2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(7) 南都返諜の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(7

この南都返牒は、覚明が記憶を頼りに冷静になってから書いたもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 平家物語」の南都返牒の条 

(考察)

         覚明は、すべて記憶を頼りに、この三井寺への返牒の条を書いた

 南都返牒とは、反平家で立ち上がった帝の子以仁王(第二の皇子高倉宮)に逃げ込まれた三井寺(円城寺)が、興福寺に味方してくれるように要請した文書(南都牒状)への返事、つまり、奈良の興福寺から近江大津の三井寺への返牒のことです。

木曾願書の条でも触れられているように、当時、興福寺にいた36歳の信救(覚明)が、その協力要請文書(南都牒状)を見て、この有名な「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒する檄文(南都返牒)を書きました。

しかし、覚明(当時は浄寛と改名)が比叡山でこの平家物語の原作「治承物語」の南都返牒の条を書く時点では、興福寺から来た現物はもう三井寺には残っていませんでした。

なぜなら、平家物語の「三井寺炎上」でも語られるように三井寺が平家に襲われたとき、数多の経典と共に焼失してしまったものと推定されます。

そこで、覚明は、当時を思い起こし、すべて記憶を頼りに、この三井寺への返牒(南都返牒)の条を書いたものと思われます。

奈良で急ぎ書いた現物としては緊迫感が少し欠けているようにも思えますが、改めて趣旨が整理され格調高く書かれています。

この条は流布本の平仮名版では、独立の条としてではなく、前の南都牒状の条の続きのようにして書かれていて、この南都返牒の部分が添付されています。

これから見てもこの部分は覚明本人でなければ書けなかったものだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーー

原文では

南都の大衆この状を披見して、一味同心に僉議して、やがて返牒をこそ送りけれ。
その返牒に云く、
「興福寺牒す、園城寺の衙。
來牒一紙に載せられたり。
右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を亡ぼさんとする由の事牒す。
玉泉玉花兩家の宗義を立つと雖も、金章金句、同じう一代の教文より出でたり。
南京北京と共に以て如来の弟子たり。
自寺他寺、互に調達が魔障を伏すべし。


(現代文訳)

奈良の興福寺の衆徒はこの南都牒状を見て、一同で心を一つに詮議し、引き続き園城寺(三井寺)に返事を出しました。

その返事に言わく、
「興福寺より、園城寺の寺務所へ。
送られた牒状一枚に記載されている件。
右、入道淨海(平清盛の出家名)がために、貴寺の佛法が亡ぼされようとしているとのこと、ご返事いたします。

中国の玉泉寺由来の天台宗(園城寺)、中国の玉花宮由来の法相宗(興福寺)と、両寺は別の宗義に立つといえども 、佛法の章句は同じで、釈迦一代の教文から出ています。

興福寺(南京)、園城寺(北京)は共に釈迦如来の弟子です。

自分の寺も他の寺も、お互いに調達(釈迦の従兄弟で仏敵となった調婆達多の略)のような悪人を屈伏させるべきです。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

