御返事をば申さで、かやうに叱られ參らせんよりは」といへば、

妓王涙をおさへて申しけるは、「參らんと思ふ道ならばこそ、やがて參るべしと申すべけれ。なかなか參らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも覺えず。この度召さんに參らずは、計らふ旨ありと仰せらるるは、定めて都の外へ出さるるか、さらずは命を召さるるか、これ二つにはよも過ぎじ。縦ひ都を出さるるとも、歎くべき道にあらず。又命を召さるるとも惜しかるべきわが身かは。いち度憂き者に思はれ參らせて、二度面を向ふべしとも覺えず」とて、なほ御返事に及ばざりしかば、

母とぢ泣く泣く又教訓しけるは、
「天が下に住まんには、ともかうも入道殿の仰せをば、背くまじき事にてあるぞ。
その上わごぜは、男女の縁、宿世、今に始めぬ事ぞかし。
千年萬年とは契ぎれども、やがて別るる中もあり。
あからさまとは思へども、ながらへはつる事もあり。
世に定めなきものは、男女の習ひなり。
況んやわごぜは、この三年が間思はれ參らせたれば、有り難き御情でこそ候へ。
この度召さんに參らねばとて、命を召さるるまではよもあらじ。
定めて都の外へぞ出されんずらん。
たとひ都を出さるるとも、わごぜ達は年未だ若ければ、如何ならん岩木の間にても、過さん事やすかるべし。
わが身は年老い齢衰へたれば、ならはぬ鄙の住居を、かねて思ふこそ悲しけれ。
ただわれをば都の中にて住みはてさせよ。
それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」といへば、

妓王參らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじとて、泣く泣く又出立ける、心の中こそ無慚なれ。

 妓王獨り參らん事の、餘りに心憂しとて、妹の妓女をも相具しけり。
その外白拍子二人、惣じて四人、一つ車に取乘つて、西八条殿へぞ參じたる。
日頃召されつる所へは入れられずして、遙にさがりたる所に、座敷しつらうてぞ置かれける。
妓王、「こはされば何事ぞや。わが身に過つ事はなけれども、出され參らするだにあるに、あまつさへ座敷をだにさげらるる事の口惜しさよ。如何せん」と思ふを、人に知らせじと、押ふる袖の隙よりも、餘りて涙ぞこぼれける。
 
 佛御前これを見て、餘りに哀れに覺えければ、入道殿に申しけるは、「あれは如何に、妓王とこそ見參らせ候へ。日頃召されぬ所にても候はばこそ。これへ召され候へかし。さらずは妾に暇をたべ。出で參らせん」
と申しけれども、入道いかにも叶ふまじきと宣ふ間、力及ばで出でざりけり。

 入道やがて出であひ對面し給ひて、「いかに妓王、その後は何事かある。佛御前が餘りにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどを舞うて、佛慰めよ」とぞ宣ひける。
妓王、參る程では、ともかくも入道殿の仰せをば、背くまじきものをと思ひ、流るる涙を押へつつ、今様一つぞ歌うたる。

佛も昔は凡夫なり われらも終には佛なり
  何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と、泣く泣く二返歌うたりければ、その座に並み居給へる平家一門の公卿殿上人、諸大夫、侍に至るまで、皆感涙をぞ催されける。
入道もげにもと思ひ給ひて、
「時に取つては神妙にも申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるる事出できたり。この後は召さずとも常に參りて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、佛慰めよ」
とぞ宣ひける。

 妓王とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて出でにけり。
妓王、「參らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじと、つらき道に赴いて、二度憂き恥を見つる事の口惜しさよ。かくてこの世にあるならば、又も憂き目にあはんずらん。今はただ身を投げんと思ふなり」といへば、
妹の妓女これを聞いて、
「姉身を投げば、われも共に身を投げん」といふ。

 母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く又重ねて教訓しけるは、
「さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して參らせつる事のうらめしさよ。
誠にわごぜの恨むるも理なり。
但しわごぜが身を投げば、妹の妓女も共に身を投げんといふ。
若き娘どもを先立てて、年老い齢衰へたる母、命生きても何にかはせんなれば、われも共に身を投げんずるなり。
未だ死期も來らぬ母に、身を投げさせんずることは、五逆罪にてやあらんずらん。
この世はかりの宿なれば、恥ぢても恥ぢても何ならず。
ただながき世の闇こそ心憂けれ。
今生で物を思はするだにあるに、後生でさへ悪道へ赴かんずる事の悲しさよ」
と、さめざめとかき口説きければ、
妓王涙をはらはらと流いて、「げにもさやうに候はば、五逆罪疑ひなし。
一旦うき恥を見つる事の口惜しさにこそ、身を投げんとは申したれ。
さ候はば自害をば思ひ止まり候ひぬ。
かくて都にあるならば、又も憂き目を見んずらん。
今はただ都の外へ出でん」とて、
妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念佛してぞ居たりける。
妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、われも共に身を投げんとこそ契りしか。ましてさやうに世を厭はんに、誰か劣るべき」とて、
十九にて様をかへ、姉と一所に籠り居て、偏に後生をぞ願ひける。
母とぢこれを聞いて、
「若き娘どもだに、様をかふる世の中に、年老い齢衰へたる母、白髪をつけても何にかはせん」とて、
四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに、一向専修に念佛して、後生を願ふぞ哀れなる。


(現代文訳)つづく、

このようにして、この年も暮れました。
翌年の春になると、入道相国は、妓王のもとに使者を立てて、
「どうだ祇王、その後は何かあるか。仏御前が余りに退屈そうに見えるので来て、今様を歌い、舞などを舞って仏を慰めよ」と告げました。

祇王はどうにもこうにも返事ができず、涙を抑えて伏してしまいました。

入道は重ねて、「なぜ祇王は、どうだとかこうだとか返事をしないのか。来るのか、来ないのか、そのわけを言え。浄海(清盛入道の法名)も考えがあるぞ」と、言いました。

母親のとじは、これを聞いて悲しく、泣く泣く教えさとすには「何はともあれ、祇王はどうとかこうとかの返事を言わなければ、このようにしかられるよりは」と言えば、
祇王涙を抑えて言うには「行こうと思っているのなら、すぐに参りますと言うでしょう。
行かないつもりなのですから、なんと返事するかわからないのです。
今度、召しても来ないならば、考えがあると言うのは、きっと都から追い出されるか、そうでなければ命を召されるか、これ以外にはないでしょう。
たとえ、都を追い出されても嘆くようなことではありません。
また、命を召されても惜しいようなわが身でしょうか。
一度気に入らないと思われて、再び対面するつもりはありません」といい、
なおも返事ををしないでいたが、
母のとじは泣く泣く又教え諭したことは、
「この天下に住むには、ともかく、入道殿の命令には背けないのだよ。
その上、お前様、男女の縁や宿世(前世の因縁)は、今に始まったことではない。
千年、萬年と契っても、直ぐさま別れる仲もある。
かりそめの、ちょっとした仲だと思ってもいつまでもつづいてゆくこともある。
この世で不安定なものは男女のさだめです。
それにお前は、この三年も入道殿のご寵愛を受けたのだから、有り難いお情けだよ。
このたび、お召しになるのに行かないからといって、命まで失うことは、よもやないでしょう。
ただ、都の外に追い出されるようなことにはなるかも知れない。
たとえ都を追い出されても、お前たちは年が若いから、どんなひどい場所でも過ごすことは簡単だろう。
わが身は年老い衰えたので住み慣れない田舎暮らしは、予想するだに悲しい。
ただ、私を都のなかで住み果てさせなさい。
それが現世と来世の孝行と思うがよい」と言うので、

祇王は、行くまいと思っていたが、母親の命令には背くまいと、泣く泣く再び出かけて行くことにしました。
心中は痛ましいことです。

祇王は一人で行くのは、余りに心がつらいので  妹の妓女を連れて行くことにしました。その他に白拍子二人と、全部で四人が一つの車に乗り、西八条殿へ行きました。
前に、召された所には入れられず、遙かに下がった所に用意された座敷に置かれました。
祇王は「これはさて、何ごとでしょうか。わが身に誤ったことはないのに、追い出されたうえに、よもや、段下の座敷に下げられたことの悔しさよ、どうしょう」と思うが、人には知られまいと押さえた袖のすき間から涙がこぼれました。

仏御前、これを見て、余りに哀れに思い、入道殿に言いました「あれはどうして、祇王が来ているのですよ。
いつも召されぬ所に通すなんて、こちらに召して下さい。
そうしないのなら、私がちょっと、行って来させます」と言いましたけれども、
入道は、どうしても、それは叶わないというので、仏御前は力及ず行くことは出来ませんでした。
入道は、すぐに出てきて対面し「どうだ祇王、その後は何かあるか。仏御前が、あまりに退屈そうなので、今様を歌い、舞を舞うて、仏をなぐさめよ」と、言いました。
祇王は、参上したからには、ともかく、入道殿の仰せには背くまいと思い、流れる涙を抑えつつ、今様を一つ歌いました。

〽佛も昔は凡夫なり われらも終には佛なり
  〽何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と、泣く泣く二回歌ったところ、その座に並みいた平家一門の公卿や殿上人、諸大夫(地下の四位、五位の軽き家柄のもの)、侍に至るまで、皆が心に深く感じて涙を催されました。
入道もその通りと思ったのか、
「今のは感心なことを申した。
さて、舞も見たいけれど、今日はあれこれと忙しいことが出来た、今後は召さなくても常にきて、今様を歌ひ、舞なども舞って、佛を慰めよ」
と言いました。
祇王は何とも返事できず、涙をおさえて退出しました。

祇王は「もう来ないと思い決めた道なのに、母の命令に背くまいと、つらい道にきて、二度も嫌な恥をかいて口惜しい。
このようにこの世に生きるなら、また、嫌な目に遭うことでしょう。
今は身を投げて死にたいと思います」といえば、
妹の妓女がこれを聞いて、
「姉が身を投げれば、私も一緒に身を投げます」と言いました。

 母親とじは、これを聞くと悲しくて、泣く泣く、また、重ねて教え諭しました。
「そのような事があるとは知らず、教え諭してきたとは残念で悲しい。
本当に祇王が不満を持ち悲しく思うのは当然です。
但し、お前が身を投げれば、妹の妓女もともに身を投げるという。
若き娘らを先立たせて、年老い衰えてる母が、命ながらえてもどうしょうもない、わしも共に身を投げましょう。
まだ、死期も来てない母に身を投げさせるのは、五逆罪※になります。
この世はかりの宿です、恥じても恥じても何もなりません。
ただ、長き世の闇こそ煩わしい。この世でも思いわずらわしいのに、あの世でも悪道(地獄、餓鬼、畜生道)へいく悲しさがある」と、
さめざめとかき口説きました。
祇王は涙をはらはらと流して、
「その通りに思います。
五逆罪も疑いなしです。
一旦、いやな恥をかいた事の口惜しさに身を投げるといいましたが、自害を思いとどまることにします。
このように都にいるなら、また、嫌な思いをするので、今はただ都の外に出たいだけです」と、
祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里の柴の庵で、念仏をして暮らすことにしました。
妹の妓女はこれを聞いて、「姉が身を投げれば、私も共に身を投げると約束しました。
ましてや、そのように世を嫌になるのには、私も負けていません」といって、
十九歳にて尼になり、姉と一緒に庵にこもり、ひとえに極楽に生まれることを願いました。

母とぢこれを聞いて、
「若き娘どもが、尼になる世の中に、年老いて衰えた母が、白髪で生きていても何にもならない」といって、
四十五歳にて髪を剃り、二人の娘もろともに、ひたすら念仏だけを唱えて、死後の世界を願うという哀れことでした。


※【五逆罪】ごぎゃく‐ざい〘名〙
① 仏語。五種のもっとも重い罪悪。一般には、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの五つをいい、これを犯すと無間地獄(むげんじごく)に落ちるとされ、五無間業と呼ばれる。
② 主君、父、母、祖父、祖母を殺す五つの罪。極刑に処せられるべき重い罪悪とされる。
日本国語大辞典小学館 

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(考察)

       覚明は、仏御前が現れ、その尼姿におどろく

ここまで、話をしてくれていた祇王と妓女は顔を見合わせました。
祇王が目で何か合図すると、妹の妓女は覚明たちに黙礼すると、静かに立ち上がり座敷を出て行きました。
祇王は、覚明と生仏様にお茶を入れてくれ、覚明たちは、ひと息いれました。
祇王が言うには、自分達の庵では母とじが寝ていて、なんと仏御前が付き添っているとのことでした。
覚明は仏御前が祇王らの庵にいると聞いて驚きました。
母親とじは、年老いて、もうかれこれ六十五歳前後になっていました。
妹の妓女と付き添いを交代して、仏御前がここに来ると言うのです。
やがて、静かな足音がして、座敷に仏御前が現れました。
なんと、それは尼姿でした。
覚明は驚いたと思います。

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(祇王原文)つづく、

 かくて春過ぎ夏たけぬ。
秋の初風吹きぬれば、星合の空を眺めつつ、天の戶渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端にかくるるを見ても、日の入り給ふ所は、西方淨土にてこそあんなれ。
いつかわれらもかしこに生れて、物も思はで過さんずらんと、過ぎにし方の憂き事ども思ひつづけて、ただ盡せぬものは涙なり。

 たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉ぢ塞ぎ、燈幽にかきたてて、親子三人もろともに念佛して居たる所に、竹の編戸を、ほとほとと打叩く者出で來たり。
その時尼ども肝を消し、

「あはれ、これは、いふ甲斐なきわれらが念佛してゐたるを妨げんとて、魔緣の來たるにてぞあるらん。
晝だにも人も訪ひ來ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜更けて誰かは尋ぬべき。
僅に竹の編戸なれば、あけずとも押し破らんこと易かるべし。
今は唯なかなかあけて入れんと思ふなり。
それに情をかけずして、命を失ふものならば、年頃頼み奉る彌陀の本願を強く信じて、隙なく名號を唱へ奉るべし。
聲を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の來迎にてましませば、などか引接無かるべき。
相構へて念佛怠り給ふな」
と互に心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸を開けたれば、魔緣にては無かりけり。

佛御前ぞ出で來たる。

 祇王、「あれは如何に、佛御前と見參らするは。夢かやうつつか」といひければ、

佛御前涙をおさへて、
「かやうの事申せば、すべてこと新しうは候へども、申さずは又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして、細々とありのままに申すなり。
もとより妾は推參の者にて、既に出され參らせしを、わごぜの申し狀によつてこそ、召し返されても候に、女の身の云ふ甲斐なきこと、わが身を心に任せずして、わごぜを出させ參らせて、妾が推留められぬる事、今に恥しうかたはらいたくこそ候へ。
わごぜの出でられ給ひしを見しにつけても、いつか又わが身の上ならんと思ひ居たれば、うれしとは更に思はず。
障子に又、『いづれか秋にあはではつべき』と書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。
いつぞや又わごぜの召され參らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひし知られてこそ候へ。その後は在所をいづくとも知らざりしに、この程聞けば、かやうに様をかへ、一つ所に念佛しておはしつる由、餘りに羨しくて、常は暇を申ししかども、入道殿更に御用ひましまさず。
つくづくものを案ずるに、娑婆の榮華は夢の夢、楽しみ榮えて何かせん。
人身は受け難く、佛教には遇ひがたし。
この度泥梨に沈みなば、他生曠劫をば隔つとも、浮び上らん事難かるべし。
老少不定の境なれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息の入るを待つべからず。
かげろふ稻妻よりも猶はかなし。
一旦の榮華に誇つて、後世を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でて、かくなつてこそ參りたれ」
とて、被いたる衣を打除けたるを見れば、尼になつてぞ出で來たる。

「かやうに様をかへて參りたる上は、日頃の科をば許し給へ。
許さんとだに宣はば、もろともに念佛して、一つ蓮の身とならん。
それにも猶心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の筵、松が根にもたふれ臥し、命のあらんかぎりは念佛して、往生の素懐を遂げんと思ふなり」とて、
袖を顔に押當てて、さめざめとかきくどきければ、

妓王涙をおさへて、「わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは夢にも知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様を替へておはしつる上は、日頃の科は、露塵ほども残らず、今は往生疑ひなし。
この度素懐をげんこそ、何よりも又嬉しけれ。
妾が尼になりしをだに、世に有り難き事の様に、人もいひ、わが身も思ひ候ひしぞや。
それは世を恨み、身を歎いたれば、様をかふるも理なり。
わごぜは恨みもなく歎きもなし。
今年は僅十七にこそなりし人の、それ程まで穢土を厭ひ、浄土を願はんと、深く思ひ入り給ふこそ、誠の大道心とはおぼ覺えさぶら候ひしか。
嬉しかりける善知識かな。いざもろともに願はん」とて、

四人一所に籠り居て、朝夕佛前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし。
さればかの後白河法皇の長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、佛、とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。有り難かりし事どもなり。

(現代文訳)つづく、

こうして、春が過ぎ、夏も終わりました。秋の初めに吹く風がふき、牽牛・織女の二星が会うという七夕の夜の空を眺めながら、天の川の瀬戸を渡る梶の葉(舟の梶との掛詞)に願い事を書くころとなりました。、
夕日の影が西の山の端に隠れるのを見ても、日のお入りになるところが、西方浄土※のようです。いつかわれらもそこに生まれて、もの思いしないで過ごしたいと、過ぎたことの嫌なことを思いつつ、ただ、尽きないものは涙なのです。

 
  ※【西方浄土】さいほう‐じょうど〘名〙 仏語。
阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。


夕暮れ時も過ぎたので、竹の編戸を閉じて塞ぎ、灯りをかすかにともして、親子三人そろって念仏を唱えているところに、竹の編戸をほとほと、と打ち叩く者が来ました。
そのとき、尼たちは肝をつぶして、
「ああ、これは、不甲斐ないわれらが念仏をしているところを邪魔しようとして、魔物が来たのではないだろうか。
昼でも人の訪ねてこない山里の柴の庵のなかなので、夜が更けて誰が訪ねて来ようか。ささやかな竹の編戸なので開けなくても押し破ることは簡単でしょう。
今は、ただ、直ぐに開けて入れようと思いました。
それでも情けをかけられずして、命をとられるのならば、長い間、お願い奉っている弥陀の本願を強く信じて、隙無く、南無阿弥陀仏の名号をお唱え奉りましょう。
声を尋ねて迎えに来て下さる聖衆※のおいでであるから、どうして、引接※がないことがあろうか。きっと構えて念佛を怠りなさるな」
と、お互いに心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸を開けると、魔物ではありません。佛御前が来ていたのです。


