2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(1) 木曽願書の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(1)

 

      この木曽願書は、最も覚明本人が色濃く投影されている

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

「平家物語」の木曽願書の条 


(考察)

          覚明は、自分を登場させ作者が誰であるかを残しました

 「木曽願書」とは、つまり木曽義仲が倶利伽羅峠の戦い(倶利伽羅落の条)の前に、埴生八幡神社に戦勝を祈願した折に納めた埴生願書のことです。

この埴生願書は義仲の祐筆として従軍していた海野幸長こと信救、この時は改名して大夫坊覺明が書いたものとして作中で語られています。

この部分は本人でないと、ここまでは分からないであろうほど詳しく自身の経歴や風体や行動や考えを述べています。

平家物語は永らく作者不詳とされて来ました。

しかし、兼好法師が徒然草で書き残した信濃前司幸(行)長こと覚明は、自分をここに登場させ作者が誰であるかを残しました。

この「木曽願書」の部分は、平家物語の原作である「治承物語」にも、既に書かれていたに違いありません。

当時、印刷して本にする方法はなく、作者の下書き(初稿)は琵琶法師が記憶して詠じました。
初稿は作者や琵琶法師により手を加えられ、二稿、三稿と少しずつ成長します 。

今でいうとテレビドラマの初稿台本がプロデューサーや演出の意見により手が加えられ、二稿、三稿となり、最終稿で俳優により演じられ、さらに放送台本(字幕・副音声用)として仕上げられます。
そしてそれがリメイクされると、更に脚色されていきます。

琵琶法師により時と共に変化していく作品、その原作者名は、当時、伝承されることもなく過ぎて行きました。

この平家物語の「木曽願書」の部分は、その作者名を伝える貴重な情報と捉えることが出来ます。

この覚明の経歴は原作「治承物語」で書かれたものが、成長した後の「平家物語」でもそのまま引き継がれてきたと言えます。

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(木曽願書の条)原文では

木曽殿宣ひけるは、「平家は大勢であんなれば、軍は定めて懸合の軍にてぞあらんずらん。
懸合の軍と云ふは、勢の多少による事なれば、大勢かさに懸けて取籠められては叶ふべからず。先づ謀に白旗三十流先立てて、黒坂の上に打立てたらば、平家これを見て、あはや源氏の先陣の向うたるは。何十萬騎かあるらん。取籠められては叶ふまじ。この山は四方岩石なれば、搦手よも廻らじ。暫く下り居て馬休めんとて、砺波山にぞ下り居んずらん。
その時義仲暫くあひしらふ體にもてなして、日を待ち暮し夜に入つて、平家の大勢、後の倶利迦羅が谷へ追ひ落さん」とて、
先づ白旗三十流、黒坂の上に打立てたれば、案の如く平家これを見て、
「あはや源氏の大勢の向うたるは。取籠められては叶ふまじ。ここは馬の草飼、水便共に好げなり。暫く下り居て馬休めん」とて、
砺波山の山中、猿の馬場と云ふ所にぞ下り居たる。

木曽は、埴生に陣取つて、四方をきつと見廻せば、夏山の峰の緑の木の間より、朱のたま玉垣ほの見えて、片そぎ造りの社あり。
前には鳥居ぞ立つたりける。
木曽殿、國の案内者を召して、       
「あれをば何處と申すぞ。如何なる神を崇め奉つたるぞ」と宣へば、
「あれこそ八幡にてわたらせ給ひ候へ。所もやがて八幡の御領で候」と申す。

木曽殿斜ならずに悅び、手書に具せられたりける、大夫坊覺明を召して、「義仲こそ何となう寄すると思ひたれば、幸ひに新八幡の御寶前に近づき奉つて、合戰を既に遂げんとすれ。さらんにとつては、且は後代のため、且は當時の祈禱の爲に、願書を一筆書いて参らせうど思ふは如何に」と宣へば、
覺明、「この儀尤も然るべう候」とて、馬より下りて書かんとす。
覺明がその日の爲體、褐の直垂に黒絲縅の鎧着て、黒漆の太刀を帯き、二十四差いたる黒毋呂の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、甲をば脱いで高紐に懸け、箙の方立より小硯、畳紙取出し、木曽殿の御前に畏つて願書を書く。
あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける。
この覺明と申すは、本は儒家の者なり。
藏人道廣とて、勸學院にぞ候ひける。出家の後は、最乗坊信救とぞ名乘りける。常は南都へも通ひけり。
一年高倉の宮、園城寺へ入御の時、山、奈良へ牒状を遣はされけるに、南都の大衆如何思ひけん、その返牒をば、この信救にぞ書かせける。
「抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」とぞ書いたりける。
入道大きに怒つて、
「何條その信救めが、浄海程の者を、平氏の糟糠、武家の塵芥と書くべき様こそ奇怪なれ。急ぎその法師搦め捕つて、死罪に行へ」
と宣ふ間、これに依つて南都には堪へずして、北国へ落ち下り、木曽殿の手書して、大夫坊覺明と名乗る。

(現代文訳)

木曽殿※が述べるには、
「平家軍は多勢であるので、戦いはきっと懸合(両軍の兵力が互いに攻め掛かり合うこと)になるだろう。懸合の戦と云うのは、兵力の多少によるので、多勢をかさにかけて包囲されてはかなわない。
まず、計略として、まえもって白旗を三十本、黒坂の上に打立てたら、平家これを見て、ああ、源氏の先陣は向かってきているな。その数は何十萬騎らしい。包囲されてはかなわない。この山は四方が岩石なので、源氏はよもや背後に回らないだろう。しばらく下りて馬を休めようとして、砺波山※の山中にいるだろう。
その時、義仲軍はしばらくあしらう振りをして、日暮れを待ち、夜に入つて、平家の大軍を、後の倶利迦羅が谷※へ追ひ落とそう」とて、
木曽軍は、まず白旗三十本を、黒坂の上に打立てると、案の如く平家軍これを見て、
「ああ、源氏の大勢が向かってきているな。包囲されてはかなわない。ここは馬の餌、水の便共に良さそうだ。しばらく降りて、馬を休めよう」と、
砺波山の山中、猿の馬場※と云ふ所で休んだ。

