平家物語の各条から原作者の存在を考証する(18)
覚明は、清盛が「奈良を炎上させた罪」でもだえ死んだと書いている。
平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!
☆「平家物語」の入道逝去の条
(考察)
清盛は「奈良の大仏を焼き亡ぼし給へる罪に依つて悶絶※躃地※し給へる」と断罪
この条で、覚明は、平家太政入道殿(清盛)の悪行超過として、東大寺の「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏」を、「焼き亡ぼし給へる罪に依つて悶絶※躃地※し給へる」 と断じた。
「奈良炎上の条」で、覚明が詳しく述べたように、仏敵の平家清盛は「伽藍炎上の罰」により、もだえ死んだというのである。
特に、覚明が幼い修学者の頃から東大寺で崇敬していた「聖武天皇がご自身の御手で磨き立てられた金銅十六丈の盧遮那仏である」大仏を見る影もなく焼き滅ぼしたということは畏れ多いことで、その罪の結末をこの条で覚明は触れずにはいられなかった。
※【悶絶】もん‐ぜつ
もだえ苦しんで気を失うこと。苦しさのあまり気絶すること。
三教指帰(797頃)下
「一則懐懼失魂、一則含哀悶絶」
史記抄(1477)七
「あまりのいたさに悶絶して、所在を不知そ」 〔梁書‐王僧弁伝〕
日本国語大辞典小学館
※【躃地】びやくち
地に倒れ伏して
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入道逝去の条
(原文では)
同じき二十三日、院の殿上にて、俄に公卿僉議あり。さきのうだいしやうむねもりのきやう(前右大將宗盛卿)の申されけるは、今度坂東へ討手は向うたりといへども、させる仕出したる事もなし。
今度は宗盛大將軍を承つて、東國北國の兇徒等を追討すべ由申されければ、諸卿色大して、「宗盛卿の申し状、ゆゆしう候ひなんず」とぞ申されける。
法皇大きに御感ありけり。公卿殿上人も、武官に備はり、少しも弓箭に携はらん程の人々は、宗盛を大將軍として、東國北國の兇徒等を、追討すべき由仰せ下さる。
(現代文訳)
同二十三日、院※(法住寺)の宮中にて、突然、公卿の会議がありました。
前右大將平宗盛卿※の申されたことには、「今般、坂東へ討手が向かったけれども、それほどの戦果を上げることもなかった。今度は宗盛が大將軍を承つて、東國北國の兇徒等を追討します」と申されました。
公卿達は追従して「宗盛卿の申し出は、すばらしく立派です」と申しました。
法皇も大いに感じいられました。
公卿、殿上人も、武官の地位にあり、少しでも弓矢に携はらん程の人々は、宗盛を大將軍として、東國北國の兇徒等を、追討すべきだとおっしゃられた。
※【法住寺】ほうじゅう‐じ
平安中期、一条天皇のときに藤原為光が創立した寺。現在、京都市東山区にある三十三間堂の東南方にあったと伝えられる。長元五年(一〇三二)焼失。永暦二年(一一六一)後白河法皇の御所(法住寺殿)が跡地に建てられた。
京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺。
日本国語大辞典小学館
※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり
平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)
日本国語大辞典小学館
(原文続く)
同じき二十七日門出して、既に打立たんとし給ひける夜半許りより、入道相國違例の心地とて、留まり給ひぬ。
明くる二十八日、重病を受け給へりと聞えしかば、京中六波羅ひしめきあへり。
「すはしつるは」。「さ見つる事よ」とぞ囁きける。
入道相國病ひつき給へる日よりして、湯水も喉へ入れられず、身の内の熱き事は、火を焼くが如し。臥し給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。只宣事とては、「あたあた」と許りなり。
