2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(4) 平家山門への連署の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(4

平家山門への連署は、物語原作者が覺明であることの濃厚な部分

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 「平家物語」の平家山門への連署の条 


(考察)

       覚明は、平家の同心連署の願書をそのまま書き写した

 平家山門への連署とは、源氏方の木曾義仲軍に押され気味の平家一門が連名で比叡山の衆徒三千人に、平家方に味方してくれるように依頼した願書です。
覺明(当時は円通院浄寛と改名)は延暦寺の書庫で、自分の書いた木曾山門牒状とそれへの返事である山門返牒の写しとともに、この平家からの連署の願書も見せられたに違い有りません。
これらの文書には山門を挟んでの当時の源平の綱引きが如実に語られています。
この重要な歴史文書を資料として参考にすることを慈鎮和尚に許された円通院浄寛(以後、覺明と表記)は、後に平家物語の原作となる執筆中の「治承物語」に、自分のその時に感じたあらましと、平家の同心連署の願書をそのまま書き写したものと思われます。

ーーーーーーーーーーーーーー

(原文)

平家これをば夢にも知り給はず、
「興福園城兩寺は、鬱憤を含める折節なれば、語らふともよも靡かじ。當家は山門に於て、未だ怨を結ばず。山門又當家の爲に不忠を存ぜず。詮ずる所、山王大師に祈誓申して、三千の衆徒を語らはばや」とて、
一門の公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送らる。

(現代文訳)

平家は、これを夢にも知らずして、
「興福寺、圓城寺の両寺は、平家に※鬱憤(積もった怒り)のある時なので、話し合ってもなびかないであろう。当家(平家)は比叡山に対して恨まれるようなことはしていない。比叡山も平家にとって不忠を有していない。
要するに、山王大師に誓いを立てて、三千の衆徒を説いて仲間に引き入れたい」と、
平家一門の公卿十人、同意連名の願書を書いて、山門へ送りました。

※【鬱憤】うっ‐ぷん
〘名〙
① 内にこもりつもった怒りや不満。晴れないうらみ。
② (━する) 不平、不満の気持が心にこもってつもること。また、そのさま。
日本国語大辞典小学館

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

   覺明は、自分の書いた木曾山門牒状とは比べ物にならないと自信を持った

 「平家これをば夢にも知り給はず」とは、この時、既に山門は源氏方の木曾義仲軍に同心すると返牒を出した後のことなので、そのことを知らなかった平家を夢にも知らなかったと覺明は揶揄しているのです。

「興福園城兩寺は、鬱憤を含める折節なれば、語らふともよも靡かじ」とは、興福寺と園城寺は平家に対し積もり重なった怒り・恨みがあるときなので、語りかけてもよもや靡かないであろう。

「當家は山門に於て、未だ怨を結ばず。山門又當家の爲に不忠を存ぜず」とは、平家は比叡山延暦寺に、まだ恨まれるようなことはしてない、延暦寺も又平家に忠義を尽くさないというようなことはない。

「詮ずる所、山王大師に祈誓申して、三千の衆徒を語らはばや」とは、つまり、日吉山王権現に祈って加護を請い三千の衆徒を味方にしたいと、一門の公卿十人が同心連署の願書を書いて、山門へ送ったものであると覺明は前後のあらましを解説しているのです。

この公卿十人連署の願書を見たとき、覺明は当時を思い返し内心では冷や汗ものだったに違い有りません。

何故なら、平家山門への連署の日付が壽永二年七月五日となっていたからです。

木曾義仲軍への山門返牒が壽永二年七月二日ですから平家にとっては三日違いで後のまつりというわけです。

覺明が書いた木曾山門牒状は壽永二年六月十日ですから、覚明の素早い読みが当たり木曾義仲軍は山門と戦わずに京へ進軍できたわけです。

ここのところは覺明が最も強調したいところですから、以下の願書に云く・・・からの部分以降は是非書いて残して置きたい部分であったろうと思われます。

この公卿十人連署の願書は、誰が書いたか平家方の筆には勢いがなく、知性も感じられません。

公卿十人の肩書きばかりが目立ち、内容は神明仏陀頼みの空虚なものとなっていて山門を説得するには当たり前のことが書かれすぎていて力の無い文章となっています。

多分、覺明は自分の書いた木曾山門牒状とは比べ物にならないと自信を持ったことでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーー

(原文)

その願書に云く、
「敬つて白す。延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉の社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰ぐべき事。
右當家一族の輩、殊に祈誓することあり。
旨趣如何となれば、叡山はこれ桓武天皇の御宇、傳教大師入唐帰朝の後、圓頓の教法をこの所に弘め、遮那の大戒をその内に傳へてより以來、專ら佛法繁昌の靈窟として、久しく鎭護國家の道場に備ふ。
方に今伊豆國の流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却つて朝憲を嘲る。
加之奸謀に與して同心を致す源氏等、義仲行家以下、黨を結んで數有り。
隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。
これに因つて或は累代勲功の跡を追ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速かに賊徒を誅し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで、頻りに征伐を企つ。
ここに魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝つに乘るに似たり。
若し神明佛陀の加被に非ずは、争でか反逆の凶亂を鎭めん。
何に況んや、臣等が曩祖、思へば忝く、本願の餘裔と謂つべし。
彌崇重すべし。彌恭敬すべし。自今以後山門に悦び有らば、一門の悦びとし、社家に憤りあらば、一家の憤りとして、各子孫に伝へて永く失堕せじ。
藤氏は春日社興福寺を以て、氏神氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。
平氏は日吉社延暦寺を以て氏社氏寺として、親り圓實頓悟の教に値遇せん。
かれは昔の遺跡なり。
家の爲榮幸を思ふ。
これは今の精祈なり。君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王七社、王子眷屬、護法聖衆、東西滿山、十二乘願、醫王善逝、日光月光、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂れ給へ。
然れば則ち邪謀逆心の賊、各手を軍門に束ね、反逆殘害の輩、首を京土に傳へん。
よつて一門の公卿等、異口同音に禮をなして、祈請件の如し。
従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衞中將平朝臣資盛
正三位行右近衞中將兼伊豫守平朝臣維盛
正三位行左近衞權中將兼播磨守平朝臣重衡
正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗
參議正三位皇太后宮權大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛
従二位行中納言征夷大將軍兼左兵衞督平朝臣知盛
従二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛
正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
従一位前内大臣平朝臣宗盛
壽永二年七月五日の日、敬つて白す」
とぞ書かれたる。


(現代文訳)

当該願書は、覚明の筆ではないので現代文訳は省略しました。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

    この後のいきさつを覺明が書いたと思われる部分が興味深い内容

この平家の公卿十人連署の願書の部分は覺明がそのまま書き写し添付したものなので、ここでは特に、現代文訳も解説の必要もないでしょう。
それより、この後のいきさつを覺明が書いたと思われる部分が興味深い内容です。

ーーーーーーーーーーーーーー

(原文)

「貫首これを憐み給ひて、左右なう衆徒に披露もし給はず、十禪師權現の社壇にこめ、三日加持して、その後衆徒に披露せらる。
始はありと見えざりける願書の上巻に、歌こそ書いた一首出で來たれ。

平かに花咲く宿も年ふれば西へ傾く月とこそ見れ

山王大師これを憐み給ひて、三千の衆徒力を合せよとなり。
されども年頃日頃の振舞神慮にも違ひ、人望にも背きぬれば、祈れども叶はず、語らへども靡かざりけり。
大衆も誠にさこそはと、事の體をば憐みけれども、源氏合力の返牒を送りぬる上は、今又輕々しく、その議を翻すに及ばねば、これを許容する衆徒もなし」

 (現代文訳)

この平家からの公卿十人連署の願書を見た比叡山延暦寺の貫首(当時は天台座主明雲)は、これを憐れみ、すぐに衆徒に披露もしないで、十禪師權現の社壇に仕舞い込んで、三日間蜜教で仏力の加護をいのる呪法をしてから衆徒に披露された。

はじめは気づかなかったが願書を包んだ紙から歌が一首現れた。

「平かに花咲く宿も年ふれば西へ傾く月とこそ見れ」とあった。

ーーーーーーーーーーーーーー 

(考察)