木曽義仲は、埴生に陣取つて、四方をきつと見廻すと、夏山の峰の緑の木の間より、朱色の神社の垣が少し見えて、片そぎ造りの社がありました。
その前には鳥居が立っていました。
義仲は、土地の案内人を呼んで、       
「あれは何処の何と申す神社か。如何なる神を崇め奉つているのか」と言えば、
「あれは埴生八幡神宮※です。この場所も八幡宮の御領地です」と言いました。


※【源義仲】みなもと‐の‐よしなか(木曽義仲)
平安末期・鎌倉初期の武将。義賢の二男。父が源義平に殺され、乳母の夫中原兼遠によって木曾山中で成長したので、木曾義仲とも呼ばれた。以仁王(もちひとおう)の令旨で挙兵、北陸道を西上して寿永二年(一一八三)入京。東国の頼朝、西国の平氏と天下三分の形勢をつくり、朝日将軍の名を得たが、間もなく後白河法皇に反して、法住寺殿に法皇を攻め、かえって源範頼・義経の追討を受けて、近江粟津原で敗死した。久寿元~寿永三年(一一五四‐八四)日本国語大辞典小学館 

※【礪波山】となみ‐やま
富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町との境にある山。山中に、旧北陸道の倶利伽羅(くりから)峠があり、源平合戦の古戦場として知られる。標高二七七メートル。倶利加羅山。黒坂山。
▷ 万葉(8C後)一七・四〇〇八
「刀奈美夜麻(トナミヤマ) 手向の神に 幣(ぬさ)奉(まつ)り」日本国語大辞典小学館

※【倶利伽羅谷】くりから‐だに
富山県小矢部市、倶利伽羅峠の南斜面にある深い谷。寿永二年(一一八三)木曾義仲が火牛の計で平家の大軍を攻め落とした古戦場。くりからがたに。日本国語大辞典小学館

※【猿馬場】さるのばば
富山県小矢部市の西境、倶利伽羅(くりから)峠の付近の古地名。さるがばんば。
▷ 平家(13C前)七
「砥浪山(となみやま)の山中、猿の馬場といふ所にぞおりゐたる」
 日本国語大辞典小学館
                                            
※埴生護国八幡宮 はにゅうごこくはちまんぐう
◎ [主神]:八幡大神(はちまんおほかみ)
 八幡大神は「やはた」の大神(おほかみ)とも呼ばれ、譽田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)すなわち 応神天皇と一体である。多面的な御性格【農業神、鍛冶神、国家神、軍神など】で、八幡大菩薩とも称せられ、仏教とのかかわりが深かった。
◎由 緒
宮縁起によれば奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請【かんじょう】(お迎え)したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。
天平時代の末、寿永二年(1183)五月木曾義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢をしく平維盛【たいらのこれもり】の大軍と決戦するにあたって当社に戦勝を祈願し、八幡神の霊験を得て大勝利を果たした。このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など多くの古典文学の中に語られている。
◎神使 しんし
八の文字が鳩の形となっているのは、鳩が八幡神の神使であることによる。
義仲公の戦勝祈願の際にも鳩が現われて神意を伝えたとされ、境内の手水鉢に注ぐ鳩清水も、くりから山中で鳩の導きによって源氏軍によって発見したとの言い伝えがある。
(埴生護国八幡宮公式ホームページ)


(現代文訳)つづく

(八幡宮と聞いて)木曽殿は格別に歓び、書記役(祐筆)に伴っていた大夫坊覺明を呼んで「義仲がなんとなく立ち寄ろうと思ったら、幸いにも新八幡の御神前にお近づきし、すでに合戦を遂げようとしている。そうであるからには、一方では後代のため、他方では、只今の祈祷のために、願書を一筆書いて奉納しょうと思うが、どうだろうか」と告げました。
覚明が「その儀、もっとも、そうであるべきです」と、馬より下りて書こうとしました。

覚明のその日の様子は、濃紺の直垂(ひたたれ、闕腋の肩衣に袖をつけた衣服)に、黒絲縅の鎧を着て、黒漆の太刀を帯び、二十四本差している黒ぼろの矢(鷲のほろ羽根の黒いのではいだ矢)を背負い、塗籠籐の弓(ぬりごめどう、 籐巻の弓の、籐の部分を含めて全体を漆で塗りこめた矢)を脇のしたに挟み、甲(兜)を脱いで高紐(鎧の後胴の先端と前胴の上部をつなぐ懸け渡しの紐)に懸け、箙(えびら、矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具)の方立(箙の下のほうの矢じりを差しこむ箱の部分の称)より小硯、畳紙取出し、木曽殿の御前で畏つて願書を書きました。
それは、あつぱれな文武両道の達人に見えたことでしょう。
    
この覚明というのは、もと、儒学を修めた者です。    
藏人道廣として勧学院にいました。出家の後は、最乗坊信救と名乘りました。いつも奈良へも通っていました。
先年、高倉の宮が園城寺へお入りになられたとき、比叡山と奈良へ諜状を遣わされた折、奈良の大衆(僧団)はどう思ったのか、その返諜を信救に書かせました。
「そもそも、清盛入道は、平氏の糟糠(酒かすとぬかの意から、粗末な食物)、武家の塵芥(塵と芥でごみの意から、取るにたりないもの)」と、書きました。