      覚明は、自分の寺も他の寺も釈迦如来の弟子、共に佛敵に対抗しようと

 ここでは、出家後に信救の名で「佛法伝来次第」を書いた覚明らしく、両寺の宗義に対し均衡の取れた考え方を述べています。

信救著作「佛法伝来次第」は、佛法伝来以来の歴史の概略を述べたもので、佛教史の起源である天竺から書き起こしたものです。

佛法の章句は釈迦一代の教文から出ていて、共に釈迦如来の弟子なので、自分の寺も他の寺も佛敵には、お互いに力を合わせて対抗しましょうと述べているのです。

そして、この後では、 佛敵に平家一門を見たて、その存在を疑問視し、清盛の横暴さを、身分の低い出自までをあげつらって、激しく弾劾しています。


ーーーーーーーーーーーーーー

続いて原文では

抑清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。
祖父正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。
大藏卿爲房、加州刺史の古、檢非所に補し、修理大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。
然るを親父忠盛、昇殿を許されし時、都鄙の老少、皆蓬戸の瑕瑾を惜しみ、内外の榮幸、各馬臺の讖文に泣く。
忠盛青雲の翅をかい刷ふと雖も、世の民猶白屋の種を輕んず。名を惜しむ青侍、その家に望む事無し。
然れば則ち去んぬる平治元年十二月、太上天皇一戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以來、高く相國に上つて、兼ねて兵仗を賜はる。
男子或は台階を辱うし、或は羽林に列なり、女子或は中宮職に備はり、或は准后の宣を蒙る。
群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫かの甥、悉く竹符を割く。
加之九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕従となす。
一毛心に違へば、王侯と雖もこれを捕へ、片言耳に逆ふれば、公卿と雖もこれを搦む。
これに依つて、或は一旦の身命を延べんが爲、或は片時の凌蹂を遁れんと思つて、萬乘の聖主、猶面轉の媚をなし、重代の家君、却つて膝行の禮を致す。
代々相傳の家領を奪ふ雖も、上宰も恐れて舌を捲き、宮々相承の荘園を取ると雖も、權威に憚つてものいふ事なし。

(現代文訳)

そもそも、清盛入道は平氏のぬかかす、武家のちりあくたなり。

祖父の平正盛は、五位の役人の家に仕へて、諸国の國司のもとで下働きをしていました。

大藏卿爲房が加賀国の太守の昔に檢非所の役人に採用され、修理大夫顯季が播磨守たりし昔には厩舎の役職に任ぜられました。

ところが、清盛の親父の忠盛が清涼殿に立ち入ることを許されたとき、都や田舎の老いも若きも、皆、蓬戸の瑕瑾(鳥羽上皇の過失)を惜しみ、内外の榮幸(内典・外典に優れた学者)は、各々、馬臺の讖文(野馬台の詩で未来記)が現実となり朝家の衰微を嘆いた。

忠盛は高位高官に上り威儀を整えましたが、世間の人々は貧賎の家の出自を軽蔑していました。名を惜しむ若い侍は、その家に仕官することを望みませんでした。

ところが、すなわち去る平治元年十二月に、後白河上皇が一戰の功に感心して、清盛に破格の賞を授け給ひしより以來、太政大臣に上つて、併せて随身を賜りました。

平家一門の男子は、あるいは大臣、あるいは近衛府の将につらなり、女子は、あるいは中宮に、あるいは准后の宣旨を賜っています。

多くの弟や庶子は、皆、公卿になり、その孫や甥は、ことごとく国司の任を受けています。

そればかりでなく、日本全国を統治、領有し、官僚の任免を勝手にし、国の男も女もしもべにしています。

少しでも意に添わなければ、皇族といえども逮捕し、ひと言でも逆らえば、公卿といえども搦めとります。

そのため、あるいはその場しのぎの延命のため、あるいは一時のはずかしめを逃れんと思い、天皇も、また、面前で媚び、代々家柄の良き藤原長者も膝でいざって平伏しております。

代々相続してきた領土を奪われても、宰相は恐れて黙ってしまい、宮様方が受け継いできた荘園が取り上げられても、権力 に遠慮して物言うこともありません。
ーーーーーーーーーーー

(考察)

             覚明は36歳のころ、興福寺の僧を代表して返牒を書いた

 以上のことは、現在の感覚では、出家した僧が、ここまで個人攻撃し、俗世のことを具体的に述べ、国、皇族、公卿、 貴族、庶民を代弁して発言すると、
「あんたは何者?」となります。

しかし、覚明の出自を調べて見ますと、清和天皇の第四皇子
で兵部卿・式部卿の貞保親王(ていほうしんのう、母親は藤原高子)から十六代目の子孫にあたる信濃豪族滋野氏嫡流海野幸親の次男海野幸(行)長なのです。

信濃の滋野三家(海野族・望月族・禰津族)は代々にわたり信濃「御牧が原」の朝廷の官牧(望月の駒で代表される数千頭の馬)を任されており、以前の清盛の家よりは裕福でした。

