原作者の存在を考証の(1)「木曽願書の条」を更新。
原文から覚明さがしをはじめ、最初に取り上げた条です。
現代文訳を省略した部分が多く、覚明に迫るには省略をしないで、条の全文を自分なりに辞書を頼りに現代文訳をすることで、さらに迫ることが出来ます。
そこで、全体考察(小見出し付き)、原文、現代文訳、部分考察(小見出し付き)の順ではっきり構成しました。
今後も、各条を見直し、修正し、更新することがあるかも知れませんが、よろしくご了承お願い致します。
(長左衛門・記)
原作者の存在を考証の(1)「木曽願書の条」を更新。
原文から覚明さがしをはじめ、最初に取り上げた条です。
現代文訳を省略した部分が多く、覚明に迫るには省略をしないで、条の全文を自分なりに辞書を頼りに現代文訳をすることで、さらに迫ることが出来ます。
そこで、全体考察(小見出し付き)、原文、現代文訳、部分考察(小見出し付き)の順ではっきり構成しました。
今後も、各条を見直し、修正し、更新することがあるかも知れませんが、よろしくご了承お願い致します。
(長左衛門・記)
考察部分に小見出しを付け見やすく
最初から、当ブログを修正なしで送り出したいと願っていますが、なかなか、そうはいきません。
当ブログ掲載の「平家物語」の原文原稿は、最初にワープロソフト一太郎のテキスト形式で少しずつ打ち込みます。
原文が長いと、時間が掛かり、誤植を防ぐため、校正をしっかりしないとなりません。
原文は旧漢字が多く、一太郎の手書きモードで探し、どうしても見つからないときは、一太郎に併載の辞書である岩波国語辞典で何とか探し、それで打ち込んだつもりでも、打ち込みを完成し、Googleのブログソフトに移すと、消えている旧漢字があります。
これを見つける為に校閲が必要ですが、見落とすことがあります。
一人で作業していますので、ブログ公開後に、たまたま後で脱字を見つけることがあります。そのときは、冷や汗ものです。 出来るだけ注意していますが、完璧は大変です。
それでも困るのは、気づいても表示されない旧漢字があります。その場合は仕方ないので常用漢字を使います。数は多くないのですが、時たま遭遇します。もし、当ブログで、研究などで厳密に旧漢字を追求する方はご注意をお願いします。
当ブログの目的は、原作者捜しなので、考察部分に力を入れています。
しかし、殆どこれと言う資料がないため、研究者(学者)の論文のように、過去の研究文献の検索は付記していません。参考にした主な論文は、当ブログから検索できるように、それぞれにリンクを貼っています。
なを、今回、「妓王の条」からは、見やすくするために、各考察部分に小見出しを付け読みやすくしました。今後、既掲載の各条も順次遡り、小見出しをつけ読みやすくします。
もし、すでに当ブログをプリントアウトして御覧の方は、時々、修正しておりますので誠に勝手ながら、現時点の当ブログが、年表部分も含め最新版と認識されますようお願い致します。悪しからずご了承よろしくお願い致します。
(長左衛門・記)
信濃滋野氏嫡流の海野系図では本名海野幸長
兼好法師の「徒然草」で、「平家物語」の作者は、信濃前司行長・信濃入道・行長入道となっています。
これを信頼出来ると信じて、
信濃前司行長・信濃入道・行長入道のキーワードを手掛かりに、現存の「平家物語」の原文を熟読して、本当のオリジナルの作者を捜しています。
キーワードを絞ると信濃・入道・行長です。
今までに分かったことは、「平家物語」には原作が有り、その原作が「治承物語(号平家)」であることが分かりました。
しかし、その原作「治承物語」は現存しません。
現存の「平家物語」の作者は不詳と表記されることが未だに多いのです。
これだけの大作を残したのに、いまだに作者不詳と言われるのは残念です。
最近では、「平家物語」の作者は伝・信濃前司行長と表記されるものもあります。
そこで、信濃前司行長の経歴を、残された数々の著作や資料から辿ると、
本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸長です。
本人は九十七歳の長い人生で、本名以外で、八つの名前を使い人生を終えています。
注目点!
以下はその各別名です。
一、蔵人通廣(幼名は通廣、この時、勧学院進士,先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王)
二、最乗房信救(この時、比叡山で出家、この名で「仏法伝来次第」を書く)
三、信阿(この名で、「和漢朗詠集私注(六巻)」を書く)
四、信救撰(この名で「新楽府略意(二巻)」を書く)
五、大夫房覚明(この名で、木曽義仲の祐筆)
六、信救得業(この時、箱根権現で「筥根山縁起並序」「曽我物語(初稿)」を書く)
七、円通院浄寛(この時、比叡山慈鎭和尚のもとで「治承物語三巻(初稿)」を書く)※後に号平家六巻の記録あり
八、西仏(この時、法然上人門下、親鸞と行動をともにする。覚明の名で「三教指帰註」を書く)
以上、晩年の最後の呼称が西仏坊(西仏法師)です。
今と違い、本人は、その時、その場で、さまざまな名を使い分けていますので、これと言う代表的な名前はないのです。
強いて言うなら、
比叡山での出家名は信救。
「平家物語」関係を述べるときは信濃前司行(幸)長か、物語にも登場する木曽義仲の祐筆名の覚明。
法然・親鸞との宗教活動の関係を述べるときには、西仏、
となります。
整理すると、
本名は(海野)幸長、
幼名は(海野)通廣、
出家名は信救、
木曽義仲の祐筆名では覚明、
吉田兼好の徒然草では信濃前司行長または幸長、
晩年は西仏、
となります。
当ブログの年表では、親しみを込め「幸長入道」と総称しています。
以上は、ブログに既に書いたことですが、再確認のつもりで取り上げました。
ここまで、たどり着けたのは、パソコンでのネット検索と数々の研究者の論文のおかげです。また、このブログに、これだけの情報を掲載できるのはGoogleのブログサービスとワープロ一太郎のおかげです。
八十歳を過ぎていますので手書きではとうてい無理です。
視力も衰えていますので、プリンターとパソコンの拡大機能に助けられています。
今だからこそ、ここまで出来ると感謝しながら、日々、健康管理に気をつけ精進しておりますので、今後ともよろしくご愛読下さい。
(長左衛門・記)
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(16)
この「妓王の条」で、僧浄寛(覚明)は清盛入道の女性問題を追及。
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の妓王の条
(考察)
覚明は、清盛の女性に対する横暴さを、この「妓王の条」で描く
安藝國嚴島の内侍(巫女)が腹に一人や九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(下位女官)の常盤の腹に一人だけではなく、出家して入道になっても清盛の権勢と威力は、女性問題を大いに発展させていました。さすがに、年のせいか子供の記録は途絶えています。
覚明は、女性に対する清盛の横暴さを、その例として、この「妓王の条」で描いています。主人公の一人は二十一で尼になる妓王で、もう一人は十九で尼になる仏御前です。
そして、この二人の女性が、どうして、そうなったのか、本人たちに取材して、経緯を詳しく、僧の覚明らしく語っています。
覚明は、若い女性が尼になる話を二回書いています。
一回目は、この条を書く前に、箱根で「曽我物語」に登場する兄十郎の妾虎御前のことを描いています。十郎の恋人であった大磯の遊女虎(とら)は、十郎の死後、十九歳で尼となり、信濃の善光寺へ詣でて十郎の骨を納め、曾我の大御堂で念仏三昧の生活を送り、大往生を遂げます。
二回目が、この妓王の条になります。
一回目は、関わった亡き男の供養を信濃國の善光寺で行いをすまして、往生を遂げさせていますが、この二回目では清盛の供養はさせていません。
覚明は、それぞれの女たちが、若いときの汚れてしまった生活を、尼になって修業することで、心身共に浄化し、人生を終えることを教訓としていたようです。
この妓王の条は、他の条と比べると少し長いですが、叙事詩的なものではなく、 叙情詩的なものなので、優しい文章になっています。
ーーーーーーーーーーーー
(妓王の原文)では、
太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は、世の誹りをも憚らず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をのみし給へり。
譬へば、その頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王、妓女とて、おととひあり。とぢといふ白拍子が娘なり。
然るに姉の妓王を、入道相国寵愛し給ふ上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜ならず。母とぢにもよき屋造つて取らせ、毎月に百石百貫をおくられたりければ、家内富貴して、楽しい事斜ならず。
抑わが朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前、かれら二人が舞ひ出したりけるなり。
始は水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ男舞とぞ申しける。
然るを中頃より烏帽子刀をのけられて、水干ばかり用ひたり。
さてこそ白拍子とはなづけけれ。
京中の白拍子ども、妓王が幸ひの目出度き様を聞いて、羨む者もあり、猜む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの妓王御前の幸ひや。同じ遊女とならば、誰も皆あの様でこそありたけれ。如何様にも妓といふ文字を名について、かくは目出度きやらん。いざやわれらもついて見ん」とて、
或ひは妓一、妓二とつき、或は妓福、妓徳などつく者もありけり。
猜む者どもは、「なんでふ名なにより、文字にはよるべき。幸ひはただ先世の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬ者も多かりけり。
(現代文訳)
太政入道※(清盛)は、かくのごとく天下を掌中に握っているので、世の非難をも遠慮せず、人の嘲笑も顧みず、不思議(仏語。思いはかることも、ことばで言い表わすこともできない)なことをしました。
例えば、その頃、京中で評判の白拍子※の上手な妓王※という姉と妓女※という妹がいました。とぢという白拍子の娘です。
その姉のほうの妓王を入道相国が寵愛したので、妹の妓女をも、世の人がもてはやすこと格別でした。
母とぢにも良い家屋を造つてやり、毎月に百石の米と百貫の銭を贈られたので、家中が富み栄えて、楽しいこと格別でした。
さて、わが国で白拍子の始まったのは、昔、鳥羽院の御世に、島の千歳、和歌の前という、かれら二人が舞い出してからです。
始は水干(水張りにして干した布)の狩衣に立烏帽子(前をおしこめて固くぬりかためた烏帽子)、白鞘巻(柄、鞘などに銀金具をつけた脇差し)をさして舞ったので男舞と言っていました。
しかし、中頃より烏帽子、刀を除いて、水干だけを用いました。ですから、白拍子となづけられました。
京中の白拍子たちは、妓王が幸運でめでたい様子を聞いて、羨む者もあり、妬む者もありました。羨む者たちは、「ああ、めでたい妓王御前の幸せよ。同じ遊女(宇加礼女)であるならば、誰も皆、あの様でこそありたい。どうかというと、妓という文字を名に付けているから、その様にめでたいのでしょう。さあ、われらもつけてみましょう」といって、
あるものは妓一、妓二とつけ、あるものは妓福、妓徳などとつけるものもありました。妬む者たちは、「なんで、名や文字によるものか、運は、ただ前世からの生れつきであるそうだ」といって、妓の字を付けない者も多くありました。
※【太政入道】だいじょう‐にゅうどう〘名〙
もと太政大臣であった人が剃髪出家して仏門にはいった後の称。だじょうにゅうどう。日本国語大辞典小学館
※【白拍子・素拍子】しら‐びょうし 〘名〙
① 雅楽の拍子の名。笏(しゃく)拍子だけで歌うもの。
② 平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを歌い舞う遊女。初めは水干、立烏帽子に白鞘巻の太刀をさして舞ったので男舞といい、後に水干だけを用いたので白拍子というともいわれる。囃子としては笛、鼓、銅鈸子(どびょうし)などが用いられ、多くは今様(いまよう)をうたいながら舞った。〔兵範記‐仁安二年(1167)一一月一五日〕
[白拍子②〈七十一番職人歌合〉]
▷ 徒然草(1331頃)二二五
「禅師がむすめ、静と云ひける、この芸をつげり。これ白拍子の根元なり」
③ 江戸時代、遊女を俗にいう語。
▷ 俳諧・本朝文選(1706)四・説類・出女説〈木導〉
「傾城傾国は、唐人のつけたる名にして、白拍子ながれの女は、我朝のやはらぎなるべし」
[語誌]
(1)起源や呼称の由来は、装束に由来するとする説、声明の起源説、伴奏を伴わない拍子という義、など諸説ある。その女性たちには、女色を売る遊女としての側面もあった。
(2)仁和寺所蔵「今様之書」、「続古事談」、「世阿彌の三道」、「源平盛衰記」をはじめ、いくつかの中世資料により、その詞章、芸能の復元が試みられている。それによれば、和歌、朗詠、今様を謡う序段(ワカ)、本曲の歌舞(白拍子)、終段(セメ)で構成される、と推定され、また「かぞふ」と表現され、足を踏み廻す、などと形容されるところから、拍子舞であろうと考えられている。
(3)鎌倉時代初頭に最盛期を迎え、宮廷社会、とくに後鳥羽院の愛着などが著名である。その芸能は、寺院の延年舞に取り入れられ、また、室町時代以降の衰退と相俟って、曲舞、早歌などに、影響を与え、また吸収されていった。日本国語大辞典小学館
※ 【祇王・妓王】ぎおう
