「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保親王と。
信濃前司行(幸)長(覚明こと海野幸長)は、比叡山で平家物語の原作「治承物語」を書く前に、箱根で原「曽我物語」を書いています。その「曽我物語(流布本)」で自分の先祖を貞保(ていはう)親王としています。
注目点!
原文では、
〔清和天皇の皇子数多おはします。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王、第四を貞保(ていはう)親王、此の皇子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申しけり。心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり、今のしけのこの先祖なり。第五貞平親王、第六貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり〕と記述しています。
ここで、覚明は自分の先祖は「第四の貞保(ていはう)親王」とはっきり書いています。なぜなら、信濃前司行長こと覚明の本名は、信濃滋野氏嫡流海野幸親の次男幸長(幼名通廣)だからです。
原文の「今のしけのこの先祖なり」の、しけのは滋野氏のことで、当時、信濃滋野氏は海野(滋野嫡流)・望月・禰津の三家に別れていて、それぞれ滋野流を名乗っていました。覚明の父海野幸親は滋野幸親と呼ばれていた時期もあります。
原文の「此の皇子は御琵琶の上手にておはします」は、貞保親王が「管絃の長者・尊者」といわれた名手で、勅命で横笛や琵琶(びわ)の伝授をおこなうなど、兵部卿や式部卿の傍ら管弦の世界でも活躍していました。雅楽を学ぶ者の心得を書き記した『十操記』、琵琶譜の『南宮譜』、笛譜の『南竹譜』、『新撰横笛譜』を編纂し、今に残しています。
原文の「桂の親王とも申しけり」は、貞保親王の号は南宮で桂親王とも呼ばれていました。
原文の「心を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂につつむ、此の親王の御事なり」は、貞保親王が兵部卿として信濃御牧ヶ原の官営牧場に滞在したときに、官牧の責任者でもある滋野恒蔭(貞観十年信濃介)の館に滞在したとき、その娘「心を懸けらる女」が、闇夜で真っ暗なので「月の光を待ち兼ねて」、自分の居場所を早く教えるため明かり代わりに「蛍を袂につつむ」、つまり、"その光が恋愛のシグナルであるせいか、平安のむかしから歌や物語の恋愛の場に蛍はしばしば登場します。袖の袂にたくさんの蛍を包み、恋人の前でそれを放つ、その顔を照らし見るという場面が「伊勢物語」「宇津保物語」「源氏物語」などに登場する(ジャパンナレッジ季節の言葉「蛍」)"といわれています。
このときのことが「此の親王の御事なり」、ということなのです。
この時に生まれたのが幼名菊宮で、信濃滋野家では目宮王として大事に育て、成人して基淵王と呼ばれました。基淵王の子である善淵王(貞保親王の孫)の時、六十代醍醐天皇から延喜五年(905)に滋野朝臣姓を賜りました。
このころ、信濃滋野氏は朝廷の官牧科野(信濃)国御馬城之原野(望月牧)を本牧とした御牧ヶ原の有力な豪族としての地位を築いていました。
覚明は、曽我物語の「惟喬(これたか)喬仁(これひと)の位争の事の条」で、清和天皇の皇子を、上記のように第一から第六まで並べ、途中の第四貞保親王だけ、特に詳しく描写しています。そして"第六を貞純親王とぞ申しける、六孫王これなり"、として源氏の面々を紹介しています。
なぜ、途中の第四貞保親王だけ特に詳しく描写したのか、そして、わざわざ滋野の先祖を紹介したのか。
これは「曽我物語」の作者も覚明である根拠の一つといえるところなのです。他にも、自分の甥である海野小太郎幸氏(頼朝御家人)に関する部分からも覚明が作者であることが多々読み取れるのです。
(長左衛門・記)
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