2023年6月30日金曜日

原作者の存在を考証(20)主上都落の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(20)


この主上都落の条で、覚明は源氏側が平家側を都から追い出したと語る


平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!


(考察)


   覚明は自分を二度も登場させ、平家側の慌てぶりを克明に描いている

平家物語の原作「治承物語」は、この条が最後に書かれたものと推察します。

何故なら、作者の覚明は、この条のあとには作品に登場してこないからです。

これを書いた後、覚明(浄寛)は、親鸞(範宴)とともに、比叡山から京都・吉水に下って法然上人の弟子になり、西仏として僧本来の道を追求し始めます。

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☆主上都落の条

(原文では)

同じき七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀叛平げて、菊池、原田、松浦黨三千餘騎を召具して上洛す。

鎮西の謀叛をば、わづかに平げたれども、東国北国の軍は、如何にも鎮らず。

同じき二十二日の夜半許り、六波羅の邊夥しう騒動す。

馬に鞍置き、腹帯しめ、物ども東西南北へ運び隱す。只今敵の討入つたる様なりけり。

明けて後聞えしは、美濃源氏に、佐渡衛門尉重貞と云ふ者あり。去んぬる保元の合戦のと時、鎮西八郎爲朝が院方の軍に負けて、落人となつたりしを、搦めて出したりし勤賞に、もとは兵衛尉たりしが、その時右衛門尉になりぬ。

これ依つて一門には怨まれて、この頃平家を諂ひけるが、夜六波羅に馳せ參り、

「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、天台山、東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山に競ひ登り、三千の衆徒同心して、只今都へ亂れ入る」由申しければ、平家の人々大きに騒いで、方々へ討手を差向けらる。

大將軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、三千餘騎で先づ山科に宿せらる。越前三

位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋を固めらる。

左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。


源氏の方には十郎藏人行家、數千騎で宇治橋を渡って都へ入る。

陸奥新判官義康子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申しあへり。

又摂津國河内の源氏等同心して、同じう都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々、

「この上は力及ばず、只一所で如何もなり給へ」とて、

方々へ向けられたりける討手ども、皆都へ呼び返されけり。

帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし。

治まれる世だにもかくの如し。

況んや亂れたる世に於てをや。

吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども、諸國七道悉く背きぬ。何くの浦か穏しかるべき。

三界無安、猶如火宅として、如来の金言、一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。


(現代文訳)

同七月十四日、肥後守平貞能※は、鎮西※(九州の別称)の謀叛を平げて、菊池(次郎髙直)、原田(大夫種直)、松浦党※三千余騎を召し連れて上洛しました。

九州の謀叛を、わづかに平定したけれど、東国、北国の戦いは、どうにも静まりません。

同二十二日の夜半ごろ、六波羅のあたりは著しく騒がしくなりました。 

馬に鞍を置き、腹帯をしめ、物資を東西南北へ運び隠しました。今にも敵が討入つてくるような有様でした。

夜が明けてのち、分かったことは、美濃源氏に佐渡衛門尉重貞※というものがいて、去る保元の乱のとき、鎮西の源八郎爲朝が院方の軍に負け、味方が落人になっていたのを絡め取り、差し出して、恩賞として、もとは兵衛尉だったが、その時右衛門尉になりました。

これによって、源氏一門に恨まれて、平家にへつらっていましたが、(前夜)、六波羅に馳せ参じて、

「木曾軍は、既に北國より五万余騎で攻め上り、天台山(比叡山)の東坂本に充ち満ちております。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千余騎が比叡山に競ひ登り、三千の衆徒は味方して、今にも都へ乱れ入ろうとしています」と告げました。

平家の人々は大いに騒いで、方々へ討手を差向けました。

大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿が三千余騎で先づ山科に宿陣しました。越前三位通盛、能登守教経は二千余騎で宇治橋を固めました。