「平家物語」に登場する人物。京堀川の白拍子。祇女(ぎじょ)の姉。近江国祇王村の出身。平清盛に愛されたが、のち推参した白拍子仏御前に寵(ちょう)を奪われると、妹、母とともに嵯峨の往生院に隠れ、尼となる。清盛の許を出た仏御前と共に、往生をとげる。
謡曲。三番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。古名「仏祇王(ほとけぎおう)」。喜多流では「二人祇王(ふたりぎおう)」という。「平家物語」「源平盛衰記」による。平清盛をめぐる仏御前と祇王の二人の白拍子の悲哀を描いたもの。二人の相舞(あいまい)が見せ場となっている。日本国語大辞典小学館
※【伎女・妓女】ぎ‐じょ〘名〙
① 平安時代、内教坊に所属して、女舞を行なった女。
② 伎楽を奏する女
③ 芸妓。娼妓。遊び女。日本国語大辞典小学館
※【祇女・妓女】ぎじょ
「平家物語」に登場する人物。京、堀川の白拍子。祇王(ぎおう)の妹。近江の人。平清盛の寵(ちょう)を失った姉とともに嵯峨の山里にはいり、尼となり、姉や仏御前と共に往生する。ぎにょ。日本国語大辞典小学館
ーーーーーーーーーーーー
(考察)
覚明は、白拍子の祇王・妓女の姉妹が尼になったという噂に惹かれる
覚明は、ここまで書いてきて、妓王と妓女の姉妹について、噂以外に、詳しいことは何も知らないことに気づきました。
その後もどうなっているかよく知りません。
比叡山の僧達に聞き込んでも、詳しく知る僧はいませんでした。
噂で分かっていることは、尼になっていて、京から離れた鄙びた土地の庵に住んでいるということぐらいです。
覚明は、清盛のお気に入りで知られたあの祇王が尼になっているという噂に惹かれていました。
なぜなら、「曽我物語」の十郎の恋人だった虎御前が尼になるとき、覚明は箱根で立ち会っていたからです。
何があったのか、その経緯は「曽我物語」に書いています。
覚明は、清盛と妓王の関係に、どんな経緯があったのか、妓王に会って知りたくなりました。
そこで、山をおり、白拍子たちのいる京の堀川へ行き、噂の真相を確かめることにしました。
一人で行くのではなく、無駄骨にならないように琵琶法師生仏様を同道することにしました。
無駄骨にならないようにということは、覚明は既に、数回は「治承物語」を語る会を叡山のあちこちの寺で開催していました。
出来上がった条の端から数人の生仏様たちに覚えさせて語らせていました。
その噂を聞いた京のあちこちの寺からも、是非、聞きたいという要望があったからです。「妓王の条」の取材のついでに、各寺に寄ることで、お布施稼ぎも狙っていました。
関係者以外での公開は初めてになるので、今回は藤原兼実の館で試演した「祇園精舎の条」を完全にものにしている琵琶法師正仏様にも来て貰うことにしました。
京の堀川では、妓王・妓女の姉妹がどこに居るか、すぐに分かりました。
嵯峨の奥の往生院※の敷地の庵でした。
往生院は法然(源空)の門弟念仏房良鎮によって始められたと伝えられる寺で、覚明は法然の法話を何度か聴講したことがあり、その時、既に門弟の良鎮の名を知っていたと思います。なぜなら、覚明は、この「治承物語」を書き終えた後、親鸞とともに法然の門にはいり専修念仏※の道にすすんだからです。
※【往生院】おうじょう‐いん
京都市右京区嵯峨鳥居本にあった寺。「平家物語」などによると、滝口入道、祇王、祇女らが遁世したという。明治二八年(一八九五)、その庵跡に祇王寺が建てられた。日本国語大辞典小学館
※【専修念仏】せんじゅ‐ねんぶつ〘名〙 (「せんじゅねんぶち」とも) 仏語。
他の行をしないでひたすら念仏だけを唱えること。主として法然流の念仏をさすことが多い。専念。
▷ 念仏大意(1212頃)
「当世専修念仏の行者において、もはら難をくはへてあざけりをなすともがらおほくきこゆるにや」日本国語大辞典 小学館
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(妓王の原文)つづく、
かくて三年といふに、又白拍子の上手、一人出で來たり。加賀國の者なり。名をば佛とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。
京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かかる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事斜めならず。
ある時佛御前申しけるは、「われ天下にもてあそばるるといへども、當事めでたう榮えさせ給ふ平家太政上入道殿へ、召されぬことこそ本意なけれ。遊者の習ひ、何か苦しかるべき。推參して見ん」とて、
或時に西八条殿へぞ參じたる。
人御前に參つて、「當事都に聞え候佛御前が參つて候」と申しければ、入道相国大きに怒つて、
「なんでふ、さやうの遊者は、人の召にてこそ參るものなれ、さうなう推參する様やある。その上、神ともいへ、佛ともいへ、妓王があらんずる所へは叶ふまじきぞ。とうとう罷り出でよ」とぞ宣ひける。
佛御前は、すげなういはれ奉つて、既に出でんとしけるを、妓王入道殿に申しけるは、
「遊者の推參は、常の習ひでこそ候へ。その上年も未だをさなう候なるが、たまたま思ひ立つて參つて候を、すげなう仰せられて、返させ給はんこそ不便なれ。いかばかり恥しう、かたはらいたくも候らん。わが立てし道なれば、人の上とも覺えず。縦ひ舞を御覧じ、歌をこそ聞し召さずとも、唯理をまげて、召し返いて御對面ばかり候ひて、返させ給はば、有難き御情でこそ候はんずれ」と申しければ、
入道相国、「いでいでさらば、わごぜが餘りにいふ事なるに、對面して返さん」とて、御使を立てて、召されけり。
佛御前は、すげなういはれ奉つて、車に乘つて既に出でんとしけるが、召されて歸り參りたり。
入道やがて出であひ對面し給ひて、「いかに佛、今日の見參はあるまじかりつれども、妓王が何と思ふやらん、餘りに申しすすむる間、かやうに見參はしつ。見參する上では如何でか聲をも聞かであるべき。先づ今様一つ歌へかし」と宣へば、
佛御前、「承り候」とて、今様一つぞ歌うたる。
君を始めて見る時は 千代も經ぬべし姫小松
御前の池なる龜岡に 鶴こそむれゐて遊ぶめれ
と、推返し推返し、三返歌ひすましたりければ、見聞の人々、皆耳目を驚かす。
入道も面白き事に思ひ給ひて、
「さてわごぜは、今様は上手にてありけるや。この定では舞も定めてよからん。一番見ばや、鼓打召せ」とて召されけり。打たせて一番舞うたりけり。
佛御前は、髪姿より始めて、眉目かたち世にすぐれ、聲よく節も上手なりければ、なじかは舞ひは損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国舞にめで給ひて、佛に心を移されけり。
佛御前、「こは何事にて候ぞや。もとより妾は推參の者にて、既に出され參らせしを、妓王御前の申状によつてこそ、召し返されても候。はやはや暇賜はつて、出させおはしませ」と申しければ、
入道相国、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによつて、さやうに憚るか。その儀ならば妓王をこそ出さめ」と宣へば、
佛御前、「これ又いかでさる御事候ふべき。ともに召し置かれんだに、恥しう候べきに、妓王御前を出させ給ひて、妾を一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥しう、かたはらいたくも候べき。おのづから後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は參るとも、今日は暇を給はらん」とぞ申しける。
入道、「その儀ならば、妓王とうとう罷り出でよ」と、御使重ねて三度までこそ立てられけれ。
妓王はもとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。
入道相国、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、掃き拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。
一樹の陰に宿りあひ、同じ流れを掬ぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。
いはんやこれは三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、甲斐無き涙ぞすすみける。
さてしもあるべき事ならねば、妓王今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。
萠え出づるも枯るるも同じ野邊の草 何れか秋にあはで果つべき
さて車に乘つて宿所へ歸り、障子の内に倒れ伏し、ただ泣くより外の事ぞなき。
母や妹これを見て、いかにやいかにと問ひけれども、妓王とかうの事にも及ばず、具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知つてげれ。
さる程に毎月送られける百石百貫をも推止められて、今は佛御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ榮えける。
京中の上下、この由を傳へ聞いて、
「誠や妓王こそ、西八条殿より暇賜はつて出されたんなれ。いざや見參して遊ばん」とて、
或は文を遣はす者もあり、或は使者を立つる人もありけれども、妓王、今更又人に對面して、遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取り入るる事もなく、まして使をあひしらふまでも無かりけり。妓王これにつけても、いとど悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。
(現代文訳)
こうして三年ばかりして、また、(京の堀川に)白拍子の上手が一人出てきました。加賀の国(能美郡鶴来町、手取川の右岸に仏原というところがある)の者で、名を佛と申しました。年は十六ということでした。
京中の上下の人びとは、これを見て、昔より多くの白拍子を見たけれど、このような舞の上手はまだ見たことがないと、世間の人がもてはやこと格別でした。
ある時、佛御前がいうには、「私は、天下にもてはやされるけど、いま、めでたく繁栄されている平家の太政上入道殿に、召されぬことは不本意です。遊び者の習わしとして、何か無礼なことがあるでしょうか、押しかけてみましょう」と、ある時、西八条殿(八条坊門南櫛司西)※へ参上しました。
取り次ぎの人が清盛の御前に来て「いま、都で評判の仏御前が参っております」と申し上げると、入道相国は大変怒つて、「何を言うか!、そのような遊女は、人に呼ばれて来るものだ、左右無く押しかけるやつがあるか。その上、神といおうが、佛といおうが、妓王が居るところへは許されないぞ。早く早く退出させよ」と言いました。
※【西八条殿】にしはちじょう‐どの
平清盛の邸宅。平安京左京八条北、八条坊門南、大宮、坊城間の東西三町南北二町(京都市下京区、JR梅小路貨物駅付近)を占めていた。屋舎五十余あったと伝える。治承五年(一一八一)閏二月炎上。再興したものも寿永二年(一一八三)の都落ちの際に平家が自ら焼いた。日本国語大辞典小学館
(現代文訳)つづく、
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の妓王を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
貞保(ていほう)親王と正されるべき
覚明は、比叡山で平家物語の原作「治承物語」を書く前に、箱根山で原「曽我物語」を書いています。
その「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を清和天皇の第四貞保(ていはう)親王としています。流布本とは 同一の原本から生まれた諸本の中で、もっとも広く世に行なわれている本のことです。
現在の辞典類では、読み方が 貞保(さだやす)親王となっているものが多いですが、貞保(ていほう)親王が正しいかと思います。
貞保(さだやす)親王は今風の読み方で、曽我物語の語りべ(巫女・御前・瞽女)たちは貞保(ていはう)親王と詠じていたのではないかと思います。
なぜなら、「曽我物語」には、眞字本あり、異本あり、流布本あり、流布本に活字本と刻本(彫った版木で印刷した書物)とあり、刻本に、寛永、正保、慶安、寛文、貞享、元禄等の諸版あり。刻本の原は全て寛永版になっています。異本は、はやく活版になっていますが、流布本は明治44年国民文庫刊行会編にて発行された非売品「曽我物語(流布本)」(凸版印刷本所分工場印刷)まで活版はありませんでした。
当該本は寛永版の刻本を原として専和田信二郎氏所蔵の古写本(主として慶長以前の写本をいう)を翻刻(ほんこく、すでにある本や原稿を木版や活版で新たに起こし刊行すること)し、なお、原本の総仮名文を改めて漢字交じりにしたというものです。
原本の総仮名文を漢字交じりにしたということは、当該本の「清和天皇の第四貞保親王」の部分は、「ていはうしんわう」とルビがふられているので、長く語りべらにより詠じられてきた発音も、原本の総仮名文である「ていはうしんわう」だと言うことになります。
依って、江戸時代まで発音されてきた貞保親王は「ていはうしんわう」が正しいということになります。
依って、現在の貞保(さだやす)親王の表記は、貞保(ていほう)親王と正されるべきです。
(長左衛門・記)
「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保親王と。
信濃前司行(幸)長(覚明こと海野幸長)は、比叡山で平家物語の原作「治承物語」を書く前に、箱根で原「曽我物語」を書いています。その「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保(ていはう)親王としています。
注目点!