清盛入道は、大変、怒って、
「何だと、その信救めが、浄海(清盛の出家名)程の者を、平氏の糟糠、武家の塵芥と書いたとは、けしからん。急いで、その法師(坊主)を、からめ捕つて、死罪にしろ」と言ったので、これらによって南都(奈良)には居られず、北国へ落ち下り、木曽殿の手書として、大夫坊覺明と名乗りました。     

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(考察)

   覚明の実家信濃滋野摘流海野家では、この廣と道(通)が代々使われていた

原文では、
「この覚明と申すは、もと儒家の者なり。蔵人道廣とて、勸學院にぞさふらひける」とありますが、蔵人道(通)廣の蔵人は氏蔵人の道(通)廣のことです。

清和天皇の第四皇子貞保親王(生母は藤原高子で、兵部卿・式部卿を務める)の後裔ですから源蔵人になります。

 ここで勸學院のことですが、調べたところ、勸學院は藤原氏が一族のために創設した京都の私立勸學院と、同じ頃、奈良の東大寺にあった僧侶育成のための国立勸學院(元灌頂道場)とがあります。

蔵人道(通)廣は藤原氏の氏蔵人、つまり藤蔵人という説(藤原高子の末裔で)もありますが、彼は貞保親王の末裔である地方有力氏族の信濃滋野氏嫡流海野幸親の次男ですから源蔵人で奈良東大寺の勸學院の進士だったということも考えられます。

道(通)廣という名は海野幸長こと海野道(通)廣のことで、水嶋の海戦(水島合戦の条のこと)で戦死した兄の木曽軍の将海野幸廣と同じ廣が使われています。

信濃滋野嫡流である海野家の祖である信濃滋野家でも、この廣と道(通)が代々使われていました。

保元の乱で戦死した信濃守海野行(幸)通は、道(通)廣の父幸親の兄ですから叔父にあたります。

整理すると蔵人道廣は本名海野幸長のことで勸學院では蔵人道(通)廣、出家して最乗坊信救、木曽軍に従軍して大夫坊覚明ということになります。

原文では、
 「出家の後は、最乗坊信救とぞ名乗りける。常は南都へも通ひけり」とあります。

 これは蔵人道(通)廣の出家名である信救著作の「仏法伝来次第」の経歴とも一致し、近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家したあとも、比叡山と南都(奈良)を往来していたことになります。

原文では、

「高倉宮、園城寺へ入御の時、山、奈良へ牒状を遣はされけるに、南都の大衆如何思ひけん、その返牒をば、この信救にぞ書かせける。
抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥とぞ書いたりける。
入道大きに怒つて、
何條その信救めが、浄海程の者を、平氏の糟糠、武家の塵芥と書くべき様こそ奇怪なれ。
急ぎその法師搦め捕つて、死罪に行へ
と宣ふ間、これに依つて南都には堪へずして、北国へ落ち下り、木曽殿の手書して、大夫坊覺明と名乗る」とあります。

 高倉宮(以仁王)が源頼政と平家討伐のために挙兵した折に円城寺から、比叡山や奈良へ牒状を遣はされました。
その返牒を奈良にいた信救が書くことになり、
かの有名な「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥 」の檄文を書いたのです。
清盛は大いに怒り信救法師を捕えて殺せと命令する。
信救は奈良に居られず、北國に落ち延び木曽義仲の祐筆として大夫坊覚明と名乗ったと自ら述べているのです。

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木曽願書の条の原文つづく

その願書に云く、
「歸命頂禮、八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。寳祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯はし、三所の權扉を排き給へり。
ここに頃の年よりこの以來、平相國とい云ふ者あつて、四海を管領し、萬民を惱亂せしむ。これ既に佛法の怨、王法の敵なり。
義仲苟くも弓馬の家に生れて、纔に箕裘の塵を繼ぐ。
かの暴悪を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。
運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。
試みに義兵を起して兇器を退けんと欲す。
然るに鬪戰兩家陣を合すと雖も、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣旗を擧ぐ。
戰場にして忽ちに三所和光の社壇を拝す。
機感の純熟明かなり。
凶徒誅戮疑ひなし。歡喜涙翻れて、渇仰肝に染む。
就中曾祖父前陸奥守義家朝臣、身を宗廟の氏族に歸附して、名を八幡太郎義家と號せしより以來、その門葉たる者、歸敬せずと云ふ事なし。
義仲その後胤として、首を傾けて年久し。
今この大功を起す事、譬へば嬰児の蠡を以て巨海を測り、蟷螂が斧を怒らかいて隆車に向ふが如し。
然りと雖も國の為、君の爲にしてこれを起す。
全く身の爲、家の爲にしてこれを起さず。
志の至り、神感空に在り。
憑しきかな、悅ばしきかな。伏して願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮せて、勝つ事を一時に決し、怨を四方へ退け給へ。
然れば則ち丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。
壽永二年五月十一日、源義仲敬つて白す」と書いて、
わが身を始めて、十三騎が上矢の鏑を抜き、願書に取添へて、大菩薩の御寶殿にぞ納めける。
憑しきかな、八幡大菩薩、眞實の志二つなきをや、遥に照覧し給ひけん、
雲の中より、山鳩三つ飛び來つて、源氏の白旗の上に翩翻す。

 昔神功皇后新羅を攻めさせ給ひし時、御方の戰ひ弱く、異国の軍強くして、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、雲の中より靈鳩三つ飛び來つて、御方の楯の面に顕はれて、異国の軍破れにけり。

又この人々の先祖頼義朝臣、奥州の夷貞任宗任を攻め給ひし時、御方の戰ひ弱く、兇賊
の軍強くして、既にかうと見えしかば、頼義朝臣敵の陣に向つて、「これは全く私の火にあらず。神火なり」とて火を放つ。
風忽ちに夷賊の方へ吹き覆ひ、厨河の城焼け落ちぬ。その時軍破れて貞任宗任亡びにけり。