※【聖衆】しょう‐じゅ 〘名〙 仏語。
菩薩や声聞・縁覚などの群衆。また、極楽浄土の阿彌陀仏と菩薩などの聖者たち。聖主。
日本国語大辞典小学館 
 
※【引接・引摂】いん‐じょう〘名〙
① 仏語。阿彌陀仏や菩薩が念仏の人の臨終にあらわれて浄土に導き、救いとること。いんせつ。
日本国語大辞典小学館 



祇王が「あら、どうしたの、仏御前に見えますが、夢か本当でしょうか」
と言いましたら、
仏御前は涙をおさえて、
「このようなことを申しますと、すべて今さらなにをと思われますが、申さなければ、また、人の気持もわからない者となってしまいますので、始めから、細々とありのまま申します。
もともと、私は押しかけた者で、すでに(清盛入道に)追い出されたのを、あなたさま(妓王御前)のとりなしで、召し返されたのに、女の身で言うのも効果の無いことで、自分の気持に任せることが出来ず、あなたを追い出して、(代わりに)私が押しとどめられたことは、今でも恥ずかしく心苦しいことでした。
あなたの追い出されたのをみても、いつか、また、わが身の上にくることであろうと思われたので、うれしいとは全く思いませんでした。
また、襖障子に いづれか秋にあはではつべきと書き置かれた筆の跡に、誠に、と思いました。
いつか、また、あなたが呼ばれて今様をお唄いなさったおりにも、思い知らされました。
その後は、住所が何処とも知りませんでしたが、この程きけば、このようにお姿を変えて、一つところで念仏しておられるとのこと、あまりに羨ましくて、常にお暇を願い出て申しておりましたが、入道殿は、決してお許し下さいません。
つくづく考えますと、現世の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて、何になるでしょう。
人身は受け難く、佛教には遇ひがたし※(人間として生まれることは難しく、仏教に会うことも難しい)。
この度、地獄に沈めば、幾度、生まれ変わっても未来永劫、浮かび上がることは難しい。人間の寿命の長短の定まらない世界ですから、年の若さを頼るつもりはありません。
吐く息が吸い込まれる瞬間をも死は待つようなことはありません。
かげろうや稲妻よりもさらにはかない。
一時の繁栄を誇っても、来世を知らないことが悲しくて、今朝、忍び出て、このようになって参りました」
と言って、かぶっていた衣をのけた姿を見ると、尼になっていたのでした。


※【人身】 は 受け難く仏教には遇い難し
この世に人間として生を受けるのは、因縁によるものであるから容易なことではないのに、そのうえ仏の教えをきく機会にめぐまれることはもっとむずかしいという意。〔二十五三昧式(988)〕
▷ 高野本平家(13C前)一
「娑婆の栄花は夢のゆめ、楽しみさかえて何かせむ。人身(ニンジン)は請(ウケ)かたく、仏教(ブッケウ)にはあひかたし」日本国語大辞典小学館



「このように、姿を変えて参りましたので、日頃の罪は、お許し下さい。許そうとおっしゃるなら、一緒に念仏を唱えて、一つ蓮のうえに生まれましょう。それでも気が済まないなら、これより何処へでも迷っていき、どのような苔のむしろにでも、松の根にでも倒れ伏して、命のある限り念仏して、浄土へ往生せんというかねての願いを遂げようと思うのです」と、袖を顔に押しあてて、さめざめ泣きながら訴えたので、

祇王も涙を抑えて、
「あなたがそれほどに思っていらっしゃるとは、夢にも知りませんでした。
つらい世の中の習いであれば、我が身の不幸と思うでしょうに、ともすれば、あなたのことばかり恨めしく、今の世も死んでからの後の世も、迷いとなって、なまなか二つとも迷い損じた心持であったのに、このように姿を変えていらっしやったので日頃の恨みは、露や塵ほども残りません。
今は、往生出来ること疑いなし。
こんどは本懐を遂げることが何よりもまたうれしいことです。
わたしが、尼になったことを、世の中に例のないことのように人も言い、私自身も、また、そう思っていました。
それは、世を恨み、身を嘆いてのことなので、姿を変えるのも道理です。
あなには、恨みもなく、嘆きもありません。
今年でわずか十七歳になる人が、このようにいとわしきこの世を厭い、浄土を願おうと、深くお思い入れなさることこそ、まことの大道心(仏道に帰依する大なる心)であると思いました。
(あなたは私に取って)うれしい善知識(人を仏道に導く高徳の僧)ですよ。
さあ、一緒に、願いましょう」と、
四人が、同じ所に、こもって、朝夕、仏前に向い、花や香を供え、雑念なく往生を願ったので、遅い、早いはありましたが、みな往生の本懐を遂げたということです。
 
 それで、後白河法皇の建立された長講堂(御持仏堂)の過去帳にも、「祇王、妓女、仏、とじらの尊霊」と、四人が同じ所に記されました。有り難いことでした。

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(考察)

   覚明は、この「祇王の条」に、今後の自分の宗教思想を反映させた

 多分、ここの往生院は、当時の養老院のようなものだったと思います。往生とは、現世を去り極楽浄土に往って蓮華の中に生まれ変わることを言います。
現世に苦しんだ女性たちが、尼になって、そこで働きながら、互助の精神でたすけあい、「南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できる」という念仏を唱え、臨終まで暮らす終焉の地となっていたのではないかと思います。

 想像ですが、往生院の敷地には、数戸の庵がまばらに散在していたのではと思います。多分、後の世に養老院と名付けられ、そう呼ばれるようになる前の平安末期の「極楽浄土への待機所」を思考していたのではないでしょうか。

 この時は、まだ、法然房(源空)※が開いた、もっぱら南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できると説く浄土宗※は、旧宗教勢力に抑圧され世間からは認められていませんでした。

 この往生院を運営している法然房の門弟である念仏房良鎮が、この時、ここで、その走りとして、その教義を実践していたのだと思います。
この往生院がいつできたかは、平安末期というだけで資料もなく、いまは正確にその内容も分かりません。
ただ、現在の京都市右京区嵯峨鳥居本にあった往生院の跡地には、明治二八年(一八九五)に、「平家物語」の祇王の条の物語にまつわる祇王寺が建立され今も現存しています。


※【法然】ほう‐ねん〘名〙 仏語。
法として当然そうであること。法爾。自然。必然。
▷ 性霊集‐八(1079)大夫笠左衛佐為亡室造大日楨像願文
「字写二法然之文一、義明二无尽之旨一」
▷ 真如観(鎌倉初)
「大日・釈迦等の妙覚究竟の如来、本より法然(ホウネン)として、具足し玉へり」 〔観経疏‐序分義〕
 平安末期から鎌倉初期の僧。美作国(岡山県)生まれ。浄土宗の開祖。諱号は源空。法然は房号。勅諡は円光大師、明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。承安五年(一一七五)唐の善導の「散善義」を読んで開眼、念仏の人となった。文治二年(一一八六)大原問答によってその名声を高め、建久九年(一一九八)には「選択本願念仏集」を著わして事実上の立宗宣言を行なう。建暦二年(一二一二)「一枚起請文」を書き、まもなく没した。その遺文を集めたものに「黒谷上人語燈録」一八巻がある。長承二~建暦二年(一一三三‐一二一二)日本国語大辞典小学館 

※【浄土宗】じょうど‐しゅう〘名〙 
平安末期、美作国(岡山県東北部)の法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿彌陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年(一一七五)の春、もっぱら南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。浄土専念宗。念仏宗。白蓮宗。
▷ 選択本願念仏集(1198頃)
「今此浄土宗者若依二道綽禅師意一、立二二門一而摂二一切一」日本国語大辞典小学館 


 
「平家物語」の原作「治承物語」の、この祇王の条、祇王、妓女、仏御前の物語は、諸行無常あるいは盛者必衰の理を分かりやすく表してしていて、大衆受けするように描かれています。
祇王、妓女の姉妹と仏御前は京・堀川の白拍子でした。姉妹は平清盛の寵愛を得て優雅な日々を送っていましたが,やがて清盛の心は若い仏御前に傾いてしまいます。世の無常を嘆いた姉妹は嵯峨野の庵で仏門に入ります。
そこへ、後から仏御前も合流し、「南無阿彌陀仏の名号を念ずれば極楽浄土に往生できる」と信じて、念仏三昧の暮らしをします。
そして、往生の本懐を遂げたと言うことなのです。
 
覚明は取材を終えると、祇王たちへのお礼に同道した琵琶法師生仏様に「祇園精舎の条」を語って貰うことにしました。
日も暮れ座敷は暗くなっていましたので、一度、解散し、この夜は、院主の念仏房良鎮の好意で、往生院の小部屋に泊めて貰うことになりました。厨で簡単な食事を馳走になり、昼間の座敷に聴衆一同が集まりました。
暗い夜道のなか、祇王と妓女に支えられた母親とじも、やって来ました。
仏御前は老若数名の尼仲間を連れて来ました。
院主の念仏房良鎮以外はすべて尼姿でした。
往生院は尼寺と見間違う雰囲気でした。

覚明が前説を簡単に述べ、直ぐに琵琶の音とともに琵琶法師生仏様の語りが始まりました。それはこの場にふさわしい「祇園精舎の条」でした。

〽祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯はす。
 〽奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。
  〽偏に風の前の塵に同じ。

で始まり、終わりの〽殿上の仙籍をば未だ許されず迄がよどみなくひと息に語られました。さすが、慣れた生仏様です。
暗やみ中で尼達は手を合わせて聞き入っていました。
この後は、まだ、覚明が書いたばかりの「我身栄華の条」が語られました。、
「祇園精舎の条」は清盛の駆け出しのころのもの、今度の「我身栄華の条」は平家一門が御天下様のころのもので、同夜は、その両極が一挙に語られたのだと思います。
夜も遅いので母親とじは眠ってしまい、そこで、お開きとなりました。

 その翌日から覚明は、数日間、琵琶法師生仏様を伴い、京の知己の寺々を巡り、“治承物語(号平家)”でお布施稼ぎをして、叡山に帰りました。

 覚明は、この「平家物語」の原作「治承物語」を書き終えると、後に親鸞(範宴)※とともに比叡山を下り、法然房(源空)の仏門に入り、西仏と称しました。
多分、この時の取材の折からも、すでに今後の自分の生き方を模索していて、この「祇王の条」にも、その宗教思想を反映させたのだと思います。
それ故、この条からも、信濃前司行長こと僧浄寛(覚明)が原作者であることは明白だと思います。

尚、原文の最後に、「さればかの後白河法皇の長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、佛、とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。有り難かりし事どもなり」とありますが、
これは、覚明が書いたものでは無く、後に、数人の琵琶法師生仏様たちのなかの誰かが付け加えたものだと思います。


※【親鸞】しんらん
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別名、範宴・綽空・善信。諡(おくりな)は見真大師。日野有範の子。治承五年(一一八一)青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、二〇年間学行につとめたが、建仁元年(一二〇一)二九歳のときに法然の門にはいり、専修念仏の人となる。建永二年(一二〇七)の念仏停止の際は越後国国府(新潟県上越市)に流され、四年後に罪をとかれると関東に行き、文暦二年(一二三五)頃京都に帰った。開宗宣言に相当する主著「教行信証」の初稿本は、関東在住の元仁元年(一二二四)頃に成る。恵信尼との結婚は越後国に流されてまもなくと思われ、二人の間に善鸞・覚信尼が生まれたが、善鸞は晩年、義絶された。門下に真仏・性信・唯円など。著書に「教行信証」のほか「浄土和讚」「愚禿鈔(ぐとくしょう)」「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」など。承安三~弘長二年(一一七三‐一二六二)日本国語大辞典小学館 

長左衛門・記

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(参照)

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の妓王を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

「平家物語」の妓王の条(全文)

だいじやうのにふだう(太政入道)は、かやうにてんが(天下)をたなごころ(掌)のうち(中)ににぎ(握)りたま(給)ひしうへ(上)は、よ(世)のそし(誹)りをもはばか(憚)らず、ひと(人)のあざけ(嘲)りをもかへり(顧)みず、ふしぎの(不思議)こと(事)をのみしたま(給)へり。
たと(譬)へば、そのころ(頃)きやうぢう(京中)にきこ(聞)えたるしらびやうし(白拍子)のじやうず(上手)、ぎわう(妓王)、ぎによ(妓女)とておととひあり。とぢといふしらびやうし(白拍子)がむすめ(娘)なり。しか(然)るにあね(姉)のぎわう(妓王)を、にふだうしやうこく(入道相国)ちようあい(寵愛)したま(給)ふうへ(上)、いもと(妹)のぎによ(妓女)をも、よ(世)のひと(人)もてなすこと(事)なのめ(斜)ならず。はは(母)とぢにもよきや(屋)つく(造)つてと(取)らせ、まいぐわつ(毎月)にひやくこくひやくくわん(百石百貫)をおく(送)られたりければ、けないふつき(家内富貴)して、たの(楽)しいこと(事)なのめ(斜)ならず。

 そもそも(抑)わがてう(朝)にしらびやうし(白拍子)のはじ(始)まりけること(事)は、むかし(昔)とばのゐん(鳥羽院)のぎよう(御宇)に、しま(島)のせんざい(千歳)、わか(和歌)のまへ(前)、かれらににん(二人)がま(舞)ひいだ(出)したりけるなり。はじめ(始)はすゐかん(水干)にたてゑぼし(立烏帽子)、しろざやまき(白鞘巻)をさいてま(舞)ひければをとこまひ(男舞)とぞまう(申)しける。しか(然)るをなかごろ(中頃)よりゑぼしかたな(烏帽子刀)をのけられて、すゐかん(水干)ばかりもち(用)ひたり。さてこそしらびやうし(白拍子)とはなづけけれ。

 きやうぢう(京中)のしらびやうし(白拍子)ども、ぎわう(妓王)がさいは(幸)ひのめでたき(目出度)やう(様)をき(聞)いて、うらや(羨)むもの(者)もあり、そね(猜)むもの(者)もあり。うらや(羨)むもの(者)どもは、「あなめでたのぎわうごぜん(妓王御前)のさいは(幸)ひや。おな(同)じあそびめ(遊女)とならば、たれ(誰)もみな(皆)あのやう(様)でこそありたけれ。いかさま(如何様)にもぎ(妓)といふもじ(文字)をな(名)について、かくはめでた(目出度)きやらん。いざやわれらもついてみ(見)ん」とて、ある(或)ひはぎいち(妓一)、ぎに(妓二)とつき、あるひ(或)はぎふく(妓福)、ぎとく(妓徳)などつくもの(者)もありけり。そね(猜)むもの(者)どもは、「なんでふ(名)なにより、もじ(文字)にはよるべき。さいは(幸)ひはただぜんぜ(先世)のむま(生)れつきでこそあんなれ」とて、つかぬもの(者)もおほ(多)かりけり。

 かくてさんねん(三年)といふに、また(又)しらびやうし(白拍子)のじやうず(上手)、いちにん(一人)い(出)でき(來)たり。かがのくに(加賀國)のもの(者)なり。な(名)をばほとけ(佛)とぞまう(申)しける。としじふろく(年十六)とぞきこ(聞)えし。
きやうぢう(京中)のじやうげ(上下)これをみ(見)て、むかし(昔)よりおほ(多)くのしらびやうし(白拍子)はみ(見)しかども、かかるまひ(舞)のじやうず(上手)はいま(未)だみ(見)ずとて、よ(世)のひと(人)もてなすこと(事)なのめ(斜)ならず。
 
 あるとき(時)ほとけごぜん(佛御前)まう(申)しけるは、「われてんが(天下)にもてあそばるるといへども、たうじ(當事)めでたうさか(榮)えさせたま(給)ふへいけだいじやうのにふだうどの(平家太政上入道殿)へ、め(召)されぬことこそほい(本意)なけれ。あそびもの(遊者)のなら(習)ひ、なに(何)かくる(苦)しかるべき。
すゐさん(推參)してみ(見)ん」とて、あるとき(或時)にしはちでうどの(西八条殿)へぞさん(參)じたる。
                             
 ひとごぜん(人御前)にまゐ(參)つて、「たうじ(當事)みやこ(都)にきこ(聞)えさふらふ(候)ほとけごぜん(佛御前)がまゐ(參)つてさふらふ(候)」とまう(申)しければ、にふだうしやうこく(入道相国)おほ(大)きにいか(怒)つて、「なんでふ、さやうのあそびもの(遊者)は、ひと(人)のめし(召)にてこそまゐ(參)るものなれ、さうなうすゐさん(推參)するやう(様)やある。そのうへ(上)、かみ(神)ともいへ、ほとけ(佛)ともいへ、ぎわう(妓王)があらんずるところ(所)へはかな(叶)ふまじきぞ。とうとうまか(罷)りい(出)でよ」とぞのたま(宣)ひける。
ほとけごぜん(佛御前)は、すげなういはれたてま(奉)つて、すで(既)にい(出)でんとしけるを、ぎわう(妓王)にふだうどの(入道殿)にまう(申)しけるは、「あそびもの(遊者)のすゐさん(推參)は、つね(常)のなら(習)ひでこそさぶら(候)へ。そのうへ(上)とし(年)もいま(未)だをさなうさぶらふ(候)なるが、たまたまおも(思)ひた(立)つてまゐ(參)つてさぶらふ(候)を、すげなうおほ(仰)せられて、かへ(返)させたま(給)はんこそふびん(不便)なれ。いかばかりはづか(恥)しう、かたはらいたくもさぶらふ(候)らん。わがた(立)てしみち(道)なれば、ひと(人)のうへ(上)ともおぼ(覺)えず。
たと(縦)ひまひ(舞)をごらん(御覧)じ、うた(歌)をこそきこ(聞)しめ(召)さずとも、ただ(唯)り(理)をまげて、め(召)しかへ(返)いてごたいめん(御對面)ばかりさぶら(候)ひて、かへ(返)させたま(給)はば、ありがた(有難)きおんなさけ(御情)でこそさぶら(候)はんずれ」とまう(申)しければ、にふだうしやうこく(入道相国)、「いでいでさらば、わごぜがあま(餘)りにいふこと(事)なるに、たいめん(對面)してかへ(返)さん」とて、おつかひ(御使)をた(立)てて、め(召)されけり。

 ほとけごぜん(佛御前)は、すげなういはれたてま(奉)つて、くるま(車)にの(乘)
つてすで(既)にい(出)でんとしけるが、め(召)されてかへ(歸)りまゐ(參)りたり。
にふだう(入道)やがてい(出)であひたいめん(對面)したま(給)ひて、「いかにほとけ(佛)、けふ(今日)のげんざん(見參)はあるまじかりつれども、ぎわう(妓王)がなに(何)とおも(思)ふやらん、あま(餘)りにまう(申)しすすむるあひだ(間)、かやうにげんざん(見參)はしつ。げんざん(見參)するうへ(上)ではいか(如何)でかこゑ(聲)をもき(聞)かであるべき。ま(先)づいまやう(今様)ひと(一)つうた(歌)へかし」とのたま(宣)へば、ほとけごぜん(佛御前)、「うけたまは(承)りさぶらふ(候)」とて、いまやう(今様)ひと(一)つぞうた(歌)うたる。
 
きみ(君)をはじ(始)めてみ(見)るとき(時)は 
ちよ(千代)もへ(經)ぬべしひめこまつ(姫小松)

おまへ(御前)のいけ(池)なるかめをか(龜岡)に
つる(鶴)こそむれゐてあそ(遊)ぶめれ

と、おしかへ(推返)しおしかへ(推返)し、さんべん(三返)うた(歌)ひすましたりければ、けんもん(見聞)のひとびと(人々)、みな(皆)じぼく(耳目)をおどろ(驚)かす。にふだう(入道)もおもしろ(面白)きこと(事)におも(思)ひたま(給)ひて、
「さてわごぜは、いまやう(今様)はじやうず(上手)にてありけるや。このぢやう(定)ではまひ(舞)もさだ(定)めてよからん。いちばんみ(一番見)ばや、つづみうちめ(鼓打召)せ」とてめさ(召)れけり。う(打)たせていちばんまう(一番舞)たりけり。
ほとけごぜん(佛御前)は、かみすがた(髪姿)よりはじ(始)めて、みめ(眉目)かた
ちよ(世)にすぐれ、こゑ(聲)よくふし(節)もじやうず(上手)なりければ、なじかはま(舞)ひはそん(損)ずべき。こころ(心)もおよ(及)ばずま(舞)ひすましたりければ、にふだうしやうこく(入道相国)まひ(舞)にめでたま(給)ひて、ほとけ(佛)にこころ(心)をうつ(移)されけり。