    覺明は、筆名信阿で「和漢朗詠集私注(六巻)」を書くほど歌を研究した


これをどう解釈するか。

多分、意味は、深読みすれば、
「花咲くように繁栄してきた平家も年を経れば西に傾く月のように地に消える」
というような意味だと思いますが、これを誰が書いたか、こんな縁起の悪い歌を平家一門が願書の表紙に書いて山門に送ったとは思われません。

すると、受け取った延暦寺の貫首明雲が書いたものだろうか。

「さて、この願書をどうしたものか」と明雲が考える間に一首浮かんだものを書きとめたものだろうか。

「そろそろ平家も西に傾く月と見るべきかな」というような思いで浮かんだ一首を書きとめたとも考えられます。

それとも、「始はありと見えざりける願書の上巻に、歌こそ書いた一首出で來たれ」とあるから、覺明が物語の効果を高めるために歌を詠んで書いたとも取れます。

「始はありと見えざりける」とぼかしながら
「一首出で來たれ」とあるから、覺明自身が浮かんだ歌を書きとめ物語の文学性を高めたとも考えられます。

なぜなら、覺明は若いころ筆名信阿で「和漢朗詠集私注(六巻)」を書くほど歌を研究した人物です。

「平家物語」には和歌が沢山出てきますが、この他にも覺明の書いたものらしい歌があります。

それは今後、この追跡の過程で、折に触れ取り上げていきたいと思います。

ここからはこの条の最後になりますが、覺明は平家に多少同情的に筆を運んでいます。


(現代文訳)つづく

日吉山王権現はこの願書を憐れみなさって、三千の衆徒力を合わせなさいというものであった。
しかし、平家の年頃日頃の振舞いは、神の御心にも違ひ、人の望みにも背きぬれば、祈れども叶はず、語らへども靡かざりけり。
山門の三千の大衆も誠にさこそはと、平家の状態を憐れんだけれども、源氏に合力の返牒を送りぬる上は、今又輕々しく、その議を翻すに及ばねば、これを許容する衆徒もいなかった。


(考察)

    覺明は、比叡山で現物と対面しながら筆を進めることができた

ここで山門の三千人の衆徒は全員一致で源氏に 味方したという経緯を覺明は再確認することができたのです。

この条も平家物語の原作である「治承物語」の作者が覺明であることを示唆する濃厚な部分なのです。

各文書の年月日や平家一門の公卿の正確な肩書きなどは、執筆時の十数年前のことなので記憶だけでは無理で現物を見ないと正確には記録出来ません。

事実、後になって「平家物語」の語り本系の八坂流、中院本ではこの一門の公卿らの肩書きや名前の連署はなくなってしまっています。

覺明は比叡山でそれを見る機会を慈圓和尚に与えられ現物と対面しながら筆を進めることができたのです。

このことからも平家物語の原作である「治承物語」の作者は、覺明(信濃前司幸長・信濃入道・幸長入道)であることは明白であると思います。

(長左衛門・記)

ーーーーーーーーーーーーー
 
(参照)

「平家物語」の平家山門への連署の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の平家山門連署を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


[平家山門への連署]の全文(平家から比叡山への一門連署状)

へいけ(平家)これをばゆめ(夢)にもし(知)りたま(給)はず、
「こうぶくをんじやうりやうじ(興福園城兩寺)は、うつぷん(鬱憤)をふく(含)めるをりふし(折節)なれば、かた(語)らふともよもなび(靡)かじ。たうけ(當家)はさんもん(山門)におい(於)て、いま(未)だあた(怨)をむす(結)ばず。さんもん(山門)またたうけ(又當家)のため(爲)にふちう(不忠)をぞん(存)ぜず。
せん(詮)ずるところ(所)、さんわうだいし(山王大師)にきせいまう(祈誓申)して、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)をかた(語)らはばや」とて、いちもん(一門)のくぎやうじふにん(公卿十人)、どうしんれんじよ(同心連署)のぐわんじよ(願書)をか(書)いて、さんもん(山門)へおく(送)らる。