木曽殿かやうの先蹤を思ひ出でて、急ぎ馬より下り、甲を脫ぎ、手水嗽をして、今この靈鳩を拝し給ひける、心の中こそ憑しけれ。


(現代文訳)

その願書にいわく、
「帰命頂礼(きみょうちょうらい。神仏に対する唱え文句、神仏の教えを信じひれ伏し拝むの意)、八幡大菩薩は(八幡神に奉った称号。仏教の立場から八幡宮の本地を菩薩として呼ぶ称で、神仏混淆の結果起こったもの。 八幡大菩薩に誓っていつわりのないことの意。)日域(じちいき。日が照らす域内、転じて、天下。日本の異称。)朝廷(天子が政治を行なう機関)の本主(本来の所有者)で、代々の賢明な君主の先祖です。

寳祚(天子の統治)を守らんがため、蒼生(国民)を利せんがために、三身(仏身の三種、法身、報身、応身)の金容(金色に輝く仏像などの容姿)を現し、三所(神社にまつられている三柱の神。とくに、八幡宮の応神天皇・神功皇后・比売神の三神をいうことが多い。)の權扉(お力のある扉)を押し開き下さい。   

この頃の年より以来、平相國(平清盛)という者がおり、四海(四方の海のうちの意から国内)を領有し、万民を、悩ませ乱しています。
これは、すでに仏法の恨み、王法の敵です。
義仲は仮にも武家に生まれ、わずかに父祖伝来の業の塵を継いでいます。
かの暴悪を考えるに、思慮をめぐらすことは出来ません。
運を天に任せて、身を国家に投じます。
試みに義兵をあげて、兇賊を退治することを望んでいます。
そうであるのに、戦闘を前に源家と平家が陣を対峙させているのに、源氏軍の士卒たちは、いまだ一致した士気が得られず、まとまらない心を抱いていたところですが、今、一つの陣として、ここに旗を上げました。

ところがなんと、戦場を前に、直ぐに三所(神社にまつられている三柱の神。とくに、八幡宮の応神天皇・神功皇后・比売神の三神)和光(仏菩薩が威徳の光をやわらげ、仮の姿を衆生の間に現わすこと)の神殿を拝見しました。 
これは、神仏が感応なさり、機が熟していることが明らかです。
罪あるものを殺すことに疑いはありません。歓喜の涙がこぼれ、渇仰(渇して水を思うように、神仏を仰ぎ慕う意)を心に刻んでおります。

特に、(義仲の)曾祖父の前陸奥守源義家朝臣※は、身を宗廟(祖先のみたまや)の氏族(同じ祖先から出た一族)に帰付(付き従うの意)して、名を八幡太郎義家と号して以来、その門葉(一つの血筋につながる者の意)たる者は、歸敬(仏を心から信仰して、尊敬するの意)をしないということはありません。
義仲は、その後胤(子孫)として、不思議に思ったりして、もう久しいです。

いま、この大きな仕事を起こすことは、例えば、生まれて間もない子供がほら貝をもって大きな海を測り、鎌切が斧を怒らせて大きな車に立ち向かうようなものです。
そうであるにしても、それは国のため、君主のために、これを起こすのです。
それは自分のためや、家のためにして、起こすのではありません。

志は至って神を感ずる天にあります。
頼もしく、喜ばしいことです。
伏して、願わくば、暗い先に光を加え、神の霊力で罪あるものを殺し、勝つことを一時に決して、仇を四方に退けますようにお願いします。
そうすれば、その時、丹祈(丹誠を込めた祈り)、冥慮(はかりしれない神仏の配慮)に叶い、玄鑑(先の事まで見通す心の働き)加護(神仏が慈悲の力を加えて、助け守ること)をなさるのであれば、まず、一つ吉兆を見せて下さい。
壽永二年五月十一日、源義仲敬つて申し上げます」
と書いて、
義仲自身をはじめ十三人が箙に盛った普通の矢の上に差してある鏑矢を抜いて、願書に取り添え、八幡大菩薩の本殿に収めました。

期待どうり、八幡大菩薩は、本当の志が二つと無いことを、遠くではっきりと御覧になりました。
(すると)雲のなかから、山鳩が三羽とんできて、源氏の白旗の上に翻りました。

昔、神功皇后※新羅※を攻めなさったとき、味方の軍が弱く、外国の軍が強くて、すでに負けと見えたとき、皇后が天に御祈誓(神仏に誓いを立てて、その加護を祈ること)したとき、雲の中から霊鳥が三羽飛んできて、味方の楯の上に現れ、外国の軍は敗れました。

また、源義仲たちの先祖である頼義朝臣が、奥州の夷である安倍兄弟の安倍貞任※安倍宗任※を攻めたとき、味方の勢力が弱く、兇賊の勢が強くて、すでに負けと見えたとき、頼義朝臣は敵の陣に向つて
「これはすべて、わたしの火ではなく、神の火だ」と言い、火を放ちました。
風がたちまちに夷の敵の方へふき覆い、厨河(盛岡市の西、磐手郡厨川村)の城焼け落ちました。その時、夷軍破れて貞任・宗任が亡びました。

木曽殿はかやうな先例を思ひ出して、急いで馬より下り、甲を脫ぎ、手を洗い、うがいをして、すぐに、この靈鳩を拝みました、心の奥底から願いました。


※【源義家】みなもと‐の‐よしいえ
平安後期の武将。頼義の長男。母は平直方の女。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号する。天下第一の武勇の士といわれ、前九年の役に父頼義とともに奮戦し、功により出羽守となる。のち陸奥守となり後三年の役を鎮定して東国の武士の信望を得、源氏が東国に起こる基盤をつくった。長暦三~嘉承元年(一〇三九‐一一〇六)
日本国語大辞典 

※【神功皇后】じんぐう‐こうごう
記紀の仲哀皇后、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に対する漢風諡号。仲哀天皇西征に同行、神罰によって天皇が陣没した後、神託を得て新羅を討ったという。応神天皇の母。
日本国語大辞典 小学館