誠に只事と見え給はず。餘りの堪へ難さにや、比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船に湛へ、それに下りて寒え給へば、水夥しう湧き上つて、程なく湯にぞなりにける。
若しやと筧の水をまかすれば、石や鐵などの焼けたる様に、水迸つて寄りつかず。
自ら當る水は、焔となつて燃えければ、黒烟殿中に充ち満ちて、炎渦巻いてぞ揚りける。
これや昔法藏僧都と云ひし人、閻王の請に赴いて、母の生所を尋ねしに、閻王憐み給ひて、獄卒を相添へて、焦熱地獄へ遣はさる。
鐵の門の内へさし入つ見れば、流星などの如くに、炎空に打上り、多百由旬に及びけんも、これには過ぎじとぞ覺えける。
又入道相國の北の方、八条の二位殿の、夢に見給ひける事こそ恐しけれ。たとへば猛火の夥しう燃えたる車の、主もなきを、門の内へ遣りれたるを見れば、車の前後に立つたる者は、或は牛の面の様なるもの者もあり、或は馬の様なるものもあり。
車の前には、無と云ふ文字ばかり顕はれたる、鐵の札をぞ打つたりけり。
二位殿夢の内に、「これは何くより何地へ」と問ひ給へば、「平家太政入道殿の悪行超過し給へるに依つて、閻魔王宮よりの御迎ひの御車なり」と申す。
「さてあの札は如何に」と問ひ給へば、「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏、焼き亡ぼし給へる罪に依つて、無間の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳にて御沙汰ありしが、無間の無をば書かれたれども、未だ間の字をば書かれぬなり」とぞ申しける。
二位殿夢覚めて後、汗水になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。
靈佛靈社へ金銀七寶を投げ、馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至るまで、取り出で運び出して、いのり申されけれども、叶ふべしとも見え給はず。
只男女の君達、跡枕にさしつどひて、嘆き悲しみ給ひけり。
閏二月二日の日、二位殿熱さ堪へ難けれども、入道相國の御枕によつて、
「御有様見奉るに、日に添へて頼み少うこそ見えさせおはしませ。物の少しも覺えさせ給ふ時、思し召すことあらば、おほ仰せ置かれよ」とぞ宣ひける。
入道相國、日頃はさしもゆゆしうおはせしかども、今はの時にもなりしかば、世にも苦しげにて、息のした下にて宣ひけるは、
「當家は保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも一天の君の御外戚として、丞相の位に至り、栄花?に子孫に残す。今生の望みは、一事も思ひ置く事なし。只思ひ置く事とては、兵衛佐頼朝が頭を見ざりつる事こそ、何よりも又本意なけれ。
われ如何 にもなりなん後、佛事孝養をもすべからず、堂塔をも立つべからず。
急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎ねて、わが墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」との宣ひけるこそ、いとど罪深うは聞えし。若しや助かると、板に水を置きて、臥し轉び給へども、助かる心地もし給はず。
同じき四日の日、悶絶躃地して、遂にあづち死ににぞ給ひける。
馬車の馳せ違ふ音は、天も響き大地も揺ぐ許りなり。
一天の君、萬乘の主の、如何なる御事ましますとも、これにはいかでか勝るべき。
今年は六十四にぞなられける。
老死と云ふべきにはあらねども、宿運忽ちに盡きぬれば、大法祕法の效驗もなく、
神明佛陀の威光も消え、諸天も擁護したまはず。況んや凡慮に於てをや。
身に替り命に代らんと、忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に並み居たれども、これは目にも見えず、力にも拘はらぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰ひ返さず、
又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、只一所こそ赴かれけれ。されども日來作り置かれし罪業計りこそ、獄卒となつて迎ひにも來りけめ。哀れなりし事どもなり。
さてしもあるべき事ならねば、同じき七日の日、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけ、攝津國へ下り、經島にぞ納めめける。
さしも日本一州に名を揚げ、威を振ひし人なれども、身は一時の煙となつて、都の空へ立ち上り、骸は暫し徘徊ひて、濱の眞砂に戯れつつ、空しき土とぞなり給ふ。
(現代文訳)
同二十七日、出立ちということで、既に前右大將宗盛卿が勢いよく立ち上がろうとした夜中、入道相國が前例のない病の気持ということで中止されました。
明くる二十八日、清盛が重病にかかられたといって京中も六波羅※も騒ぎ立てました。
人々は「すはしつるは(あっ、そうなったか)」。「さ見つる事よ(さあ、見たことよ)」と
ささやきあった。
※【六波羅・六原】ろくはら
京都の鴨川の東岸、五条と七条との間の地。現在の京都市東山区松原通付近。平安時代、六波羅蜜寺の近くに平家の六波羅亭が置かれ、平家一門の邸宅が軒を並べ、鎌倉時代は六波羅探題が置かれた。
入道相國は寝付いた日より湯水も喉へ入れられず、身の内の熱き事は、火を焼くようであった。清盛が臥しているところの四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難く。
ただ、清盛は「あたあた(熱い、熱い)」と言うばかりであった。
本当に、ただ事とは見えなかった。
余りの耐えがたさに、比叡山から千手堂の井戸水をくんできて石の水槽に満たし、それに入って冷やしましたが、水は大変に湧き上がり、程なくお湯になってしまいました。
もしや助かるかと筧の水をかけたが、石や鉄などが焼けたように、水がほとばしってしまいました。
垂れた水は、火炎となって燃えたので、黒煙は殿中に充満し、炎は渦巻いて燃え上がりました。
これこそ、昔、法藏僧都と云った人が、閻魔王の要請に応じて、母がいるところを尋ねたが、閻魔王は憐れんで獄卒を伴わせて焦熱地獄へつかわされた。
鉄の門のなかに入ると、流星のように炎は空へ立ち上がり、高さは多百由旬(六町一里にて四十里)に及んだそうだが、それ以上ではないかと覚えさせられました。
また、入道相國の北の方、八条の二位殿※(八条大宮に住まれた從二位平時子)が、夢に
見られたことは恐ろしいことでありました。
たとへば、猛火で激しく燃えた車を、門の内へ引き入れたのを見れば、車の前後に立つたる者は、或は牛の面の様なる者もあり、或は馬の様なるものもあり。車の前には、無と云ふ文字ばかりが見える鐵の札がありました。
二位殿は夢の中で「これは何くより何地へ」と問ひなさると、「平家太政入道殿の悪行超過し給へるに依つて、閻魔王宮よりの御迎ひの御車なり」と申しました。
「さてあの札は如何に」と問ひなさると、「南閻浮堤金銅十六丈の盧遮那仏、焼き亡ぼし給へる罪に依つて、無間の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳にて御沙汰ありしが、無間の無をば書かれたれども、未だ間の字をば書かれぬなり」とぞ申しける。
二位殿は夢覚めて後、汗水になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人皆身の毛がよだちました。
※【平時子】たいら‐の‐ときこ
平清盛の妻。平時信の長女。宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后に準ぜられた。清盛死後剃髪して二位尼と称された。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて海中に投身。大治元~元暦二年(一一二六‐八五)
日本国語大辞典 小学館