左馬頭行盛、薩摩守忠度は、一千余騎で淀路を守備しました。


源氏の方には十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋を渡って都へ入るとのこと。

陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清は、大江山※を経由して上洛すると申し合わせました。

また、摂津国河内の源氏等も同心して、同じう都へ乱れ入るという噂なので、

平家の人々は「この上は力及ばず、只一所でなんとかなるだろう」といって、

方々へ向けられた討手ども、皆都へ呼び返されました。


帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし※(帝都は名誉と利益に追われる所で、鶏が鳴く頃から安居することがない)

治まれる世だにもかくの如し。

まして亂れたる世に於てをや。

吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども、諸国七道、ことごとく背いている。どこの浦に隠れれば平穏だろうか。

三界無安※(現世に安心なく)、猶如火宅※(苦しみに満ちている)として、釈迦如来の金言、法華経の妙文なので、どうして少しも違ふはずがないのです。



※肥後守平貞能

筑後守平家貞の子。


※【鎮西】ちん‐ぜい

(天平一五年(七四三)に、大宰府を一時「鎮西府」と改称したところからいう) 九州の別称。

日本国語大辞典 小学館


※【松浦党】まつら‐とう 

中世、肥前松浦郡に割拠していた小武士団の連合組織。嵯峨源氏を中心に他氏をも擬制的同族組織の中に組み入れて団結を固め、武装的貿易業、漁業などに従事し、倭寇・水軍としても活躍した。

日本国語大辞典小学館 


※佐渡衛門尉重貞

清和源氏満政流、重実の三男。


※楯六郎親忠(1162~1184)

滋野流望月族根井行親の六男。年少の為、義仲の傍に仕える。


※【大江山】おおえ‐やま

 (「大枝山」とも) 京都市西京区と亀岡市の境にある老坂峠の古名。源頼光が山賊を退治した所と伝えられる。大枝峠。

日本国語大辞典 小学館


※帝都名利の地

白氏文集巻五「帝都名利場、鶏鳴き無安居」と。


※【三界無安】さんがい‐むあん

〘名〙 (「法華経‐譬喩品」の「三界無安、猶如火宅」による語) 仏語。この世は苦しみが多く、あたかも火に包まれた家にいるように、しばしも心が安まらない意。三界火宅。三界に家なし。

日本国語大辞典小学館



考察


     覚明は、比叡山の僧三千も源氏に味方し、入洛したと


ここで、覚明は自分を再び登場させ、「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、天台山、東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山に競ひ登り、三千の衆徒同心して、只今都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々大きに騒いで、方々へ討手を差向けらる」と、木曾軍の動きを念を押すように書いています。

「木曾山門諜状の条」でも、考証したように比叡山の僧三千人も源氏に味方し、入洛したと言うのです。ここは山門への諜状を書いて比叡山を味方にした覚明が強調したいところです。


しかも、この部分は後の世の覚一本では、重複しているので省略されていてありません。この部分は原作の「治承物語」には重複して、覚明がこの条に書き残していたのです。

ここは覚明が強調したいところで省略するはずがありません。


そして、平家側の慌てぶりを詳細に描いています。

また、他の源氏軍の動きにも触れています。

しかし、なぜか、ここでは木曾義仲個人の名には触れていません。

多分、ここでの大将軍は木曾義仲だったと思います。

しかし、郎等の楯六郎親忠と手書の大夫房覺明の名しか書いていません。

楯六郎親忠は年少のため義仲の傍に仕え、覚明も祐筆なので義仲と共にいたと思われますが、覚明は義仲の名を省略しています。

なぜか、気になる省略です。


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(原文つづく)


同じき二十四日のさ夜更け方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅池殿に参つて申されけるは、                   

「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちて候。

郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候。 

人々は只都の内にて、如何にもならんと申し合はれけれども、親り女院、二位殿に、憂目を見せ參らせん事の口惜しく候へば、院を内を取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をも、なし参らせばやと思ひなつてこそ候へ」と申されければ、