原文では、
〔清和天皇の皇子数多おはします。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王、第四を貞保(ていはう)親王、此の皇子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申しけり。心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり、今のしけのこの先祖なり。第五貞平親王、第六貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり〕と記述しています。
ここで、覚明は自分の先祖は「第四の貞保(ていはう)親王」とはっきり書いています。なぜなら、信濃前司行長こと覚明の本名は、信濃滋野氏嫡流海野幸親の次男幸長(幼名通廣)だからです。
原文の「今のしけのこの先祖なり」の、しけのは滋野氏のことで、当時、信濃滋野氏は海野(滋野嫡流)・望月・禰津の三家に別れていて、それぞれ滋野流を名乗っていました。覚明の父海野幸親は滋野幸親と呼ばれていた時期もあります。
原文の「此の皇子は御琵琶の上手にておはします」は、貞保親王が「管絃の長者・尊者」といわれた名手で、勅命で横笛や琵琶(びわ)の伝授をおこなうなど、兵部卿や式部卿の傍ら管弦の世界でも活躍していました。雅楽を学ぶ者の心得を書き記した『十操記』、琵琶譜の『南宮譜』、笛譜の『南竹譜』、『新撰横笛譜』を編纂し、今に残しています。
原文の「桂の親王とも申しけり」は、貞保親王の号は南宮で桂親王とも呼ばれていました。
原文の「心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり」は、貞保親王が兵部卿として信濃御牧ヶ原の官営牧場に滞在したときに、官牧の責任者でもある滋野恒蔭(貞観十年信濃介)の館に滞在したとき、その娘「心を懸けらる女」が、闇夜で真っ暗なので「月の光を待ち兼ねて」、自分の居場所を早く教えるため明かり代わりに「蛍を袂につつむ」、つまり、"その光が恋愛のシグナルであるせいか、平安のむかしから歌や物語の恋愛の場に蛍はしばしば登場します。袖の袂にたくさんの蛍を包み、恋人の前でそれを放つ、その顔を照らし見るという場面が「伊勢物語」「宇津保物語」「源氏物語」などに登場する(ジャパンナレッジ季節の言葉「蛍」)"といわれています。
このときのことが「此の親王の御事なり」、ということなのです。
この時に生まれたのが幼名菊宮で、信濃滋野家では目宮王として大事に育て、成人して基淵王と呼ばれました。基淵王の子である善淵王(貞保親王の孫)の時、六十代醍醐天皇から延喜五年(905)に滋野朝臣姓を賜りました。
このころ、信濃滋野氏は朝廷の官牧科野(信濃)国御馬城之原野(望月牧)を本牧とした御牧ヶ原の有力な豪族としての地位を築いていました。
覚明は、曽我物語の「惟喬(これたか)喬仁(これひと)の位争の事の条」で、清和天皇の皇子を、上記のように第一から第六まで並べ、途中の第四貞保親王だけ、特に詳しく描写しています。そして"第六を貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり"、として源氏の面々を紹介しています。
なぜ、途中の第四貞保親王だけ特に詳しく描写したのか、そして、わざわざ滋野の先祖を紹介したのか。
これは「曽我物語」の作者も覚明である根拠の一つといえるところなのです。他にも、自分の甥である海野小太郎幸氏(頼朝御家人)に関する部分からも覚明が作者であることが多々読み取れるのです。
(長左衛門・記)
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(15)
この「我身榮華の条」で、覚明は平家一門を総浚いし、再確認した
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の我身榮華の条
(考察)
覚明は、叡山の書庫をあさり、悪逆の平家一門を調査した
覚明は、この条で忠盛、清盛以外の平家一門には、誰と誰がいたかを総ざらいしています。物語を紡ぐに当たり、どんな肩書きの連中がいたかを再確認し、それは、清盛の息子達だけはでなく、清盛の娘たちにも及んでいます。
覚明が、この条を書いている比叡山のあちこちの寺の書庫には、平家に関する当時の記録が豊富に眠っていたと思います。
何故なら、木曽義仲らの軍勢が来て、源氏に味方するまでは、平家一門とも盛んに交流しており、様々な情報が蓄積していました。
覚明は、叡山の各寺の書庫をあさり、再確認しながら出来るだけ正確を期しながら原稿を書いたのだと思います。
覚明は、木曾山門牒状の条で、自分が書いた木曽義仲の諜状に、平家の悪逆を「平家は帝位を操り、あまたの国や郡を奪い取り、道理のあるなしを論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を滅ぼし、その財産を奪い、ことごとく郎従に与え、荘園を没収して、濫りに子孫に分かち与えている」と書いて来ました。
覚明は、その悪逆の共犯者である平家一門には、どんな面々がいたかを、改めてここに記しています。
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我身榮華の原文では、
わが身の榮華を極むるのみならず、一門ともに繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大將、次男宗盛、中納言右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十餘人なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衛の大將を始め置かる。大同四年に中衛を近衛と改められし以來、兄弟左右に相並ぶ事、僅に三四箇度なり。
文徳天皇の御時は、左に良房、右大臣左大将、右に良相、大納言右大將、これは閑院の左大臣冬嗣の御子なり。
朱雀院の御宇には、左に實賴、小野宮殿、右に師輔、九条殿、貞信公の御子なり。
後冷泉院の御時は、左に教通、大二条殿、右に賴宗、堀河殿、御堂關白の御子なり。
二条院の御宇には、左に基房、松殿、右に兼實、月輪殿、法性寺殿の御子なり。
これ皆攝籙の臣の御子息、凡人に取つてはその例なし。
殿上の交りをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色、雑袍をゆり、綾羅錦繍を身に纏ひ、大臣大將になつて兄弟左右に相並ぶ事、末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。
(現代文訳)
平清盛※自身が栄華を極めるのみならず、一門がともに繁盛して、
嫡子平重盛※は内大臣(左右大臣の下にあり、太政官の政務をつかさどる)で左大将(左近衛府の長官)、
次男平宗盛※(次男は平基盛で早逝か、平宗盛じつは三男)は中納言(後に大納言、内大臣となり、従一位に進む)で右大将(右近衛府の長官)、
三男平知盛※(じつは四男)は三位(後に権中納言)中将(左右近衛府の次官)、
嫡孫平維盛※は四位少将(四位の位でありながら正五位相当の近衛少将の官にある者)となり、
すべてで一門の公(大臣)卿(納言、参議、三位以上)は十六人、殿上人は三十余人、
諸国の受領(諸国の長官。国司の最上位のもの)、衛府(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府で六衛府あり)、諸司(多くの役所の官僚)、合計六十余人で、世間には平家以外に人材はいないかのように見えました。
※【平清盛】たいら‐の‐きよもり
平安末期の武将。平忠盛の長子。白河法皇の落胤とされ、母は祇園女御の妹といわれる。父は平氏武士団の棟梁として白河・鳥羽院庁に仕え、海賊・僧兵の鎮圧に武功を挙げ、日宋貿易にも尽力。三六歳でその父の地位をつぎ、保元の乱で、源義朝とともに後白河法皇に味方し、平治の乱で義朝を破り、仁安二年(一一六七)従一位太政大臣となる。皇室の外戚となり、また貴族と姻戚関係を結び、全国の半ばをこえる知行国、五百余に及ぶ荘園、これと福原中心の対宋貿易の利益などを経済的基盤に六波羅政権を築く。さらに治承三年(一一七九)、クーデターにより完全独裁権を握る。しかしその施政の専横と苛酷とにより各地に反対勢力の蜂起を招き、治承・寿永の内乱を導いた。その処理に苦しみつつ熱病のため没す。元永元~治承五年(一一一八‐八一)精選版日本国語大辞典小学館
※【平重盛】たいら‐の‐しげもり
平安末期の武将。清盛の長男。俗称小松内府、灯籠(とうろう)大臣。保元、平治の乱に功があり、従二位内大臣に累進した。鹿ケ谷事件の際に、父が後白河法皇を幽閉しようとするのを諫止し、清盛、朝廷間の対立の和解に努めた。性質温厚で人望があった。保延四~治承三年(一一三八‐七九)精選版日本国語大辞典小学館
※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり
平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)精選版日本国語大辞典小学館
※【平知盛】たいら‐の‐とももり
平安末期の武将。清盛の四男。治承四年(一一八〇)以仁王・源頼政の挙兵を弟重衡と宇治で鎮圧。同五年源行家を美濃に破り、権中納言となる。壇ノ浦で入水した。謡曲、浄瑠璃などの主人公として有名。仁平二~元暦二年(一一五二‐八五)精選版日本国語大辞典小学館
※【平維盛】たいら‐の‐これもり
平安末期の武将。重盛の子。桜梅少将、小松中将と呼ばれた。治承四年(一一八〇)、頼朝と富士川で対陣したが、水鳥の羽音に驚いて敗走した。寿永二年(一一八三)には義仲を討とうとして、倶利伽羅峠に敗れた。保元三~寿永三年頃(一一五八‐八四頃)精選版日本国語大辞典小学館
(現代文訳)つづく
昔、奈良の御門(聖武天皇)の御治世のとき、神亀五年、朝廷に中衛(右近衛府の前身で天皇の親衛隊)の大將が初めて置かれました(続日本紀)。
大同四年(二年が正しい)に中衛を近衛(右近衛府)と改められてから、兄弟が左右の大将に並ぶこと、わずか三、四度です。
文徳天皇の御治世のときは、左に藤原良房※が、右大臣で左大将、右に藤原良相※が、大納言で右大將であり、これは閑院※の左大臣藤原冬嗣※の子息でした。
※【文徳天皇】もんとく‐てんのう
(「もんどくてんのう」とも) 第五五代天皇。名は道康(みちやす)。仁明天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣の女順子。承和九年((八四二))立太子、嘉祥三年((八五〇))即位した。在位中の政はもっぱら藤原良房によって行なわれ、在位九年にして三二歳で崩御した。御陵は京都市の田邑山陵。天長四~天安二年(八二七‐八五八)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原冬嗣】ふじわら‐の‐ふゆつぐ
平安初期の公卿。内麻呂の第二子。嵯峨天皇の信任あつく、蔵人頭、陸奥出羽按察使、中納言、大納言、右大臣、左大臣と進み、娘順子を仁明天皇の妃にするなど皇室と血縁を深め、家運の隆盛を図った。「弘仁格式」「内裏式」「日本後紀」などの撰定事業を行ない、一族子弟のために勧学院を設けた。宝亀六~天長三年(七七五‐八二六)精選版日本国語大辞典 小学館
※【藤原良房】ふじわら‐の‐よしふさ
平安前期の公卿。人臣最初の摂政。通称染殿・白河殿。父は冬嗣。母は阿波守真作の娘美都子。嵯峨天皇の皇女潔姫を室とし、父祖の遺徳と妹順子が仁明天皇の女御(後に皇后)となったことなどから、権勢が盛んであったが、承和の変で、順子所生の皇子文徳天皇を即位させ、ついで娘明子をその妃とし、天安元年(八五七)人臣で初の太政大臣となって実質的な摂政となった。応天門の変の政界混乱に乗じて摂政の詔を得て、正式にも摂政となった。死後、美濃公に封ぜられ、忠仁公の諡号(しごう)を賜わる。「続日本後紀」の編纂に参画。延暦二三~貞観一四年(八〇四‐八七二)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原良相】ふじわら‐の‐よしみ