霊験あらたかな寺院や神社に金銀七宝を喜捨し、馬鞍、鎧甲、弓箭、太刀、刀に至るまで
取り出し、運び出し、祈られましたが叶いませんでした。
ただ、男女の君達が足元、枕元に集まり、嘆き悲しみました。
閏二月二日の日、二位殿は熱さに耐え難かったが、入道相國の御枕によつて、「御有様見奉るに、日に日に頼みが少うなってるようにみえます。少しでも物事がお分かりになっている時に、思うことがあれば言ってください」と言われました。
入道相國、日頃は恐ろしげにおられたが、いまはの時になり、世にも苦しげに息の下から言われました。
「當家は保元、平治より以来、たびたび、朝敵を平げ、恩賞は身に余り、畏れ多いことに天皇の外祖父として、太政大臣の位に至り、栄花はすでに子孫に及んでいる。この世に
一つも思い残すことはない。
ただ、思い残すことは兵衛佐頼朝が首を見なかったことが何よりも残念である。
わしが死んだ後は、佛事孝養をもすべからず、堂塔も立てなくてよい。
急ぎ討手を下だし、頼朝が首を刎ねて、わが墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」と言いました。
それは一段と罪深く聞えましたが、もしや助かるかと、板に水を注いで、伏し転げましたが助かる心地もなさらなかった。
同じき四日の日、悶絶躃地(もだえ苦しみ転げ回る)して、遂にあづち死(もだえ死に)なさいました。
馬や牛車の走ってすれ違う音は、天に響き、大地も揺らぐほどでした。
天皇がどのようになられようと、これほどではあるまいと思われた。
この年で六十四歳でした。
老衰というべきではないが、きまった寿命がたちまちに尽きてしまわれたので、加持祈祷
の大法祕法の効果も無く、神佛の威光も消え、天界の神々もお守りにならなかった。
ましてや、凡人の考えではどうにもならない事でした。、
身に替り命に代らんとする、忠を知る數萬の軍団が、御殿の上下に居並んでいましたが、目にも見えず、力ではどうしょうもない無常の刹鬼(死のこと、鬼)を、少しの間でも、戦って追い返す事もできませんでした。
また、帰ってこれぬ死出の山、三瀬川※(三途の川)、黄泉※(冥土)への旅の空に、ただ、ひたすら向かわれました。
されども、日來作り置かれし罪業計りこそ、獄卒となつて迎ひにも來りけめ。
哀れなりし事どもなり。
※【三瀬川】みつせ‐がわ
仏語。亡者が冥土(めいど)に行く時に渡るという川。渡る所が三か所あり、生前の罪の有無軽重によってどこを渡るかを決定するとされる。みつのせがわ。三途の川。
蜻蛉(974頃)付載家集
「みつせがはあささのほどもしらはしと思ひしわれやまづ渡りなん」
日本国語大辞典小学館
※【黄泉】こう‐せん
(中国で、「黄」は地の色にあてるところから)
① 地下の泉。
② 地面の下にあり、死者が行くといわれる所。仏教でいう地獄(罪業のある者だけが行く)とは元来は別のものであるが、のちに、特に日本では、混同されるようになった。あの世。よみじ。冥土(めいど)。
(ここからは原文どおりで)
さてしもあるべき事ならねば、同じき七日の日、愛宕※(六波羅近くの愛宕寺)にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼(左大臣徳大寺実能の子)頸にかけ、攝津國へ下り、經島にぞ納めける。
さしも日本一州に名を揚げ、威を振ひし人なれども、身は一時の煙となつて、都の空へ立ち上り、骸は暫し徘徊※(さまよ)ひて、濱の眞砂に戯れつつ、空しき土とぞなり給ふ。
※【さ迷・彷徨・徘徊】さ‐まよ・う
① 気持が定まらなかったり迷ったりして、あたりを歩きまわる。うろうろと歩きまわる。また単に、いったりきたりする。
日本国語大辞典小学館
(考察)
清盛が死んだとき、覚明は平家から追われ、逃亡中で信濃にいました。ですから、その場に居たわけではありません。
これを書いたとき、覚明は頼朝のお膝元である箱根からも逃げてきて比叡山にいました。
比叡山で「治承物語」を書くことになり、この清盛の死の詳しい顛末は、叡山の僧侶達から聞き込んだ本当の話と思われます。