女院、「今は只ともかうも、足下の計らひでこそあらんずらめ」とて、御衣の御袂に餘る御涙、塞きあへさせ給はねば、大臣殿も直衣の袖絞る許りに見えられける。


さる程に法皇をば平家取り奉つて、西國の方へ落ち行くべしなど申す事を、内々聞し召旨もやありけん、その夜の夜半許り、按察史大納言資賢卿の子息、右馬頭資時許りを御供にて、竊に御所を出でさせ給ひて、御行方も知らずぞ御幸なる。

人これを知らざりけり。

平家の侍に橘内左衛門尉秀康とい云ふ者あり。さかざかしき男にて、院にも召使はれけるが、その夜しも御宿直に參つて、遙に遠う候ひけるが、常の御所の御方様、よに物騒がしう、女房達忍音に泣きなどし給へり。

何事なるらんと聞きければ、

「俄に法皇の見えさせましまさぬは、何方への御幸やらん」と申す聲に聞く程に、あなあさましとて、急ぎ六波羅へ馳せ參り、この由申したりければ、大臣殿、「定めて僻事でぞあるらん」とは宣ひながら、急ぎ參つて見參らさせ給ふに、げにも法皇渡らせましまさず。

御前に候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も動き給はず。

「如何にや」と問ひ參らさせ給へども、「われこそ法皇の御行方へ知り參らせたり」と申さるる女房達、一人もおはせざりければ、大臣殿も力及ばせ給はず、泣く泣く六波羅へぞ歸られける。

さる程に、法皇都の中に渡らせ給はずと申す程こそありけれ、京中の騒動斜ならず。

況んや平家の人々の周章て騒がれける有様は、家々に敵の討入つたりとも、限りあれば、これには過ぎじとぞ見えし。

平家日頃は院をも内をも取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をもなし參らせんと支度せられたりしかども、かく打捨てさせ給ひぬれば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地ぞせられける。「せめては行幸許りをもなし參らせよや」とて、明くる卯の刻に行幸の神輿を寄せたりければ、主上は今年六歳、未だ、幼うましましければ、何心なく召されける。


御同輿には、御母儀建禮門院參らせ給ふ。

「神璽、寶劍、内侍所、印鑰、時の簡、玄上、鈴鹿などをも取り具せよ」と、

平大納言時忠卿下知 せられたりけれども、餘り周章 て騒 いで、取 り落 す物ぞ多かりける。

晝の御座の御劍などをも、取り忘れさせ給ひけり。

やがてこの時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実、父子三人、衣冠にて供奉せらる。

近衛司、御綱佐、甲冑弓箭を帯して、行幸の御供仕る。七條を西へ、朱雀を南へ行幸なる。


明くれば七月二十五日なり。

漢天既にひらけて、雲と東嶺にたなびき、明け方の月白くさえて、鶏鳴又いそがはし。夢にだにかかる事は見ず。

一年都遷りとて、俄にあわたたしかりしは、かかるべかりける先表とも、今こそ思ひし知られけれ。攝政殿も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子の、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字顯はれたる。

春の日と書いては、春日と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、


いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ 


共に候進藤左衛門尉髙直を召して、「この世の中の有様を御覧ずるに、行幸はなれども御幸はならず。行末頼もしからず思し召すは如何に」と仰せければ、御牛飼に目をきつと見合せたり。心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに、飛ぶが如くに仕り、北山の邊、知足院へぞ入らせ給ひける。

                                                                  

現代文訳


同七月二十四日のさ夜※更け方に、前内大臣平宗盛公※が、建礼門院のいらっしゃる六波羅の池殿※(賴盛の邸)にきて申されたことには、                   

「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちて候。郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候。 人々は、ただ、都の中でどのようにでもなろうと話し合っていますが、親り(主だった)女院(建礼門院)、二位殿(清盛の妻從二位時子)に悲しい思いをさせることも口惜しいので、院(後白河法皇)と内(安徳天皇)もお連れ申して、西国の方へ御幸、行幸をなされるようにさせていただいてはと思います」と申しました。

