2021年8月4日水曜日

原作者の存在を考証(14)禿童の条

 平家物語の各条から原作者の存在を考証する(14)

この「禿童の条」も、覚明が清盛の言論弾圧に怒りを込めて書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

☆「平家物語」の禿童の条

(考察)

     覚明は、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていた

 覚明は、この条で、あの悪運が強い清盛が、慢性病におかされたが出家をして、法名を「淨海」とつけたことで、たちどころに病が癒えて天命を全うすることになったと語ります。

信心深い覚明は出家をし、仏に帰依することで、病が本当に治ると信じていたようです。

この天命というのは、天から与えられたいのち、天寿のことで、天が定めた人間の寿命のことです。

この天命を全うすることは、天が人間に与えた使命を達成することですが、その使命とはなんだったのでしょうか?

清盛入道の法名「淨海」とは、清盛の来歴から見ると、海を清め静めるというような意味合いでしょうか。もし、長生きしていたら国内だけでなく、外国の海賊も退治し歴史は変わっていたかも知れないという説もあります。

ちなみに、覚明が比叡山で、この条を書いたとき、覚明本人の法名は「浄寛」といいました。広く清め静めるというような意味合いでしょうか。 

両者とも法名の意味について、今のところ記録はありません。

覚明の場合は、源平の戦乱による戦死者の鎮魂のため、比叡山で平家物語の原作である「治承物語」を書く事になり、当時、天台座主の慈円がつけたと想像できます。

この時、覚明は五十代の前半でした。自分の五十代後半からの人生を考えたに違いありません。

覚明は叡山での親鸞との出会いもあり、このころ、覚明の天命は新しい方向に向かいつつありました。 

ところで、清盛入道は、「淨海」として出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んでした。

そして、それを象徴するのが、かの有名な言葉「この一門(平家)にあらざらん者は、皆人非人たるべし」という平大納言時忠卿の発言です。

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禿童の原文では、           

かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ、存命の爲にとて、卽ち出家入道す。

法名をば淨海とこそつき給へ。

その故にや、宿病たちどころに癒えて天命を全うす。

出家の後も、榮耀はなほ盡きずとぞ見えし。

おのづから人の隨ひつき奉る事は、吹く風の草木をなびかす如く、世の仰げる事も、降る雨の國土を濕すに同じ。

六波羅殿の御一家の公達とだにいへば、華族も英雄も、誰肩を雙べ、面を向ふ者なし。

又、入道相國の小舅、平大納言時忠卿の宣ひけるは、

「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」とぞ宣ひける。


(現代文訳)

 こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、五十一歳で病に侵され、生きながらえる為に、ただちに出家し、仏門に入りました。

法名は淨海と名乗られました。

そういうわけで、慢性の病は、たちどころに治り、天から与えられた命を全うすることになりました。

出家したあとも、権勢や富の力はいよいよ盛んに見えました。

自然に人が付き従う事は、まるで草木が風になびくようのもので、世間の人が仰ぎみることは、降る雨が國土をうるおすようなものでした。

六波羅殿※のご御一家の公達さんといえば、華族(清華とも、身分の高い家柄で大臣大将より太政大臣にまで進む家柄)も英雄(華族に同じ)も、誰も肩を並べ、面と向う者はありませんでした。

※【六波羅殿】(ろくはら‐どの)

京都六波羅(京都市東山区の鴨川東岸、松原通から七条の間)にあった平家の邸宅。正盛が創設し、孫の清盛によって大きく修築。はじめ方一町ほどを二〇余町とし一門が住居。平清盛のこと。(日本国語大辞典)  

また、入道相國(清盛)の小舅、平大納言時忠卿※が述べるには、

この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」と宣告した。

※【平時忠】(たいら‐の‐ときただ)

平安末期の公卿。時信の子。清盛の妻時子の弟、後白河天皇の女御滋子の兄。正二位権大納言まで累進。才知に富み、平関白と称された。壇ノ浦で捕えられ、能登に流され配所で没。文治五年(一一八九)没。(日本国語大辞典) 