平安前期の官人。藤原冬嗣の五子で母は尚侍藤原美都子。その出自とともに,度量広大にして才幹ありと評された資質とあいまって栄達の途も保証されていたが,政治家より文人的な志向が強く、崇親院に自存できない一族の子女を収容したりした。834年(承和1)蔵人となり、左近衛少将を経て、承和の変では近衛を率いて行動し、848年(嘉祥1)には参議となり、右大弁、春宮大夫を経て851年(仁寿1)には従三位権中納言となった。813‐867(弘仁4‐貞観9)平凡社世界大百科事典
※【閑院】かんーいん
藤原冬嗣の邸宅。二条大路の南、西洞院大路の西にあり、平安時代末から鎌倉時代中期まで里内裏(さとだいり)となる。正元元年(一二五九)焼失。精選版日本国語大辞典小学館
(現代文訳)つづく
朱雀院※(朱雀天皇のこと)の御治世には、左大臣に藤原實賴※小野宮殿(通称)、右大臣に藤原師輔※九条殿(通称)で、貞信公(藤原忠平)※の子息でした。
後冷泉院※(後冷泉天皇のこと)の御治世時には、左大臣に藤原教通※、大二条殿、右大臣に藤原賴宗、堀河殿で、御堂關白(藤原道長※の通称、出家後に法成寺を建てた故に御堂という)の子息でした。
二条院※の御治世には、左大臣に藤原基房※、松殿(基房の屋敷名)、右大臣に藤原兼實※、月輪殿(東福寺の東にあった兼實の山荘名で)、法性寺殿(藤原忠通)の子息でした。
(現代文訳)つづく
これらは皆、攝籙(攝政の異称)の臣の御子息で、凡人(貴い家柄以下のなみの人)にとつてはその例はありません。
殿上での交りさえ嫌はれる人の子孫(平家一門のことをさす)にて、禁色(きまりの色以外のものを着用することが禁じられた)、雑袍(平安時代以来、天子・摂家・公卿が平常に着用した衣服)を許され、綾羅錦繍(華麗なる衣装)を身に纏ひ、大臣と大將を兼任し、兄弟で左右大臣に並ぶことは、末世とはいいながら、あってはならないことでした。
※【朱雀院】すざく‐いん
一、平安時代、平安京の右京、三条と四条の間にあって朱雀大路に面した邸宅。東西二町、南北四町の広大な敷地を持つ。嵯峨天皇が創建した後院で、宇多天皇以後は、天皇退位後の御所として本格的に用いられ、詩宴等が催された。天暦四年(九五〇)に焼失し、村上天皇が再興したが、皇族や臣下の避難、饗宴・納涼・方違等のために一時的に利用される場所となり、次第に荒廃していった。鎌倉時代初期には築地が再建され、内部は遊猟地とされた。
二、朱雀天皇のこと。
▷ 大鏡(12C前)一
「次帝、村上天皇と申。〈略〉御母、朱雀院のおなじ御はらにおはします」精選版日本国語大辞典小学館
※【朱雀天皇】すざく‐てんのう
第六一代の天皇。醍醐天皇の第一一皇子。母は藤原基経(もとつね)の娘穏子。名は寛明(ひろあきら)。延長八年(九三〇)即位。治世中、政情は不安定で、承平六年(九三六)以後、平将門、藤原純友が東西で乱を起こし(承平・天慶の乱)、天慶四年(九四一)、ようやく鎮定。同九年村上天皇に譲位。世に承平法皇と称した。在位一七年。延長元~天暦六年(九二三‐九五二)精選版日本国語大辞典小学館
※【貞信公記】ていしんこうき
摂政関白太政大臣藤原忠平の日記。貞信公は諡号。中間を欠くが、延喜七年(九〇七)から天暦二年(九四八)までが抄本で伝わる。一〇世紀前半の朝廷や政情、特に、承平・天慶の乱を知るための基本史料。平安貴族の日記としては現存する最古のもの。貞信公御記とも。精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原忠平】ふじわら‐の‐ただひら
平安中期の公卿。小一条殿と号す。摂政・関白。基経の子。母は人康(さねやす)親王の娘。朱雀天皇即位によって摂政、以後太政大臣、関白。温厚で勤勉なため人望があった。「延喜格式」を完成。死後、信濃公に封ぜられ、貞信公の諡号(しごう)を賜わる。有職故実にも明るく、著に「貞信公教命」、日記「貞信公記」がある。元慶四~天暦三年(八八〇‐九四九)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原實賴】ふじわら‐の‐さねより
平安中期の公卿。左大臣。忠平の長男。通称小野宮殿
※【小野宮】おののみや
家名(姓氏)。藤原北家忠平の子実頼を祖とし、平安期に成立した公家。実頼には三人の男子があったが、三男斉敏の子実資を養子にむかえ、後嗣とした。実資は日記「小右記」や「小野宮年中行事」などを記しており、小野宮流の故実を大成した人物として著名。鎌倉期以降、家勢は衰え、もっぱら有職故実の家として重んじられた。精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原師輔】ふじわら‐の‐もろすけ
平安中期の公卿。右大臣。忠平の第二子。母は右大臣能有の娘。父忠平の関白職は兄実頼がついだが、娘安子が村上天皇の皇后となって冷泉・円融両天皇を生んだことから勢力を得、子兼通・兼家、孫道長と続く摂関家の祖となる。朝儀に精通して有職故実の九条流の祖。通称九条殿。著に「九条年中行事」「九条殿遺誡」、歌集に「九条右丞相集」、日記に「九暦」がある。
延喜八~天徳四年(九〇八‐九六〇)精選版日本国語大辞典小学館
※【後冷泉天皇】ごれいぜい‐てんのう
第七〇代の天皇。名は親仁(ちかひと)。後朱雀天皇の皇子。母は藤原道長の女嬉子。寛徳二年((一〇四五))即位。在位二四年。関白藤原頼通の時代で、「前九年の役」があった。万寿二~治暦四年(一〇二五‐六八)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原道長】ふじわら‐の‐みちなが
平安中期の公卿。父は兼家。母は時姫。兄道隆・道兼の死後、内覧・氏長者・右大臣となる。道隆の子伊周・隆家を失脚させ、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となる。長和五年(一〇一六)摂政となったが、翌年子頼通に譲り、太政大臣となり、父子並んで政権を独占、藤原氏の全盛時代を出現させた。寛仁三年(一〇一九)出家、法成寺を建立。関白になった事実はないが、御堂関白と称され、日記を「御堂関白記」といい、自筆原本が現存。康保三~万寿四年(九六六‐一〇二七)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原教通】ふじわら‐の-のりみち
996-1075 平安時代中期の公卿。長徳2年6月7日生まれ。藤原道長の子。母は源倫子。康平3年(1061)左大臣。治暦4年(1068)兄頼通から関白をつぎ、のち太政大臣。大二条殿とよばれる。娘歓子(かんし)(後冷泉天皇の皇后)らに皇子が生まれず、外戚関係のない後三条天皇の即位で実権をうしなった。承保2年9月25日死去。80歳。贈正一位。講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【二条院】 にじょういん
1027*-1105 平安時代中期、後冷泉(ごれいぜい)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
万寿3年12月9日生まれ。後一条天皇の第1皇女。母は藤原道長の娘威子(いし)。万寿4年内親王、長暦(ちょうりゃく)元年皇太子親仁(ちかひと)親王(のちの後冷泉天皇)の妃、寛徳2年女御(永承元年中宮。治暦4年皇太后、翌年出家、太皇太后。承保(じょうほう)元年院号をうける。長治(ちょうじ)2年9月17日死去。80歳。名は章子。講談社デジタル版 日本人名大辞典
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(考察)
覚明は、平家一門が天皇家を私物化することを恐れていた
今と違い豊富な歴史書や辞書、そして人名辞典が編纂されていたとは思えません。
当時、覚明がこの「治承物語」を書いていた比叡山の各寺の書庫は、学僧たちの図書館の役割を果たしていたと思いますが、保存されている文書は手書きで、雑然としていたと思います。それを丹念に読んで、必要な部分を見つけ出し、確認しながら書いたと思いますが、各人物の名前や身分、経歴ともなると、間違いは許されません。覚明はそれを執拗に追いかけ記述しています。なぜ、そこまで、この部分にこだわったのでしょうか。
深読みすると、多分、原文で「文徳天皇の御時は、左に良房、右大臣左大将、右に良相、大納言右大將、これは閑院の左大臣冬嗣の御子なり」とあります。現代文訳では「文徳天皇の御治世のときは、左に藤原良房※が、右大臣で左大将、右に藤原良相※が、大納言で右大將であり、これは閑院※の左大臣藤原冬嗣※の子息でした」のところに、個人的に関心があり、自分とも関係があったのだと思います。それは特に藤原冬嗣の部分です。
覚明の先祖は、清和天皇※の四男貞保親王※で、その実母は藤原高子(たかいこ)※です。高子の実父は藤原冬嗣の一男長良(仁明朝の名臣と慕われ権中納言で病死)ですが、高子の兄藤原基経(後に通称堀河太政大臣)や藤原国経(後に大納言)らとともに冬嗣の二男良房(太政大臣)の養子となりました。そして藤原良房は清和天皇の攝政でした。
清和天皇の后になった高子(八歳年上)は、、高子の一男陽成天皇の御治世で、攝政を務めた兄の基経とともに、その存在は大きなものでした。
しかし、清和上皇が薨去すると、幼帝陽成天皇の退位を巡る攝政基経と高子の対立は高子を不幸のどん底に落としました。
この陽成天皇の退位事件は同母弟である四男貞保親王にも及び一時は後継者と噂されましたが、攝政基経と高子の確執は根深く、後継者は清和天皇の系統を離れ、仁明天皇の第三皇子である光孝天皇に落ち着いた経緯があり、通称堀河太政大臣といわれた攝政基経の力は絶大なものでした。
覚明はこの事件をどこまで知っていたか定かではありませんが、多分、ある程度は調べ知っていたと思います。
この事件の真相は、高子の実家の兄である陽成天皇の攝政藤原基経を中心とする藤原一門が天皇を私物化するという、あまりの横暴さに、陽成天皇の生母高子が嫁ぎ先の天皇家を守るために実家と対立するという構図でした。
この騒動の原因は、表向きは乱暴な陽成天皇(当時、十五歳前後)が御所で乳母子源益を撲殺した事件で、帝位を欠いたということで退位させられたという事になっていますが、事の真相は今でも分かりません。
事件当時、陰では陽成天皇は在原業平(阿保親王※の第五子)※の子供だという疑いがあり、攝政基経が強引に退位させたと言うことも考えられます。
というのは、「伊勢物語」にもあるように、高子が清和天皇に入内(婚姻)する前の在原業平との恋愛が有名だからです。
いずれにせよ、高子と攝政藤原基経との確執は根深く、基経の権力で天皇退位というところまでいってしまったのです。
陽成天皇の退位は正しかったのか、基経が藤原一門の恥を隠すために高子と陽成天皇に犠牲を強いたのか、今では分かりません。
陽成天皇は馬好きで在位当時は紫宸殿(御所)の前庭で馬を乗り回す乱暴な人だったそうですが、退位した陽成院は京都の郊外に私牧を持ち、お気に入りの馬を集めて長い余生を八十歳まで生きたということです。
筑波嶺の峰よりおつる男女の河恋ぞつもりて淵となりける
作者の陽成院は、釣殿のみこ(光孝天皇の娘で后の綏子内親王)に宛てた歌として『後撰和歌集』※恋・777に一首採録されています。百人一首の十三番でも有名です。残されているのはこの一首だけです。
陽成天皇が馬好きなのは高子のもとで一緒に育った弟で、覚明の先祖でもある貞保親王の影響もあると思います。貞保親王は若いころ兵部卿を務め、望月の駒で有名な信濃の御牧ヶ原の官営牧場にも滞在し、多数の良馬の生産をしていました。その頃、兄陽成天皇にも特に優れた「望月の駒」を献上していたと思います。
陽成天皇の退位問題が起きたとき、、後継者は弟の兵部卿の貞保親王がなるという噂が信濃の地元では拡がりました。しかし、そうはなりませんでした。陽成天皇が、表向きの殺人事件で責任をとり退位したのなら、弟の貞保親王がなるのが普通です。