それに、覚明(当時は円通院浄寛と称した)法師らしい宗教的な想像を交え、誇張して描いたのがこの条だと思います。
故にこの条も覚明(幸長入道・信濃入道)の筆になることは明白です。
この条の後で、既述の「奈良炎上の条」を再読すると、改めて覚明の清盛入道への思いを確認することが出来ます。
日本語には、天罰※、天誅※、誅罰※という言葉があることを思い出します。
※【天罰】てん‐ばつ
天の下す罰。悪事の報いとして自然に来る禍。てんばち。
※【天誅】てん‐ちゅう
① 天の下す誅罰。天罰。
※【誅罰】ちゅう‐ばつ
罪を責めて罰すること。処罰。
続日本紀‐養老四年(720)六月戊戌
「誅二罰其罪一。尽二彼巣居一」
源平盛衰記(14C前)四六
「平家を誅罰(チウバツ)して天下を鎮たるは神妙なれ共」 〔史記‐呉王伝〕
日本国語大辞典小学館
長左衛門・記
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(参照)
「平家物語」の入道逝去の条(原文)
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の入道逝去を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。
入道逝去の条
おな(同)じきにじふさんにち(二十三日)、ゐん(院)のてんじやう(殿上)にて、にはか(俄)にくぎやうせんぎ(公卿僉議)あり。さきのうだいしやうむねもりのきやう(前
右大將宗盛卿)のまう(申)されけるは、こんどばんどう(今度坂東)へうつて(討手)はむか(向)うたりといへども、させるしいだ(仕出)したること(事)もなし。
こんど(今度)はむねもりたいしやうぐん(宗盛大將軍)をうけたまは(承)つて、とうごくほくこく(東國北國)のきようとら(兇徒等)をつゐたう(追討)すべきよし(由)まう(申)されければ、しよきやう(諸卿)しきだい(色大)して、「むねもりのきやう(宗盛卿)のまう(申)しじやう(狀)、ゆゆしうさふら(候)ひなんず」とぞまう(申)されける。
ほふわう(法皇)おほ(大)きにぎよかん(御感)ありけり。くぎやうてんじやうびと(公卿殿上人)も、ぶくわん(武官)にそな(備)はり、すこ(少)しもきうせん(弓箭)にたづさ(携)はらんほど(程)のひとびと(人々)は、むねもり(宗盛)をたいしやうぐん(大將軍)として、とうごくほくこく(東國北國)のきようとら(兇徒等)を、つゐたう(追討)すべきよし(由)おほ(仰)せくだ(下)さる。
おな(同)じきにじふしちにち(二十七日)かどで(門出)して、すで(既)にうつた(打立)たんとしたま(給)ひけるやはんばか(夜半許)りより、にふだうしやうこく(入道相國)ゐれい(違例)のここち(心地)とて、とど(留)まりたま(給)ひぬ。
あ(明)くるにじふはちにち(二十八日)、ぢうびやう(重病)をう(受)けたま(給)へりときこ(聞)えしかば、きやうぢうろくはら(京中六波羅)ひしめきあへり。
「すはしつるは」。「さみ(見)つること(事)よ」とぞささや(囁)きける。
にふだうしやうこく(入道相國)やま(病)ひつきたま(給)へるひ(日)よりして、ゆみづ(湯水)ものど(喉)へい(入)れられず、み(身)のうち(内)のあつ(熱)きことは、ひ(火)をた(焼く)くがごと(如)し。
ふ(臥)したま(給)へるところ(所)、しごけん(四五間)がうち(内)へい(入)るもの(者)は、あつ(熱)さたへ(堪)がた(難)し。ただ(只)のたま(宣)ふこと(事)とては、「あたあた」とばか(許)りなり。
まこと(誠)にただごと(只事)ともみ(見)えたま(給)はず。あま(餘)りのた(堪)へがた(難)さにや、ひえいさん(比叡山)よりせんじゆゐ(千手井)のみづ(水)をく(汲)みくだ(下)し、いし(石)のふね(船)にたた(湛)へ、それにお(下)りてひ(寒)えたま(給)へば、みづ(水)おびたた(夥)しうわ(湧)きあが(上)つて、ほど(程)なくゆ(湯)にぞなりにける。