女院は「今は、ただ、ともかくも、そこもとの計らひによりましょう」と、御衣の御袂にあまる御涙を抑えかね、大臣殿も直衣の袖を絞るほどに涙しておられるように見えました。


※【小夜】さ‐よ

〘名〙 (「さ」は接頭語) よ。夜(よる)。

▷ 万葉(8C後)一二・二九〇六

「他国(ひとくに)によばひに行きて大刀が緒もいまだ解かねば左夜(サよ)そ明け

日本国語大辞典小学館 


※【平宗盛】たいら‐の‐むねもり

平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江篠原で斬られた。久安三~元暦二年(一一四七‐八五)

日本国語大辞典小学館 


※【池殿】いけ‐どの

京都市東山区池殿町にあった平清盛の継母池禅尼、その子平頼盛の邸宅。平氏六波羅第の一つ。また、その主たる池禅尼および平頼盛(池大納言)の別称。

日本国語大辞典小学館


                   

(現代文訳)つづく

 

 そうしてるうちに、法皇をば平家がお連れ申して、西国の方へ落ち行くべしなどと申す事を、内々に聞し召す旨もあったのでしょう、その夜(七月二十日)の夜半許り、按察史大納言資賢卿の子息、右馬頭資時だけを御供にして、ひそかに御所をお出になり、御行方も知らず御幸なる。

人々はこれを知りませんでした。


平家の侍に橘内左衛門尉秀康とい云ふ者がいました。利口な男で、院(法住寺殿)にも召使はれていましたが、その夜しも御宿直に參つて、遙に離れてはいますが、常の御座所の方がたいそう物騒がしく、女房達たちが忍び泣きなどしていました。

何事なるらんと聞きければ、

「俄に法皇の見えさせましまさぬは、何方への御幸やらん」と申す聲に聞く程に、ああ、驚いたと言って、急ぎ六波羅へ馳せ參り、この由申したりければ、大臣殿(前内大臣宗盛)、「いや、間違いであろう」といいながら、急ぎ參つて見參らさせ給ふに、ほんとうに法皇がいないのでした。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下一人も身動きしません。

「如何にや」と問ひ參らさせ給へども、「われこそ法皇の御行方へ知り參らせたり」と申さるる女房達、一人もおはせざりければ、大臣殿も力及ばせ給はず、泣く泣く六波羅へぞ帰られける。


やがて、法皇が都の中に渡らせ給はずと申す程こそありけれ、京中の騒動は尋常ではありませんでした。

まして、平家の人々の慌て騒がれける有様は、家々に敵が討入つたりとも、限りあれば、これに過ぎることはないと思われました。

平家は、日頃、院も内をも取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をもなし參らせんと支度せられたりしかども、かく打捨てさせ給ひぬれば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地ぞせられける(兼盛集、天の原くもれば悲し人知れずたのむ木の下雨ふりしより)。

「せめては行幸許りをもなし參らせよや」とて、明くる卯の刻に行幸の神輿を寄せたりければ、主上は今年六歳、未だ、幼うましましければ、何心なく召されける。

御同輿には、御母儀建礼門院參らせ給ふ。

(以下、三種の神器)「神璽、寶劍、内侍所(温明殿の別称、神鏡をいう)、印鑰(天皇の正印と諸司の藏の鍵)、時の簡(時刻を記す簡)、玄上(現象、累代宝物として伝わった琵琶の名)、鈴鹿(和琴の名)などをも取り具せよ」と、

平大納言時忠卿下知 せられたりけれども、余り慌て騒いで、取り落 す物も多かりける。

晝の御座の御劍(清涼殿に安置されている御剣)などをも、取り忘れました。

やがてこの(平)時忠卿、内蔵頭信基(内藏寮の長官、平信範の子)、讃岐中将時実(平時忠の子)、父子(覚一本は父子の字なし。父子は誤りとのこと。)三人だけで、衣冠にて供奉せらる。