そのぐわんじよ(願書)にいは(云)く、「うやま(敬)つてまう(白)す。えんりやくじ(延暦寺)をもつ(以)てうぢてら(氏寺)にじゆん(准)じ、ひよし(日吉)のやしろ(社)をもつ(以)てうぢやしろ(氏社)として、いつかうてんだい(一向天台)のぶつぽふ(佛法)をあふ(仰)ぐべきこと(事)。みぎたうけいちぞく(右當家一族)のともがら(輩)、こと(殊)にきせい(祈誓)することあ(有)り。しいしゆいかん(旨趣如何)となれば、えいざん(叡山)はこれくわんむてんわう(桓武天皇)のぎよう(御宇)、でんげうだいしにつたうきてう(傳教大師入唐帰朝)ののち(後)、ゑんどん(圓頓)のけうぼふ(教法)をこのところ(所)にひろ(弘)め、しやな(遮那)のだいかい(大戒)をそのうち(内)につた(傳)へてよりこのかた(以來)、もつぱ(專)らぶつぽふはんじやう(佛法繁昌)のれいくつ(靈窟)として、ひさ(久)しくちんごこくか(鎭護國家)のだうぢやう(道場)にそな(備)ふ。
まさ(方)にいま(今)いづのくに(伊豆國)のるにん(流人)、みなもとのよりとも(源頼朝)、み(身)のとが(咎)をく(悔)いず、かへ(却)つててうけん(朝憲)をあざけ(嘲)る。
しかのみならず(加之)かんぼう(奸謀)にくみ(與)してどうしん(同心)をいた(致)すげんじら(源氏等)、よしなかゆきいへいげ(義仲行家以下)、たう(黨)をむすん(結)でかずあ(數有)り。
りんけいゑんけいすこく(隣境遠境數國)をしやうりやう(掠領)し、とぎとこうばんもつ(土宜土貢萬物)をあふりやう(押領)す。
これによ(因)つてあるひ(或)はるゐだいくんこう(累代勲功)のあと(跡)をお(追)ひ、あるひ(或)はたうじきうば(當時弓馬)のげい(藝)にまか(任)せて、すみや(速)かにぞくと(賊徒)をちう(誅)し、きようたう(凶黨)をがうぶく(降伏)すべきよし(由)、いやし(苟)くもちよくめい(勅命)をふく(含)んで、しき(頻)りにせいばつ(征伐)をくはだ(企)つ。

ここにぎよりんかくよく(魚鱗鶴翼)のぢん(陣)、くわんぐんり(官軍利)をえ(得)ず、せいばうてんげき(星旄電戟)のゐ(威)、ぎやくるゐかつ(逆類勝)つにの(乘)るにに(似)たり。
も(若)ししんめいぶつだ(神明佛陀)のかび(加被)にあら(非)ずは、いか(争)でかはんぎやく(反逆)のきようらん(凶亂)をしづ(鎭)めん。
いか(何)にいは(況)んや、しんら(臣等)がなうそ(曩祖)、おも(思)へばかたじけな(忝)く、ほんぐわん(本願)のよえい(餘裔)とい(謂)つつべし。

いよいよ(彌)そうちよう(崇重)すべし。いよいよ(彌)くぎやう(恭敬)すべし。じごん(自今)いご(以後)さんもん(山門)によろこ(悦)びあ(有)らば、いちもん(一門)のよろこ(悦)びとし、しやけ(社家)にいきどほ(憤)りあらば、いつけ(一家)のいきどほ(憤)りとして、おのおの(各)しそん(子孫)につた(傳)へてなが(永)くしつだ(失堕)せじ。

とうじ(藤氏)はかすがのやしろこうぶくじ(春日社興福寺)をもつ(以)て、うぢやしろうぢてら(氏社氏寺)として、ひさ(久)しくほつさうだいじよう(法相大乘)のしう(宗)にき(歸)す。

へいじ(平氏)はひよしのやしろえんりやくじ(日吉社延曆寺)をもつ(以)てうぢやしろうぢてら(氏社氏寺)として、まのあた(親)りゑんじつとんご(圓實頓悟)のけう(教)にちぐ(値遇)せん。
かれはむかし(昔)のゆゐせき(遺跡)なり。
いへ(家)のため(爲)えいかう(榮幸)をおも(思)ふ。