も(若)しやとかけひ(筧)のみづ(水)をまかすれば、いし(石)やくろがね(鐵)などのや(焼)けたるやう(様)に、みづ(水)ほとばし(迸)つてよ(寄)りつかず。
おのづか(自)らあた(當)るみづ(水)は、ほむら(焔)となつても(燃)えければ、
こくえん(黒烟)てんちう(殿中)にみち(充)み(満)ちて、ほのほ(炎)うづま(渦巻)いてぞあが(揚)りける。
これやむかし(昔)ほふざうそうづ(法藏僧都)とい(云)ひしひと(人)、えんわう(閻王)のしやう(請)におもむ(赴)いて、はは(母)のしやうじよ(生所)をたづ(尋)ねしに、えんわう(閻王)あはれ(憐)みたま(給)ひて、ごくそつ(獄卒)をあひそ(相添)へて、せうねつぢごく(焦熱地獄)へつか(遣)はさる。
くろがね(鐵)のもん(門)のうち(内)へさしい(入)つてみ(見)れば、りうしやう(流星)などのごと(如)くに、ほのほ(炎)そら(空)にうちのぼ(打上)り、たひやくゆじゆん(多百由旬)におよ(及)びけんも、これにはす(過)ぎじとぞおぼ(覺)えける。
また(又)にふだうしやうこく(入道相國)のきた(北)のかた(方)、はちでう(八条)のにゐどの(二位殿)の、ゆめ(夢)にみたま(見給)ひけること(事)こそおそろ(恐)しけれ。
たとへばみやうくわ(猛火)のおびたた(夥)しうも(燃)えたるくるま(車)の、ぬし(主)もなきを、もん(門)のうち(内)へや(遣)りい(入)れたるをみ(見)れば、くるま(車)のぜんご(前後)にた(立)つたるもの(者)は、あるひ(或)はうし(牛)のおもて(面)のやう(様)なるもの(者)もあり、あるひ(或)はむま(馬)のやう(様)なるものもあり。
くるま(車)のまへ(前)には、む(無)とい(云)ふもじ(文字)ばかりあら(顕)はれたる、くろがね(鐵)のふだ(札)をぞう(打)つたりけり。
にゐどの(二位殿)ゆめ(夢)のうち(内)に、「これはいづ(何)くよりいづち(何地)へ」とと(問)ひたま(給)へば、「へいけだいじやうのにふだうどの(平家太政入道殿)のあくぎやう(悪行)てうくわ(超過)したま(給)へるによ(依)つて、えんまわうぐう(閻魔王宮)よりのおんむか(御迎)ひのおんくるま(御車)なり」とまう(申)す。
「さてあのふだ(札)はいか(如何)に」とと(問)ひたま(給)へば、「なんえんぶだいこんどうじふろくぢやう(南閻浮堤金銅十六丈)のるしやなぶつ(盧遮那仏)、や(焼)きほろ(亡)ぼしたま(給)へるつみ(罪)によ(依)つて、むげん(無間)のそこ(底)にしづ(沈)めたま(給)ふべきよし(由)、えんま(閻魔)のちやう(廳)にておんさた(御沙汰)ありしが、むげん(無間)のむ(無)をばか(書)かれたれども、いまだ(未)けん(間)のじ(字)をばか(書)かれぬなり」とぞまう(申)しける。
にゐどの(二位殿)ゆめ(夢)さ(覚)めてのち(後)、あせみづ(汗水)になりつつ、これをひと(人)にかた(語)りたま(給)へば、き(聞)くひと(人)みな(皆)み(身)の毛よだちけり。
れいぶつれいしや(靈佛靈社)へこんごんしつぱう(金銀七寶)をな(投)げ、むまくらよろひかぶとゆみやたちかたな(馬鞍鎧甲弓箭太刀刀)にいた(至)るまで、と(取)りい(出)ではこ(運)びいだ(出)して、いの(祈)りまう(申)されけれども、かな(叶)ふべしともみ(見)えたま(給)はず。
ただ(只)なんによ(男女)のきんだち(君達)、あとまくら(跡枕)にさしつどひて、なげ(嘆)きかな(悲)しみたま(給)ひけり。
うるふにんぐわつふつか(閏二月二日)のひ(日)、にゐどの(二位殿)あつ(熱)さた
(堪)へがた(難)けれども、にふだうしやうこく(入道相國)のおんまくら(御枕)によつて、「おんありさま(御有様)みたてまつ(見奉)るに、ひ(日)にそ(添)へてたの(頼)みすくな(少)うこそみ(見)えさせおはしませ。
物の少しも(覺)えさせたま(給)ふとき(時)、おぼ(思)し(召)すことあらば、おほ(仰)せお(置)かれよ」とぞのたま(宣)ひける。
にふだうしやうこく(入道相國)、ひごろ(日頃)はさしもゆゆしうおはせしかども、いま(今)はのとき(時)にもなりしかば、よ(世)にもくる(苦)しげにて、いき(息)のした(下)にてのたま(宣)ひけるは、