地元では浅間山麓の雄大な風景を前にした御牧ヶ原の周辺に遷都という噂まで広がっていました。でも、基経はそうはしませんでした。もし、殺人事件だけで退位させ、すんなり弟の貞保親王にすると陽成天皇はやっぱり在原業平の子供だったのではないかと言われます。
藤原基経はそこで大胆な決断をし、高子と陽成天皇の二人を切り捨てました。そして無理をして、皇籍離脱・臣籍降下していた皇子の時康親王(光孝天皇)が選ばれることになりました。また、光孝天皇の容体が悪化した際にも貞保親王ではなく、次期天皇として源定省(宇多天皇)が選ばれることになったのです。一旦であろうと皇籍離脱・臣籍降下した親王が天皇位に就くことは前例のないことでした。
こうして基経は、五十八代光孝天皇を擁立し、その後、五十九代に光孝天皇の第七皇子を宇多天皇にし、自分の娘温子を后にして天皇家を私物化しました。しかし、皮肉にも宇多天皇は藤原氏を抑えて政治の刷新を図ったと言われています。
覚明がどこまで、この真相にたどり着いていたのか分かりませんが、ここに、藤原家の権力の横暴の恐ろしさが見えていたのだと思います。攝籙(攝政の異称)の臣の子息や孫でも、藤原家の天皇の私物化の例のようなことがあるので、凡人の清盛平家一門が天皇家に手を付け(安徳天皇※のこと)気ままにさせることは許されないのだと覚明は表現しているのです。
覚明は藤原一門のことは、原文では深く触れていませんが、陽成天皇の退位問題をわが事のように恥とし、自分の先祖である高子の悲劇には傷ついていたと思います。
その後、藤原基経の子・時平らが編纂した『日本三代実録』※によると、高子(通称二条后)は自分の寺(東光寺)を建てています。そして、不幸の追い打ちをかけるように、その寺の座主善祐との密通の疑惑をとりあげ、それを理由に皇太后を廃されたと記録されています。
『続日本紀』によると、平安時代・寛平8年(896年)に京都東光寺の僧・善祐は密通の罪で阿多美郷(今の熱海)に遠流となった記録があります。
しかし、高子は死後の天慶六年(943)、朱雀天皇の詔によって号を復されました。
「雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ」
作者の高子は、二条の后の春のはじめの御歌として『古今和歌集』※に一首採録(歌番号4番)されています。残されているのはこの一首だけです。
※【清和天皇】せいわ‐てんのう
第五六代天皇。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘明子。名は惟仁(これひと)。天安二年(八五八)八歳で即位。在位中に応天門の変が起こり、その後良房が摂政となる。また、「貞観格式」を編修させた。貞観一八年(八七六)譲位、元慶三年(八七九)出家して清和院に入る。法諱は素真。水尾(みずのお)帝。嘉祥三~元慶四年(八五〇‐八八〇)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原高子】ふじはら‐の‐たかこ
842-910 平安時代前期、清和天皇の女御(にょうご)。 承和(じょうわ)9年生まれ。藤原長良(ながら)の娘。母は藤原総継(ふさつぐ)の娘、乙春。陽成(ようぜい)天皇、貞保(さだやす)親王、敦子内親王を生む。陽成即位で皇太夫人、皇太后となるが、寛平(かんぴょう)8年(896)密通をうたがわれ廃后。延喜(えんぎ)10年3月24日死去。69歳。のち皇太后に復された。二条后(きさき)とよばれ、入内(じゅだい)前の在原業平(なりひら)との悲恋が有名。名は「たかいこ」とも。【格言など】雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ(「古今和歌集」) 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【陽成天皇】ようぜい‐てんのう
第五七代の天皇。名は貞明(さだあきら)。清和天皇の第一皇子。母は藤原長良の女高子。貞観一八年(八七六)に即位し、元慶八年(八八四)に光孝天皇に譲位した。御陵は京都市左京区の神楽岡東陵(かぐらおかひがしのみささぎ)。貞観一〇~天暦三年((八六八‐九四九))精選版日本国語大辞典小学館
※【貞保親王】ていほう‐しんのう
870-924 平安時代前期-中期、清和天皇の第4皇子。貞観(じょうがん)12年9月13日生まれ。母は藤原高子。中務(なかつかさ)卿、兵部(ひょうぶ)卿、式部卿を歴任し、二品(にほん)にすすむ。管絃長者といわれた名手で、勅命で横笛や琵琶(びわ)の伝授をおこなう。南宮、南院宮、桂親王と称された。延長2年6月19日死去。55歳。著作に「南宮譜」。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【阿保親王】あぼ‐しんのう
平城天皇の皇子。薬子(くすこ)の変に関係して一時、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷。天長三年(八二六)上奏して、子行平、業平などに在原姓を与えられた。延暦一一~承和九年(七九二‐八四二)精選版日本国語大辞典小学館
※【在原業平】ありわら‐の‐なりひら
平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙の一人。阿保親王の第五子。右近衛権中将。形式にとらわれない、情熱的な歌が多く、「古今集」から「新古今集」までの勅撰集に収められる。家集に「在原業平朝臣集」がある。「伊勢物語」の主人公とされる。在五中将。在中将。天長二~元慶四年(八二五‐八八〇)精選版日本国語大辞典小学館
※【後撰和歌集】ごせんわかしゅう
平安中期の二番目の勅撰集。二〇巻。天暦五年(九五一)、村上天皇の勅命で和歌所が置かれ、藤原伊尹が別当に、大中臣能宣、清原元輔、源順(みなもとのしたごう)、紀時文、坂上望城(さかのうえのもちき)のいわゆる梨壺の五人が撰者となった。成立は天暦七年頃かという。紀貫之、伊勢、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)ら二二〇人余りの歌約一四二〇首を、四季、恋、雑など一〇部に分類し収録したもの。私的な贈答歌が多く、歌物語的な傾向が見られる。後撰集。精選版日本国語大辞典小学館
※【古今和歌集】こきんわかしゅう
平安初期の最初の勅撰和歌集。二〇巻。延喜五年(九〇五)醍醐天皇の勅命により、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の撰。延喜一四年頃の成立とされる。読人知らずの歌と六歌仙、撰者らおよそ一二七人の歌一一一一首を、四季、恋以下一三部に分類して収めたもの。貫之執筆の仮名序と紀淑望執筆の真名序が前後に添えられている。短歌が多く、七五調、三句切れを主とし、縁語、掛詞など修辞的技巧が目だつ。優美繊細で理知的な歌風は、組織的な構成とともに後世へ大きな影響を与えた。古今集。古今。精選版日本国語大辞典 小学館
※【安徳天皇】あんとく‐てんのう
第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年((一一八〇))即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の神器と共に西下。源氏に追撃され、長門(山口県)壇の浦で平氏一族とともに入水。治承二~文治元年((一一七八‐八五))精選版日本国語大辞典小学館
※【日本三代実録】にほんさんだいじつろく
六国史の第六。五〇巻。源能有、藤原時平、菅原道真らの撰。宇多天皇の勅をうけて着手、醍醐天皇の延喜元年(九〇一)奏送。清和・陽成・光孝の三代三〇年間を編年体で叙述。六国史中最大の巻数を持ち、内容も精細かつ正確である。三代実録。精選版日本国語大辞典小学館
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(考察)
覚明は、清盛の娘八人も簡単に触れますが、名前は無し
覚明は、続いて清盛の娘八人についても、以下のように総浚いし、簡単に述べています。さすがに、比叡山の各寺の書庫にも清盛の娘たちの名前まで記録したものは少なかったようで、娘たちの名前は一つも書いてありません。それとも、冠婚葬祭や祈祷に関係する比叡山の各寺ですから、調べれば全ての名前が分かっていたのかも知れません。多分、それらは盲僧の生仏様たちの琵琶での弾き語りの段階で、有力な婚姻さきに嫁いだ娘の相手だけが記憶され残ってきたとも思えます。後世の研究で判明したものもありますが、すべてではないので、それは当時でも同じで、覚明が最初から省略したとも考えられます。
(注)ここでは、講談社文庫判「平家物語」下巻末の桓武平氏系図を参考に、一応、順序を付けました。娘の名前も判明しているものには付けました。
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原文では、
その外、御娘八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。一人は櫻町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年御約束ばかりにて、平治の亂以後、引きちがへられ
て、花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給ひて、公達數多ましましけり。
抑この成範卿を櫻町の中納言と申しけることは、すぐれて心數寄給へる人にて、常はよし吉野の山を戀ひつつ、町に櫻を植ゑならべ、その内にや屋を建て住み給ひしかば、来る年の春毎に、見る人、櫻町とぞ申しける。
櫻は咲いて七箇日に散るを、名殘を惜み、天照大神に祈り申されければにや、三七日まで名殘ありけり。
君も賢王にてましませば、神も神徳を耀かし、花も心ありければ、二十日の齢を保ちけり。
一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生あつて、皇太子に立ち、位に卽かせ給ひしかば、院號蒙らせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相國の御娘なる上、天下の國母にてましませば、とかう申すに及ばれず。
一人は六条の攝政殿の北政所にならせ給ふ。これは高倉院御在位の御時、御母代とて、準三后の宣旨を蒙らせ給ひて、白川殿とて、重き人にてぞましましける。
一人は普賢寺殿の北政所にならせ給ふ。
一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、一人は七条修理大夫信隆卿に相具し給へり。
又安藝國嚴島の内侍が腹に一人、これは後白河法皇へ参らせ給ひて、偏に女御の様でぞましましける。
その外九条院の雑仕常盤が腹に一人、これは花山院殿の上﨟女房にて、﨟の御方とぞ申しける。
(現代文訳)
清盛には息子達の外に、娘たちが八人いました。みな、それぞれに違っていましたが幸せでした。
一人(清盛長女?)は櫻町の中納言成範卿(信西藤原通憲※の三男)の北の方になるはずでしたが、八歳の年に婚約されただけで、平治の乱※以後、事情が変わって、花山院※の左大臣殿(藤原兼雅)の御台所になられて、若君を幾人もおうみになりました。
そもそも、この成範卿を櫻町の中納言と申すのは、際立って風流を好む心を持っていらっしゃる人で、常に吉野山を好み、邸内に櫻を植えならべ、その内に屋敷を建てて住まれたので、毎年の春ごとに櫻を見る人が、櫻町と申したからです。
櫻は、咲いて七日で散るのを、名殘りを惜しみ、天照大神にお祈りしたので、三七日(さんしちにち。二一日間。祈願・勤行などを行なう日数の単位である七日を三つ重ねた期間)も咲き続けたのでした。
帝も賢王であられたので、神も神徳を輝かせ、花にも心があったので、二十日の寿命を保ったのです。