当時、東大寺や興福寺には、皇族や貴族の血を引く地方豪族の子弟も遊学のために預けられていました。

出家し信救と称する前は勧学院進士で蔵人通広と称していた覚明もその一人だったのです。

そして、その出家後の36歳のころ、信救法師が藤原一門の寺である興福寺の僧を代表して返牒を書いたのです。

それから考えると、これくらいのことを書いても本人は当たり前の気持ちだったのではないかと思います。


ーーーーーーーーーー

さらに続いて原文では

勝に乘る餘り、去年の冬十一月、太上皇の栖を追捕して、博陸公の身を推流す。叛逆の甚しきこと、誠に古今に絶えたり。
その時我等、須らく賊衆に行き向つて、その罪を問ふべしと雖も、或は
神慮に相憚り、或は綸言と稱ずるに依つて、鬱陶を押へて、光陰を送る間、重ねて軍兵を起して、一院第二の親王宮を打圍む處に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送り付けて、新羅扉に預け奉る。
王法盡きざる旨著けし。
仍つて貴寺身命を棄てて守護し奉る條、含識の類、誰か随喜せざらん。
この時吾等遠域に在つて、その情を感ずる處に、清盛公、尚兇器を起して、貴寺に入らんとする由、風に傳へ承るに依つて、兼ねて用意を致す。
十八日辰の一點に大衆を發し、諸寺に牒奏し、末寺に下知して、軍士を得てのち、案内を達せんとする處に、青鳥飛び來つて芳翰を投げたり。
數日の鬱念一時に解散す。
彼の唐家清涼一山の
苾蒭、猶武宗の官兵を返す。 
況んや和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらん。
克く梁園左右の陣を固めて、宜しく吾等が進發の告げを待つべし。
状を察して疑胎を作すこと莫かれ。
以つて牒す。件の如し。治承四年五月二十一日、大衆等」
とぞ書いたりける。

(現代文訳)

勢いに乗るあまり、昨年の冬十一月、後白河上皇の御所を没収して、関白を流刑に処しました。

叛逆のはなはだしいことは、誠に未曾有です。

そのとき、我らは、当然に賊徒に立ち向かって、その罪を問わねばならないといえども、或は神慮に相い憚り、或いは綸旨(天皇の言葉)と称するものに、鬱とうしさを抑えて、時を過ごす間に、(平家一門は)重ねて軍兵を動員して後白河院第二皇子の高倉宮(以仁王)を包囲しました。

そこへ、八幡三所(応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神を祀る)、春日大明神が、密かにお姿を現され、お乗物を捧げ奉り、以仁王を貴寺(円城寺)に送り届けて、新羅大明神の社にお 預け奉りました。

王法が尽きてないことは明らかです。

それゆえ、貴寺が命をかけてお守り奉るとのこと、有識者で喜ばない人はいないでしょう。

この時、我らは遠くにいて、同じような気持ちでいたところに、清盛公が兵乱を起こし、さらに、貴寺に入らんとするとのこと、その噂を聞き、兼ねてより用意をしていました。

十八日辰の一點に衆徒を出発させ、諸寺に伝達し、末寺にも知らせて、軍士を揃えてのち、案内を届けようとしたところに、そちらの書信の使者がきてお手紙を受け取りました。

數日の鬱念は一時に晴れました。

かの唐家清涼一山の僧侶らが、武宗の官兵を追い返しました。

まして、日本国の南(興福寺)北(円城寺)兩門の衆徒が、皇室に謀反をたくらむ臣下のよくないことがらをうち払うことができないということはないでしょう。

十分に、竹園(高倉宮)の左右の陣を固めて、宜しく我らが進發の告げをお待ちください。

この状を察して疑いをなすことがないように。
以つて牒す。件の如し。
治承四年五月二十一日、大衆等」
とぞ書いたりける。

ーーーーーーーーーーーーーー

(考察)