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 (考察)

      覚明は、平時忠のおごり高ぶった言葉に、なんと猪口才な奴と思う

 覚明は、ここで、清盛の妻時子の弟である平大納言時忠のおごり高ぶった発言「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし(この一門でない人は、みな、人でなし)」という象徴的な言葉を取り上げました。

「人非人」とは、人でありながら人として認められないもの、人の数にはいらないもの、という意味(日本国語大辞典)で、今風に言うと「平家一門でない者は、皆、人間ではない」というのですから、覚明のような知識人から見たら、なんと猪口才な奴と思ったに違いありません。

当時、天下は清盛入道のもので、義弟の時忠にそれを言わせるほど、世は平家一門に支配され、それを許していたのです。

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さらに原文では、

されば如何なる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかき様に至るまで、何事も六波羅様とだにいひてしかば、一天四海の人皆これを學ぶ。

如何なる賢王賢主の御政、攝政關白の御成敗にも、世にあまされたる程の徒者などの、かたはらに寄り合ひて、何となう誹り傾け申す事は常の習ひなれども、この禪門世盛りの程は、聊かゆるがせに申す者なし。

その故は入道相国の謀に、十四五六の童を三百人すぐつて、髪を禿に切りまはし、赤き直垂を著せて、召使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。

おのづから平家の御事、あしざまに申す者あれば、一人聞き出さぬ程こそありけれ、餘黨にふれまはし、かの家に亂入し、資財雑具を追捕し、その奴を搦めて、六波羅殿へ率て参る。

されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿の禿とだにいへば、道を過ぐる車馬も、皆よぎてぞ通しける。

禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏、これが爲に目を側むと見えたり。

 

(現代文訳)

そうであるから、どのような人も、この一門の縁につながろうとしました。

烏帽子の折り方を始めとして、装束の着方に至るまで、何事も六波羅風といえば、天下の人々は、皆、これを学びました。

どのような賢王、賢主の政治も、攝政、關白の政務も、世の中の落伍者などがわきに寄り集まり、なんとなく非難するのは、よくある習慣ですが、この清盛入道の全盛時代は少しも悪く言う者はいませんでした。

なぜなら、入道相国の計略で、十四から十五、六歳の童を三百人えらんで、髪を禿(かぶ

ろ)に切りまはし(子供の髪型。髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型。日本国語大辞典)、赤き直垂(当時は平服の意)を著せて、召し使はれ、京中のあちこちに往来させました。

それですから、平家のことを、あしざまにいう者があれば、一人でも、聞きつけた場合は仲間にふれまはし、その家に乱入して、家財道具を没収し、そのひとを捕らえて、六波羅殿へ引っ立て参上しました。

そうであるから、目でみても、心に思うことがあっても、言葉に出して言う者はいませんでした。

六波羅殿の禿とさえいえば、道をいく車馬も、皆、さけて通りました。

宮中の門を出入りするときも、姓名を尋ねられることもなく、都の身分の高い役人も、これが爲に、見て見ぬふりをしていました。

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(考察)

    覚明が書きたかったのは、言論弾圧をする平家一門の悪逆だった

 なぜ、そこまで、平家一門に支配されていたのかというと、専制政治に付きものの言論弾圧によるものだったのです。

覚明(当時は信救)自身も、「木曽願書の条」と「南都返牒の条」でも触れたように、清盛のひどい言論弾圧に見舞われ、奈良の興福寺から命からがら信州に逃げのびた経験があったのです。

京でも、平家一門に反発する人々は、このようなひどい目に遭うのですからたまりません。

ここで覚明が書きたかったのは、このような言論弾圧をする平家一門の悪逆だったのです。

このことからも、この「禿童の条」を書いたのは、覚明であると言い切れると思います。

(長左衛門・記)

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(参照)

「平家物語」の禿童(かぶろ)の条(原文)      

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の禿童を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