近衛司(近衛府役人)、御綱佐(御輿の綱をとる役人)、甲冑弓箭を帯して、行幸の御供仕る。七條大路を西へ、朱雀大路を南へ行幸される。


明くれば七月二十五日なり。

漢天※(天の川の見える空)は既にひらけて、雲は東嶺※(東山)にたなびき、明け方の月は白くさえて、鶏の鳴き声は、また、いそがしい。夢にさえこのようなことは見ません。

先年(治承四年)都遷りとて、俄にあわただしかりしは、かかるべかりける先表(きざし)とも、今こそ思ひし知られけれ。

攝政殿(藤原基通)も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子が、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字が現れました。

春の日と書いては、春日と読めば、法相宗※を擁護の春日大明神、大織冠(藤原鎌足)の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、


いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ 


(藤原氏の子孫が衰退するのはどうしたらよいだろう、ただ、春日大明神にお任せしてみるがよい)


共に居た進藤左衛門尉髙直を召して、「この世の中の有様を御覧ずるに、行幸はなれども御幸はならず。行末頼もしからず思し召すは如何に(この先、不安に思われるがどうか)」と仰せければ、(髙直は)御牛飼と目をきつと見合せました。直ぐ心得て、御車を遣りかへし、大宮通りを上りに、飛ぶ如くに仕り、北山の辺、知足院(紫野辺にあった)へぞ、お入りになりました。


                                                                

※【漢天】かん‐てん

〘名〙 天の川の見える空。

▷ 元祿版本新撰万葉(893‐913)下・恋

「漢天早湍無レ浮レ舟、生死瀑河不レ留レ人」

▷ 平家(13C前)七

「明くれば七月廿五日也。漢天既にひらきて、雲東嶺にたなびき」

日本国語大辞典小学館 


※【東嶺】とう‐れい

 〘名〙 東方の山。

▷ 曾我物語(南北朝頃)一二

「月とうれいに出ぬれば、たれともしらぬ人をまつ」

 京都の東山(ひがしやま)の異称。

日本国語大辞典小学館


※【法相宗】ほっそう‐しゅう

〘名〙 (「ほっそうじゅう」とも) 仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである。法相大乗。唯識宗。ほうそうしゅう。

日本国語大辞典小学館


(補足)

幼少の安徳天皇の攝政 藤原基通(後の近衛基通)

治承5年閏2月に清盛が薨去して平家は急速に衰退した。寿永2年7月に源義仲の攻勢の前に都落ちを余儀なくされたときは、これまでの縁の深さから平家と行動を共にするよう平家側に迫られるが、最終的にこれを拒絶し、後白河法皇のもとへ逃れた。その後は法皇の側近として仕え、後鳥羽天皇の擁立にも貢献した。(ウィキペディアから)


考察


覚明は、この条で同じ事を二度書いています。

「木曾既に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち満ちてさふらふ(候)。

郎等に楯六郎親忠※、手書に大夫房覺明※、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ乱れ入る由聞え候」の部分が重複しているのです。

よほど、強調したかったのです。

後の世に出た覚一本(注)では、ここの重複部分は省略されています。


(注)覚一本とは?(ArtWikiは立命館大学アート・リサーチセンターが運営する、学術的wikiサイトです。)

応安四年(1371)、琵琶法師の明石検校覚一が、自分の死後に弟子たちの間で論争が起きないようにするために証本として作らせた本。ただし、覚一が口述し弟子有阿に筆記させた原本は現存せず、写本が残るのみである。「平家物語」の正当であるかのような権威化が進み、現在ではもっとも読まれる本となった。(artwikiより)