            覚明が書いたこの内容は教養や知性が盛り込まれ個性的

 当時、これを書いた信救(覚明)が、平家にばれて興福寺にいられなくなり奈良から命がけで逃亡したことは、木曾願書の条で本人が書いています。

その原文では
「高倉宮、園城寺へ入御の時、山、奈良へ牒状を遣はされけるに、南都の大衆如何思ひけん、その返牒をば、この信救にぞ書かせける。
抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥とぞ書いたりける。
入道大きに怒つて、
何條その信救めが、浄海(清盛の出家名)程の者を、平氏の糟糠、武家の塵芥と書くべき様こそ奇怪なれ。
急ぎその法師搦め捕つて、死罪に行へと宣ふ間、これに依つて南都には堪へずして、北国へ落ち下り、木曽殿の手書して、大夫坊覺明と名乗る」とあります。

高倉宮(以仁王)が源頼政と平家討伐のために挙兵した折に、比叡山や奈良へ牒状を遣はされました。その返牒を奈良にいた信救が書くことになり、
この有名な「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥 」の檄文を書いたのです。

清盛は大いに怒り信救法師を捕えて殺せと命令しました。

信救は奈良に居られず北國に落ち延び、木曽義仲の祐筆として大夫坊覺明と改名したと自ら述べているのです。

しかし、この南都返牒の現物は三井寺(円城寺)に宛てて送られたものです。

言わば一点ものの蜜書です。

なぜ、平家に知られたのでしょうか。

興福寺から漏れたのでしょうか。

興福寺では大衆で詮議して信救(覚明)が代表して書いたとなっています。

でも、この南都返牒の内容には覚明の教養や知性が盛り込まれ個性的です。

興福寺でこの南都返牒の下書きが大衆に公開されたのでしょうか。

多分、宛先の三井寺で公開されたのだと思います。公開と言っても掲示板に貼り出されたのだと思います。

それを潜り込んでいた平家の親派が見て、平家一門に御注進したと思われます。

清盛に知られたことで、信救は奈良に居られなくなり、行く先々で検問に会い、逃げ切れないことを悟り、「源平盛衰記」新八幡願書事の条によれば、窮余の一策として、漆を湯に沸して身に浴び、腫れて癩病患者の如く変そうしたとのことです。

当時、癩病患者がいたので、ひどい漆かぶれはそれと間違えられ、検問を逃れることができたのです。

でも、三井寺の人たちがこの南都返牒を信救が書いたとは知りません。

やはり、興福寺にも平家の親派がいて信救が書いたことがばれたということでしょう。

平家一門は清盛の案で、「平家物語」の禿童の条にあるように情報機関を制度化していたくらいですから、凡ゆるところにスパイ網を張り巡らしていたということではないでしょうか。

その後、信救は奈良から北国を経由して東国へ逃亡する途中に、三河の国府で十郎蔵人行家に出会いました。

行家は平家追討の為に、東国から都へ攻め上るところで、墨俣河で戦い平家に打ち負かされたところでした。

旅で汚れた信救は湯を浴びて手当されると、本当の癩病ではないので腫れは次第に引き本来の信救に戻りました。

この時、行家が三河の国府より伊勢太神宮へ納めた祭文も、信救が代筆しました。その祭文は今も伊勢神宮に宝物として保存されています。

その後、信救は行家とともに信濃に行き、木曾義仲と合流して大夫房覚明と改名したのです。


(長左衛門・記)



(参照)

「平家物語」の南都返牒の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の南都返牒を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。

南都返牒の全文(奈良興福寺から三井寺への返牒)

なんと(南都)のだいしゆ(大衆)このじやう()をひけん(披見)して、いちみどうしん(一味同心)にせんぎ(僉議)して、やがてへんてふ(返牒)をこそおく(送)りけれ。
そのへんてふ(返牒)にいは(云)く、

「こうぶくじ(興福寺)てつ(牒)す、をんじやうじ(園城寺)のが(衙)。
らいてふ(來牒)いつし(一紙)にの(載)せられたり。
みぎにふだうじやうかい(右入道淨海)がため(爲)に、きじ(貴寺)のぶつぽふ(佛法)をほろ(亡)ぼさんとするよし(由)のこと(事)てつ(牒)す。
ぎよくせんぎよくくわりやうか(玉泉玉花兩家)のしうぎ(宗義)をたつ(立)といへど(雖)も、きんしやうきんく(金章金句)、おな(同)じういちだい(一代)のけうもん(教文)よりい(出)でたり。
なんきやうほくきやう(南京北京)とも(共)にもつ(以)てによらい(如来)のでし(弟子)たり。
じじたじ(自寺他寺)、たがひ(互)にでうだつ(調達)がましやう(魔障)をぶく(伏)すべし。