「たうけ(當家)はほげんへいじ(保元平治)よりこのかた(以來)、どど(度々)のてうてき(朝敵)をたひら(平)げ、けんじやう(勸賞)み(身)にあま(餘)り、かたじけな(忝)くもいつてん(一天)のきみ(君)のごぐわいせき(御外戚)として、しようじやう(丞相)のくらゐ(位)にいた(至)り、えいぐわ(栄花)すで(既)にしそん(子孫)にのこ(残)す。
こんじやう(今生)ののぞ(望)みは、いちじ(一事)もおも(思)ひおく(置)こと(事)なし。ただ(只)おも(思)ひお(置)くこと(事)とては、ひやうゑのすけよりとも(兵衛佐頼朝)がかうべ(頭)をみ(見)ざりつること(事)こそ、なに(何)よりもまた(又)ほい(本意)なけれ。
われいか(如何) にもなりなんのち(後)、ぶつじけうやう(佛事孝養)をもすべからず、だうたふ(堂塔)をもた(立)つべからず。
いそ(急)ぎうつて(討手)をく(下)だし、よりとも(頼朝)がかうべ(首)をは(刎)ねて、わがはか(墓)のまへ(前)にか(懸)くべし。それぞこんじやうごしやう(今生後生)のけうやう(孝養)にてあらんずるぞ」
とのたま(宣)ひけるこそ、いとどつみふか(罪深)うはきこ(聞)えしも(若)しやたす(助)かると、いた(板)にみづ(水)をお(置)きて、ふ(臥)しまろ(轉)びたま(給)へども、たす(助)かるここち(心地)もしたま(給)はず。
おな(同)じきしにち(四日)のひ(日)、もんぜつびやくち(悶絶躃地)して、つひ()にあづちじ(死)ににぞしたま(給)ひける。
むまくるま(馬車)のはせ(馳)ちが(違)ふおと(音)は、てん(天)もひび(響)きだいぢ(大地)もゆる(揺)ぐばか(許)りなり。いつてん(一天)のきみ(君)、
ばんじよう(萬乘)のあるじ(主)の、いか(如何)なるおんこと(御事)ましますとも、これにはいかでかまさ(勝)るべき。
こんねん(今年)はろくじふし(六十四)にぞなられける。おいじに(老死)とい(云)ふべきにはあらねども、しゆくうん(宿運)たちま(忽)ちにつ(盡)きぬれば、だいほふひほふ(大法祕法)のかうげん(效驗)もなく、しんめいぶつだ(神明佛陀)のゐくわう(威光)もき(消)え、しよてん(諸天)もおうご(擁護)したまはず。
いは(況)んやぼんりよ(凡慮)におい(於)てをや。
み(身)にかは(替)りいのち(命)にかは(代)らんと、ちう(忠)をぞん(存)ぜしすまん(數萬)のぐんりよ(軍旅)は、たうしやうたうか(堂上堂下)にな(並)みゐ(居)たれども、これはめ(目)にもみ(見)えず、ちから(力)にもかか(拘)はらぬむじやう(無常)のせつき(刹鬼)をば、ざんじ(暫時)もたたか(戰)ひかへ(返)さず、
また(又)かへ(歸)りこ(來)ぬしで(死出)のやま(山)、みつせがは(三瀬川)、くわうせんちうう(黄泉中有)のたび(旅)のそら(空)に、ただ(只)いつしよ(一所)こそおもむ(赴)かれけれ。
されどもひごろ(日來)つく(作)りお(置)かれしざいごふ(罪業)ばか(計)りこそ、ごくそつ(獄卒)となつてむか(迎)ひにもきた(來)りけめ。
あは(哀)れなりしこと(事)どもなり。
さてしもあるべきこと(事)ならねば、おな(同)じきなぬか(七日)のひ(日)、おたぎ(愛宕)にてけぶり(煙)になしたてまつ(奉)り、こつ(骨)をばゑんじつほふげん(圓實法眼)くび(頸)にかけ、つのくに(攝津國)へくだ(下)り、きやうのしま(經島)にぞをさ(納め)めける。
さしもにつぽんいつしう(日本一州)にな(名)をあ(揚)げ、ゐ(威)をふる(振)ひしひと(人)なれども、み(身)はひととき(一時)のけぶり(煙)となつて、みやこ(都)のそら(空)へた(立)ちのぼ(上)り、かばね(骸)はしば(暫)しやすら(徘徊)ひ
て、はま(濱)のまさご(眞砂)にたはぶ(戯)れつつ、むな(空)しきつち(土)とぞなりたま(給)ふ。
作成/矢久長左衛門
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