一人(清盛次女平徳子)は皇后にお立ちになりました。二十二で皇子をお生みになられ、その子は皇太子になら即位されたので、院号をいただき、建礼門院※とぞ申しました。清盛入道の娘である上、天下の國母(天皇の生母)であられるので、何やかやいうわけにはいきません。
一人(清盛三女?平盛子)は六条の攝政殿(藤原基実※、藤原忠通※の子)の北政所(攝政、関白の夫人)になられました。これは高倉院御在位の御時、御母代(母として後見する人)として、準三后(太皇太后・皇太后・皇后なみ)の宣旨を賜り、白川殿と言われて、重んじられた方でした。
一人(清盛五女?平完子、寛子とも)は普賢寺殿(近衛基通※)の北の政所になられました。
一人(清盛四女?)は冷泉大納言隆房卿(四条隆房※)の北の方、
一人(清盛六女?)は七条修理大夫(修理職長官)信隆卿(藤原信隆※)に連れ添われました。
又、安藝國嚴島の内侍(巫女)が腹に一人(清盛八女?御子姫君)、これは後白河法皇へ参らせ給ひて、偏に女御の様におなりになりました。
その外、九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕(下位女官)の常盤の腹に一人(清盛七女?)、これは花山院殿(左大臣藤原兼雅※)の上﨟女房(身分の高い女官)にて、﨟の御方と申しました。
※【藤原通憲】ふじわら‐の‐みちのり
平安末期の公卿・学者。少納言。父は実兼。母は源有房の娘。博学多才の人で、鳥羽・崇徳・近衛三代に仕えたが、宮仕少納言にとどまることを不満とし出家して、円空・信西と号した。妻の紀二位が後白河天皇の乳母であったので、天皇即位とともに権勢を得、保元の乱後は近臣として活躍。内裏の再建、朝儀の復興につとめたが、学才に任せて権謀をほしいままにし、平治の乱で信頼勢に殺された。著書「本朝世紀」「法曹類林」「通憲入道蔵書目録」などがある。嘉承元~平治元年(一一〇六‐五九)精選版日本国語大辞典小学館
※へいじ【平治】 の 乱(らん)
保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年((一一五九))に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し、通憲を殺害したが清盛に敗れ、義朝・信頼は殺された。源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した。精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原成範】ふじわらの-なりのり
1135-1187 平安時代後期の公卿(くぎょう)。保延(ほうえん)元年生まれ。藤原通憲(みちのり)の子。母は藤原朝子(紀二位)。平治(へいじ)の乱で配流されたがまもなくゆるされ、承安(じょうあん)4年(1174)参議。のち正二位、中納言となる。桜をこのみ、桜町中納言と称された。勅撰集には「千載和歌集」以下に13首。説話集「唐(から)物語」の作者とみられる。文治(ぶんじ)3年3月17日死去。53歳。
藤原成範 ふじわらの-しげのり⇒ふじわらの-なりのり講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【花山院兼雅 】かざんいん-かねまさ(藤原兼雅)
1148-1200 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。久安4年生まれ。花山院忠雅の長男。母は藤原家成の娘。仁安(にんあん)3年権(ごんの)中納言となる。内大臣、右大臣をへて建久9年(1198)従一位、左大臣にすすんだ。正治(しょうじ)2年7月16日(一説に18日)死去。53歳。講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【花山院】かざん‐いん
(古くは「かさんいん」) 清和天皇の皇子貞保親王の住居の地。京都府庁の東方、御所の西部にあった。
花山天皇の別称。
藤原北家の一流。関白藤原師実の二男家忠が花山院㊀を伝領して家号としたのに始まる。清華(せいが)家の一つ。精選版日本国語大辞典小学館
※【建礼門院】けんれい‐もんいん
高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。平清盛の次女。名は徳子。平家一門とともに西国に落ち、元暦二年(一一八五)安徳天皇に従って壇ノ浦で入水したが、救助される。のち出家して真如覚と号し、京都大原の寂光院に住んだ。久寿二~建保元年(一一五五‐一二一三)精選版日本国語大辞典小学館
※【藤原忠通】 ふじわらの-ただみち
1097-1164 平安時代後期の公卿(くぎょう)。永長2年閏(うるう)1月29日生まれ。藤原忠実(ただざね)の長男。母は源師子。白河法皇に罷免された父にかわり、関白、摂政、太政大臣を歴任。従一位にいたる。鳥羽(とば)院政で復権した父と権力をあらそい、保元(ほうげん)の乱の一因をつくった。詩歌にすぐれ、書は法性寺(ほっしょうじ)流と称される。長寛2年2月19日死去。68歳。通称は法性寺殿。漢詩集に「法性寺関白御集」、家集に「田多民治(ただみち)集」。【格言など】わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白波(「小倉百人一首」)講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【藤原基実】ふじわらの-もとざね
1143-1166 平安時代後期の公卿(くぎょう)。康治(こうじ)2年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。母は源国信(くにざね)の娘。藤原北家(ほっけ)の嫡流、近衛家初代。父忠通と後白河天皇の後ろ盾により異例の速さで出世し、保元(ほうげん)3年(1158)16歳で関白、氏長者となる。左大臣をへて、永万元年摂政となるが、2年7月26日死去。24歳。贈正一位太政大臣。号は六条,中殿(なかどの)など。講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【近衛基通】このえ-もとみち
1160-1233 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
永暦(えいりゃく)元年生まれ。近衛基実(もとざね)の長男。母は藤原忠隆の娘。後白河法皇と継母平盛子(もりこ)の父平清盛の後ろ盾で、関白、摂政、氏長者となる。平家没落後、九条兼実(かねざね)をおす源頼朝によって引退させられたが、兼実の失脚後関白に復帰。基通の代から家名を藤原から近衛とした。従一位。天福元年5月29日死去。74歳。号は普賢寺。講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【四条隆房】しじょう-たかふさ
1148-1209 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。久安4年生まれ。父は四条隆季(たかすえ)。母は藤原忠隆の娘。平清盛の娘を妻とし、平家没落後も順調に出世し、正二位、権(ごんの)大納言となる。建永元年(1206)出家、法名は寂恵。「千載和歌集」以下の勅撰(ちょくせん)集に34首のる。家集に「隆房集」。承元(じょうげん)3年死去。62歳。通称は冷泉(れいぜい)大納言。講談社デジタル版 日本人名大辞典
※【藤原信隆】ふじわらの-のぶたか
1126-1179 平安時代後期の公卿(くぎょう)。大治(だいじ)元年生まれ。右京大夫藤原信輔の子。母は伯耆守(ほうきのかみ)橘家光の娘。後白河上皇の近臣となり、平頼盛らと上皇の皇子(高倉天皇)を皇太子に擁立することをくわだて因幡(いなばの)守・右馬頭(うまのかみ)を解任される。ゆるされて伊予(いよの)守、修理大夫。仁安(にんあん)3年従三位。娘殖子(しょくし)は後鳥羽(ごとば)天皇の母。治承(じしょう)3年11月17日死去。54歳。贈左大臣従一位。講談社デジタル版 日本人名大辞典
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(考察)
覚明は、平家一門に藤原一門の横暴さを見ていた
清盛の息子達と娘たちの多さも腹違いとはいえ、尋常ではありませんでした。息子達には天皇を巻き込み高位を与え、娘たちには政略結婚をさせ、天皇家にまで血筋を延ばす。藤原氏一門を真似て、天下を手中に収め、平家一門が日本全国を支配しようと企んでいたのです。
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さらに、原文では、
日本秋津嶋は纔に六十六箇國、
平家知行の國三十餘箇國、既に半國に超えたり。
その外荘園、田畠、いくらといふ數を知らず。
綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集して、門前市をなす。
揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶、一つとして闕けたる事なし。
歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは、帝闕も仙洞も、これには過ぎじとぞ見えし。
(現代文訳)
日本秋津嶋(日本の古名)はわずかに六十六ヵ国、平家の知行(支配する)国三十余ヵ国であり、すでに半分を越えていました。その他、荘園や田畠は、どのくらいあるか、数知れぬほどでした。
綺羅充満(装い飾ること)充満して、そこにいる人は花のごとくでした。車馬が群集して、門前に市をなしていました。
揚州※の金、荊州※の珠、呉郡の綾※、蜀江※の錦、七珍(七宝※)萬寶(万宝※)、一つとして欠けていることはありませんでした。
歌堂(歌を歌うところ)舞閣(舞を演ずるところ)の基(その場所)、魚龍爵馬(綾織物の馬)の翫物(玩具)、恐らくは、帝闕(皇居)も仙洞(上皇の御所)も、これ以上ではないと見えました。
※【揚州】よう‐しゅう
中国古代の行政区画。禹(う)の九州の一つ。現在の江蘇、安徽両省と江西、浙江、福建各省の一部を含む。
中国江蘇省南西部の都市。漢代の広陵県の地で、隋代に揚州江都郡の中心となった。揚子江北岸、大運河沿いの要衝に位置し、隋以後経済都市として栄えた。名勝史跡が多い。精選版日本国語大辞典小学館
※【荊州】けい‐しゅう
中国、古代の九州の一つ。荊山の南の地方で、現在の湖北・湖南両省および広東省北部、貴州、四川、広西壮(カンシーチワン)族自治区東部の地域。
中国、春秋時代の楚の別称。
中国、後漢代、現在の湖北省襄陽県を中心に置かれた州。
中国、東晉代、現在の湖北省江陵に置かれた州。
中国、明代、現在の湖北省江陵県を中心に置かれた府名。精選版日本国語大辞典小学館
※【呉郡綾】ごぐん‐の‐あや
〘名〙 綾織物の一つ。中国の呉の国で産し、非常に高価なものとされた。ごきんのあや。
▷ 百二十句本平家(13C中‐14C初か)一
「楊州の金、荊岫の玉、呉郡綾(ゴグンノアヤ)、蜀江の錦、七珍万宝の一つとして闕けたることなし」精選版日本国語大辞典小学館
※【蜀江】しょっ‐こう
中国の蜀の地(現在の四川省)の成都付近を流れる川。揚子江の上流の一部。錦江(きんこう)。〔白居易‐長恨歌〕〘名〙 「しょっこう(蜀江)の錦」の略。〔色葉字類抄(1177‐81)〕▷ 茶道筌蹄(1816)四「蜀江 地組厚く二重織なり。色もやう色々あり。但し二重金の様に見ゆるが蜀江の箔づかひなり」精選版日本国語大辞典小学館
※しょっこう【蜀江】 の 錦(にしき)
① 上代錦の一つ。緯(よこいと)に色糸を用いて文様を表わした錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文・獣文・鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。▷ 法性寺関白御集(1145か)浮水落花多「巴峡紅粧流不レ尽。蜀江錦彩濯彌新」