そもそも(抑)きよもりにふだう(清盛入道)はへいじ(平氏)のさうかう(糟糠)、ぶけ(武家)のぢんがい(塵芥)なり。

そぶ(祖父)まさもり(正盛)、くらんどごゐ(藏人五位)のいへ(家)につか(仕)へて、しよこくじゆりやう(諸國受領)のむち(鞭)をとる。おほくらきやうためふさ(大藏卿爲房)、かしうしし(加州刺史)のいにしヘ(古)、けんびしよ(檢非所)にふ(補)し、しゆりのだいぶあきすゑ(修理大夫顯季)、はりま(播磨)のたいしゆ(大守)たりしむかし(昔)、むまや(厩)のべつたうしき(別當職)ににん(任)ず。しか(然)るをしんぶただもり(親父忠盛)、しようでん(昇殿)をゆる(許)されしとき(時)、とひ(都鄙)のらうせう(老少)、みな(皆)ほうこ(蓬戸)のかきん(瑕瑾)をを(惜)しみ、ないげ(内外)のえいかう(榮幸)、おのおのばだい(各馬臺)のじんもん(讖文)にな(泣)く。
ただもり(忠盛)せいうん(青雲)のつばさ(翅)をかいつくろ(刷)ふといへど(雖)も、よ(世)のたみ(民)なほ(猶)はくをく(白屋)のたね(種)をかろ(輕)んず。な(名)をを(惜)しむせいし(青侍)、そのいへ(家)にのぞ(望)むこと(事)な(無)し。
しか(然)ればすなは(則)ちさ(去)んぬるへいぢぐわんねんじふにんぐわつ(平治元年十二月)、だじやうてんわう(太上天皇)いつせん(一戰)のこう(功)をかん(感)じて、ふじ(不次)のしやう(賞)をさづ(授)けたま(給)ひしよりこのかた(以來)、たか(高)くしやうこく(相國)にのぼ(上)つて、か(兼)ねてひやうぢやう(兵仗)をたま(賜)はる。
なんし(男子)あるひ(或)はたいかい(台階)をかたじけな(辱)うし、あるひ(或)はうりん(羽林)につら(列)なり、によし(女子)あるひ(或)はちうぐうしき(中宮職)にそな(備)はり、あるひ(或)はじゆんごう(准后)のせん(宣)をかうぶ(蒙)る。
くんていそし(群弟庶子)、みな(皆)きよくろ(棘路)にあゆ(歩)み、そのまご(孫)かのをひ(甥)、ことごと(悉)くちくふ(竹符)をさ(割)く。
しかのみならず(加之)きうしう(九州)をとうりやう(統領)し、はくし(百司)をしんだい(進退)して、ぬび(奴婢)みな(皆)ぼくじう(僕従)となす。いちまう(一毛)こころ(心)にたが(違)へば、わうこう(王侯)といへど(雖)もこれをとら(捕)へ、へんげん(片言)みみ(耳)にさか(逆)ふれば、くぎやう(公卿)といへど(雖)もこれをから(搦)む。
これによ(依)つて、あるひ(或)はいつたん(一旦)のしんみやう(身命)をの(延)べんがため(爲)、あるひ(或)はへんし(片時)のりようじよく(凌蹂)をのが(遁)れんとおも(思)つて、ばんじよう(萬乘)のせいしゆ(聖主)、なほ(猶)めんてん(面轉)のこび(媚)をなし、ぢうだい(重代)のかくん(家君)、かへ(却)つてしつかう(膝行)のれい(禮)をいた(致)す。
だいだいさうでん(代々相傳)のけりやう(家領)をうば(奪)ふといへど(雖)も、しやうさい(上宰)もおそ(恐)れてした(舌)をま(捲)き、みやみやさうじよう(宮々相承)のしやうゑん(荘園)をと(取)るといへど(雖)も、けんゐ(權威)にはばか(憚)つてものいふこと(事)なし。
かつ(勝)にの(乘)るあま(餘)り、きよねん(去年)のふゆ(冬)じふいちぐわつ(十一月)、だ[い]じやうくわう(太上皇)のすみか(栖)をつゐふく(追捕)して、はくりくこう(博陸公)のみ(身)をおしなが(推流)す。ほんぎやく(叛逆)のはなはだ(甚)しきこと、まこと(誠)にこきん(古今)にた(絶)えたり。
そのとき(時)われら(我等)、すべか(須)らくぞくしゆ(賊衆)にゆ(行)きむか(向)つて、そのつみ(罪)をと(問)ふべしといへど(雖)も、あるひ(或)はしんりよ(神慮)にあひはばか(相憚)り、あるひ(或)はりんげん(綸言)としよう(稱)ずるによ(依)つて、うつたう(鬱陶)をおさ(押)へて、くわういん(光陰)をおく(送)るあひだ(間)、かさ(重)ねてぐんびやう(軍兵)をおこ(起)して、いちゐんだいに(一院第二)のしんわうぐう(親王宮)をうちかこ(打圍)むところ(處)に、はちまんさんじよ(八幡三所)、かすがだいみやうじん(春日大明神)、ひそか(竊)にやうがう(影向)をた(垂)れ、せんひつ(仙蹕)をささ(捧)げたてまつ(奉)り、きじ(貴寺)におく(送)りつ(付)けて、しんらの(新羅)とぼそ(扉)にあづ(預)けたてまつ(奉)る。