禿童の全文           

かくてきよもりこう(清盛公)、にんあんさんねん(仁安三年)じふいちぐわつじふいちにち(十一月十一日)、としごじふいち(年五十一)にてやまひ(病)にをかされ、ぞんめい(存命)のため(爲)にとて、すなは(卽)ちしゆつけにふだう(出家入道)す。ほふみやう(法名)をばじやうかい(淨海)とこそつきたま(給)へ。そのゆゑ(故)にや、しゆくびやう(宿病)たちどころにい(癒)えててんめい(天命)をまつた(全)うす。しゆつけ(出家)ののち(後)も、えいえう(榮耀)はなほつ(盡)きずとぞみ(見)えし。

おのづからひと(人)のしたが(隨)ひつきたてまつ(奉)ること(事)は、ふ(吹)くかぜ(風)のくさき(草木)をなびかすごと(如)く、よ(世)のあふ(仰)げること(事)も、ふ(降)るあめ(雨)のこくど(國土)をうるほ(濕)すにおな(同)じ。

ろくはらどの(六波羅殿)のごいつけ(御一家)のきんだち(公達)とだにいへば、くわそく(華族)もえいゆう(英雄)も、たれ(誰)かた(肩)をなら(雙)べ、おもて(面)をむか(向)ふもの(者)なし。

また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のこじうと(小舅)、へいだいなごんときただのきやう(平大納言時忠卿)ののたま(宣)ひけるは、

「このいちもん(一門)にあらざらん(者)ものは、みな(皆)にんぴにん(人非人)たるべし」とぞのたま(宣)ひける。

さればいか(如何)なるひと(人)も、このいちもん(一門)にむす(結)ぼれんとぞしける。ゑぼし(烏帽子)のためやうよりはじ(始)めて、えもん(衣紋)のかきやう(様 )にいた(至)るまで、なにごと(何事)もろくはらやう(六波羅様)とだにいひてしかば、いつてんしかい(一天四海)のひと(人)みな(皆)これをまな(學)ぶ。

いか(如何)なるけんわうけんしゆ(賢王賢主)のおんまつりごと(御政)、せつしやうくわんばく(攝政關白)のごせいばい(御成敗)にも、よ(世)にあまされたるほど(程)のいたづらもの(徒者)などの、かたはらによ(寄)りあ(合)ひて、なに(何)となうそし(誹)りかたぶ(傾)けまう(申)すこと(事)はつね(常)のなら(習)ひなれども、このぜんもん(禪門)よざか(世盛)りのほど(程)は、いささ(聊)かゆるがせにまう(申)すもの(者)なし。

そのゆゑ(故)はにふだうしやうこく(入道相国)のはかりごと(謀)に、じふしごろく(十四五六)のわらべ(童)をさんびやくにん(三百人)すぐつて、かみ(髪)をかぶろ(禿)にき(切)りまはし、あか(赤)きひたたれ(直垂)をき(著)せて、めしつか(召使)はれけるが、きやうぢう(京中)にみちみちてわうばん(往反)しけり。おのづからへいけ(平家)のおんこと(御事)、あしざまにまう(申)すもの(者)あれば、いちにんき(一人聞)きいだ(出)さぬほど(程)こそありけれ、よたう(餘黨)にふれまはし、かのいへ(家)にらんにふ(亂入)し、しざいざふぐ(資財雑具)をつゐふく(追捕)し、そのやつ(奴)をから(搦)めて、ろくはらどの(六波羅殿)へゐ(率)てまゐ(参)る。

さればめ(目)にみ(見)、こころ(心)にし(知)るといへども、ことば(言葉)にあらはしてまう(申)すもの(者)なし。ろくはらどの(六波羅殿)のかぶろ(禿)とだにいへば、みち(道)をす(過)ぐるむまくるま(車馬)も、みな(皆)よぎてぞとほ(通)しける。きんもん(禁門)をしゆつにふ(出入)すといへども、しやうみやう(姓名)をたづ(尋)ねらるるにおよ(及)ばず。けいし(京師)のちやうり(長吏)、これがため(爲)にめ(目)をそば(側)むとみ(見)えたり。

作成/矢久長左衛門


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