これはいま(今)のせいき(精祈)なり。きみ(君)のため(爲)つゐばつ(追罰)をこ(請)ふ。あふ(仰)ぎねが(願)はくは、さんわうしちしや(山王七社)、わうじけんぞく(王子眷屬)、ごほふしやうじゆ(護法聖衆)、とうざいまんざん(東西滿山)、じふにじようぐわん(十二乘願)、いわうぜんぜい(醫王善逝)、につくわうぐわつくわう(日光月光)、むに(無二)のたんぜい(丹誠)をてら(照)して、ゆゐいつ(唯一)のけんおう(玄應)をた(垂)れたま(給)へ。

しか(然)ればすなは(則)ちじやぼうぎやくしん(邪謀逆心)のぞく(賊)、おのおの(各)て(手)をくんもん(軍門)につか(束)ね、ほんぎやくざんがい(反逆殘害)のともがら(輩)、かうべ(首)をけいと(京土)につた(傳)へん。
よつていちもん(一門)のくぎやうら(公卿等)、いくどうおん(異口同音)にらい(禮)をなして、きせい(祈請)くだん(件)のごと(如)し。

じゆざんみぎやうけんゑちぜんのかみたひらのあそんみちもり(従三位行兼越前守平朝臣通盛)、じゆざんみぎやうけんうこんゑのちうじやうたひらのあそんすけもり(従三位行兼右近衞中將平朝臣資盛)、じやうざんみぎやううこんゑのちうじやうけんいよのかみたひらのあそんこれもり(正三位行右近衞中將兼伊豫守平朝臣維盛)、じやうざんみぎやうさこんゑのごんのちうぢやうけんはりまのかみたひらのあそんしげひら(正三位行左近衞權中將兼播磨守平朝臣重衡)、じやうざんみぎやうゑもんのかみけんあふみとほたふみのかみたひらのあそんきよむね(正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗)、さんぎじやうざんみくわうだいこうぐうのごんのだいぶけんしゆりのだいぶかがゑつちうのかみたひらのあそんつねもり(參議正三位皇太后宮權大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛)、じゆにゐぎやうちうなごんせいいたいしやうぐんけんさひやうゑのかみたひらのあそんとももり(従二位行中納言征夷大將軍兼左兵衞督平朝臣知盛)、じゆにゐぎやうごんぢうなごんけんひぜんのかみたひらのあそんのりもり(従二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛)、じやうにゐぎやうごんだいなごんけんみちではあぜつしたひらのあそんよりもり(正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛)、じゆいちゐさきのないだいじんたひらのあそんむねもり(従一位前内大臣平朝臣宗盛)。
じゆえいにねんしちぐわついつか(壽永二年七月五日)のひ(日)、うやま(敬)つてまう(白)す」とぞか(書)かれたる。

くわんじゆ(貫首)これをあはれ(憐)みたま(給)ひて、さう(左右)なうしゆと(衆徒)にひろう(披露)もし(給)はず、じふぜんじごんげん(十禪師權現)のしやだん(社壇)にこめ、さんにちかぢ(三日加持)して、そののち(後)しゆと(衆徒)にひろう(披露)せらる。
はじめ(始)はありともみ(見)えざりけるぐわんじよ(願書)のうはまき(上巻)に、うた(歌)こそいつしゆ(一首)い(出)でき(來)たれ。

たひら(平)かにはなさ(花咲)くやど(宿)もとし(年)ふればにし(西)へかたぶ(傾)くつき(月)とこそみ(見)れ 

さんわうだいし(山王大師)これをあはれ(憐)みたま(給)ひて、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)ちから(力)をあは(合)せよとなり。
されどもとしごろひごろ(年頃日頃)のふるまひ(振舞)しんりよ(神慮)にもたが(違)ひ、じんばう(人望)にもそむ(背)きぬれば、いの(祈)れどもかな(叶)はず、かた(語)らへどもなび(靡)かざりけり。
だいしゆ(大衆)もまこと(誠)にさこそはと、こと(事)のてい(體)をばあはれ(憐)みけれども、げんじがふりよく(源氏合力)のへんてふ(返牒)をおく(送)りぬるうへ(上)は、いままたかろがろ(今又輕々)しく、そのぎ(議)をひるがへ(翻)すにおよ(及)ばねば、これをきよよう(許容)するしゆと(衆徒)もなし。

 作成/矢久長左衛門

0 件のコメント:

コメントを投稿