※【新羅】しらぎ
(古くは「しらき」) 古代の朝鮮半島の国名。四世紀中ごろ、朝鮮南東部の辰韓一二国を斯盧(しら)国が統一して建てた国。慶州に都した。六世紀に任那(みまな)を滅ぼし、半島から日本勢力を駆逐して、百済(くだら)、高句麗(こうくり)と三国時代を現出。七世紀には唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、大同江以南の半島最初の統一国家をつくった。唐制にならい中央集権的な政治体制をしいたが、地方勢力の台頭に苦しみ、九三五年高麗(こうらい)の太祖王建に滅ぼされた。しんら。
日本国語大辞典 小学館

※【安倍貞任】あべ‐の‐さだとう
平安後期の武将。陸奥厨川(くりやがわ)に住み、厨川二郎と称する。父頼時とともに朝廷にそむき、源頼義、義家の追討を受け、厨川柵(き)で敗死。歌舞伎「奥州安達原」などの題材となる。寛仁三~康平五年(一〇一九‐六二)
日本国語大辞典 小学館

※【安倍宗任】あべ‐の‐むねとう      
平安後期の武将。頼時の子。貞任の弟。鳥海(とりのみ)三郎と称する。父、兄とともに朝廷にそむき、追討軍と戦う。降伏して伊予に流され、さらに大宰府に移されたという。娘は奥州藤原氏二代目の基衡の室、秀衡の母。歌舞伎「奥州安達原」などの題材となる。生没年未詳。
日本国語大辞典 小学館

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(考察)
           「あつぱれ文武二道の達者かな」と自分の存在を克明に描写

この願書の前文には、神社への祈願の常套句が並び、本論では清盛の横暴をあげつらい、それは佛法と王法の仇や敵であると断じています。

原文では、
「かの暴悪を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して兇器を退けんと欲す」と、

 弓馬の家に生まれた木曽義仲の決意を述べています。
この決意は覚明の心情をも表わす決意でもあります。
覚明の海野家も千曲川の白鳥河原での旗揚げ以來、父幸親、兄幸広、甥の小太郎幸氏が従軍していました。
信濃滋野三家の海野家、望月家、禰津家を加え滋野一族だけで2000騎を超えていました。
木曽から来た源義仲の取り巻きを含めた木曽軍よりも多く、義仲には当てにされていました。
ところが、その後、進軍するうちに途中から参加して来た者を含め、心を一つに束ね、軍律を正さねばならなくなっていました。

原文では、
「然るに鬪戰兩家陣を合すと雖も、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣旗を擧ぐ。
戰場にして忽ちに三所和光の社壇を拝す。
機感の純熟明かなり。
凶徒誅戮疑ひなし。
歡喜涙翻れて、渇仰肝に染む」とあり、

覚明が軍師として木曽義仲始め士卒に語りかけ、暗示の言葉を投げかけています。
そして、従軍する士卒たちには、木曽義仲はただ者ではなく、曾祖父は前陸奥守源義家朝臣、名を八幡太郎義家と号し、義仲はその後胤として、大功を起すのだと述べています。

原文では、
「然りと雖も國の為、君 の爲にしてこれを起す。
全く身の爲、家の爲にしてこれを起さず。
志の至り、神感空に在り。
憑しきかな、悦ばしきかな。伏して願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮せて、勝つ事を一時に決し、怨を四方へ退け給へ」と、

神頼みの言葉が続き、神に押し付けがましくも先づ一つの瑞相を見せしめ給へと結んで、願書を社殿に納めたとあります。

すると、原文では、
「憑しきかな、八幡大菩薩、眞實の志二つなきをや、遥に照覧し給ひけん、
雲の中より、山鳩三つ飛來つて、源氏の白旗の上に翩翻す」とあります。

この時の覚明の得意満面な顔が浮かびます。
このことは、覚明が神からの瑞相を、自分の手柄でもあると誇張するために書いたに違いありません。
この日の覚明は、その前から得意絶頂で「あつぱれ文武二道の達者かな」と自分の存在を克明に描写しています。

原文では、
「覺明がその日の為體、褐の直垂に黒絲縅の鎧着て、黒漆の太刀を帯き、二十四差いたる黒毋呂の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、箙の方立より小硯、畳紙取出し、木曽殿の御前に畏つて願書を書く。
あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける」
とあります。

覚明が自分を「文武二道の達者」に見えたことでしょうと述べるのには理由があります。
この作品(平家物語の原作「治承物語」)を書く前に覚明は潜伏していた箱根山で「曽我物語」を書いています。

その中で政治を執るには武だけではなく文が重要だ、文の輩をないがしろにして政治は出来ないと、唐突に興奮気味に語られています。

これは京で覚明が木曽義仲にないがしろにされるようなことがあったに違いないと想像出来ます。

それは平家との和平交渉の件で義仲との間に亀裂が生じたのではと想像しています。

この条では最後に、神からの瑞相「山鳩三つ飛來つて、源氏の白旗の上に翩翻す」に箔をつけるために、覚明らしく神懸かった二つの故事を引用して締め括っています。

実際の現場では、義仲と士卒の志気をさらに高めるために覚明の口から語られたに違いない内容です。

一つは神功皇后が新羅を攻めた時に皇后天に御祈誓ありしかば、雲の中より靈鳩三つ飛來つて、御方が勝ったというものです。
しかし、この故事は裏付けるものがなく、覚明が筆(口)を滑らせた創作ともとれます。

もう一つは源頼義朝臣が奥州の夷である貞任・宗任を攻めたとき敵陣に向かい「これは全く私の火にあらず。神火なり」と火を放つと、この時鳩あり、軍陣の上に翔り、将軍再拝す。暴風忽ちに起こり(則自把火稱「神火」投之。是時、有鳩、翔軍陣上。將軍再拜。暴風忽起、煙焔如飛) 、厨河城が焼け落ち勝ったと言うのものです。
これは今昔物語の陸奥話記にある故事で有名なものです。