 ほとけごぜん(佛御前)、「こはなにごと(何事)にてさぶらふ(候)ぞや。もとよりわらは(妾)はすゐさん(推參)のもの(者)にて、すで(既)にいだ(出)されまゐ(參)らせしを、ぎわうごぜん(妓王御前)のまうし(申)じやう(状)によつてこそ、め(召)しかへ(返)されてもさぶらふ(候)。はやはやいとま(暇)たま(賜)はつて、いだ(出)させおはしませ」とまう(申)しければ、
にふだうしやうこく(入道相国)、「すべてそのぎ(儀)かな(叶)ふまじ。ただ(但)しぎわう(妓王)があるによつて、さやうにはばか(憚)るか。そのぎ(儀)ならばぎわう(妓王)をこそいだ(出)さめ」とのたま(宣)へば、
ほとけごぜん(佛御前)、「これまた(又)いかでさるおんこと(御事)さぶら(候)ふべき。ともにめ(召)しお(置)かれんだに、はづか(恥)しうさぶらふ(候)べきに、ぎわうごぜん(妓王御前)をいだ(出)させたま(給)ひて、わらは(妾)をいちにん(一人)め(召)しお(置)かれなば、ぎわうごぜん(妓王御前)のおも(思)ひたま(給)はんこころ(心)のうち(中)、いかばかりはづか(恥)しう、かたはらいたくもさぶらふ(候)べき。おのづからのち(後)までもわす(忘)れたま(給)はぬおんこと(御事)ならば、め(召)されてまた(又)はま(參)ゐるとも、けふ(今日)はいとま(暇)をたま(給)はらん」とぞまう(申)しける。にふだう(入道)、「そのぎ(儀)ならば、ぎわう(妓王)とうとうまか(罷)りい(出)でよ」と、おつかひ(御使)かさ(重)ねてさんど(三度)までこそたて(立)られけれ。
                               
 ぎわう(妓王)はもとよりおも(思)ひまう(設)けたるみち(道)なれども、さすがきのふけふと(昨日今日)はおも(思)ひもよらず。にふだうしやうこく(入道相国)、いかにもかな(叶)ふまじきよし(由)、しき(頻)りにのたま(宣)ふあひだ(間)、は(掃)きのご(拭)ひ、ちり(塵)ひろ(拾)はせ、い(出)づべきにこそさだ(定)めけれ。いちじゆ(一樹)のかげ(陰)にやど(宿)りあひ、おな(同)じなが(流)れをむす(掬)ぶだに、わか(別)れはかな(悲)しきなら(習)ひぞかし。いはんやこれはみとせ(三年)があひだ(間)すみ(住)な(馴)れしところ(所)なれば、なごり(名残)もを(惜)しくかな(悲)しくて、かひな(甲斐無)きなみだ(涙)ぞすすみける。
さてしもあるべきこと(事)ならねば、ぎわう(妓王)いま(今)はかうとてい(出)でけるが、なからんあと(跡)のわす(忘)れがたみ(形見)にもとやおも(思)ひけん、しやうじ(障子)にな(泣)くな(泣)くいつしゆ(一首)のうた(歌)をぞか(書)きつけける。

 も(萠)えい(出)づるもか(枯)るるもおな(同)じのべ(野邊)のくさ(草)
 いづ(何)れかあき(秋)にあはでは(果)つべき 
 
 さてくるま(車)にの(乘)つてしゆくしよ(宿所)へかへ(歸)り、しやうじ(障子)のうち(内)にたふれ(倒)ふ(伏)し、ただな(泣)くよりほか(外)のこと(事)ぞなき。はは(母)やいもと(妹)これをみ(見)て、いかにやいかにとと(問)ひけれども、ぎわう(妓王)とかうのへんじ(返事)にもおよ(及)ばず、ぐ(具)したるをんな(女)にたづ(尋)ねてこそ、さる(事)ありともし(知)つてげれ。

 さるほど(程)にまいぐわつ(毎月)おく(送)られけるひやくこくひやくくわん(百石百貫)をもおしと(推止)められて、いま(今)はほとけごぜん(佛御前)のゆかりのもの(者)どもぞ、はじ(始)めてたの(楽)しみさか(榮)えける。きやうぢう(京中)のじやうげ(上下)、このよし(由)をつた(傳)へき(聞)いて、
「まこと(誠)やぎわう(妓王)こそ、にしはちでうどの(西八条殿)よりいとま(暇)たま(賜)はつていだ(出)されたんなれ。いざやげんざん(見參)してあそ(遊)ばん」とて、あるひ(或)はふみ(文)をつか(遣)はすもの(者)もあり、あるひ(或)はししや(使者)をた(立)つるひと(人)もありけれども、ぎわう(妓王)、いまさら(今
更)また(又)ひと(人)にたいめん(對面)して、あそ(遊)びたはむ(戯)るべきにもあらねばとて、ふみ(文)をだにと(取)りいる(入)ること(事)もなく、ましてつかひ(使)をあひしらふまでもな(無)かりけり。ぎわう(妓王)これにつけても、いとどかな(悲)しくて、かひなきなみだ(涙)ぞこぼれける。

 かくてことし(今年)もく(暮)れぬ。
あくるはる(春)にもなりしかば、にふだうしやうこく(入道相国)、ぎわう(妓王)がもと(許)へししや(使者)をた(立)てて、
「いか(如何)にぎわう(妓王)、そののち(後)はなにごと(何事)かある。ほとけご
ぜん(佛御前)があま(餘)りにつれづれげにみ(見)ゆるに、まゐ(參)つていまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)などをもま(舞)うて、ほとけ(佛)なぐさめよ」とぞのたま(宣)ひける。ぎわう(妓王)とかうのおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばず、なみだ(涙)をおさへてふ(伏)しにけり。にふだう(入道)かさ(重)ねて、「なに(何)とてぎわう(妓王)は、ともかうもへんじ(返事)をばまう(申)さぬぞ。まゐ(參)るまじきか。まゐ(參)るまじくは、そのやう(様)をまう(申)せ。じやうかい(浄海)もはか(計)らふむね(旨)あり」とぞのたま(宣)ひける。
                                 
 はは(母)とぢこれをき(聞)くにかな(悲)しくて、な(泣)くな(泣)くけうくん(教訓)しけるは、「なに(何)とてぎわう(妓王)はともかうもおんぺんじ(御返事)をばまう(申)さで、かやうにしか(叱)られまゐ(參)らせんよりは」といへば、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をおさへてまう(申)しけるは、「まゐ(參)らんとおも(思)ふみち(道)ならばこそ、やがてまゐ(參)るべしともまう(申)すべけれ。なかなかまゐ(參)らざらんものゆゑ(故)に、なに(何)とおんぺんじ(御返事)をばまう(申)すべしともおぼ(覺)えず。このたび(度)め(召)さんにまゐ(參)らずは、はか(計)らふむね(旨)ありとおほ(仰)せらるるは、さだ(定)めてみやこ(都)のほか(外)へいだ(出)さるるか、さらずはいのち(命)をめ(召)さるるか、これふた(二)つにはよもす(過)ぎじ。たと(縦)ひみやこ(都)をいだ(出)さるるとも、なげ(歎)くべきみち(道)にあらず。また(又)いのち(命)をめ(召)さるるともを(惜)しかるべきわがみ(身)かは。いちど(度)う(憂)きもの(者)におも(思)はれまゐ(參)らせて、ふたたび(二度)おもて(面)をむか(向)ふべしともおぼ(覺)えず」とて、なほおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばざりしかば、はは(母)とぢな(泣)くな(泣)くまた(又)けうくん(教訓)しけるは、
「あめ(天)がした(下)にす(住)まんには、ともかうもにふだうどの(入道殿)のおほ(仰)せをば、そむ(背)くまじきこと(事)にてあるぞ。そのうへ(上)わごぜは、をとこをんな(男女)のえん(縁)、しゆくせ(宿世)、いま(今)にはじ(始)めぬこと(事)ぞかし。せんねんまんねん(千年萬年)とはち(契)ぎれども、やがてわか(別)るるなか(中)もあり。あからさまとはおも(思)へども、ながらへはつること(事)もあり。よ(世)にさだ(定)めなきものは、をとこをんな(男女)のなら(習)ひなり。いは(況)んやわごぜは、このみとせ(三年)があひだ(間)おも(思)はれまゐ(參)らせたれば、あ(有)りがた(難)きおんなさけ(御情)でこそさぶら(候)へ。このたび(度)め(召)さんにまゐ(參)らねばとて、いのち(命)をめ(召)さるるまではよもあらじ。さだ(定)めてみやこ(都)のほか(外)へぞいだ(出)されんずらん。たとひみやこ(都)をいだ(出)さるるとも、わごぜたち(達)はとし(年)いま(未)だわか(若)ければ、いか(如何)ならんいはき(岩木)のはざま(間)にても、すご(過)さんこと(事)やすかるべし。わがみ(身)はとし(年)お(老)いよはひ(齢)おとろ(衰)へたれば、ならはぬひな(鄙)のすまひ(住居)を、かねておも(思)ふこそかな(悲)しけれ。ただわれをばみやこ(都)のうち(中)にてすみ(住)はてさせよ。それぞこんじやうごしやう(今生後生)のけうやう(孝養)にてあらんずるぞ」
といへば、ぎわう(妓王)まゐ(參)らじとおも(思)ひさだ(定)めしみち(道)なれども、はは(母)のめい(命)をそむ(背)かじとて、な(泣)くな(泣)くまた(又)いでたち(出立)ける、こころ(心)のうち(中)こそむざん(無慚)なれ。

 ぎわう(妓王)ひと(獨)りまゐ(參)らんこと(事)の、あま(參)りにこころう(心憂)しとて、いもと(妹)のぎによ(妓女)をもあひぐ(相具)しけり。そのほか(外)しらびやうしににん(白拍子二人)、そう(惣)じてしにん(四人)、ひと(一)つくるま
(車)にとりの(取乘)つて、にしはちでうどの(西八条殿)へぞさん(參)じたる。
ひごろ(日頃)め(召)されつるところ(所)へはい(入)れられずして、はるか(遙)にさがりたるところ(所)に、ざしき(座敷)しつらうてぞお(置)かれける。
ぎわう(妓王)、「こはさればなにごと(何事)ぞや。わがみ(身)にあやま(過)つこと(事)はなけれども、いだ(出)されまゐ(參)らするだにあるに、あまつさへざしき(座敷)をだにさげらるること(事)のくちを(口惜)しさよ。いかに(如何)せん」とおも(思)ふを、ひと(人)にし(知)らせじと、おさ(押)ふるそで(袖)のひま(隙)よ
りも、あま(餘)りてなみだ(涙)ぞこぼれける。
 ほとけごぜん(佛御前)これをみ(見)て、あま(餘)りにあは(哀)れにおぼ(覺)えければ、にふだうどの(入道殿)にまう(申)しけるは、「あれはいか(如何)に、ぎわう(妓王)とこそみまゐ(見參)らせさぶら(候)へ。ひごろ(日頃)め(召)されぬところ(所)にてもさぶら(候)はばこそ。これへめ(召)されさぶら(候)へかし。さらずはわらは(妾)にいとま(暇)をたべ。い(出)でまゐ(參)らせん」とまう(申)しけれども、にふだう(入道)いかにもかな(叶)ふまじきとのたま(宣)ふあひだ(間)、ちからおよ(力及)ばでい(出)でざりけり。

 にふだう(入道)やがてい(出)であひたいめん(對面)したま(給)ひて、「いかにぎわう(妓王)、そののち(後)はなにごと(何事)かある。ほとけごぜん(佛御前)があま(餘)りにつれづれげにみ(見)ゆるに、いまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)なんどをもま(舞)うて、ほとけなぐさ(佛慰)めよ」とぞのたま(宣)ひける。ぎわう(妓王)、まゐ(參)るほど(程)では、ともかくもにふだうどの(入道殿)のおほ(仰)せをば、そむ(背)くまじきものをとおも(思)ひ、なが(流)るるなみだ(涙)をおさ(押)へつつ、いまやう(今様)ひと(一)つぞうた(歌)うたる。

ほとけ(佛)もむかし(昔)はぼんぶ(凡夫)なり
               われらもつひ(終)にはほとけ(佛)なり。
  
いづ(何)れもぶつしやうぐ(佛性具)せるみ(身)を
               へだ(隔)つるのみこそかな(悲)しけれ

と、な(泣)くな(泣)くにへん(二返)うた(歌)うたりければ、そのざ(座)にな(並)みゐ(居)たま(給)へるへいけいちもん(平家一門)のくぎやうてんじやうびと(公卿殿上人)、しよだいぶ(諸大夫)、さぶらひ(侍)にいた(至)るまで、みな(皆)かんるゐ(感涙)をぞもよほ(催)されける。
にふだう(入道)もげにもとおも(思)ひたま(給)ひて、
「とき(時)にと(取)つてはしんべう(神妙)にもまう(申)したり。さてはまひ(舞)もみ(見)たけれども、けふ(今日)はまぎるること(事)い(出)できたり。こののち(後)はめ(召)さずともつね(常)にまゐ(參)りて、いまやう(今様)をもうた(歌)ひ、まひ(舞)などをもま(舞)うて、ほとけ(佛)なぐさ(慰)めよ」
とぞのたま(宣)ひける。
ぎわう(妓王)とかうのおんぺんじ(御返事)にもおよ(及)ばず、なみだ(涙)をおさへてい(出)でにけり。

 ぎわう(妓王)、「まゐ(參)らじとおも(思)ひさだ(定)めしみち(道)なれども、はは(母)のめい(命)をそむ(背)かじと、つらきみち(道)におもむ(赴)いて、ふたたび(二度)う(憂)きはぢ(恥)をみ(見)つること(事)のくちをし(口惜)さよ。かくてこのよ(世)にあるならば、また(又)もう(憂)きめ(目)にあはんずらん。いま(今)はただみ(身)をな(投)げんとおも(思)ふなり」といへば、
いもうと(妹)のぎによ(妓女)これをき(聞)いて、
「あね(姉)み(身)をな(投)げば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げん」といふ。
はは(母)とぢこれをき(聞)くにかな(悲)しくて、な(泣)くな(泣)くまた(又)かさ(重)ねてけうくん(教訓)しけるは、
「さやうのこと(事)あるべしともし(知)らずして、けうくん(教訓)してまゐ(參)らせつること(事)のうらめしさよ。まこと(誠)にわごぜのうら(恨)むるもことわり(理)なり。ただ(但)しわごぜがみ(身)をな(投)げば、いもうと(妹)のぎによ(妓女)もとも(共)にみ(身)をな(投)げんといふ。わか(若)きむすめ(娘)どもをさきだて(先立)て、とし(年)おい(老)よはひ(齢)おとろ(衰)へたるはは(母)、いのち(命)い(生)きてもなに(何)にかはせんなれば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げんずるなり。いま(未)だしご(死期)もきた(來)らぬはは(母)に、み(身)をな(投)げさせんずることは、ごぎやくざい(五逆罪)にてやあらんずらん。このよ(世)はかりのやどり(宿)なれば、は(恥)ぢてもは(恥)ぢてもなに(何)ならず。ただながきよ(世)のやみ(闇)こそこころう(心憂)けれ。こんじやう(今生)でもの(物)をおも(思)はするだにあるに、ごしやう(後生)でさへあくだう(悪道)へおもむ(赴)かんずること(事)のかな(悲)しさよ」と、さめざめとかきくど(口説)きければ、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をはらはらとなが(流)いて、「げにもさやうにさぶら(候)はば、ごぎやくざい(五逆罪)うたが(疑)ひなし。いつたん(一旦)うきはぢ(恥)をみ(見)つること(事)のくちをし(口惜)さにこそ、み(身)をな(投)げんとはまう(申)したれ。ささぶら(候)はばじがい(自害)をばおも(思)ひとど(止)まりさぶら(候)ひぬ。かくてみやこ(都)にあるならば、また(又)もう(憂)きめ(目)をみ(見)んずらん。いま(今)はただみやこ(都)のほか(外)へい(出)でん」とて、
ぎわう(妓王)にじふいち(二十一)にてあま(尼)になり、さが(嵯峨)のおく(奥)なるやまざと(山里)に、しば(柴)のいほり(庵)をひきむす(結)び、ねんぶつ(念佛)してぞゐ(居)たりける。
いもうと(妹)のぎによ(妓女)これをき(聞)いて、「あね(姉)み(身)をな(投)げば、われもとも(共)にみ(身)をな(投)げんとこそちぎ(契)りしか。ましてさやうによ(世)をいと(厭)はんに、たれ(誰)かおと(劣)るべき」とて、じふく(十九)にてさま(様)をかへ、あね(姉)といつしよ(一所)にこも(籠)りゐ(居)て、ひとへ(偏)にごせ(後生)をぞねが(願)ひける。
はは(母)とぢこれをき(聞)いて、
「わか(若)きむすめ(娘)どもだに、さま(様)をかふるよ(世)のなか(中)に、とし(年)お(老)いよはひ(齢)おとろ(衰)へたるはは(母)、しらが(白髪)をつけてもなに(何)にかはせん」とて、
しじふご(四十五)にてかみ(髪)をそ(剃)り、ふたり(二人)のむすめ(娘)もろともに、いつかうせんじゆ(一向専修)にねんぶつ(念佛)して、ごせ(後生)をねが(願)ふぞあは(哀)れなる。

 かくてはる(春)す(過)ぎなつ(夏)たけぬ。あき(秋)のはつかぜ(初風)ふ(吹)
きぬれば、ほしあひ(星合)のそら(空)をなが(眺)めつつ、あま(天)のとわた(戶渡)るかぢ(梶)のは(葉)に、おも(思)ふこと(事)か(書)くころ(頃)なれや。ゆふひ(夕日)のかげ(影)のにし(西)のやま(山)のは(端)にかくるるをみ(見)
ても、ひ(日)のい(入)りたま(給)ふところ(所)は、さいはうじやうど(西方淨土)にてこそあんなれ。いつかわれらもかしこにむま(生)れて、もの(物)もおも(思)はですご(過)さんずらんと、す(過)ぎにしかた(方)のう(憂)きこと(事)どもおも
(思)ひつづけて、ただつき(盡)せぬものはなみだ(涙)なり。

 たそかれどき(時)もす(過)ぎぬれば、たけ(竹)のあみど(編戸)をと(閉)ぢ
ふさ(塞)ぎ、ともしび(燈)かすか(幽)にかきたてて、おやこさんにん(親子三人)もろともにねんぶつ(念佛)してゐ(居)たるところ(所)に、たけ(竹)のあみど(編
戸)を、ほとほととうちたた(打叩)くもの(者)い(出)でき(來)たり。そのとき(時)あま(尼)どもきも(肝)をけ(消)し、
「あはれ、これは、いふかひ(甲斐)なきわれらがねんぶつ(念佛)してゐたるをさまた(妨)げんとて、まえん(魔緣)のき(來)たるにてぞあるらん。ひる(晝)だにもひと(人)もと(訪)ひこ(來)ぬやまざと(山里)の、しば(柴)のいほり(庵)のうち(内)なれば、よふ(夜更)けてたれ(誰)かはたづ(尋)ぬべき。わづか(僅)にたけ(竹)のあみど(編戸)なれば、あけずともお(押)しやぶ(破)らんことやす(易)かるべし。いま(今)はただ(唯)なかなかあけてい(入)れんとおも(思)ふなり。それになさけ(情)をかけずして、いのち(命)をうしな(失)ふものならば、としごろ(年頃)たの(頼)みたてまつ(奉)るみだ(彌陀)のほんぐわん(本願)をつよ(強)くしん(信)じて、ひま(隙)なくみやうがう(名號)をとな(唱)へたてまつ(奉)るべし。こゑ(聲)をたづ(尋)ねてむか(迎)へたま(給)ふなるしやうじゆ(聖衆)のらいかう(來迎)にてましませば、などかいんぜふ(引接)な(無)かるべき。あひかま(相構)へてねんぶつ(念佛)おこた(怠)りたま(給)ふな」
とたがひ(互)にこころ(心)をいまし(戒)めて、て(手)にて(手)をと(取)りく(組)み、たけ(竹)のあみど(編戸)をあ(開)けたれば、まえん(魔緣)にてはな(無)かりけり。ほとけごぜん(佛御前)ぞい(出)でき(來)たる。
 