② 中国明代を中心にして織られた錦。日本には多く室町時代に渡来。八角形の四方に正方形を連ね、中に花文、龍文などを配した文様を織り出したもの。この文様を蜀江型といい、種々の変形がある。
▷ 源平盛衰記(14C前)二八「蜀江(ショッカウ)の錦(ニシキ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物、色々に打くくみたる鎧著て」
③ 京都の西陣などで、蜀江型を模して織り出した錦。▷ 浮世草子・新可笑記(1688)一「蜀江(ショクコウ)のにしきの掛幕ひかりうつりて銀燭ほしのはやしのごとく」
[補注]
平安朝の漢詩文では花や紅葉を「錦」にたとえる際に、この蜀江(錦江)の錦でもってすることが、しばしば行なわれた。精選版日本国語大辞典小学館
※【七宝】しち‐ほう
〘名〙
① 仏語。七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいい、法華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰(ばいかい)をいうなど、種々の数え方がある。七珍(しっちん)。しっぽう。▷ 性霊集‐一(835頃)喜雨歌「仏身裏、兄二地獄一、七宝上、不レ看レ玉」▷ 宇津保(970‐999頃)国譲上「此の子日(ねのひ)、御前(おまへ)の物調じて、もてあそび物七ほうを尽して、し設けてこそ。装束(さうずく)いとうるはしく」▷ 増鏡(1368‐76頃)一一
「帝釈の宮殿もかくやと、七ほうを集めてみがきたるさま、目もかかやく心ちす」 〔法華経‐授記品〕 〔白居易‐素屏謡〕
② 転輪聖王の持つ七種の宝。輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝をいう。〔倶舎論‐一二〕精選版日本国語大辞典小学館
※【万宝】ばん‐ぽう
〘名〙
① 多くのたから。よろずの宝物。まんぽう。
▷ 宝の山(1891)〈川上眉山〉発端
「万宝(バンパウ)に満ちて、人の心の望む限りは、如何なるものも備はらぬはなし」 〔荘子‐庚桑楚〕
② さまざまに便利なこと。また、便利重宝なことをしるした書籍。まんぽう。精選版日本国語大辞典小学館
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(考察)
覚明は、叡山にいる僧侶達から平家一門の贅沢を聞き込む
最後は、僧侶の覚明らしい、この条のまとめです。
仏教用語である「七珍(無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう)」を使い、清盛の隆盛を象徴的に語っています。
また、「揚州の金・荊州の珠・呉郡の綾・蜀江の錦」は、中国産の貴重品で、これらはいずれも清盛の日宋貿易によって得た物品であると考えられています。宋との貿易は平家の栄華を支える重要な経済基盤でした。これらは覚明の誇張ではなく、本当に清盛の邸には溢れていたと言うことでしょう。
これらのことは、覚明が叡山にいる僧侶達から聞き込ん話だと思います。平家一門と交流が盛んだったころ、僧侶たちは病気平癒のための祈祷を依頼されたり、盛大な冠婚葬祭に呼ばれたりして、見聞したことが多々あったのだと思います。
興福寺の学僧(当時は信救)であった覚明が、命を懸け反平家の檄文を書き、源氏の木曽義仲らとともに平家打倒に従軍したのは当然ということでしょうか。
(長左衛門・記)
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(参照)
「平家物語」の我身榮華の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の我身榮華を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
我身榮華の全文
わがみ(身)のえいぐわ(榮華)をきは(極)むるのみならず、いちもん(一門)ともにはんじやう(繁昌)して、ちやくししげもり(嫡子重盛)、ないだいじんのさだいしやう(内大臣左大將)、じなんむねもり(次男宗盛)、ちうなごんのうだいしやう(中納言右大將)、さんなんとももり(三男知盛)、さんみのちうじやう(三位中將)、ちやくそんこれもり(嫡孫維盛)、しゐのせうしやう(四位少將)、すべていちもん(一門)のくぎやうじふろくにん(公卿十六人)、てんじやうびとさんじふよにん(殿上人三十餘人)、しよこく(諸国)のじゆりやう(受領)、ゑふ(衛府)、しよし(諸司)、つがふろくじふよにん(都合六十餘人)なり。よ(世)にはまた(又)ひと(人)なくぞみ(見)えられける。
むかし(昔)なら(奈良)のみかど(御門)のおんとき(御時)、じんきごねん(神龜五年)、てうか(朝家)にちうゑ(中衛)のだいしやう(大將)をはじ(始)めお(置)かる。
だいどうしねん(大同四年)にちうゑ(中衛)をこんゑ(近衛)とあらた(改)められしよりこのかた(以來)、きやうだいさう(兄弟左右)にあひなら(相並)ぶこと(事)、わづか(僅)にさんしかど(三四箇度)なり。
もんどくてんわう(文徳天皇)のおんとき(御時)は、ひだん(左)によしふさ(良房)、うだいじんのさだいしやう(右大臣左大将)、みぎ(右)によしあふ(良相)、だいなごんのうだいしやう(大納言右大將)、これはかんゐん(閑院)のさだいじんふゆつぎ(左大臣冬嗣)のおんこ(御子)なり。
しゆしやくゐん(朱雀院)のぎよう(御宇)には、ひだり(左)にさねより(實賴)、をののみやどの(小野宮殿)、みぎ(右)にもろすけ(師輔)、くでうどの(九条殿)、ていじんこう(貞信公)のおんこ(御子)なり。
ごれんぜいゐん(後冷泉院)のおんとき(御時)は、ひだり(左)にのりみち(教通)、おほにでうどの(大二条殿)、みぎ(右)によりむね(賴宗)、ほりかはどの(堀河殿)、みだうのくわんばく(御堂關白)のおんこ(御子)なり。
にでうのゐん(二条院)のぎよう(御宇)には、ひだり(左)にもとふさ(基房)、まつどの(松殿)、みぎ(右)にかねざね(兼實)、つきのわどの(月輪殿)、ほつしやうじどの(法性寺殿)のおんこ(御子)なり。
これみな(皆)せふろく(攝籙)のしん(臣)のごしそく(御子息)、はんじん(凡人)にと(取)つてはそのれい(例)なし。
てんじやう(殿上)のまじは(交)りをだにきら(嫌)はれしひと(人)のしそん(子孫)にて、きんじき(禁色)、ざつぱう(雑袍)をゆり、りようらきんしう(綾羅錦繍)をみ(身)にまと(纏)ひ、だいじんのだいしやう(大臣大將)になつてきやうだいさう(兄弟左右)にあひなら(相並)ぶこと(事)、まつだい(末代)とはいひながら、ふしぎ(不思議)なりしこと(事)どもなり。
そのほか(外)、おんむすめはちにん(御娘八人)おはしき。みな(皆)とりどりにさいは(幸)ひたま(給)へり。
いちにん(一人)はさくらまち(櫻町)のちうなごんしげのりのきやう(中納言成範卿)のきた(北)のかた(方)にておはすべかりしが、はつさい(八歳)のとし(年)おんやくそく(御約束)ばかりにて、へいじ(平治)のみだれ(亂)いご(以後)、ひ(引)きちがへられて、くわざんのゐん(花山院)のさだいじんどの(左大臣殿)のみだいばんどころ(御臺盤所)にならせたま(給)ひて、きんだちあまた(公達數多)ましましけり。
そもそも(抑)このしげのりのきやう(成範卿)をさくらまち(櫻町)のちうなごん(中納言)とまう(申)しけることは、すぐれてこころすきたま(心數寄給)へるひと(人)にて、つね(常)はよしの(吉野)のやま(山)をこ(戀)ひつつ、ちやう(町)にさくら(櫻)をう(植)ゑならべ、そのうち(内)にや(屋)をた(建)ててす(住)みたま(給)ひしかば、く(来)るとし(年)のはるごと(春毎)に、み(見)るひと(人)、さくらまち(櫻町)とぞまう(申)しける。
さくら(櫻)はさ(咲)いてしちかにち(七箇日)にち(散)るを、なごり(名殘)ををし(惜)み、あまてるおんがみ(天照大神)にいの(祈)りまう(申)されければにや、さんしちにち(三七日)までなごり(名殘)ありけり。
きみ(君)もけんわう(賢王)にてましませば、しん(神)もしんとく(神徳)をかかや(耀)かし、はな(花)もこころ(心)ありければ、はつか(二十日)のよはひ(齢)をたも(保)ちけり。
いちにん(一人)はきさき(后)にた(立)たせたま(給)ふ。にじふに(二十二)にてわうじごたんじやう(皇子御誕生)あつて、くわうたいし(皇太子)にた(立)ち、くらゐ(位)につ(卽)かせたま(給)ひしかば、ゐんがうかうぶ(院號蒙)らせたま(給)ひて、けんれいもんゐん(建礼門院)とぞまう(申)しける。
にふだうしやうこく(入道相國)のおんむすめ(御娘)なるうへ(上)、てんが(天下)のこくも(國母)にてましませば、とかうまう(申)すにおよ(及)ばれず。
いちにん(一人)はろくでう(六条)のせつしやうどの(攝政殿)のきたのまんどころ(北政所)にならせたま(給)ふ。
これはたかくらのゐんございゐ(高倉院御在位)のおんとき(御時)、おんははしろ(御母代)とて、じゆんさんごう(準三后)のせんじ(宣旨)をかうぶ(蒙)らせたま(給)ひて、しらかはどの(白川殿)とて、おも(重)きひと(人)にてぞましましける。
いちにん(一人)はふげんじどの(普賢寺殿)のきたのまんどころ(北政所)にならせたま(給)ふ。
いちにん(一人)はれんぜいのだいなごんりうばうのきやう(冷泉大納言隆房卿)のきた(北)のかた(方)、いちにん(一人)はしちでうのしゆりのだいぶのぶたかのきやう(七条修理大夫信隆卿)にあひぐ(相具)したま(給)へり。
また(又)あきのくにいつくしま(安藝國嚴島)のないし(内侍)がはら(腹)にいちにん(一人)、これはごしらかはのほふわう(後白河法皇)へまゐ(参)らせたま(給)ひて、ひとへ(偏)ににようご(女御)のやう(様)でぞましましける。
そのほか(外)くでうのゐん(九条院)のざふしときは(雑仕常盤)がはら(腹)にいちにん(一人)、これはくわざんのゐんどの(花山院殿)のじやうらふにようばう(上﨟女房)にて、らふ(﨟)のおんかた(御方)とぞまう(申)しける。
につぽんあきつしま(日本秋津嶋)はわづか(纔)にろくじふろくかこく(六十六箇國)、へいけちぎやう(平家知行)のくに(國)さんじふよかこく(三十餘箇國)、すで(既)にはんごく(半國)にこ(超)えたり。
そのほか(外)しやうえん(荘園)、でんばく(田畠)、いくらといふかず(數)をし(知)らず。
きらじうまん(綺羅充満)して、たうしやうはな(堂上花)のごとし。けんきくんじゆ(軒騎群集)して、もんぜんいち(門前市)をなす。
やうしう(揚州)のこがね(金)、けいしう(荊州)のたま(珠)、ごきん(呉郡) のあや(綾)、しよつかう(蜀江)のにしき(錦)、しつちんまんぽう(七珍萬寶)、ひと(一)つとしてか(闕)けたること(事)なし。
かたうぶかく(歌堂舞閣)のもとゐ(基)、ぎよりようしやくば(魚龍爵馬)のもてあそびもの(翫物)、おそ(恐)らくは、ていけつ(帝闕)もせんとう(仙洞)も、これにはす(過)ぎじとぞみ(見)えし。
作成/矢久長左衛門
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(14)
この「禿童の条」も、覚明が清盛の言論弾圧に怒りを込めて書いたもの
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の禿童の条
(考察)
覚明は、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていた
覚明は、この条で、あの悪運が強い清盛が、慢性病におかされたが出家をして、法名を「淨海」とつけたことで、たちどころに病が癒えて天命を全うすることになったと語ります。
信心深い覚明は出家をし、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていたようです。
この天命というのは、天から与えられたいのち、天寿のことで、天が定めた人間の寿命のことです。
この天命を全うすることは、天が人間に与えた使命を達成することですが、その使命とはなんだったのでしょうか?