原文では、
「木曽殿かやうの先蹤を思ひ出でて、馬より下り、甲を脱ぎ、手水嗽をして、今この靈鳩を拝し給ひける、心の中こそ憑しけれ」 とあります。

この時、覚明は義仲の素直な態度に、頼もしく思ったに違いありません。

以上の事から、「平家物語」の中で、この木曽願書の条は、最も大夫坊覺明が色濃く投影されている条と言えるのではないかと思います。

また、余談になりますが、
木曽願書の冒頭では、覚明が「八幡大菩薩は、日域朝廷の本主」と、神仏混淆※で、八幡様への神頼みと大菩薩様への仏頼みをしていますが、
実は覚明(当時は信救得業)の原作「曽我物語」では、
「それ、じちいき(日域、天下の意)秋津島※(日本国の古称)は、これ、国常立尊(くにとこたちのみこと)※より事おこり」と、木曽願書と同じ、じちいき(日域)を使用していますが、ここでは、神である国常立尊(「日本書紀」で、天地開闢ののち最初に出現した原初の神。「古事記」では、国常立神の名)を優先し、天下の日本は神の国であることを、はっきり表現しています。

覚明は、比叡山(延暦寺)で木曽願書の条を書く前に、箱根山(箱根権現)で原「曽我物語」を書きましたが、そこで同じようにじちいき(日域)を使用していたのです。
そして、天下の日本国は神の国だと正確に認識していました。


 ※【神仏混淆】しんぶつ‐こんこう
〘名〙 神仏同体説に基づいて、日本固有の神と仏教の仏菩薩とを同一視し、両者を同じところに配祀して信仰すること。すでに奈良時代に始まり、以後、神宮寺(じんぐうじ)、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の流行をみた。明治元年(一八六八)に「神仏判然令」が出され、その混淆が禁止された。神仏習合。
日本国語大辞典小学館 

※【秋津島・秋津洲・蜻蛉洲】あきつ‐しま
 〘名〙 (古くは「あきづしま」) 日本の国の古称。あきつしまね。あきつくに。やしま。記紀によれば、孝安天皇は「葛城の室の秋津島宮」で天下を治めたと伝承されるので、「あきづ」は古くは大和国葛上郡室村(奈良県御所市室)あたりの地名と推定される。後世、大和国にかかる枕詞となり、さらには国号ともなった。蜻蛉(トンボ)は「あきづ」とも称し、豊穰の季節を象徴する昆虫であったことから、五穀豊穰な土地柄を示す地名となったらしい。
日本国語大辞典小学館

※【国常立尊】くにのとこたち‐の‐みこと
「日本書紀」で、天地開闢ののち最初に出現した原初の神。国土の永遠の安定を意味する神。別名、国底立尊。「古事記」では、国常立神の名で、六番目に出現した神。草分尊(くさわけのみこと)。大元神(だいげんしん)。
日本国語大辞典小学館

(長左衛門・記)

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(参照)


「平家物語」の木曽願書の条(原文)



底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の木曽願書を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。



[木曽願書 ]の全文(埴生八幡願書のこと)


木曽どの(殿)のたま(宣)ひけるは、「平家はおほぜい(大勢)であんなれば、いくさ(軍)はさだ(定)めてかけあひ(懸合)のいくさ(軍)にてぞあらんずらん。
かけあひ(懸合)のいくさ(軍)とい(云)ふは、せい(勢)のたせう(多少)によること(事)なれば、おほぜい(大勢)かさにか(懸)けてとりこめられてはかな(叶)ふべからず。
ま(先)づはかりごと(謀)にしらはたさんじふながれさきだ(白旗三十流先立)てて、くろさか(黒坂)のうへ(上)にうつた(打立)てたらば、平家これをみて、あはやげんじ(源氏)のせんぢん(先陣)のむか(向)うたるは。
なんじふまんき(何十萬騎)かあるらん。
とりこ(取籠)められてはかな(叶)ふまじ。
このやま(山)はしはうがんぜき(四方岩石)なれば、からめで(搦手)よもまは(廻)らじ。
しばら(暫)くお(下)りゐ(居)てむまやす(馬休)めんとて、となみやま(砺波山)にぞお(下)りゐ(居)んずらん。
そのとき(時)よしなか(義仲)しばら(暫)くあひしらふてい(體)にもてなして、ひ(日)をま(待)ちくら(暮)しよ(夜)にい(入)つて、平家のおほぜい(大勢)、うしろ(後)のくりから(倶利迦羅)がたに(谷)へお(追)ひおと(落)さん」とて、
ま(先)づしらはたさんじふながれ(白旗三十流)、くろさか(黒坂)のうへ(上)にうつた(打立)てたれば、あん(案)のごと(如)くへいけ(平家)これをみ(見)て、
「あはやげんじ(源氏)のおほぜい(大勢)のむか(向)うたるは。         
とりこ(取籠)められてはかな(叶)ふまじ。
ここはむま(馬)のくさがひ(草飼)、すゐびんとも(水便共)によ(好)げなり。
しばら(暫)くお(下)りゐ(居)てむまやす(馬休)めん」とて、
となみやま(砺波山)のやまなか(山中)、さる(猿)のばば(馬場)とい(云)ふところ(所)にぞお(下)りゐ(居)たる。