 ぎわう(祇王)、「あれはいか(如何)に、ほとけごぜん(佛御前)とみまゐ(見參)らするは。ゆめ(夢)かやうつつか」といひければ、
ほとけごぜん(佛御前)なみだ(涙)をおさへて、「かやうのこと(事)まう(申)せば、すべてことあたら(新)しうはさぶら(候)へども、まう(申)さずはまた(又)おも(思)ひし(知)らぬみ(身)ともなりぬべければ、はじめ(始)よりして、こまごま(細々)とありのままにまう(申)すなり。もとよりわらは(妾)はすゐさん(推參)のもの(者)にて、すで(既)にいだ(出)されまゐ(參)らせしを、わごぜのまう(申)しじやう(狀)によつてこそ、め(召)しかへ(返)されてもさぶらふ(候)に、をんな(女)のみ(身)のい(云)ふかひ(甲斐)なきこと、わがみ(身)をこころ(心)にまか(任)せずして、わごぜをいだ(出)させまゐ(參)らせて、わらは(妾)がおしとど(推留)められぬること(事)、いま(今)にはづか(恥)しうかたはらいたくこそさぶら(候)へ。
わごぜのい(出)でられたま(給)ひしをみ(見)しにつけても、いつかまた(又)わがみ(身)のうへ(上)ならんとおも(思)ひゐ(居)たれば、うれしとはさら(更)におも(思)はず。しやうじ(障子)にまた(又)、『いづれかあき(秋)にあはではつべき』とか(書)きお(置)きたま(給)ひしふで(筆)のあと(跡)、げにもとおも(思)ひさぶら(候)ひしぞや。いつぞやまた(又)わごぜのめ(召)されまゐ(參)らせて、いまやう(今様)をうた(歌)ひたま(給)ひしにも、おも(思)ひし(知)られてこそさぶら(候)へ。そののち(後)はざいしよ(在所)をいづくともし(知)らざりしに、このほど(程)き(聞)けば、かやうにさま(様)をかへ、ひと(一)つところ(所)にねんぶつ(念佛)しておはしつるよし(由)、あま(餘)りにうらやま(羨)しくて、つね(常)はいとま(暇)をまう(申)ししかども、にふだうどの(入道殿)さら(更)におんもち(御用)ひましまさず。つくづくものをあん(案)ずるに、しやば(娑婆)のえいぐわ(榮華)はゆめ(夢)のゆめ(夢)、たの(楽)しみさか(榮)えてなに(何)かせん。にんじん(人身)はう(受)けがた(難)く、ぶつけう(佛教)にはあ(遇)ひがたし。このたび(度)ないり(泥梨)にしづ(沈)みなば、たしやうくわうごふ(他生曠劫)をばへだ(隔)つとも、うか()びあが(上)らんこと(事)かた(難)かるべし。らうせうふぢやう(老少不定)のさかひ(境)なれば、とし(年)のわかき(若)をたの(頼)むべきにあらず。い(出)づるいき(息)のい(入)るをもま(待)つべからず。かげろふいなづま(稻妻)よりもなほ(猶)はかなし。いつたん(一旦)のえいぐわ(榮華)にほこ(誇)つて、ごせ(後世)をし(知)らざらんこと(事)のかな(悲)しさに、けさ(今朝)まぎれい(出)でて、かくなつてこそまゐ(參)りたれ」とて、かづ(被)いたるきぬ(衣)をうちの(打除)けたるをみ(見)れば、あま(尼)になつてぞい(出)でき(來)たる。
「かやうにさま(様)をかへてまゐ(參)りたるうへ(上)は、ひごろ(日頃)のとが(科)をばゆる(許)したま(給)へ。ゆる(許)さんとだにのたま(宣)はば、もろともにねんぶつ(念佛)して、ひと(一)つはちす(蓮)のみ(身)とならん。それにもなほ()こころ(心)ゆかずは、これよりいづちへもまよ(迷)ひゆ(行)き、いか(如何)ならんこけ(苔)のむしろ(筵)、まつ(松)がね(根)にもたふれふ(臥)し、いのち(命)のあらんかぎりはねんぶつ(念佛)して、わうじやう(往生)のそくわい(素懐)をと(遂)げんとおも(思)ふなり」とて、そで(袖)をかほ(顔)におし(押當)あてて、さめざめとかきくどきければ、
ぎわう(妓王)なみだ(涙)をおさへて、「わごぜのそれほど(程)までおも(思)ひたま(給)はんとはゆめ(夢)にもし(知)らず、う(憂)きよ(世)のなか(中)のさがなれば、み(身)のう(憂)きとこそおも(思)ひしに、ともすればわごぜのこと(事)のみうら(恨)めしくて、こんじやう(今生)もごしやう(後生)も、なまじひにしそん(損)じたるここち(心地)にてありつるに、かやうにさま(様)をか(替)へておはしつるうへ(上)は、ひごろ(日頃)のとが(科)は、つゆちり(露塵)ほどものこ(残)らず、いま(今)はわうじやう(往生)うたが(疑)ひなし。
このたび(度)そくわい(素懐)をと(遂)げんこそ、なに(何)よりもまた(又)うれ(嬉)しけれ。わらは(妾)があま(尼)になりしをだに、よ(世)にあ(有)りがた(難)きこと(事)のやう(様)に、ひと(人)もいひ、わがみ(身)もおもひ(思)さぶら(候)ひしぞや。それはよ(世)をうら(恨)み、み(身)をなげ(歎)いたれば、さま(様)をかふるもことわり(理)なり。わごぜはうら(恨)みもなくなげ(歎)きもなし。ことし(今年)はわづかじふしちに(僅十七)こそなりしひと(人)の、それほど(程)までゑど(穢土)をい(厭)とひ、じやうど(浄土)をねが(願)はんと、ふか(深)くおも(思)ひい(入)りたま(給)ふこそ、まこと(誠)のだいだうしん(大道心)とはおぼ
(覺)えさぶら(候)ひしか。うれ(嬉)しかりけるぜんぢしき(善知識)かな。いざもろともにねが(願)はん」とて、
しにん(四人)いつしよ(一所)にこも(籠)りゐ(居)て、あさゆふぶつぜん(朝夕佛前)にむか(向)ひ、はなかう(花香)をそな(供)へて、たねん(他念)なくねが(願)ひけるが、ちそく(遅速)こそありけれ、みな(皆)わうじやう(往生)のそくわい(素懐)をと()げけるとぞきこ(聞)えし。さればかのごしらかはのほふわう(後白河法皇)のちやうがうだう(長講堂)のくわこちやう(過去帳)にも、ぎわう(妓王)、ぎによ(妓女)、ほとけ(佛)、とぢら(等)がそんりやう(尊霊)と、しにんいつしよ(四人一所)にい(入)れられたり。あ(有)りがた(難)かりしこと(事)どもなり。

作成/矢久長左衛門



2021年9月2日木曜日

こぼればなし(5)さだやす親王か、ていほう親王か

        貞保(ていほう)親王と正されるべき

 覚明は、比叡山で平家物語の原作「治承物語」を書く前に、箱根山で原「曽我物語」を書いています。

その「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を清和天皇の第四貞保(ていはう)親王としています。流布本とは 同一の原本から生まれた諸本の中で、もっとも広く世に行なわれている本のことです。

 現在の辞典類では、読み方が 貞保(さだやす)親王となっているものが多いですが、貞保(ていほう)親王が正しいかと思います。

 貞保(さだやす)親王は今風の読み方で、曽我物語の語りべ(巫女・御前・瞽女)たちは貞保(ていはう)親王と詠じていたのではないかと思います。

 なぜなら、「曽我物語」には、眞字本あり、異本あり、流布本あり、流布本に活字本と刻本(彫った版木で印刷した書物)とあり、刻本に、寛永、正保、慶安、寛文、貞享、元禄等の諸版あり。刻本の原は全て寛永版になっています。異本は、はやく活版になっていますが、流布本は明治44年国民文庫刊行会編にて発行された非売品「曽我物語(流布本)」(凸版印刷本所分工場印刷)まで活版はありませんでした。

 当該本は寛永版の刻本を原として専和田信二郎氏所蔵の古写本(主として慶長以前の写本をいう)を翻刻(ほんこく、すでにある本や原稿を木版や活版で新たに起こし刊行すること)し、なお、原本の総仮名文を改めて漢字交じりにしたというものです。

 原本の総仮名文を漢字交じりにしたということは、当該本の「清和天皇の第四貞保親王」の部分は、「ていはうしんわう」とルビがふられているので、長く語りべらにより詠じられてきた発音も、原本の総仮名文である「ていはうしんわう」だと言うことになります。

 依って、江戸時代まで発音されてきた貞保親王は「ていはうしんわう」が正しいということになります。

依って、現在の貞保(さだやす)親王の表記は、貞保(ていほう)親王と正されるべきです。

(長左衛門・記)


2021年9月1日水曜日

こぼればなし(4)第四貞保親王が覚明の先祖

     「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保親王と。

 信濃前司行(幸)長(覚明こと海野幸長)は、比叡山で平家物語の原作「治承物語」を書く前に、箱根で原「曽我物語」を書いています。その「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保(ていはう)親王としています。

注目点!

原文では

〔清和天皇の皇子数多おはします。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王、第四を貞保(ていはう)親王、此の皇子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申しけり。心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり、今のしけのこの先祖なり。第五貞平親王、第六貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり〕と記述しています。

 ここで、覚明は自分の先祖は「第四の貞保(ていはう)親王」とはっきり書いています。なぜなら、信濃前司行長こと覚明の本名は、信濃滋野氏嫡流海野幸親の次男幸長(幼名通廣)だからです。

原文の「今のしけのこの先祖なり」の、しけのは滋野氏のことで、当時、信濃滋野氏は海野(滋野嫡流)・望月・禰津の三家に別れていて、それぞれ滋野流を名乗っていました。覚明の父海野幸親は滋野幸親と呼ばれていた時期もあります。

原文の「此の皇子は御琵琶の上手にておはします」は、貞保親王が「管絃の長者・尊者」といわれた名手で、勅命で横笛や琵琶(びわ)の伝授をおこなうなど、兵部卿や式部卿の傍ら管弦の世界でも活躍していました。雅楽を学ぶ者の心得を書き記した『十操記』、琵琶譜の『南宮譜』、笛譜の『南竹譜』、『新撰横笛譜』を編纂し、今に残しています。

原文の「桂の親王とも申しけり」は、貞保親王の号は南宮で桂親王とも呼ばれていました。

原文の「心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり」は、貞保親王が兵部卿として信濃御牧ヶ原の官営牧場に滞在したときに、官牧の責任者でもある滋野恒蔭(貞観十年信濃介)の館に滞在したとき、その娘「心を懸けらる女」が、闇夜で真っ暗なので「月の光を待ち兼ねて」、自分の居場所を早く教えるため明かり代わりに「蛍を袂につつむ」、つまり、"その光が恋愛のシグナルであるせいか、平安のむかしから歌や物語の恋愛の場に蛍はしばしば登場します。袖の袂にたくさんの蛍を包み、恋人の前でそれを放つ、その顔を照らし見るという場面が「伊勢物語」「宇津保物語」「源氏物語」などに登場する(ジャパンナレッジ季節の言葉「蛍」)"といわれています。

このときのことが「此の親王の御事なり」、ということなのです。

 この時に生まれたのが幼名菊宮で、信濃滋野家では目宮王として大事に育て、成人して基淵王と呼ばれました。基淵王の子である善淵王(貞保親王の孫)の時、六十代醍醐天皇から延喜五年(905)に滋野朝臣姓を賜りました。

このころ、信濃滋野氏は朝廷の官牧科野(信濃)国御馬城之原野(望月牧)を本牧とした御牧ヶ原の有力な豪族としての地位を築いていました。

 覚明は、曽我物語の「惟喬(これたか)喬仁(これひと)の位争の事の条」で、清和天皇の皇子を、上記のように第一から第六まで並べ、途中の第四貞保親王だけ、特に詳しく描写しています。そして"第六を貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり"、として源氏の面々を紹介しています。

なぜ、途中の第四貞保親王だけ特に詳しく描写したのか、そして、わざわざ滋野の先祖を紹介したのか。

これは「曽我物語」の作者も覚明である根拠の一つといえるところなのです。他にも、自分の甥である海野小太郎幸氏(頼朝御家人)に関する部分からも覚明が作者であることが多々読み取れるのです。

(長左衛門・記)

 

2021年8月26日木曜日

原作者の存在を考証(15)我身榮華の条

  平家物語の各条から原作者の存在を考証する(15)

この「我身榮華の条」で、覚明は平家一門を総浚いし、再確認した

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!                        

「平家物語」の我身榮華の条

(考察)

     覚明は、叡山の書庫をあさり、悪逆の平家一門を調査した

 覚明は、この条で忠盛、清盛以外の平家一門には、誰と誰がいたかを総ざらいしています。物語を紡ぐに当たり、どんな肩書きの連中がいたかを再確認し、それは、清盛の息子達だけはでなく、清盛の娘たちにも及んでいます。

 覚明が、この条を書いている比叡山のあちこちの寺の書庫には、平家に関する当時の記録が豊富に眠っていたと思います。

何故なら、木曽義仲らの軍勢が来て、源氏に味方するまでは、平家一門とも盛んに交流しており、様々な情報が蓄積していました。

覚明は、叡山の各寺の書庫をあさり、再確認しながら出来るだけ正確を期しながら原稿を書いたのだと思います。

 覚明は、木曾山門牒状の条で、自分が書いた木曽義仲の諜状に、平家の悪逆を「平家は帝位を操り、あまたの国や郡を奪い取り、道理のあるなしを論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を滅ぼし、その財産を奪い、ことごとく郎従に与え、荘園を没収して、濫りに子孫に分かち与えている」と書いて来ました。

 覚明は、その悪逆の共犯者である平家一門には、どんな面々がいたかを、改めてここに記しています。

ーーーーーーーーーーーーーー

我身榮華の原文では

 わが身の榮華を極むるのみならず、一門ともに繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大將、次男宗盛、中納言右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十餘人なり。世には又人なくぞ見えられける。

 昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衛の大將を始め置かる。大同四年に中衛を近衛と改められし以來、兄弟左右に相並ぶ事、僅に三四箇度なり。

 文徳天皇の御時は、左に良房、右大臣左大将、右に良相、大納言右大將、これは閑院の左大臣冬嗣の御子なり。

 朱雀院の御宇には、左に實賴、小野宮殿、右に師輔、九条殿、貞信公の御子なり。

 後冷泉院の御時は、左に教通、大二条殿、右に賴宗、堀河殿、御堂關白の御子なり。

 二条院の御宇には、左に基房、松殿、右に兼實、月輪殿、法性寺殿の御子なり。

これ皆攝籙の臣の御子息、凡人に取つてはその例なし。

 殿上の交りをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色、雑袍をゆり、綾羅錦繍を身に纏ひ、大臣大將になつて兄弟左右に相並ぶ事、末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。

(現代文訳)

 平清盛※自身が栄華を極めるのみならず、一門がともに繁盛して、

嫡子平重盛※は内大臣(左右大臣の下にあり、太政官の政務をつかさどる)で左大将(左近衛府の長官)、

次男平宗盛※(次男は平基盛で早逝か、平宗盛じつは三男)は中納言(後に大納言、内大臣となり、従一位に進む)で右大将(右近衛府の長官)、

三男平知盛※(じつは四男)は三位(後に権中納言)中将(左右近衛府の次官)、

嫡孫平維盛※は四位少将(四位の位でありながら正五位相当の近衛少将の官にある者)となり、

すべてで一門の公(大臣)卿(納言、参議、三位以上)は十六人、殿上人は三十余人、

諸国の受領(諸国の長官。国司の最上位のもの)、衛府(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府で六衛府あり)、諸司(多くの役所の官僚)、合計六十余人で、世間には平家以外に人材はいないかのように見えました。


※【平清盛】たいら‐の‐きよもり

平安末期の武将。平忠盛の長子。白河法皇の落胤とされ、母は祇園女御の妹といわれる。父は平氏武士団の棟梁として白河・鳥羽院庁に仕え、海賊・僧兵の鎮圧に武功を挙げ、日宋貿易にも尽力。三六歳でその父の地位をつぎ、保元の乱で、源義朝とともに後白河法皇に味方し、平治の乱で義朝を破り、仁安二年(一一六七)従一位太政大臣となる。皇室の外戚となり、また貴族と姻戚関係を結び、全国の半ばをこえる知行国、五百余に及ぶ荘園、これと福原中心の対宋貿易の利益などを経済的基盤に六波羅政権を築く。さらに治承三年(一一七九)、クーデターにより完全独裁権を握る。しかしその施政の専横と苛酷とにより各地に反対勢力の蜂起を招き、治承・寿永の内乱を導いた。その処理に苦しみつつ熱病のため没す。元永元~治承五年(一一一八‐八一)精選版日本国語大辞典小学館

※【平重盛】たいら‐の‐しげもり

平安末期の武将。清盛の長男。俗称小松内府、灯籠(とうろう)大臣。保元、平治の乱に功があり、従二位内大臣に累進した。鹿ケ谷事件の際に、父が後白河法皇を幽閉しようとするのを諫止し、清盛、朝廷間の対立の和解に努めた。性質温厚で人望があった。保延四~治承三年(一一三八‐七九)精選版日本国語大辞典小学館

※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり

平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)精選版日本国語大辞典小学館

※【平知盛】たいら‐の‐とももり

平安末期の武将。清盛の四男。治承四年(一一八〇)以仁王・源頼政の挙兵を弟重衡と宇治で鎮圧。同五年源行家を美濃に破り、権中納言となる。壇ノ浦で入水した。謡曲、浄瑠璃などの主人公として有名。仁平二~元暦二年(一一五二‐八五)精選版日本国語大辞典小学館

※【平維盛】たいら‐の‐これもり

平安末期の武将。重盛の子。桜梅少将、小松中将と呼ばれた。治承四年(一一八〇)、頼朝と富士川で対陣したが、水鳥の羽音に驚いて敗走した。寿永二年(一一八三)には義仲を討とうとして、倶利伽羅峠に敗れた。保元三~寿永三年頃(一一五八‐八四頃)精選版日本国語大辞典小学館


(現代文訳)つづく

 昔、奈良の御門(聖武天皇)の御治世のとき、神亀五年、朝廷に中衛(右近衛府の前身で天皇の親衛隊)の大將が初めて置かれました(続日本紀)。

大同四年(二年が正しい)に中衛を近衛(右近衛府)と改められてから、兄弟が左右の大将に並ぶこと、わずか三、四度です。

文徳天皇の御治世のときは、左に藤原良房※が、右大臣で左大将、右に藤原良相※が、大納言で右大將であり、これは閑院※の左大臣藤原冬嗣※の子息でした。

※【文徳天皇】もんとく‐てんのう

(「もんどくてんのう」とも) 第五五代天皇。名は道康(みちやす)。仁明天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣の女順子。承和九年((八四二))立太子、嘉祥三年((八五〇))即位した。在位中の政はもっぱら藤原良房によって行なわれ、在位九年にして三二歳で崩御した。御陵は京都市の田邑山陵。天長四~天安二年(八二七‐八五八)精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原冬嗣】ふじわら‐の‐ふゆつぐ