清盛入道の法名「淨海」とは、清盛の来歴から見ると、海を清め静めるというような意味合いでしょうか。もし、長生きしていたら国内だけでなく、外国の海賊も退治し歴史は変わっていたかも知れないという説もあります。
ちなみに、覚明が比叡山で、この条を書いたとき、覚明本人の法名は「浄寛」といいました。広く清め静めるというような意味合いでしょうか。
両者とも法名の意味について、今のところ記録はありません。
覚明の場合は、源平の戦乱による戦死者の鎮魂のため、比叡山で平家物語の原作である「治承物語」を書く事になり、当時、天台座主の慈円がつけたと想像できます。
この時、覚明は五十代の前半でした。自分の五十代後半からの人生を考えたに違いありません。
覚明は叡山での親鸞との出会いもあり、このころ、覚明の天命は新しい方向に向かいつつありました。
ところで、清盛入道は、「淨海」として出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んでした。
そして、それを象徴するのが、かの有名な言葉「この一門(平家)にあらざらん者は、皆人非人たるべし」という平大納言時忠卿の発言です。
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禿童の原文では、
かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ、存命の爲にとて、卽ち出家入道す。
法名をば淨海とこそつき給へ。
その故にや、宿病たちどころに癒えて天命を全うす。
出家の後も、榮耀はなほ盡きずとぞ見えし。
おのづから人の隨ひつき奉る事は、吹く風の草木をなびかす如く、世の仰げる事も、降る雨の國土を濕すに同じ。
六波羅殿の御一家の公達とだにいへば、華族も英雄も、誰肩を雙べ、面を向ふ者なし。
又、入道相國の小舅、平大納言時忠卿の宣ひけるは、
「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」とぞ宣ひける。
(現代文訳)
こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、五十一歳で病に侵され、生きながらえる為に、ただちに出家し、仏門に入りました。
法名は淨海と名乗られました。
そういうわけで、慢性の病は、たちどころに治り、天から与えられた命を全うすることになりました。
出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んに見えました。
自然に人が付き従う事は、まるで草木が風になびくようのもので、世間の人が仰ぎみることは、降る雨が國土をうるおすようなものでした。
六波羅殿※のご御一家の公達さんといえば、華族(清華とも、身分の高い家柄で大臣大将より太政大臣にまで進む家柄)も英雄(華族に同じ)も、誰も肩を並べ、面と向う者はありませんでした。
※【六波羅殿】(ろくはら‐どの)
京都六波羅(京都市東山区の鴨川東岸、松原通から七条の間)にあった平家の邸宅。正盛が創設し、孫の清盛によって大きく修築。はじめ方一町ほどを二〇余町とし一門が住居。平清盛のこと。(日本国語大辞典)
また、入道相國(清盛)の小舅、平大納言時忠卿※が述べるには、
「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」と宣告した。
※【平時忠】(たいら‐の‐ときただ)
平安末期の公卿。時信の子。清盛の妻時子の弟、後白河天皇の女御滋子の兄。正二位権大納言まで累進。才知に富み、平関白と称された。壇ノ浦で捕えられ、能登に流され配所で没。文治五年(一一八九)没。(日本国語大辞典)
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(考察)
覚明は、平時忠のおごり高ぶった言葉に、なんと猪口才な奴と思う
覚明は、ここで、清盛の妻時子の弟である平大納言時忠のおごり高ぶった発言「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」という象徴的な言葉を取り上げました。
「人非人」とは、人でありながら人として認められないもの、人の数にはいらないもの、という意味(日本国語大辞典)で、今風に言うと「平家一門でない者は、皆、人間ではない」というのですから、覚明のような知識人から見たら、なんと猪口才な奴と思ったに違いありません。
当時、天下は清盛入道のもので、義弟の時忠にそれを言わせるほど、世は平家一門に支配され、それを許していたのです。
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さらに原文では、
されば如何なる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかき様に至るまで、何事も六波羅様とだにいひてしかば、一天四海の人皆これを學ぶ。
如何なる賢王賢主の御政、攝政關白の御成敗にも、世にあまされたる程の徒者などの、かたはらに寄り合ひて、何となう誹り傾け申す事は常の習ひなれども、この禪門世盛りの程は、聊かゆるがせに申す者なし。
その故は入道相国の謀に、十四五六の童を三百人すぐつて、髪を禿に切りまはし、赤き直垂を著せて、召使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。
おのづから平家の御事、あしざまに申す者あれば、一人聞き出さぬ程こそありけれ、餘黨にふれまはし、かの家に亂入し、資財雑具を追捕し、その奴を搦めて、六波羅殿へ率て参る。
されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿の禿とだにいへば、道を過ぐる車馬も、皆よぎてぞ通しける。
禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏、これが爲に目を側むと見えたり。
(現代文訳)
そうであるから、どのような人も、この一門の縁につながろうとしました。
烏帽子の折り方を始めとして、装束の着方に至るまで、何事も六波羅風といえば、天下の人々は、皆、これを学びました。
どのような賢王、賢主の政治も、攝政、關白の政務も、世の中の落伍者などがわきに寄り集まり、なんとなく非難するのは、よくある習慣ですが、この清盛入道の全盛時代は少しも悪く言う者はいませんでした。
なぜなら、入道相国の計略で、十四から十五、六歳の童を三百人えらんで、髪を禿(かぶ
ろ)に切りまはし(子供の髪型。髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型。日本国語大辞典)、赤き直垂(当時は平服の意)を著せて、召し使はれ、京中のあちこちに往来させました。
それですから、平家のことを、あしざまにいう者があれば、一人でも、聞きつけた場合は仲間にふれまはし、その家に乱入して、家財道具を没収し、そのひとを捕らえて、六波羅殿へ引っ立て参上しました。
そうであるから、目でみても、心に思うことがあっても、言葉に出して言う者はいませんでした。
六波羅殿の禿とさえいえば、道をいく車馬も、皆、さけて通りました。
宮中の門を出入りするときも、姓名を尋ねられることもなく、都の身分の高い役人も、これが爲に、見て見ぬふりをしていました。
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(考察)
覚明が書きたかったのは、言論弾圧をする平家一門の悪逆だった
なぜ、そこまで、平家一門に支配されていたのかというと、専制政治に付きものの言論弾圧によるものだったのです。
覚明(当時は信救)自身も、「木曽願書の条」と「南都返牒の条」でも触れたように、清盛のひどい言論弾圧に見舞われ、奈良の興福寺から命からがら信州に逃げのびた経験があったのです。
京でも、平家一門に反発する人々は、このようなひどい目に遭うのですからたまりません。
ここで覚明が書きたかったのは、このような言論弾圧をする平家一門の悪逆だったのです。
このことからも、この「禿童の条」を書いたのは、覚明であると言い切れると思います。
(長左衛門・記)
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(参照)
「平家物語」の禿童(かぶろ)の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の禿童を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
禿童の全文
かくてきよもりこう(清盛公)、にんあんさんねん(仁安三年)じふいちぐわつじふいちにち(十一月十一日)、としごじふいち(年五十一)にてやまひ(病)にをかされ、ぞんめい(存命)のため(爲)にとて、すなは(卽)ちしゆつけにふだう(出家入道)す。ほふみやう(法名)をばじやうかい(淨海)とこそつきたま(給)へ。そのゆゑ(故)にや、しゆくびやう(宿病)たちどころにい(癒)えててんめい(天命)をまつた(全)うす。しゆつけ(出家)ののち(後)も、えいえう(榮耀)はなほつ(盡)きずとぞみ(見)えし。
おのづからひと(人)のしたが(隨)ひつきたてまつ(奉)ること(事)は、ふ(吹)くかぜ(風)のくさき(草木)をなびかすごと(如)く、よ(世)のあふ(仰)げること(事)も、ふ(降)るあめ(雨)のこくど(國土)をうるほ(濕)すにおな(同)じ。
ろくはらどの(六波羅殿)のごいつけ(御一家)のきんだち(公達)とだにいへば、くわそく(華族)もえいゆう(英雄)も、たれ(誰)かた(肩)をなら(雙)べ、おもて(面)をむか(向)ふもの(者)なし。
また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のこじうと(小舅)、へいだいなごんときただのきやう(平大納言時忠卿)ののたま(宣)ひけるは、
「このいちもん(一門)にあらざらん(者)ものは、みな(皆)にんぴにん(人非人)たるべし」とぞのたま(宣)ひける。
さればいか(如何)なるひと(人)も、このいちもん(一門)にむす(結)ぼれんとぞしける。ゑぼし(烏帽子)のためやうよりはじ(始)めて、えもん(衣紋)のかきやう(様 )にいた(至)るまで、なにごと(何事)もろくはらやう(六波羅様)とだにいひてしかば、いつてんしかい(一天四海)のひと(人)みな(皆)これをまな(學)ぶ。
いか(如何)なるけんわうけんしゆ(賢王賢主)のおんまつりごと(御政)、せつしやうくわんばく(攝政關白)のごせいばい(御成敗)にも、よ(世)にあまされたるほど(程)のいたづらもの(徒者)などの、かたはらによ(寄)りあ(合)ひて、なに(何)となうそし(誹)りかたぶ(傾)けまう(申)すこと(事)はつね(常)のなら(習)ひなれども、このぜんもん(禪門)よざか(世盛)りのほど(程)は、いささ(聊)かゆるがせにまう(申)すもの(者)なし。
そのゆゑ(故)はにふだうしやうこく(入道相国)のはかりごと(謀)に、じふしごろく(十四五六)のわらべ(童)をさんびやくにん(三百人)すぐつて、かみ(髪)をかぶろ(禿)にき(切)りまはし、あか(赤)きひたたれ(直垂)をき(著)せて、めしつか(召使)はれけるが、きやうぢう(京中)にみちみちてわうばん(往反)しけり。おのづからへいけ(平家)のおんこと(御事)、あしざまにまう(申)すもの(者)あれば、いちにんき(一人聞)きいだ(出)さぬほど(程)こそありけれ、よたう(餘黨)にふれまはし、かのいへ(家)にらんにふ(亂入)し、しざいざふぐ(資財雑具)をつゐふく(追捕)し、そのやつ(奴)をから(搦)めて、ろくはらどの(六波羅殿)へゐ(率)てまゐ(参)る。
さればめ(目)にみ(見)、こころ(心)にし(知)るといへども、ことば(言葉)にあらはしてまう(申)すもの(者)なし。ろくはらどの(六波羅殿)のかぶろ(禿)とだにいへば、みち(道)をす(過)ぐるむまくるま(車馬)も、みな(皆)よぎてぞとほ(通)しける。きんもん(禁門)をしゆつにふ(出入)すといへども、しやうみやう(姓名)をたづ(尋)ねらるるにおよ(及)ばず。けいし(京師)のちやうり(長吏)、これがため(爲)にめ(目)をそば(側)むとみ(見)えたり。
作成/矢久長左衛門
平家物語の各条から原作者の存在を考証する(13)
この「鱸の条」も覚明が伝聞をもとに書庫の資料で確認し書いたもの
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の鱸(すずき)の条
そろそろ、寿命について考えるようになりました
「平家物語」の原作者である信濃前司行(幸)長の寿命は、平安時代末期から鎌倉時代初期で九十七歳でした。
なんと凄い!長寿です!
当時で考えてみると、覚明の西仏坊としての晩年は、まさに仙人の域です。
小生は八十歳過ぎて高血圧との闘いが始まりました。
薬を飲み始めても朝の135は抑えられず、140越えが続き、薬を飲んで150を越えないようにしてきました。
コロナの流行以後、塩分が多めの外食をやめ、食事の塩分を減らす努力をし、140前後を維持し、薬は週に一度か10日に一度くらいにしてきました。
ところが、この冬のあいだ気力が失せ、身体の芯が抜けたようにフラフラするようになりました。疲れて入浴する気力もなく、毎日シャワーだけで済ましてきました。
薬は一日一錠の決まりですが、薬の注意書きには、目まいがするとあります。しかし、連日のんでいるわけではなく、薬のためのフラフラでないことは明瞭です。
春になり、暑い日が続き、高齢者の熱中症がテレビなどで話題になりました。
水と塩分不足が原因だそうです。
そういえば夜中に水を呑むと舌が塩分を欲しがり、ときどき塩をなめました。すると、朝の血圧は必ず150を越えます。でも、フラフラが止まります。
夜中の塩なめは、血圧に良くないので止めると気力が失せフラフラで疲れます。
今は普通に塩分のある食事に替えたら、何とか元気になり気力も出てきました。
でも、血圧が150を越えることが多くなりそうです。
今は血圧の薬と塩分のある食事とのせめぎ合いで頑張る毎日になっています。
これはそろそろ寿命かなと思うようにもなり、寿命について考えるようになりました。
ドイツの古いことわざに「老年まで生きるのは神のわざであり、いつまでも若くあるのは生活のわざである」といいます。
人間には寿命がある。いわゆる天寿ですね。
これは神のはからいであって、人力の及ぶところではない。しかし天寿を全うするには節制と注意が必要であるとのこと。
それを欠くと、せっかくの神のわざをむなしくする、といいます。
晩年の信濃前司行(幸)長こと西仏坊も、節制と注意に努め、長生きしたということなのでしょうか。
(長左衛門・記)