きそ(木曽)は、はにふ(埴生)にぢんと(陣取)つて、しはう(四方)をきつとみまは(見廻)せば、なつやま(夏山)のみね(峰)のみどり(緑)のこ(木)のま(間)より、あけ(朱)のたまがき(玉垣)ほのみ(見)えて、かた(片)そぎづく(造)りのやしろ(社)あり。
まへ(前)にはとりゐ(鳥居)ぞた(立)つたりける。
きそどの(木曽殿)、くに(國)のあんないしや(案内者)をめ(召)して、       
「あれをばいづく(何處)とまう(申)すぞ。
いか(如何)なるかみ(神)をあが(崇)めたてま(奉)つたるぞ」とのたま(宣)へば、
「あれこそはちまん(八幡)にてわたらせたま(給)ひさふら(候)へ。
ところ(所)もやがてやはた(八幡)のごりやう(御領)でさふらふ(候)」とまう(申)す。

きそどの(木曽殿)なのめ(斜)ならずによろこ(悦)び、てかき(手書)にぐ(具)せられたりける、だいぶばうかくめい(大夫坊覺明)をめ(召)して、「よしなか(義仲)こそなに(何)となうよ(寄)するとおも(思)ひたれば、さいは(幸)ひにいまやはた(新八幡)のごはうぜん(御寶前)にちか(近)づきたてま(奉)つて、かつせん(合戦)をすで(既)にと(遂)げんとすれ。

さらんにとつては、かつう(且)はこうたい(後代)のため(為)、かつう(且)はたうじ(當時)のきたう(祈禱)のため(為)に、ぐわんじよ(願書)をひとふで(一筆)か(書)いてまゐ(参)らせうどおも(思)ふはいか(如何)に」とのたま(宣)へば、
かくめい(覺明)、「このぎ(儀)もつと(尤)もしか(然)るべうさふらふ(候)」とて、むま(馬)よりお(下)りてか(書)かんとす。
かくめい(覺明)がそのひ(日)のていたらく(為體)、かち(褐)のひたたれ(直垂)にくろいとをどし(黒絲縅)のよろひ(鎧)き(着)て、こくしつ(黒漆)のたち(太刀)をは(帯)き、にじふしさ(二十四差)いたるくろぼろ(黒毋呂)のや(矢)お(負)ひ、ぬりごめどう(塗籠籐)のゆみ(弓)わき(脇)にはさ(挟)み、かぶと(甲)をばぬ(脱)いでたかひも(高紐)にか(懸)け、えびら(箙)のはうだて(方立)よりこすずり(小硯)、たたうがみ(畳紙)とりいだ(取出)し、きそどの(木曽殿)のおんまへ(御前)にかしこま(畏)つてぐわんじよ(願書)をか(書)く。
あつぱれぶんぶにだう(文武二道)のたつしや(達者)かなとぞみ(見)えたりける。

このかくめい(覺明)とまう(申)すは、もと(本)はじゆけ(儒家)の(者)なり。
くらんどみちひろ(蔵人道廣)とて、くわんがくゐん(勸學院)にぞさふら(候)ひける。しゆつけ(出家)ののち(後)は、さいじようばうしんぎう(最乗坊信救)とぞなの(名乗)りける。つね(常)はなんと(南都)へもかよ(通)ひけり。
ひととせ(一年)たかくら(高倉)のみや(宮)、 をんじやうじ(園城寺)へじゆぎよ(入御)のとき(時)、やま(山)、なら(奈良)へてふじやう(牒状)をつか(遣)はされけるに、なんと(南都)のだいしゆ(大衆)いかがおも(如何思)ひけん、そのへんてふ(返牒)をば、このしんぎう(信救)にぞか(書)かせける。
「そもそも(抑)きよもりにふだう(清盛入道)は、へいじ(平氏)のさうかう(糟糠)、ぶけ(武家)のぢんがい(塵芥)」とぞか(書)いたりける。
にふだう(入道)おほ(大)きにいか(怒)つて、
「なんでふ(何條)そのしんぎう(信救)めが、じやうかい(浄海)ほど(程)のもの(者)を、へいじ(平氏)のぬかかす(糟糠)、ぶけ(武家)のちりあくた(塵芥)とか(書)くべきやう(様)こそきくわい(奇怪)なれ。
いそ(急)ぎそのほふし(法師)から(搦)めと(捕)つて、しざい(死罪)におこな(行)へ」
とのたま(宣)ふあひだ(間)、これによ(依)つてなんと(南都)にはこら(堪)へずして、ほくこく(北国)へお(落)ちくだ(下)り、きそどの(木曽殿)のてかき(手書)して、だいぶばうかくめい(大夫坊覺明)となの(名乗)る。

そのぐわんじよ(願書)にいは(云)く、
「きみやうちやうらい(歸命頂禮)、はちまんだいぼさつ(八幡大菩薩)は、じちゐきてうてい(日域朝廷)のほんじゆ(本主)、るゐせいめいくん(累世明君)のなうそ(曩祖)たり。
はうそ(寳祚)をまも(守)らんがため(為)、さうせい(蒼生)をり(利)せんがため(為)に、さんじん(三身)のきんよう(金容)をあら(顯)はし、さんじよ(三所)のけんび(權扉)をおしひら(排)きたま(給)へり。
ここにしきりのとし(頃年)よりこのかた(以來)、へいしやうこく(平相國)とい(云)ふもの(者)あつて、しかい(四海)をくわんりやう(管領)し、ばんみん(萬民)をなうらん(惱亂)せしむ。これすで(既)にぶつぽふ(佛法)のあた(怨)、わうぼふ(王法)のかたき(敵)なり。
よしなか(義仲)いやし(苟)くもきうば(弓馬)のいへ(家)にむま(生)れて、わづか(纔)にききう(箕裘)のちり(塵)をつ(繼)ぐ。
かのばうあく(暴悪)をあん(案)ずるに、しりよ(思慮)をかへり(顧)みるにあた(能)はず。
うん(運)をてんたう(天道)にまか(任)せて、み(身)をこくか(國家)にな(投)ぐ。