平安初期の公卿。内麻呂の第二子。嵯峨天皇の信任あつく、蔵人頭、陸奥出羽按察使、中納言、大納言、右大臣、左大臣と進み、娘順子を仁明天皇の妃にするなど皇室と血縁を深め、家運の隆盛を図った。「弘仁格式」「内裏式」「日本後紀」などの撰定事業を行ない、一族子弟のために勧学院を設けた。宝亀六~天長三年(七七五‐八二六)精選版日本国語大辞典 小学館

※【藤原良房】ふじわら‐の‐よしふさ

平安前期の公卿。人臣最初の摂政。通称染殿・白河殿。父は冬嗣。母は阿波守真作の娘美都子。嵯峨天皇の皇女潔姫を室とし、父祖の遺徳と妹順子が仁明天皇の女御(後に皇后)となったことなどから、権勢が盛んであったが、承和の変で、順子所生の皇子文徳天皇を即位させ、ついで娘明子をその妃とし、天安元年(八五七)人臣で初の太政大臣となって実質的な摂政となった。応天門の変の政界混乱に乗じて摂政の詔を得て、正式にも摂政となった。死後、美濃公に封ぜられ、忠仁公の諡号(しごう)を賜わる。「続日本後紀」の編纂に参画。延暦二三~貞観一四年(八〇四‐八七二)精選版日本国語大辞典小学館

※【藤原良相】ふじわら‐の‐よしみ

平安前期の官人。藤原冬嗣の五子で母は尚侍藤原美都子。その出自とともに,度量広大にして才幹ありと評された資質とあいまって栄達の途も保証されていたが,政治家より文人的な志向が強く、崇親院に自存できない一族の子女を収容したりした。834年(承和1)蔵人となり、左近衛少将を経て、承和の変では近衛を率いて行動し、848年(嘉祥1)には参議となり、右大弁、春宮大夫を経て851年(仁寿1)には従三位権中納言となった。813‐867(弘仁4‐貞観9)平凡社世界大百科事典 

※【閑院】かんーいん

 藤原冬嗣の邸宅。二条大路の南、西洞院大路の西にあり、平安時代末から鎌倉時代中期まで里内裏(さとだいり)となる。正元元年(一二五九)焼失。精選版日本国語大辞典小学館

 

(現代文訳)つづく

  朱雀院※(朱雀天皇のこと)の御治世には、左大臣に藤原實賴※小野宮殿(通称)、右大臣に藤原師輔※九条殿(通称)で、貞信公(藤原忠平)※の子息でした。   

 後冷泉院※(後冷泉天皇のこと)の御治世時には、左大臣に藤原教通※、大二条殿、右大臣に藤原賴宗、堀河殿で、御堂關白(藤原道長※の通称、出家後に法成寺を建てた故に御堂という)の子息でした。

 二条院※の御治世には、左大臣に藤原基房※、松殿(基房の屋敷名)、右大臣に藤原兼實※、月輪殿(東福寺の東にあった兼實の山荘名で)、法性寺殿(藤原忠通)の子息でした。


(現代文訳)つづく

 これらは皆、攝籙(攝政の異称)の臣の御子息で、凡人(貴い家柄以下のなみの人)にとつてはその例はありません。

 殿上での交りさえ嫌はれる人の子孫(平家一門のことをさす)にて、禁色(きまりの色以外のものを着用することが禁じられた)、雑袍(平安時代以来、天子・摂家・公卿が平常に着用した衣服)を許され、綾羅錦繍(華麗なる衣装)を身に纏ひ、大臣と大將を兼任し、兄弟で左右大臣に並ぶことは、末世とはいいながら、あってはならないことでした。

 

※【朱雀院】すざく‐いん

一、平安時代、平安京の右京、三条と四条の間にあって朱雀大路に面した邸宅。東西二町、南北四町の広大な敷地を持つ。嵯峨天皇が創建した後院で、宇多天皇以後は、天皇退位後の御所として本格的に用いられ、詩宴等が催された。天暦四年(九五〇)に焼失し、村上天皇が再興したが、皇族や臣下の避難、饗宴・納涼・方違等のために一時的に利用される場所となり、次第に荒廃していった。鎌倉時代初期には築地が再建され、内部は遊猟地とされた。

二、朱雀天皇のこと。

▷ 大鏡(12C前)一

「次帝、村上天皇と申。〈略〉御母、朱雀院のおなじ御はらにおはします」精選版日本国語大辞典小学館

※【朱雀天皇】すざく‐てんのう

第六一代の天皇。醍醐天皇の第一一皇子。母は藤原基経(もとつね)の娘穏子。名は寛明(ひろあきら)。延長八年(九三〇)即位。治世中、政情は不安定で、承平六年(九三六)以後、平将門、藤原純友が東西で乱を起こし(承平・天慶の乱)、天慶四年(九四一)、ようやく鎮定。同九年村上天皇に譲位。世に承平法皇と称した。在位一七年。延長元~天暦六年(九二三‐九五二)精選版日本国語大辞典小学館

※【貞信公記】ていしんこうき

摂政関白太政大臣藤原忠平の日記。貞信公は諡号。中間を欠くが、延喜七年(九〇七)から天暦二年(九四八)までが抄本で伝わる。一〇世紀前半の朝廷や政情、特に、承平・天慶の乱を知るための基本史料。平安貴族の日記としては現存する最古のもの。貞信公御記とも。精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原忠平】ふじわら‐の‐ただひら

平安中期の公卿。小一条殿と号す。摂政・関白。基経の子。母は人康(さねやす)親王の娘。朱雀天皇即位によって摂政、以後太政大臣、関白。温厚で勤勉なため人望があった。「延喜格式」を完成。死後、信濃公に封ぜられ、貞信公の諡号(しごう)を賜わる。有職故実にも明るく、著に「貞信公教命」、日記「貞信公記」がある。元慶四~天暦三年(八八〇‐九四九)精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原實賴】ふじわら‐の‐さねより

平安中期の公卿。左大臣。忠平の長男。通称小野宮殿

※【小野宮】おののみや

家名(姓氏)。藤原北家忠平の子実頼を祖とし、平安期に成立した公家。実頼には三人の男子があったが、三男斉敏の子実資を養子にむかえ、後嗣とした。実資は日記「小右記」や「小野宮年中行事」などを記しており、小野宮流の故実を大成した人物として著名。鎌倉期以降、家勢は衰え、もっぱら有職故実の家として重んじられた。精選版日本国語大辞典小学館

※【藤原師輔】ふじわら‐の‐もろすけ

平安中期の公卿。右大臣。忠平の第二子。母は右大臣能有の娘。父忠平の関白職は兄実頼がついだが、娘安子が村上天皇の皇后となって冷泉・円融両天皇を生んだことから勢力を得、子兼通・兼家、孫道長と続く摂関家の祖となる。朝儀に精通して有職故実の九条流の祖。通称九条殿。著に「九条年中行事」「九条殿遺誡」、歌集に「九条右丞相集」、日記に「九暦」がある。

延喜八~天徳四年(九〇八‐九六〇)精選版日本国語大辞典小学館

※【後冷泉天皇】ごれいぜい‐てんのう

第七〇代の天皇。名は親仁(ちかひと)。後朱雀天皇の皇子。母は藤原道長の女嬉子。寛徳二年((一〇四五))即位。在位二四年。関白藤原頼通の時代で、「前九年の役」があった。万寿二~治暦四年(一〇二五‐六八)精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原道長】ふじわら‐の‐みちなが

平安中期の公卿。父は兼家。母は時姫。兄道隆・道兼の死後、内覧・氏長者・右大臣となる。道隆の子伊周・隆家を失脚させ、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となる。長和五年(一〇一六)摂政となったが、翌年子頼通に譲り、太政大臣となり、父子並んで政権を独占、藤原氏の全盛時代を出現させた。寛仁三年(一〇一九)出家、法成寺を建立。関白になった事実はないが、御堂関白と称され、日記を「御堂関白記」といい、自筆原本が現存。康保三~万寿四年(九六六‐一〇二七)精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原教通】ふじわら‐の-のりみち

996-1075 平安時代中期の公卿。長徳2年6月7日生まれ。藤原道長の子。母は源倫子。康平3年(1061)左大臣。治暦4年(1068)兄頼通から関白をつぎ、のち太政大臣。大二条殿とよばれる。娘歓子(かんし)(後冷泉天皇の皇后)らに皇子が生まれず、外戚関係のない後三条天皇の即位で実権をうしなった。承保2年9月25日死去。80歳。贈正一位。講談社デジタル版 日本人名大辞典 

※【二条院】 にじょういん

1027*-1105 平安時代中期、後冷泉(ごれいぜい)天皇の中宮(ちゅうぐう)。

万寿3年12月9日生まれ。後一条天皇の第1皇女。母は藤原道長の娘威子(いし)。万寿4年内親王、長暦(ちょうりゃく)元年皇太子親仁(ちかひと)親王(のちの後冷泉天皇)の妃、寛徳2年女御(永承元年中宮。治暦4年皇太后、翌年出家、太皇太后。承保(じょうほう)元年院号をうける。長治(ちょうじ)2年9月17日死去。80歳。名は章子。講談社デジタル版 日本人名大辞典

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(考察)

      覚明は、平家一門が天皇家を私物化することを恐れていた

 覚明は清盛以下の平家一門の主な男子について、ここで、改めて調べ直し、清盛が如何に勝手に政治を私物化していたかを、昔の歴史を遡り、そんな僅の事例を探しだし並べています。この部分の原稿は、博識の覚明でも古いことなので手間がかかったと思います。

 今と違い豊富な歴史書や辞書、そして人名辞典が編纂されていたとは思えません。

当時、覚明がこの「治承物語」を書いていた比叡山の各寺の書庫は、学僧たちの図書館の役割を果たしていたと思いますが、保存されている文書は手書きで、雑然としていたと思います。それを丹念に読んで、必要な部分を見つけ出し、確認しながら書いたと思いますが、各人物の名前や身分、経歴ともなると、間違いは許されません。覚明はそれを執拗に追いかけ記述しています。なぜ、そこまで、この部分にこだわったのでしょうか。

 深読みすると、多分、原文で「文徳天皇の御時は、左に良房、右大臣左大将、右に良相、大納言右大將、これは閑院の左大臣冬嗣の御子なり」とあります。現代文訳では「文徳天皇の御治世のときは、左に藤原良房※が、右大臣で左大将、右に藤原良相※が、大納言で右大將であり、これは閑院※の左大臣藤原冬嗣※の子息でした」のところに、個人的に関心があり、自分とも関係があったのだと思います。それは特に藤原冬嗣の部分です。

  覚明の先祖は、清和天皇※の四男貞保親王※で、その実母は藤原高子(たかいこ)※です。高子の実父は藤原冬嗣の一男長良(仁明朝の名臣と慕われ権中納言で病死)ですが、高子の兄藤原基経(後に通称堀河太政大臣)や藤原国経(後に大納言)らとともに冬嗣の二男良房(太政大臣)の養子となりました。そして藤原良房は清和天皇の攝政でした。

 清和天皇の后になった高子(八歳年上)は、、高子の一男陽成天皇の御治世で、攝政を務めた兄の基経とともに、その存在は大きなものでした。 

 しかし、清和上皇が薨去すると、幼帝陽成天皇の退位を巡る攝政基経と高子の対立は高子を不幸のどん底に落としました。

 この陽成天皇の退位事件は同母弟である四男貞保親王にも及び一時は後継者と噂されましたが、攝政基経と高子の確執は根深く、後継者は清和天皇の系統を離れ、仁明天皇の第三皇子である光孝天皇に落ち着いた経緯があり、通称堀河太政大臣といわれた攝政基経の力は絶大なものでした。

   覚明はこの事件をどこまで知っていたか定かではありませんが、多分、ある程度は調べ知っていたと思います。

  この事件の真相は、高子の実家の兄である陽成天皇の攝政藤原基経を中心とする藤原一門が天皇を私物化するという、あまりの横暴さに、陽成天皇の生母高子が嫁ぎ先の天皇家を守るために実家と対立するという構図でした。

 この騒動の原因は、表向きは乱暴な陽成天皇(当時、十五歳前後)が御所で乳母子源益を撲殺した事件で、帝位を欠いたということで退位させられたという事になっていますが、事の真相は今でも分かりません。

事件当時、陰では陽成天皇は在原業平(阿保親王※の第五子)※の子供だという疑いがあり、攝政基経が強引に退位させたと言うことも考えられます。

 というのは、「伊勢物語」にもあるように、高子が清和天皇に入内(婚姻)する前の在原業平との恋愛が有名だからです。

 いずれにせよ、高子と攝政藤原基経との確執は根深く、基経の権力で天皇退位というところまでいってしまったのです。

 陽成天皇の退位は正しかったのか、基経が藤原一門の恥を隠すために高子と陽成天皇に犠牲を強いたのか、今では分かりません。

 陽成天皇は馬好きで在位当時は紫宸殿(御所)の前庭で馬を乗り回す乱暴な人だったそうですが、退位した陽成院は京都の郊外に私牧を持ち、お気に入りの馬を集めて長い余生を八十歳まで生きたということです。

筑波嶺の峰よりおつる男女の河恋ぞつもりて淵となりける  

作者の陽成院は、釣殿のみこ(光孝天皇の娘で后の綏子内親王)に宛てた歌として『後撰和歌集』※恋・777に一首採録されています。百人一首の十三番でも有名です。残されているのはこの一首だけです。 

 陽成天皇が馬好きなのは高子のもとで一緒に育った弟で、覚明の先祖でもある貞保親王の影響もあると思います。貞保親王は若いころ兵部卿を務め、望月の駒で有名な信濃の御牧ヶ原の官営牧場にも滞在し、多数の良馬の生産をしていました。その頃、兄陽成天皇にも特に優れた「望月の駒」を献上していたと思います。

 陽成天皇の退位問題が起きたとき、、後継者は弟の兵部卿の貞保親王がなるという噂が信濃の地元では拡がりました。しかし、そうはなりませんでした。陽成天皇が、表向きの殺人事件で責任をとり退位したのなら、弟の貞保親王がなるのが普通です。

地元では浅間山麓の雄大な風景を前にした御牧ヶ原の周辺に遷都という噂まで広がっていました。でも、基経はそうはしませんでした。もし、殺人事件だけで退位させ、すんなり弟の貞保親王にすると陽成天皇はやっぱり在原業平の子供だったのではないかと言われます。

  藤原基経はそこで大胆な決断をし、高子と陽成天皇の二人を切り捨てました。そして無理をして、皇籍離脱・臣籍降下していた皇子の時康親王(光孝天皇)が選ばれることになりました。また、光孝天皇の容体が悪化した際にも貞保親王ではなく、次期天皇として源定省(宇多天皇)が選ばれることになったのです。一旦であろうと皇籍離脱・臣籍降下した親王が天皇位に就くことは前例のないことでした。

こうして基経は、五十八代光孝天皇を擁立し、その後、五十九代に光孝天皇の第七皇子を宇多天皇にし、自分の娘温子を后にして天皇家を私物化しました。しかし、皮肉にも宇多天皇は藤原氏を抑えて政治の刷新を図ったと言われています。

 覚明がどこまで、この真相にたどり着いていたのか分かりませんが、ここに、藤原家の権力の横暴の恐ろしさが見えていたのだと思います。攝籙(攝政の異称)の臣の子息や孫でも、藤原家の天皇の私物化の例のようなことがあるので、凡人の清盛平家一門が天皇家に手を付け(安徳天皇※のこと)気ままにさせることは許されないのだと覚明は表現しているのです。

 覚明は藤原一門のことは、原文では深く触れていませんが、陽成天皇の退位問題をわが事のように恥とし、自分の先祖である高子の悲劇には傷ついていたと思います。

 その後、藤原基経の子・時平らが編纂した『日本三代実録』※によると、高子(通称二条后)は自分の寺(東光寺)を建てています。そして、不幸の追い打ちをかけるように、その寺の座主善祐との密通の疑惑をとりあげ、それを理由に皇太后を廃されたと記録されています。

『続日本紀』によると、平安時代・寛平8年(896年)に京都東光寺の僧・善祐は密通の罪で阿多美郷(今の熱海)に遠流となった記録があります。

しかし、高子は死後の天慶六年(943)、朱雀天皇の詔によって号を復されました。

「雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ」

作者の高子は、二条の后の春のはじめの御歌として『古今和歌集』※に一首採録(歌番号4番)されています。残されているのはこの一首だけです。 


※【清和天皇】せいわ‐てんのう  

第五六代天皇。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘明子。名は惟仁(これひと)。天安二年(八五八)八歳で即位。在位中に応天門の変が起こり、その後良房が摂政となる。また、「貞観格式」を編修させた。貞観一八年(八七六)譲位、元慶三年(八七九)出家して清和院に入る。法諱は素真。水尾(みずのお)帝。嘉祥三~元慶四年(八五〇‐八八〇)精選版日本国語大辞典小学館 

※【藤原高子】ふじはら‐の‐たかこ

842-910 平安時代前期、清和天皇の女御(にょうご)。                  承和(じょうわ)9年生まれ。藤原長良(ながら)の娘。母は藤原総継(ふさつぐ)の娘、乙春。陽成(ようぜい)天皇、貞保(さだやす)親王、敦子内親王を生む。陽成即位で皇太夫人、皇太后となるが、寛平(かんぴょう)8年(896)密通をうたがわれ廃后。延喜(えんぎ)10年3月24日死去。69歳。のち皇太后に復された。二条后(きさき)とよばれ、入内(じゅだい)前の在原業平(なりひら)との悲恋が有名。名は「たかいこ」とも。【格言など】雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ(「古今和歌集」) 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【陽成天皇】ようぜい‐てんのう 

第五七代の天皇。名は貞明(さだあきら)。清和天皇の第一皇子。母は藤原長良の女高子。貞観一八年(八七六)に即位し、元慶八年(八八四)に光孝天皇に譲位した。御陵は京都市左京区の神楽岡東陵(かぐらおかひがしのみささぎ)。貞観一〇~天暦三年((八六八‐九四九))精選版日本国語大辞典小学館 

※【貞保親王】ていほう‐しんのう

870-924 平安時代前期-中期、清和天皇の第4皇子。貞観(じょうがん)12年9月13日生まれ。母は藤原高子。中務(なかつかさ)卿、兵部(ひょうぶ)卿、式部卿を歴任し、二品(にほん)にすすむ。管絃長者といわれた名手で、勅命で横笛や琵琶(びわ)の伝授をおこなう。南宮、南院宮、桂親王と称された。延長2年6月19日死去。55歳。著作に「南宮譜」。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典  

 ※【阿保親王】あぼ‐しんのう

平城天皇の皇子。薬子(くすこ)の変に関係して一時、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷。天長三年(八二六)上奏して、子行平、業平などに在原姓を与えられた。延暦一一~承和九年(七九二‐八四二)精選版日本国語大辞典小学館

※【在原業平】ありわら‐の‐なりひら

平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙の一人。阿保親王の第五子。右近衛権中将。形式にとらわれない、情熱的な歌が多く、「古今集」から「新古今集」までの勅撰集に収められる。家集に「在原業平朝臣集」がある。「伊勢物語」の主人公とされる。在五中将。在中将。天長二~元慶四年(八二五‐八八〇)精選版日本国語大辞典小学館

※【後撰和歌集】ごせんわかしゅう

平安中期の二番目の勅撰集。二〇巻。天暦五年(九五一)、村上天皇の勅命で和歌所が置かれ、藤原伊尹が別当に、大中臣能宣、清原元輔、源順(みなもとのしたごう)、紀時文、坂上望城(さかのうえのもちき)のいわゆる梨壺の五人が撰者となった。成立は天暦七年頃かという。紀貫之、伊勢、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)ら二二〇人余りの歌約一四二〇首を、四季、恋、雑など一〇部に分類し収録したもの。私的な贈答歌が多く、歌物語的な傾向が見られる。後撰集。精選版日本国語大辞典小学館