わうぼふ(王法)つ(盡)きざるむね(旨)あきら(著)けし。
よ(仍)つてきじ(貴寺)しんみやう(身命)をす(棄)ててしゆご(守護)したてまつ(奉)るでう(條)、がんじき(含識)のたぐひ(類)、たれ(誰)かずゐき(随喜)せざらん。
このとき(時)われら(吾等)ゑんゐき(遠域)にあ(在)つて、そのなさけ(情)をかん(感)ずるところ(處)に、きよもりこう(清盛公)、なほ(尚)きようき(兇器)をおこ(起)して、きじ(貴寺)にい(入)らんとするよし(由)、ほのか(風)につた(傳)へうけたまは(承)るによ(依)つて、か(兼)ねてようい(用意)をいた(致)す。
じふはちにち(十八日)たつ(辰)のいつてん(一點)にだいしゆ(大衆)をおこ(發)し、しよじ(諸寺)にてつそう(牒奏)し、まつじ(末寺)にげぢ(下知)して、ぐんし(軍士)をえ(得)てのち、あんない(案内)をたつ(達)せんとするところ(處)に、せいてう(青鳥)と(飛)びきた(來)つてはうかん(芳翰)をな(投)げたり。
すうじつ(數日)のうつねん(鬱念)いちじ(一時)にげさん(解散)す。か(彼)のたうかしやうりやういつさん(唐家清涼一山)のひつしゆ(苾蒭)、なほ(猶)ぶそう(武宗)のくわんびやう(官兵)をかへ(返)す。
いは(況)んやわこくなんぼくりやうもん(和國南北兩門)のしゆと(衆徒)、なん(何)ぞぼうしん(謀臣)のじやるゐ(邪類)をはら(掃)はざらん。
よ(克)くりやうゑん(梁園)さう(左右)のぢん(陣)をかた(固)めて、よろ(宜)しくわれら(吾等)がしんぱつ(進發)のつ(告)げをま(待)つべし。じやう(狀)をさつ(察)してぎたい(疑胎)をな(作)すことな(莫)かれ。も(以)つててつ(牒)す。くだん(件)のごと(如)し。ぢしようしねんごぐわつにじふいちにち(治承四年五月二十一日、だいしゆら(大衆等)」
とぞか(書)いたりける。

作成/矢久長左衛門

0 件のコメント:

コメントを投稿