信濃滋野氏嫡流の海野系図では本名海野幸長
兼好法師の「徒然草」で、「平家物語」の作者は、信濃前司行長・信濃入道・行長入道となっています。
これを信頼出来ると信じて、
信濃前司行長・信濃入道・行長入道のキーワードを手掛かりに、現存の「平家物語」の原文を熟読して、本当のオリジナルの作者を捜しています。
キーワードを絞ると信濃・入道・行長です。
今までに分かったことは、「平家物語」には原作が有り、その原作が「治承物語(号平家)」であることが分かりました。
しかし、その原作「治承物語」は現存しません。
現存の「平家物語」の作者は不詳と表記されることが未だに多いのです。
これだけの大作を残したのに、いまだに作者不詳と言われるのは残念です。
最近では、「平家物語」の作者は伝・信濃前司行長と表記されるものもあります。
そこで、信濃前司行長の経歴を、残された数々の著作や資料から辿ると、
本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸長です。
本人は九十七歳の長い人生で、本名以外で、八つの名前を使い人生を終えています。
注目点!
以下はその各別名です。
一、蔵人通廣(幼名は通廣、この時、勧学院進士,先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王)
二、最乗房信救(この時、比叡山で出家、この名で「仏法伝来次第」を書く)
三、信阿(この名で、「和漢朗詠集私注(六巻)」を書く)
四、信救撰(この名で「新楽府略意(二巻)」を書く)
五、大夫房覚明(この名で、木曽義仲の祐筆)
六、信救得業(この時、箱根権現で「筥根山縁起並序」「曽我物語(初稿)」を書く)
七、円通院浄寛(この時、比叡山慈鎭和尚のもとで「治承物語三巻(初稿)」を書く)※後に号平家六巻の記録あり
八、西仏(この時、法然上人門下、親鸞と行動をともにする。覚明の名で「三教指帰註」を書く)
以上、晩年の最後の呼称が西仏坊(西仏法師)です。
今と違い、本人は、その時、その場で、さまざまな名を使い分けていますので、これと言う代表的な名前はないのです。
強いて言うなら、
比叡山での出家名は信救。
「平家物語」関係を述べるときは信濃前司行(幸)長か、物語にも登場する木曽義仲の祐筆名の覚明。
法然・親鸞との宗教活動の関係を述べるときには、西仏、
となります。
整理すると、
本名は(海野)幸長、
幼名は(海野)通廣、
出家名は信救、
木曽義仲の祐筆名では覚明、
吉田兼好の徒然草では信濃前司行長または幸長、
晩年は西仏、
となります。
当ブログの年表では、親しみを込め「幸長入道」と総称しています。
以上は、ブログに既に書いたことですが、再確認のつもりで取り上げました。
ここまで、たどり着けたのは、パソコンでのネット検索と数々の研究者の論文のおかげです。また、このブログに、これだけの情報を掲載できるのはGoogleのブログサービスとワープロ一太郎のおかげです。
八十歳を過ぎていますので手書きではとうてい無理です。
視力も衰えていますので、プリンターとパソコンの拡大機能に助けられています。
今だからこそ、ここまで出来ると感謝しながら、日々、健康管理に気をつけ精進しておりますので、今後ともよろしくご愛読下さい。
(長左衛門・記)
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