※【古今和歌集】こきんわかしゅう

平安初期の最初の勅撰和歌集。二〇巻。延喜五年(九〇五)醍醐天皇の勅命により、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の撰。延喜一四年頃の成立とされる。読人知らずの歌と六歌仙、撰者らおよそ一二七人の歌一一一一首を、四季、恋以下一三部に分類して収めたもの。貫之執筆の仮名序と紀淑望執筆の真名序が前後に添えられている。短歌が多く、七五調、三句切れを主とし、縁語、掛詞など修辞的技巧が目だつ。優美繊細で理知的な歌風は、組織的な構成とともに後世へ大きな影響を与えた。古今集。古今。精選版日本国語大辞典 小学館

※【安徳天皇】あんとく‐てんのう 

第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年((一一八〇))即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の神器と共に西下。源氏に追撃され、長門(山口県)壇の浦で平氏一族とともに入水。治承二~文治元年((一一七八‐八五))精選版日本国語大辞典小学館

※【日本三代実録】にほんさんだいじつろく

六国史の第六。五〇巻。源能有、藤原時平、菅原道真らの撰。宇多天皇の勅をうけて着手、醍醐天皇の延喜元年(九〇一)奏送。清和・陽成・光孝の三代三〇年間を編年体で叙述。六国史中最大の巻数を持ち、内容も精細かつ正確である。三代実録。精選版日本国語大辞典小学館

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(考察)

     覚明は、清盛の娘八人も簡単に触れますが、名前は無し

 覚明は、続いて清盛の娘八人についても、以下のように総浚いし、簡単に述べています。さすがに、比叡山の各寺の書庫にも清盛の娘たちの名前まで記録したものは少なかったようで、娘たちの名前は一つも書いてありません。それとも、冠婚葬祭や祈祷に関係する比叡山の各寺ですから、調べれば全ての名前が分かっていたのかも知れません。多分、それらは盲僧の生仏様たちの琵琶での弾き語りの段階で、有力な婚姻さきに嫁いだ娘の相手だけが記憶され残ってきたとも思えます。後世の研究で判明したものもありますが、すべてではないので、それは当時でも同じで、覚明が最初から省略したとも考えられます。

(注)ここでは、講談社文庫判「平家物語」下巻末の桓武平氏系図を参考に、一応、順序を付けました。娘の名前も判明しているものには付けました。

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原文では

その外、御娘八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。一人は櫻町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年御約束ばかりにて、平治の亂以後、引きちがへられ

て、花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給ひて、公達數多ましましけり。

抑この成範卿を櫻町の中納言と申しけることは、すぐれて心數寄給へる人にて、常はよし吉野の山を戀ひつつ、町に櫻を植ゑならべ、その内にや屋を建て住み給ひしかば、来る年の春毎に、見る人、櫻町とぞ申しける。

櫻は咲いて七箇日に散るを、名殘を惜み、天照大神に祈り申されければにや、三七日まで名殘ありけり。

君も賢王にてましませば、神も神徳を耀かし、花も心ありければ、二十日の齢を保ちけり。

一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生あつて、皇太子に立ち、位に卽かせ給ひしかば、院號蒙らせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相國の御娘なる上、天下の國母にてましませば、とかう申すに及ばれず。

一人は六条の攝政殿の北政所にならせ給ふ。これは高倉院御在位の御時、御母代とて、準三后の宣旨を蒙らせ給ひて、白川殿とて、重き人にてぞましましける。

一人は普賢寺殿の北政所にならせ給ふ。

一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、一人は七条修理大夫信隆卿に相具し給へり。

又安藝國嚴島の内侍が腹に一人、これは後白河法皇へ参らせ給ひて、偏に女御の様でぞましましける。

その外九条院の雑仕常盤が腹に一人、これは花山院殿の上﨟女房にて、﨟の御方とぞ申しける。


(現代文訳)

 清盛には息子達の外に、娘たちが八人いました。みな、それぞれに違っていましたが幸せでした。

 一人(清盛長女?)は櫻町の中納言成範卿(信西藤原通憲※の三男)の北の方になるはずでしたが、八歳の年に婚約されただけで、平治の乱※以後、事情が変わって、花山院※の左大臣殿(藤原兼雅)の御台所になられて、若君を幾人もおうみになりました。

そもそも、この成範卿を櫻町の中納言と申すのは、際立って風流を好む心を持っていらっしゃる人で、常に吉野山を好み、邸内に櫻を植えならべ、その内に屋敷を建てて住まれたので、毎年の春ごとに櫻を見る人が、櫻町と申したからです。

櫻は、咲いて七日で散るのを、名殘りを惜しみ、天照大神にお祈りしたので、三七日(さんしちにち。二一日間。祈願・勤行などを行なう日数の単位である七日を三つ重ねた期間)も咲き続けたのでした。

帝も賢王であられたので、神も神徳を輝かせ、花にも心があったので、二十日の寿命を保ったのです。

 一人(清盛次女平徳子)は皇后にお立ちになりました。二十二で皇子をお生みになられ、その子は皇太子になら即位されたので、院号をいただき、建礼門院※とぞ申しました。清盛入道の娘である上、天下の國母(天皇の生母)であられるので、何やかやいうわけにはいきません。

 一人(清盛三女?平盛子)は六条の攝政殿(藤原基実※、藤原忠通※の子)の北政所(攝政、関白の夫人)になられました。これは高倉院御在位の御時、御母代(母として後見する人)として、準三后(太皇太后・皇太后・皇后なみ)の宣旨を賜り、白川殿と言われて、重んじられた方でした。

 一人(清盛五女?平完子、寛子とも)は普賢寺殿(近衛基通※)の北の政所になられました。

 一人(清盛四女?)は冷泉大納言隆房卿(四条隆房※)の北の方、

 一人(清盛六女?)は七条修理大夫(修理職長官)信隆卿(藤原信隆※)に連れ添われました。

 又、安藝國嚴島の内侍(巫女)が腹に一人(清盛八女?御子姫君)、これは後白河法皇へ参らせ給ひて、偏に女御の様におなりになりました。   

その外、九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(下位女官)の常盤の腹に一人(清盛七女?)、これは花山院殿(左大臣藤原兼雅※)の上﨟女房(身分の高い女官)にて、﨟の御方と申しました。

 

※【藤原通憲】ふじわら‐の‐みちのり

平安末期の公卿・学者。少納言。父は実兼。母は源有房の娘。博学多才の人で、鳥羽・崇徳・近衛三代に仕えたが、宮仕少納言にとどまることを不満とし出家して、円空・信西と号した。妻の紀二位が後白河天皇の乳母であったので、天皇即位とともに権勢を得、保元の乱後は近臣として活躍。内裏の再建、朝儀の復興につとめたが、学才に任せて権謀をほしいままにし、平治の乱で信頼勢に殺された。著書「本朝世紀」「法曹類林」「通憲入道蔵書目録」などがある。嘉承元~平治元年(一一〇六‐五九)精選版日本国語大辞典小学館

へいじ【平治】 の 乱(らん)  

保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年((一一五九))に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し、通憲を殺害したが清盛に敗れ、義朝・信頼は殺された。源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した。精選版日本国語大辞典小学館

※【藤原成範】ふじわらの-なりのり

1135-1187 平安時代後期の公卿(くぎょう)。保延(ほうえん)元年生まれ。藤原通憲(みちのり)の子。母は藤原朝子(紀二位)。平治(へいじ)の乱で配流されたがまもなくゆるされ、承安(じょうあん)4年(1174)参議。のち正二位、中納言となる。桜をこのみ、桜町中納言と称された。勅撰集には「千載和歌集」以下に13首。説話集「唐(から)物語」の作者とみられる。文治(ぶんじ)3年3月17日死去。53歳。

藤原成範 ふじわらの-しげのり⇒ふじわらの-なりのり講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【花山院兼雅 】かざんいん-かねまさ(藤原兼雅

1148-1200 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。久安4年生まれ。花山院忠雅の長男。母は藤原家成の娘。仁安(にんあん)3年権(ごんの)中納言となる。内大臣、右大臣をへて建久9年(1198)従一位、左大臣にすすんだ。正治(しょうじ)2年7月16日(一説に18日)死去。53歳。講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【花山院】かざん‐いん

(古くは「かさんいん」) 清和天皇の皇子貞保親王の住居の地。京都府庁の東方、御所の西部にあった。

 花山天皇の別称。                           

藤原北家の一流。関白藤原師実の二男家忠が花山院㊀を伝領して家号としたのに始まる。清華(せいが)家の一つ。精選版日本国語大辞典小学館

 ※【建礼門院】けんれい‐もんいん

高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。平清盛の次女。名は徳子。平家一門とともに西国に落ち、元暦二年(一一八五)安徳天皇に従って壇ノ浦で入水したが、救助される。のち出家して真如覚と号し、京都大原の寂光院に住んだ。久寿二~建保元年(一一五五‐一二一三)精選版日本国語大辞典小学館

※【藤原忠通】 ふじわらの-ただみち

1097-1164 平安時代後期の公卿(くぎょう)。永長2年閏(うるう)1月29日生まれ。藤原忠実(ただざね)の長男。母は源師子。白河法皇に罷免された父にかわり、関白、摂政、太政大臣を歴任。従一位にいたる。鳥羽(とば)院政で復権した父と権力をあらそい、保元(ほうげん)の乱の一因をつくった。詩歌にすぐれ、書は法性寺(ほっしょうじ)流と称される。長寛2年2月19日死去。68歳。通称は法性寺殿。漢詩集に「法性寺関白御集」、家集に「田多民治(ただみち)集」。【格言など】わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白波(「小倉百人一首」)講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【藤原基実】ふじわらの-もとざね

1143-1166 平安時代後期の公卿(くぎょう)。康治(こうじ)2年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。母は源国信(くにざね)の娘。藤原北家(ほっけ)の嫡流、近衛家初代。父忠通と後白河天皇の後ろ盾により異例の速さで出世し、保元(ほうげん)3年(1158)16歳で関白、氏長者となる。左大臣をへて、永万元年摂政となるが、2年7月26日死去。24歳。贈正一位太政大臣。号は六条,中殿(なかどの)など。講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【近衛基通】このえ-もとみち

1160-1233 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。

永暦(えいりゃく)元年生まれ。近衛基実(もとざね)の長男。母は藤原忠隆の娘。後白河法皇と継母平盛子(もりこ)の父平清盛の後ろ盾で、関白、摂政、氏長者となる。平家没落後、九条兼実(かねざね)をおす源頼朝によって引退させられたが、兼実の失脚後関白に復帰。基通の代から家名を藤原から近衛とした。従一位。天福元年5月29日死去。74歳。号は普賢寺。講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【四条隆房】しじょう-たかふさ

1148-1209 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。久安4年生まれ。父は四条隆季(たかすえ)。母は藤原忠隆の娘。平清盛の娘を妻とし、平家没落後も順調に出世し、正二位、権(ごんの)大納言となる。建永元年(1206)出家、法名は寂恵。「千載和歌集」以下の勅撰(ちょくせん)集に34首のる。家集に「隆房集」。承元(じょうげん)3年死去。62歳。通称は冷泉(れいぜい)大納言。講談社デジタル版 日本人名大辞典

※【藤原信隆】ふじわらの-のぶたか

1126-1179 平安時代後期の公卿(くぎょう)。大治(だいじ)元年生まれ。右京大夫藤原信輔の子。母は伯耆守(ほうきのかみ)橘家光の娘。後白河上皇の近臣となり、平頼盛らと上皇の皇子(高倉天皇)を皇太子に擁立することをくわだて因幡(いなばの)守・右馬頭(うまのかみ)を解任される。ゆるされて伊予(いよの)守、修理大夫。仁安(にんあん)3年従三位。娘殖子(しょくし)は後鳥羽(ごとば)天皇の母。治承(じしょう)3年11月17日死去。54歳。贈左大臣従一位。講談社デジタル版 日本人名大辞典

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(考察)

       覚明は、平家一門に藤原一門の横暴さを見ていた

  清盛の息子達と娘たちの多さも腹違いとはいえ、尋常ではありませんでした。息子達には天皇を巻き込み高位を与え、娘たちには政略結婚をさせ、天皇家にまで血筋を延ばす。藤原氏一門を真似て、天下を手中に収め、平家一門が日本全国を支配しようと企んでいたのです。

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さらに、原文では

日本秋津嶋は纔に六十六箇國、

平家知行の國三十餘箇國、既に半國に超えたり。

その外荘園、田畠、いくらといふ數を知らず。

綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集して、門前市をなす。

揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶、一つとして闕けたる事なし。

歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは、帝闕も仙洞も、これには過ぎじとぞ見えし。

 

(現代文訳)

 日本秋津嶋(日本の古名)はわずかに六十六ヵ国、平家の知行(支配する)国三十余ヵ国であり、すでに半分を越えていました。その他、荘園や田畠は、どのくらいあるか、数知れぬほどでした。

綺羅充満(装い飾ること)充満して、そこにいる人は花のごとくでした。車馬が群集して、門前に市をなしていました。

揚州※の金、荊州※の珠、呉郡の綾※、蜀江※の錦、七珍(七宝※)萬寶(万宝※)、一つとして欠けていることはありませんでした。

歌堂(歌を歌うところ)舞閣(舞を演ずるところ)の基(その場所)、魚龍爵馬(綾織物の馬)の翫物(玩具)、恐らくは、帝闕(皇居)も仙洞(上皇の御所)も、これ以上ではないと見えました。


※【揚州】よう‐しゅう 

 中国古代の行政区画。禹(う)の九州の一つ。現在の江蘇、安徽両省と江西、浙江、福建各省の一部を含む。

 中国江蘇省南西部の都市。漢代の広陵県の地で、隋代に揚州江都郡の中心となった。揚子江北岸、大運河沿いの要衝に位置し、隋以後経済都市として栄えた。名勝史跡が多い。精選版日本国語大辞典小学館

※【荊州】けい‐しゅう 

 中国、古代の九州の一つ。荊山の南の地方で、現在の湖北・湖南両省および広東省北部、貴州、四川、広西壮(カンシーチワン)族自治区東部の地域。

 中国、春秋時代の楚の別称。

 中国、後漢代、現在の湖北省襄陽県を中心に置かれた州。

 中国、東晉代、現在の湖北省江陵に置かれた州。

 中国、明代、現在の湖北省江陵県を中心に置かれた府名。精選版日本国語大辞典小学館 

※【呉郡綾】ごぐん‐の‐あや

〘名〙 綾織物の一つ。中国の呉の国で産し、非常に高価なものとされた。ごきんのあや。

▷ 百二十句本平家(13C中‐14C初か)一

「楊州の金、荊岫の玉、呉郡綾(ゴグンノアヤ)、蜀江の錦、七珍万宝の一つとして闕けたることなし」精選版日本国語大辞典小学館

※【蜀江】しょっ‐こう  

 中国の蜀の地(現在の四川省)の成都付近を流れる川。揚子江の上流の一部。錦江(きんこう)。〔白居易‐長恨歌〕〘名〙 「しょっこう(蜀江)の錦」の略。〔色葉字類抄(1177‐81)〕▷ 茶道筌蹄(1816)四「蜀江 地組厚く二重織なり。色もやう色々あり。但し二重金の様に見ゆるが蜀江の箔づかひなり」精選版日本国語大辞典小学館

しょっこう【蜀江】 の 錦(にしき)

① 上代錦の一つ。緯(よこいと)に色糸を用いて文様を表わした錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文・獣文・鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。▷ 法性寺関白御集(1145か)浮水落花多「巴峡紅粧流不レ尽。蜀江錦彩濯彌新」

② 中国明代を中心にして織られた錦。日本には多く室町時代に渡来。八角形の四方に正方形を連ね、中に花文、龍文などを配した文様を織り出したもの。この文様を蜀江型といい、種々の変形がある。

▷ 源平盛衰記(14C前)二八「蜀江(ショッカウ)の錦(ニシキ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物、色々に打くくみたる鎧著て」

③ 京都の西陣などで、蜀江型を模して織り出した錦。▷ 浮世草子・新可笑記(1688)一「蜀江(ショクコウ)のにしきの掛幕ひかりうつりて銀燭ほしのはやしのごとく」

[補注]

平安朝の漢詩文では花や紅葉を「錦」にたとえる際に、この蜀江(錦江)の錦でもってすることが、しばしば行なわれた。精選版日本国語大辞典小学館

※【七宝】しち‐ほう                              

〘名〙

① 仏語。七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいい、法華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰(ばいかい)をいうなど、種々の数え方がある。七珍(しっちん)。しっぽう。▷ 性霊集‐一(835頃)喜雨歌「仏身裏、兄二地獄一、七宝上、不レ看レ玉」▷ 宇津保(970‐999頃)国譲上「此の子日(ねのひ)、御前(おまへ)の物調じて、もてあそび物七ほうを尽して、し設けてこそ。装束(さうずく)いとうるはしく」▷ 増鏡(1368‐76頃)一一

「帝釈の宮殿もかくやと、七ほうを集めてみがきたるさま、目もかかやく心ちす」 〔法華経‐授記品〕 〔白居易‐素屏謡〕

② 転輪聖王の持つ七種の宝。輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝をいう。〔倶舎論‐一二〕精選版日本国語大辞典小学館

※【万宝】ばん‐ぽう                              

〘名〙

① 多くのたから。よろずの宝物。まんぽう。

▷ 宝の山(1891)〈川上眉山〉発端

「万宝(バンパウ)に満ちて、人の心の望む限りは、如何なるものも備はらぬはなし」 〔荘子‐庚桑楚〕

② さまざまに便利なこと。また、便利重宝なことをしるした書籍。まんぽう。精選版日本国語大辞典小学館

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(考察)

      覚明は、叡山にいる僧侶達から平家一門の贅沢を聞き込む 

 最後は、僧侶の覚明らしい、この条のまとめです。

仏教用語である「七珍(無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう)」を使い、清盛の隆盛を象徴的に語っています。

 また、「揚州の金・荊州の珠・呉郡の綾・蜀江の錦」は、中国産の貴重品で、これらはいずれも清盛の日宋貿易によって得た物品であると考えられています。宋との貿易は平家の栄華を支える重要な経済基盤でした。これらは覚明の誇張ではなく、本当に清盛の邸には溢れていたと言うことでしょう。

 これらのことは、覚明が叡山にいる僧侶達から聞き込ん話だと思います。平家一門と交流が盛んだったころ、僧侶たちは病気平癒のための祈祷を依頼されたり、盛大な冠婚葬祭に呼ばれたりして、見聞したことが多々あったのだと思います。

 興福寺の学僧(当時は信救)であった覚明が、命を懸け反平家の檄文を書き、源氏の木曽義仲らとともに平家打倒に従軍したのは当然ということでしょうか。

(長左衛門・記) 

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(参照)

「平家物語」の我身榮華の条(原文)      

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の我身榮華を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

我身榮華の全文           

 わがみ(身)のえいぐわ(榮華)をきは(極)むるのみならず、いちもん(一門)ともにはんじやう(繁昌)して、ちやくししげもり(嫡子重盛)、ないだいじんのさだいしやう(内大臣左大將)、じなんむねもり(次男宗盛)、ちうなごんのうだいしやう(中納言右大將)、さんなんとももり(三男知盛)、さんみのちうじやう(三位中將)、ちやくそんこれもり(嫡孫維盛)、しゐのせうしやう(四位少將)、すべていちもん(一門)のくぎやうじふろくにん(公卿十六人)、てんじやうびとさんじふよにん(殿上人三十餘人)、しよこく(諸国)のじゆりやう(受領)、ゑふ(衛府)、しよし(諸司)、つがふろくじふよにん(都合六十餘人)なり。よ(世)にはまた(又)ひと(人)なくぞみ(見)えられける。