こころ(試)みにぎへい(義兵)をおこ(起)してきようき(兇器)をしりぞ(退)けんとほつ(欲)す。
しか(然)るにとうせんりやうかぢん(鬪戰兩家陣)をあは(合)すといへど(雖)も、しそつ(士卒)いま(未)だいつち(一致)のいさみ(勇)をえ(得)ざるあひだ(間)、まちまち(區々)のこころ(心)おそ(恐)れたるところ(處)に、いま(今)いちぢん(一陣)はた(旗)をあ(擧)ぐ。
せんぢやう(戰場)にしてたちま(忽)ちにさんじよわくわう(三所和光)のしやだん(社壇)をはい(拝)す。
きかん(機感)のじゆんじゆく(純熟)あきら(明)かなり。
きようとちうりく(凶徒誅戮)うたが(疑)ひなし。くわんぎ(歡喜)なんだ(涙)こぼ(翻)れて、かつがう(渇仰)きも(肝)にそ(染)む。
なかんづく(就中)ぞうそぶ(曾祖父)さきのみちのくにのかみぎかのあそん(前陸奥守義家朝臣)、み(身)をそうべう(宗廟)のしぞく(氏族)にきふ(歸附)して、な(名)をはちまんたらうよしいへ(八幡太郎義家)とかう(號)せしよりこのかた(以來)、そのもんえふ(門葉)たるもの(者)、ききやう(歸敬)せずとい(云)ふこと(事)なし。

よしなか(義仲)そのこういん(後胤)として、かうべ(首)をかたぶ(傾)けてとしひさ(年久)し。
いま(今)このたいこう(大功)をおこ(起)すこと(事)、たと(譬)へばえいじ(嬰児)のかひ(蠡)をもつ(以)てきよかい(巨海)をはか(測)り、たうらう(蟷螂)がをの(斧)をいか(怒)らかいてりうしや(隆車)にむか(向)ふがごと(如)し

しか(然)りといへど(雖)もくに(國)のため(為)、きみ(君)のため(爲)にしてこれをおこ(起)す。
まつた(全)くみ(身)のため(爲)、いへ(家)のため(爲)にしてこれをおこ(起)さず。
こころざし(志)のいた(至)り、しんかん(神感)そら(空)にあ(在)り。
たのも(憑)しきかな、よろこ(悦)ばしきかな。ふ(伏)してねがは(願)くは、みやうけん(冥顯)ゐ(威)をくは(加)へ、れいしん(靈神)ちから(力)をあは(戮)せて、か(勝)つこと(事)をいつし(一時)にけつ(決)し、あた(怨)をしはう(四方)へしりぞ(退)けたま(給)へ。

しか(然)ればすなは(則)ちたんきみやうりよ(丹祈冥慮)にかな(叶)ひ、げんかんかご(玄鑑加護)をなすべくば、ま(先)づひと(一)つのずゐさう(瑞相)をみ(見)せしめたま(給)へ。
じゆえいにねんごぐわつじふいちにち(壽永二年五月十一日)、みなもとのよしなか(源義仲)うやま(敬)つてまう(白)す」とか(書)いて、
わがみ(身)をはじ(始)めて、じふさんき(十三騎)がうはや(上矢)のかぶら(鏑)をぬ(抜)き、ぐわんじよ(願書)にとりそ(取添)へて、だいぼさつ(大菩薩)のごほうでん(御寶殿)にぞをさ(納)めける。
たのも(憑)しきかな、はちまんだいぼさつ(八幡大菩薩)、しんじつ(眞實)のこころざし(志)ふた(二)つなきをや、はるか(遥)にせうらん(照覧)したま(給)ひけん、
くも(雲)のなか(中)より、やまばと(山鳩)み(三)つと(飛)びきた(來)つて、げんじ(源氏)のしらはた(白旗)のうへ(上)にへんぱん(翩翻)す。

むかし(昔)じんぐうくわうごう(神功皇后)しんら(新羅)をせ(攻)めさせたま(給)ひしとき(時)、みかた(御方)のたたか(戦)ひよわ(弱)く、いこく(異国)のいくさ(軍)こは(強)くして、すで(既)にかうとみ(見)えしとき(時)、くわうごう(皇后)てん(天)にごきせい(御祈誓)ありしかば、くも(雲)のうち(中)よりれいきう(靈鳩)み(三)つと(飛)びきた(來)つて、みかた(御方)のたて(楯)のおもて(面)にあら(顕)はれて、いこく(異国)のいくさ(軍)やぶ(破)れにけり。

また(又)このひとびと(人々)のせんぞ(先祖)らいぎのあそん(頼義朝臣)、あうしう(奥州)のえびす(夷)さだたふむねたふ(貞任宗任)をせ(攻)めたま(給)ひしとき(時)、みかた(御方)のたたか(戦)ひよは(弱)く、きようぞく(兇賊)のいくさ(軍)こは(強)くして、すで(既)にかうとみ(見)えしかば、らいぎのあそん(頼義朝臣)かたき(敵)のぢん(陣)にむか(向)つて、「これはまつた(全)くわたくし(私)のひ(火)にあらず。しんくわ(神火)なり」とてひ(火)をはな(放)つ。
かぜ(風)たちま(忽)ちにいぞく(夷賊)のかた(方)へふ(吹)きおほ(覆)ひ、くりやかは(厨河)のじやう(城)や(焼)けお(落)ちぬ。そのとき(時)いくさ(軍)やぶ(破)れてさだたふむねたふ(貞任宗任)ほろ(亡)びにけり。

きそどの(木曽殿)かやうのせんじよう(先蹤)をおも(思)ひい(出)でて、いそ(急)ぎむま(馬)よりお(下)り、かぶと(甲)をぬ(脱)ぎ、てうづ(手水)うがひ(嗽)をして、いま(今)このれいきう(靈鳩)をはい(拝)したま(給)ひける、こころ(心)のうち(中)こそたのも(憑)しけれ。


作成/矢久長左衛門

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