むかし(昔)なら(奈良)のみかど(御門)のおんとき(御時)、じんきごねん(神龜五年)、てうか(朝家)にちうゑ(中衛)のだいしやう(大將)をはじ(始)めお(置)かる。

だいどうしねん(大同四年)にちうゑ(中衛)をこんゑ(近衛)とあらた(改)められしよりこのかた(以來)、きやうだいさう(兄弟左右)にあひなら(相並)ぶこと(事)、わづか(僅)にさんしかど(三四箇度)なり。

もんどくてんわう(文徳天皇)のおんとき(御時)は、ひだん(左)によしふさ(良房)、うだいじんのさだいしやう(右大臣左大将)、みぎ(右)によしあふ(良相)、だいなごんのうだいしやう(大納言右大將)、これはかんゐん(閑院)のさだいじんふゆつぎ(左大臣冬嗣)のおんこ(御子)なり。

しゆしやくゐん(朱雀院)のぎよう(御宇)には、ひだり(左)にさねより(實賴)、をののみやどの(小野宮殿)、みぎ(右)にもろすけ(師輔)、くでうどの(九条殿)、ていじんこう(貞信公)のおんこ(御子)なり。

ごれんぜいゐん(後冷泉院)のおんとき(御時)は、ひだり(左)にのりみち(教通)、おほにでうどの(大二条殿)、みぎ(右)によりむね(賴宗)、ほりかはどの(堀河殿)、みだうのくわんばく(御堂關白)のおんこ(御子)なり。

にでうのゐん(二条院)のぎよう(御宇)には、ひだり(左)にもとふさ(基房)、まつどの(松殿)、みぎ(右)にかねざね(兼實)、つきのわどの(月輪殿)、ほつしやうじどの(法性寺殿)のおんこ(御子)なり。

これみな(皆)せふろく(攝籙)のしん(臣)のごしそく(御子息)、はんじん(凡人)にと(取)つてはそのれい(例)なし。

てんじやう(殿上)のまじは(交)りをだにきら(嫌)はれしひと(人)のしそん(子孫)にて、きんじき(禁色)、ざつぱう(雑袍)をゆり、りようらきんしう(綾羅錦繍)をみ(身)にまと(纏)ひ、だいじんのだいしやう(大臣大將)になつてきやうだいさう(兄弟左右)にあひなら(相並)ぶこと(事)、まつだい(末代)とはいひながら、ふしぎ(不思議)なりしこと(事)どもなり。

そのほか(外)、おんむすめはちにん(御娘八人)おはしき。みな(皆)とりどりにさいは(幸)ひたま(給)へり。

 いちにん(一人)はさくらまち(櫻町)のちうなごんしげのりのきやう(中納言成範卿)のきた(北)のかた(方)にておはすべかりしが、はつさい(八歳)のとし(年)おんやくそく(御約束)ばかりにて、へいじ(平治)のみだれ(亂)いご(以後)、ひ(引)きちがへられて、くわざんのゐん(花山院)のさだいじんどの(左大臣殿)のみだいばんどころ(御臺盤所)にならせたま(給)ひて、きんだちあまた(公達數多)ましましけり。

そもそも(抑)このしげのりのきやう(成範卿)をさくらまち(櫻町)のちうなごん(中納言)とまう(申)しけることは、すぐれてこころすきたま(心數寄給)へるひと(人)にて、つね(常)はよしの(吉野)のやま(山)をこ(戀)ひつつ、ちやう(町)にさくら(櫻)をう(植)ゑならべ、そのうち(内)にや(屋)をた(建)ててす(住)みたま(給)ひしかば、く(来)るとし(年)のはるごと(春毎)に、み(見)るひと(人)、さくらまち(櫻町)とぞまう(申)しける。

さくら(櫻)はさ(咲)いてしちかにち(七箇日)にち(散)るを、なごり(名殘)ををし(惜)み、あまてるおんがみ(天照大神)にいの(祈)りまう(申)されければにや、さんしちにち(三七日)までなごり(名殘)ありけり。

きみ(君)もけんわう(賢王)にてましませば、しん(神)もしんとく(神徳)をかかや(耀)かし、はな(花)もこころ(心)ありければ、はつか(二十日)のよはひ(齢)をたも(保)ちけり。

 いちにん(一人)はきさき(后)にた(立)たせたま(給)ふ。にじふに(二十二)にてわうじごたんじやう(皇子御誕生)あつて、くわうたいし(皇太子)にた(立)ち、くらゐ(位)につ(卽)かせたま(給)ひしかば、ゐんがうかうぶ(院號蒙)らせたま(給)ひて、けんれいもんゐん(建礼門院)とぞまう(申)しける。

にふだうしやうこく(入道相國)のおんむすめ(御娘)なるうへ(上)、てんが(天下)のこくも(國母)にてましませば、とかうまう(申)すにおよ(及)ばれず。

 いちにん(一人)はろくでう(六条)のせつしやうどの(攝政殿)のきたのまんどころ(北政所)にならせたま(給)ふ。

これはたかくらのゐんございゐ(高倉院御在位)のおんとき(御時)、おんははしろ(御母代)とて、じゆんさんごう(準三后)のせんじ(宣旨)をかうぶ(蒙)らせたま(給)ひて、しらかはどの(白川殿)とて、おも(重)きひと(人)にてぞましましける。

 いちにん(一人)はふげんじどの(普賢寺殿)のきたのまんどころ(北政所)にならせたま(給)ふ。

 いちにん(一人)はれんぜいのだいなごんりうばうのきやう(冷泉大納言隆房卿)のきた(北)のかた(方)、いちにん(一人)はしちでうのしゆりのだいぶのぶたかのきやう(七条修理大夫信隆卿)にあひぐ(相具)したま(給)へり。

 また(又)あきのくにいつくしま(安藝國嚴島)のないし(内侍)がはら(腹)にいちにん(一人)、これはごしらかはのほふわう(後白河法皇)へまゐ(参)らせたま(給)ひて、ひとへ(偏)ににようご(女御)のやう(様)でぞましましける。

そのほか(外)くでうのゐん(九条院)のざふしときは(雑仕常盤)がはら(腹)にいちにん(一人)、これはくわざんのゐんどの(花山院殿)のじやうらふにようばう(上﨟女房)にて、らふ(﨟)のおんかた(御方)とぞまう(申)しける。

 につぽんあきつしま(日本秋津嶋)はわづか(纔)にろくじふろくかこく(六十六箇國)、へいけちぎやう(平家知行)のくに(國)さんじふよかこく(三十餘箇國)、すで(既)にはんごく(半國)にこ(超)えたり。

そのほか(外)しやうえん(荘園)、でんばく(田畠)、いくらといふかず(數)をし(知)らず。

きらじうまん(綺羅充満)して、たうしやうはな(堂上花)のごとし。けんきくんじゆ(軒騎群集)して、もんぜんいち(門前市)をなす。

やうしう(揚州)のこがね(金)、けいしう(荊州)のたま(珠)、ごきん(呉郡) のあや(綾)、しよつかう(蜀江)のにしき(錦)、しつちんまんぽう(七珍萬寶)、ひと(一)つとしてか(闕)けたること(事)なし。

かたうぶかく(歌堂舞閣)のもとゐ(基)、ぎよりようしやくば(魚龍爵馬)のもてあそびもの(翫物)、おそ(恐)らくは、ていけつ(帝闕)もせんとう(仙洞)も、これにはす(過)ぎじとぞみ(見)えし。

 作成/矢久長左衛門



2021年8月4日水曜日

原作者の存在を考証(14)禿童の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(14)

この「禿童の条」も、覚明が清盛の言論弾圧に怒りを込めて書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

☆「平家物語」の禿童の条

(考察)

     覚明は、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていた

 覚明は、この条で、あの悪運が強い清盛が、慢性病におかされたが出家をして、法名を「淨海」とつけたことで、たちどころに病が癒えて天命を全うすることになったと語ります。

信心深い覚明は出家をし、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていたようです。

この天命というのは、天から与えられたいのち、天寿のことで、天が定めた人間の寿命のことです。

この天命を全うすることは、天が人間に与えた使命を達成することですが、その使命とはなんだったのでしょうか?

清盛入道の法名「淨海」とは、清盛の来歴から見ると、海を清め静めるというような意味合いでしょうか。もし、長生きしていたら国内だけでなく、外国の海賊も退治し歴史は変わっていたかも知れないという説もあります。

ちなみに、覚明が比叡山で、この条を書いたとき、覚明本人の法名は「浄寛」といいました。広く清め静めるというような意味合いでしょうか。 

両者とも法名の意味について、今のところ記録はありません。

覚明の場合は、源平の戦乱による戦死者の鎮魂のため、比叡山で平家物語の原作である「治承物語」を書く事になり、当時、天台座主の慈円がつけたと想像できます。

この時、覚明は五十代の前半でした。自分の五十代後半からの人生を考えたに違いありません。

覚明は叡山での親鸞との出会いもあり、このころ、覚明の天命は新しい方向に向かいつつありました。 

ところで、清盛入道は、「淨海」として出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んでした。

そして、それを象徴するのが、かの有名な言葉「この一門(平家)にあらざらん者は、皆人非人たるべし」という平大納言時忠卿の発言です。

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禿童の原文では、           

かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ、存命の爲にとて、卽ち出家入道す。

法名をば淨海とこそつき給へ。

その故にや、宿病たちどころに癒えて天命を全うす。

出家の後も、榮耀はなほ盡きずとぞ見えし。

おのづから人の隨ひつき奉る事は、吹く風の草木をなびかす如く、世の仰げる事も、降る雨の國土を濕すに同じ。

六波羅殿の御一家の公達とだにいへば、華族も英雄も、誰肩を雙べ、面を向ふ者なし。

又、入道相國の小舅、平大納言時忠卿の宣ひけるは、

「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」とぞ宣ひける。


(現代文訳)

 こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、五十一歳で病に侵され、生きながらえる為に、ただちに出家し、仏門に入りました。

法名は淨海と名乗られました。

そういうわけで、慢性の病は、たちどころに治り、天から与えられた命を全うすることになりました。

出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んに見えました。

自然に人が付き従う事は、まるで草木が風になびくようのもので、世間の人が仰ぎみることは、降る雨が國土をうるおすようなものでした。

六波羅殿※のご御一家の公達さんといえば、華族(清華とも、身分の高い家柄で大臣大将より太政大臣にまで進む家柄)も英雄(華族に同じ)も、誰も肩を並べ、面と向う者はありませんでした。

※【六波羅殿】(ろくはら‐どの)

京都六波羅(京都市東山区の鴨川東岸、松原通から七条の間)にあった平家の邸宅。正盛が創設し、孫の清盛によって大きく修築。はじめ方一町ほどを二〇余町とし一門が住居。平清盛のこと。(日本国語大辞典)  

また、入道相國(清盛)の小舅、平大納言時忠卿※が述べるには、

この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」と宣告した。

※【平時忠】(たいら‐の‐ときただ)

平安末期の公卿。時信の子。清盛の妻時子の弟、後白河天皇の女御滋子の兄。正二位権大納言まで累進。才知に富み、平関白と称された。壇ノ浦で捕えられ、能登に流され配所で没。文治五年(一一八九)没。(日本国語大辞典) 

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 (考察)

      覚明は、平時忠のおごり高ぶった言葉に、なんと猪口才な奴と思う

 覚明は、ここで、清盛の妻時子の弟である平大納言時忠のおごり高ぶった発言「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」という象徴的な言葉を取り上げました。

「人非人」とは、人でありながら人として認められないもの、人の数にはいらないもの、という意味(日本国語大辞典)で、今風に言うと「平家一門でない者は、皆、人間ではない」というのですから、覚明のような知識人から見たら、なんと猪口才な奴と思ったに違いありません。

当時、天下は清盛入道のもので、義弟の時忠にそれを言わせるほど、世は平家一門に支配され、それを許していたのです。

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さらに原文では、

されば如何なる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかき様に至るまで、何事も六波羅様とだにいひてしかば、一天四海の人皆これを學ぶ。

如何なる賢王賢主の御政、攝政關白の御成敗にも、世にあまされたる程の徒者などの、かたはらに寄り合ひて、何となう誹り傾け申す事は常の習ひなれども、この禪門世盛りの程は、聊かゆるがせに申す者なし。

その故は入道相国の謀に、十四五六の童を三百人すぐつて、髪を禿に切りまはし、赤き直垂を著せて、召使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。

おのづから平家の御事、あしざまに申す者あれば、一人聞き出さぬ程こそありけれ、餘黨にふれまはし、かの家に亂入し、資財雑具を追捕し、その奴を搦めて、六波羅殿へ率て参る。

されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿の禿とだにいへば、道を過ぐる車馬も、皆よぎてぞ通しける。

禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏、これが爲に目を側むと見えたり。

 

(現代文訳)

そうであるから、どのような人も、この一門の縁につながろうとしました。

烏帽子の折り方を始めとして、装束の着方に至るまで、何事も六波羅風といえば、天下の人々は、皆、これを学びました。

どのような賢王、賢主の政治も、攝政、關白の政務も、世の中の落伍者などがわきに寄り集まり、なんとなく非難するのは、よくある習慣ですが、この清盛入道の全盛時代は少しも悪く言う者はいませんでした。

なぜなら、入道相国の計略で、十四から十五、六歳の童を三百人えらんで、髪を禿(かぶ

ろ)に切りまはし(子供の髪型。髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型。日本国語大辞典)、赤き直垂(当時は平服の意)を著せて、召し使はれ、京中のあちこちに往来させました。

それですから、平家のことを、あしざまにいう者があれば、一人でも、聞きつけた場合は仲間にふれまはし、その家に乱入して、家財道具を没収し、そのひとを捕らえて、六波羅殿へ引っ立て参上しました。

そうであるから、目でみても、心に思うことがあっても、言葉に出して言う者はいませんでした。

六波羅殿の禿とさえいえば、道をいく車馬も、皆、さけて通りました。

宮中の門を出入りするときも、姓名を尋ねられることもなく、都の身分の高い役人も、これが爲に、見て見ぬふりをしていました。

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(考察)

    覚明が書きたかったのは、言論弾圧をする平家一門の悪逆だった

 なぜ、そこまで、平家一門に支配されていたのかというと、専制政治に付きものの言論弾圧によるものだったのです。

覚明(当時は信救)自身も、「木曽願書の条」と「南都返牒の条」でも触れたように、清盛のひどい言論弾圧に見舞われ、奈良の興福寺から命からがら信州に逃げのびた経験があったのです。

京でも、平家一門に反発する人々は、このようなひどい目に遭うのですからたまりません。

ここで覚明が書きたかったのは、このような言論弾圧をする平家一門の悪逆だったのです。

このことからも、この「禿童の条」を書いたのは、覚明であると言い切れると思います。

(長左衛門・記)

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(参照)

「平家物語」の禿童(かぶろ)の条(原文)      

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の禿童を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

禿童の全文           

かくてきよもりこう(清盛公)、にんあんさんねん(仁安三年)じふいちぐわつじふいちにち(十一月十一日)、としごじふいち(年五十一)にてやまひ(病)にをかされ、ぞんめい(存命)のため(爲)にとて、すなは(卽)ちしゆつけにふだう(出家入道)す。ほふみやう(法名)をばじやうかい(淨海)とこそつきたま(給)へ。そのゆゑ(故)にや、しゆくびやう(宿病)たちどころにい(癒)えててんめい(天命)をまつた(全)うす。しゆつけ(出家)ののち(後)も、えいえう(榮耀)はなほつ(盡)きずとぞみ(見)えし。

おのづからひと(人)のしたが(隨)ひつきたてまつ(奉)ること(事)は、ふ(吹)くかぜ(風)のくさき(草木)をなびかすごと(如)く、よ(世)のあふ(仰)げること(事)も、ふ(降)るあめ(雨)のこくど(國土)をうるほ(濕)すにおな(同)じ。

ろくはらどの(六波羅殿)のごいつけ(御一家)のきんだち(公達)とだにいへば、くわそく(華族)もえいゆう(英雄)も、たれ(誰)かた(肩)をなら(雙)べ、おもて(面)をむか(向)ふもの(者)なし。

また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のこじうと(小舅)、へいだいなごんときただのきやう(平大納言時忠卿)ののたま(宣)ひけるは、

「このいちもん(一門)にあらざらん(者)ものは、みな(皆)にんぴにん(人非人)たるべし」とぞのたま(宣)ひける。

さればいか(如何)なるひと(人)も、このいちもん(一門)にむす(結)ぼれんとぞしける。ゑぼし(烏帽子)のためやうよりはじ(始)めて、えもん(衣紋)のかきやう(様 )にいた(至)るまで、なにごと(何事)もろくはらやう(六波羅様)とだにいひてしかば、いつてんしかい(一天四海)のひと(人)みな(皆)これをまな(學)ぶ。

いか(如何)なるけんわうけんしゆ(賢王賢主)のおんまつりごと(御政)、せつしやうくわんばく(攝政關白)のごせいばい(御成敗)にも、よ(世)にあまされたるほど(程)のいたづらもの(徒者)などの、かたはらによ(寄)りあ(合)ひて、なに(何)となうそし(誹)りかたぶ(傾)けまう(申)すこと(事)はつね(常)のなら(習)ひなれども、このぜんもん(禪門)よざか(世盛)りのほど(程)は、いささ(聊)かゆるがせにまう(申)すもの(者)なし。

そのゆゑ(故)はにふだうしやうこく(入道相国)のはかりごと(謀)に、じふしごろく(十四五六)のわらべ(童)をさんびやくにん(三百人)すぐつて、かみ(髪)をかぶろ(禿)にき(切)りまはし、あか(赤)きひたたれ(直垂)をき(著)せて、めしつか(召使)はれけるが、きやうぢう(京中)にみちみちてわうばん(往反)しけり。おのづからへいけ(平家)のおんこと(御事)、あしざまにまう(申)すもの(者)あれば、いちにんき(一人聞)きいだ(出)さぬほど(程)こそありけれ、よたう(餘黨)にふれまはし、かのいへ(家)にらんにふ(亂入)し、しざいざふぐ(資財雑具)をつゐふく(追捕)し、そのやつ(奴)をから(搦)めて、ろくはらどの(六波羅殿)へゐ(率)てまゐ(参)る。

さればめ(目)にみ(見)、こころ(心)にし(知)るといへども、ことば(言葉)にあらはしてまう(申)すもの(者)なし。ろくはらどの(六波羅殿)のかぶろ(禿)とだにいへば、みち(道)をす(過)ぐるむまくるま(車馬)も、みな(皆)よぎてぞとほ(通)しける。きんもん(禁門)をしゆつにふ(出入)すといへども、しやうみやう(姓名)をたづ(尋)ねらるるにおよ(及)ばず。けいし(京師)のちやうり(長吏)、これがため(爲)にめ(目)をそば(側)むとみ(見)えたり。

作成/矢久長左衛門


2021年7月17日土曜日

原作者の存在を考証(13)鱸の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(13)

この「鱸の条」も覚明が伝聞をもとに書庫の資料で確認し書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の鱸(すずき)の条

(考察)

    覚明は、悪逆の張本人清盛を弾劾してもしきれない感情を持っていた
 
   覚明は、平家物語の冒頭の「祇園精舎の条」と「殿上闇討の条」に引き続き、この条でも清盛の父忠盛がどんな男だったのかを執拗に書き、その勢いがどのように息子の清盛に引き継がれ、平家一門が繁盛していったかを追跡しています。

原作者の覚明が忠盛、清盛親子にこだわるのは、「木曾山門牒状の条」でも触れられているように、忠盛が平家の悪逆の路線を敷き、息子清盛が実施した、その張本人たちだったからです。

「木曾山門牒状の条」で覚明が書いたその悪逆は、

「平家の悪逆を見るに、保元平治より以来、長く人臣の禮を失ふ。
然りと雖も、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。
恣に帝位を進退し、飽くまで国郡を虜領す。
道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を損亡す。
資財を奪ひ取つて、悉く郎従に與へ、かの荘園を没収して、濫りがはしく子孫に省く」
と述べられています。  

つまり、その牒状の書き出しでは 、これまで覺明が見聞きしてきた保元平治以来の平家の横暴を具体的に並べ立て、長く人臣の礼が失われていたと見ていたと述べています。
しかしながら貴賎は手をこまねき、僧俗も何もしない。
それを良いことに平家は帝位を操り、あまたの国や郡を奪い取り、道理のあるなしを論ぜず権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を滅ぼし、その財産を奪い、ことごとく郎従に与え、荘園を没収して、濫りに子孫に分かち与えていたと書いている。

覚明はその悪逆の張本人清盛を弾劾してもしきれない感情を持って、冷静に本当の忠盛、清盛像を追いかけています。

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鱸(すずき)の条の原文では
                    
その子どもは皆諸衛佐になる。昇殿せしに、殿上の交りを人嫌ふに及ばず。或時忠盛、備前國より上られたりけるに、鳥羽院、「明石の浦は如何に」と仰せければ、忠盛畏つて、

 有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか 

と申されたりければ、院大きに御感あつて、やがて歌をば、金葉集にぞ入れられける。
 
忠盛、又仙洞に最愛の女房を持つて夜々通はれけるが、或夜おはしたりけるに、かの女房の局に、つまに月出したる扇をとり忘れて、出でられたりければ、かたへの女房達、

「これは何くよりの月影ぞや、出所覺束無し」など、笑ひ合はれければ、かの女房、

 雲居よりただもり來たる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ 

と詠みたりければ、いとど淺からずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。
似るを友とかやの風情にて、忠盛のすいたりければ、かの女房も優なりけり。


(現代文訳)

忠盛の子供は、皆、諸衛(近衛府、兵衛府、衛門府)の次官になった。昇殿を許されたので、他の殿上人も殿上人としての交わりを嫌うまでもなかった。
あるとき、忠盛は、備前国から上京することがあったが、鳥羽院から、「明石の浦は、どうか」とお尋ねが有り、忠盛畏つて

「有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか」 

有明の月も明るい明石の浦では、風に吹き寄せられた波ばかりが、夜の景色として見えたことでした。
と申し上げたところ、鳥羽院は大いに御関心なさった。
早速、この歌は、金葉集(巻三秋)※に入れられました。

※金葉集
平安後期崇徳天皇の御代の勅撰和歌集。八代集の第五。10巻。白河法皇の命で、源俊頼が撰。二度の改撰ののち、大治2年(1127)成立。源俊頼・源経信・藤原顕季ら227人の歌約650首を収める。金葉和歌集。(デジタル大辞泉より)

忠盛は、また、院の御所に最愛の女房がいて、夜な夜な通っておられたが、ある夜、その女房の部屋に、端に月が描かれている扇を忘れて帰っていらっしゃったので、仲間の女房たちが
「これは何くよりの月影ぞや、出所覺束無し」

これはどこから出た月の光でしょうか。出所が不明ですなどと、笑い合われたので、その女房は、

 「雲居よりただもり來たる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ」

(御所から忠盛がきたのを)雲間からただ漏れてきた月なので、なみたいていのことでは言うまいと思いますと詠んだので、忠盛はますますこの女房への思いを深められた。

薩摩守忠度※の母が、この方である。
似た者夫婦とか言うように、忠盛も風流だが、その女房も歌道に優れていた。

※薩摩守平忠度(1144~1184)は忠盛の六男で、清盛の末弟にあたります。
忠度の母親は平忠盛の室で、歌人の藤原為忠の娘と言われる。
また、忠度が伊・熊野地方で生まれ育ったと伝わり、父忠盛が熊野別当湛快の娘・湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったとのことです。 

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(考察)

     覚明は、文武両道の薩摩守忠度に格別の思い入れがあった
  
 「平家物語」には薩摩守忠度にまつわる条で、巻七の和歌の師・藤原俊成との別れを描いた「忠度都落の条」があります。そして巻九に「忠度最期の条」があります。

原作者の覚明は平家の公達のなかで、この文武両道の薩摩守忠度に格別の思い入れがあったようです。他に「富士川の条」でも、忠度の和歌にまつわるエピソードを描いています。

この「鱸の条」を書いたときには、既に「富士川の条」や「忠度都落の条」「忠度最期の条」を書く予定があったということだと思います。

このように作者が、作品の早い段階で伏線を張ると言うことは、「平家物語」の原作である「治承物語」の作者はやはり一人ということで、それが覚明ということだと思います。

覚明は平家一門を憎んでいましたが、歌道に優れた忠度には同情的でした。優れた和歌を詠む者には甘かったようです。

この「鱸の条」でも忠盛とその女房については、同情的です。

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そして原文はいよいよ清盛へ

かくて忠盛、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、年五十八にて失せ給ひしかば、清盛嫡男たるによつて、その跡をつぎ、保元元年七月に、宇治の左府、世を亂り給ひし時、御方にて先を懸けたりければ、勸賞お行はれけり。
もとは安藝守たりしが、播磨守に遷つて、同じき三年に太宰大貳になる。又平治元年十二月、信頼義朝が謀叛の時も、御方にて賊徒を討ち平げたりしかば、勲功一つにあらず、恩賞これ重かるべしとて、次の年正三位に叙せられ、打續き宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言、大納言に經上つて、剰へ丞相の位にいたる。
左右を經ずして、内大臣より太政大臣從一位に至り、大將にはあらねども、兵仗を賜はつて隨身を召し具す。牛車輦車の宣旨を蒙つて、乘りながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごと(如)し。
太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。國を治め道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人に非ずは、則ち闕けよといへり。則闕官とも名づけられたり。その人ならではけがすべき官ならねども、この入道相国は一天四海を掌の中に握り給ふ上は、子細に及ばず。

(現代文訳)

こうして忠盛は、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、五十八歳で亡くなった。
清盛は、嫡男であるので、その跡を継ぎました。
保元元年七月に、宇治の左大臣藤原頼長が反乱を起こされた時、清盛は先に立って後白河天皇の味方についたので、勲功が行はれました。
そのときは安藝守でしたが、播磨守に栄転し、同三年に太宰大貳(太宰府の次官)になりました。
また、平治元年十二月、信頼義朝が謀叛の時も、天皇の味方について賊軍を討ち平らげましたが、「勲功一つにあらず、恩賞これ重かるべし」として、次の年に正三位に叙せられ、打ちつずき宰相(参議)、衛府督(永暦元年九月右衛門督)、検非違使の別当(永暦二年正月検非違使庁の長官)、中納言、大納言を歴任して昇進し、その上、丞相(大臣の唐名で、和では内大臣)の位にいたりました。

左右の大臣を経ずして、内大臣(令外の官)より太政大臣(太政官の最高の長官)從一位に昇進しました。
大將では無いけれど、兵仗宣下(近衛の舎人)を賜はつて護衛を召し連れ、牛車輦車の宣旨をいただいて、乘りながら宮中を出入りしました。
それはまったく摂政関白と同様でした。
「(職員令に)太政大臣は天子の師範として、天下の手本である。國を治め、道徳を論じ、陰陽を調和させ治める。それにふさわしい人がいなければ欠員のままにせよ」と言われている。
それゆえ、則闕官とも名づけられています。その適任者以外には任官させられない官職だが、この清盛入道相国(太政大臣の唐名)は天下を掌のうちに握り給ふ上は、とやかく言う事も出来ないのでした。

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(考察)

   覚明は、清盛の出世の早さに改めて感心、そのもとは奈辺にと思う

  清盛の経歴が正確に記述されています。
覚明は延暦寺の書庫で資料を調べ書いたものと思われます。
比叡山は平家を支持していた時期もあるので平家に関する記録は豊富にありました。
覚明はその記録をひもときながら、清盛の出世の早さに改めて感心していたと思います。
そして、この繁栄のもとは,奈辺にありや?と覚明らしい想像をめぐらしました。
以下がその答えです。

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さらに、原文では

抑平家かやうに繁昌せられけることは、偏に熊野權現の御利生とぞ聞えし。その故は、清盛未だ安藝守たりし時、伊勢國安濃津より、舟にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船へ躍り入つたりければ、先達申しけるは、
「昔周の武王の舟にこそ、白魚は躍り入つたるなれ。如何様にもこれは権現の御利生と覺え候。参るべし」
と申しければ、さしも十戒を持つて、精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家子、郎等どもにも食はせらる。
その故にや吉事のみ打續いて、わが身太政大臣に至り、子孫の官途も龍の雲に上るよりはなほ速かなり。九代の先蹤を超え給ふこそ目出たけれ。
 
(現代文訳)

  そもそも、平家がこの様に繁栄されたのは、熊野権現の御利益といわれました。
そのわけは、清盛がまだ安芸守であったころ、伊勢国の安濃津(今の津市南部の地)より、舟で熊野へ参詣されたときに、大きな鱸が舟に躍り入ったのを、
案内人が言うには
「昔、周の武王※の舟に白魚が躍り入りました。きっと、これは権現の御利益と覚えまする」と申し述べました。

※史記、周本紀に、                                                
「武王、河を渡り、中流白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る」とある。

十戒(十悪)を守り、精進潔斎(飲食を慎み身体をきよめ、けがれを避けること)の道中であるけれども、清盛は自ら調理して食べ、家の子(一門にして家来になっている者)、侍衆にも食べさせました。

そのためか、吉事のみが続いて、わが身は太政大臣に上り詰め、子孫の官職も龍が雲に上るよりも、さらに速やかでした。
九代(髙見王以来)にわたる先祖の先例を越えられたのは、目出度いことでありました。

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(考察)

  覚明は、 清盛の勢いに圧倒され、とやかく言うには及ばない気持になる

  覚明は熊野権現の御利益を信じていたようです。
当初、平家一門を支持していた熊野権現も、熊野の水軍が源氏に協力して、熊野權現が源氏に勝利を導いたとも言われています。

覚明がこの条を書き始めたとき、平家の悪逆を弾劾する感情は昂ぶっていました。しかし、忠盛夫婦の風流や清盛の歩んだ経歴を客観的に記述していくうちに、その清盛の勢いに圧倒され、とやかく言うには及ばない気持になりました。
そこで、信心深い覚明らしく熊野權現の御利益の凄さを描くことで、この条をおとなしく纏めたのだと思います。

(長左衛門・記)

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(参照)
                                                                        
「平家物語」の鱸(すずき)の条(原文)      
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の鱸(すずき)を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

鱸(すずき)の全文
                    
そのこ(子)どもはみな(皆)しよゑのすけ(諸衛佐)になる。しようでん(昇殿)せしに、てんじやう(殿上)のまじは(交)りをひと(人)きら(嫌)ふにおよ(及)ばず。あるとき(或時)忠盛、びぜんのくに(備前國)よりのぼ(上)られたりけるに、とばのゐん(鳥羽院)、「あかし(明石)のうら(浦)はいか(如何)に」とおほ(仰)せければ、ただもり(忠盛)かしこま(畏)つて、

 ありあけ(有明)のつき(月)もあかし(明石)のうらかぜ(浦風)になみ(浪)ばかりこそよるとみ(見)えしか 

とまう(申)されたりければ、ゐん(院)おほ(大)きにぎよかん(御感)あつて、やがてこのうた(歌)をば、きんえふしふ(金葉集)にぞい(入)れられける。
 ただもり(忠盛)、また(又)せんとう(仙洞)にさいあい(最愛)のにようばう(女房)をも(持)つてよなよな(夜々)かよ(通)はれけるが、あるよ(或夜)おはしたりけるに、かのにようばう(女房)のつぼね(局)に、つまにつきいだ(月出)したるあふぎ(扇)をとりわす(忘)れて、い(出)でられたりければ、かたへのにようばうたち(女房達)、

「これはいづ(何)くよりのつきかげ(月影)ぞや、いでどころおぼつかな(出所覺束無 )し」など、わら(笑)ひあ(合)はれければ、かのにようばう(女房)、

 くもい(雲居)よりただもりき(來)たるつき(月)なればおぼろ(朧)げにてはいはじとぞ思ふ 

とよ(詠)みたりければ、いとどあさ(淺)からずぞおも(思)はれける。さつまのかみただのり(薩摩守忠度)のはは(母)これなり。
に(似)るをとも(友)とかやのふぜい(風情)にて、ただもり(忠盛)のすいたりければ、かのにようばう(女房)もいう(優)なりけり。

 かくてただもり(忠盛)、ぎゃうぶきゃう(刑部卿)になつて、にんぺい(仁平)さんねん(三年)しやうぐわつ(正月)じふごにち(十五日)、とし(年)ごじふはち(五十八)にてうせ(失)たま(給)ひしかば、きよもり(清盛)ちやくなん(嫡男)たるによつて、そのあと(跡)をつぎ、はうげん(保元)がんねん(元年)しちぐわつ(七月)に、うぢ(宇治)のさふ(左府)、よ(世)をみだ(亂)りたま(給)ひしとき(時)、みかた(御方)にてさき(先)をか(懸)けたりければ、けんじやう(勸賞)おこな(行)はれけり。
もとはあきのかみ(安藝守)たりしが、はりまのかみ(播磨守)にうつ(遷)つて、おな
(同)じきさんねん(三年)にだざいのだいに(太宰大貳)になる。また(又)へいじぐわんねん(平治元年)じふにんぐわつ(十二月)、のぶより(信頼)よしとも(義朝)がむほん(謀叛)のとき(時)も、みかた(御方)にてぞくと(賊徒)をう(討)ちたひら(平)げたりしかば、くんこう(勲功)ひとつ(一)にあらず、おんしやう(恩賞)これおも(重)かるべしとて、つぎ(次)のとし(年)じやうざんみ(正三位)にじよ(叙)せられ、うちつづ(打續)きさいしやう(宰相)、ゑふのかみ(衛府守)、けびいし(検非
違使)のべつたう(別当)、ちうなごん(中納言)、だいなごん(大納言)にへ(經)あが(上)つて、あまつさ(剰)へしようじやう(丞相)のくらゐ(位)にいたる。
さう(左右)をへ(經)ずして、ないだいじん(内大臣)よりだいじやうだいじんじゆいちゐ(太政大臣從一位)にいた(至)り、だいしやう(大將)にはあらねども、ひやうぢやう(兵仗)をたま(賜)はつてずゐじん(隨身)をめ(召)しぐ(具)す。ぎつしやれんじや(牛車輦車)のせんじ(宣旨)をかうぶ(蒙)つて、の(乘)りながらきうちう(宮中)をしゆつにふ(出入)す。ひとへ(偏)にしつせい(執政)のしん(臣)のごと(如)し。だいじやうだいじん(太政大臣)はいちじん(一人)にしはん(師範)として、しかい(四海)にぎけい(儀刑)せり。くに(國)ををさ(治)めみち(道)をろん(論)じ、いんやう(陰陽)をやはらげをさむ。そのひと(人)にあら(非)ずは、すなは(則)ちか(闕)けよといへり。そくけつのくわん(則闕官)ともな(名)づけられたり。そのひと(人)ならではけがすべきくわん(官)ならねども、このにふだうしやうこく(入道相国)はいつてんしかい(一天四海)をたなごころ(掌)のうち(中)ににぎ(握)りたま(給)ふうへ(上)は、しさい(子細)におよ(及)ばず。

 そもそも(抑)へいけ(平家)かやうにはんじやう(繁昌)せられけることは、ひとへ(偏)にくまのごんげん(熊野權現)のごりしやう(御利生)とぞきこ(聞)えし。そのゆゑ(故)は、きよもり(清盛)いま(未)だあきのかみ(安藝守)たりしとき、いせのくにあののつ(伊勢國安濃津)より、ふね(舟)にてくまの(熊野)へまゐ(参)られけるに、おほ(大)きなるすずき(鱸)のふね(舟)へをどり(躍)い(入)つたりければ、せんだち(先達)まう(申)しけるは、
「むかし(昔)、しう(周)のぶわう(武王)のふね(舟)にこそ、はくぎよ(白魚)はをど(躍)りい(入)つたるなれ。いかさま(如何様)にもこれはごんげん(権現)のごりしやう(御利生)とおぼ(覺)えさふらふ(候)。まゐ(参)るべし」
とまう(申)しければ、さしもじつかい(十戒)をたも(持)つて、しやうじんけつさい(精進潔斎)のみち(道)なれども、みづからてうび(調味)して、わがみ(身)く(食)ひ、いへのこ(家子)、らうどう(郎等)どもにもく(食)はせらる。そのゆゑ(故)
にやきちじ(吉事)のみうちつづ(打續)いて、わがみ(身)だいじやうだいじん(太政大臣)にいた(至)り、しそん(子孫)のくわんど(官途)も、りよう(龍)のくも(雲)にのぼ(上)るよりはなほすみや(速)かなり。くだい(九代)のせんじよう(先蹤)をこえ(超)たま(給)ふこそめで(目出)たけれ。
 
作成/矢久長左衛門 

2021年7月4日日曜日

こぼればなし(3)「なんと凄い!長寿ですね」

     そろそろ、寿命について考えるようになりました

「平家物語」の原作者である信濃前司行(幸)長の寿命は、平安時代末期から鎌倉時代初期で九十七歳でした。

なんと凄い!長寿です!

当時で考えてみると、覚明の西仏坊としての晩年は、まさに仙人の域です。

小生は八十歳過ぎて高血圧との闘いが始まりました。

薬を飲み始めても朝の135は抑えられず、140越えが続き、薬を飲んで150を越えないようにしてきました。

コロナの流行以後、塩分が多めの外食をやめ、食事の塩分を減らす努力をし、140前後を維持し、薬は週に一度か10日に一度くらいにしてきました。

ところが、この冬のあいだ気力が失せ、身体の芯が抜けたようにフラフラするようになりました。疲れて入浴する気力もなく、毎日シャワーだけで済ましてきました。

薬は一日一錠の決まりですが、薬の注意書きには、目まいがするとあります。しかし、連日のんでいるわけではなく、薬のためのフラフラでないことは明瞭です。

春になり、暑い日が続き、高齢者の熱中症がテレビなどで話題になりました。

水と塩分不足が原因だそうです。

そういえば夜中に水を呑むと舌が塩分を欲しがり、ときどき塩をなめました。すると、朝の血圧は必ず150を越えます。でも、フラフラが止まります。

夜中の塩なめは、血圧に良くないので止めると気力が失せフラフラで疲れます。

今は普通に塩分のある食事に替えたら、何とか元気になり気力も出てきました。

でも、血圧が150を越えることが多くなりそうです。

今は血圧の薬と塩分のある食事とのせめぎ合いで頑張る毎日になっています。

これはそろそろ寿命かなと思うようにもなり、寿命について考えるようになりました。

ドイツの古いことわざに「老年まで生きるのは神のわざであり、いつまでも若くあるのは生活のわざである」といいます。

人間には寿命がある。いわゆる天寿ですね。

これは神のはからいであって、人力の及ぶところではない。しかし天寿を全うするには節制と注意が必要であるとのこと。

それを欠くと、せっかくの神のわざをむなしくする、といいます。

晩年の信濃前司行(幸)長こと西仏坊も、節制と注意に努め、長生きしたということなのでしょうか。

(長左衛門・記)