しかし、平家物語の原作「治承物語」には、重複して書いてあったに違いありません。

この事実を見ても、治承物語は覚明が書いたと証明できます。

たぶん、京への上洛一番乗りは覚明が自分だと強調したかったのです。

ですから、あえて、木曾義仲の名をここに書かなかったのだと思います。


覚明がここの部分を書くとき、入洛は一段落つきましたが、木曽義仲の評判が巷でも朝廷でも悪い方に流れていました。

例えば、当時、、飢饉で食糧が京では不足していました。そこへ木曾軍を中心に五万余騎が流れ込んだのです。洛中は混乱しました。馬の飼い葉も不足し、田畑も荒らしました。後から源氏側についてきた各地の山賊どもは、洛中の庶民から掠奪を始めたそうです。

木曾義仲個人も朝廷から田舎者扱いされ、木曾義仲の統率する源氏の評判は洛中では散々でした。

平家を滅ぼす先駆けとして活躍してきた木曾義仲の運命は、ここから暗転します。

鎌倉に居た源頼朝は、源義経を派遣して源義仲を切り捨てます。

覚明は「治承物語」に、そこまでは書いていません。

従って、覚明の登場もそこまでです。

平家物語の原作「治承物語」は、ここで終わっており、書籍としては残っていないのです。


最後に、唐突に藤原氏のことが、書かれています。

以下の部分です。

「(幼少の安徳天皇の)攝政殿(藤原基通、後の近衛基通、妻は清盛の娘)も行幸に供奉して、御出ありけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子が、御車の前を、つと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字が現れました。

春の日と書いては、春日と読めば、法相宗※を擁護の春日大明神、大織冠(藤原鎌足)の御末を守り給ふにこそと、頼もしう思し召めす處に、件の童子の聲とおぼしくて、

いかにせむ藤の末葉の枯れ行くをただ春の日にまかせたらなむ 

(藤原氏の子孫が衰退するのはどうしたらよいだろう、ただ、春日大明神にお任せしてみるがよい)」

この部分は、覚明が最後に締めくくりとして、自分の気持ちを付記するために述べたものと思います。

覚明の先祖は清和天皇と藤原高子の第四貞保親王です。

前にも触れましたが、平家による藤原一門の没落は許せません。

今は、覚明(西仏)法師らしく、神と佛にすがるしかないと言っているのだと思います。

長左エ門・記


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参照


「平家物語」の主上都落の条(原文)

 底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の主上都落を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


☆主上都落の条

                      

おな(同)じきしちぐわつじふしにち(七月十四日)、ひごのかみさだよし(肥後守貞能)、ちんぜい(鎮西)のむほん(謀叛)たひら(平)げて、きくち(菊池)、はらだ(原田)、

まつらたう(松浦黨)さんぜんよき(三千餘騎)をめし(召具)ぐしてしやうらく(上洛)す。

ちんぜい(鎮西)のむほん(謀叛)をば、わづかにたひら(平)げたれども、とうごくほくこく(東国北国)のいくさ(軍)は、いか(如何)にもしづま(鎮)らず。おな(同)

じきにじふににち(二十二日)のやはんばか(夜半許)り、ろくはら(六波羅)のへん(邊)おびたた(夥)しうさうどう(騒動)す。

むま(馬)にくら(鞍)お(置)き、はるび(腹帯)しめ、もの(物)どもとうざいなんぼく(東西南北)へはこ(運)びかく(隱)す。ただいま(只今)かたき(敵)のうちい(討入)つたるさま(様)なりけり。

あけ(明)てのち(後)きこ(聞)えしは、みのげんじ(美濃源氏)に、さどのゑもんのじようしげさだ(佐渡衛門尉重貞)とい(云)ふもの(者)あり。さ(去)んぬるほうげ

ん(保元)のかつせん(合戦)のとき(時)、ちんぜいのはちらうためとも(鎮西八郎爲朝)がゐんがた(院方)のいくさ(軍)にま(負)けて、おちう(落人)となつたりしを、

から(搦)めていだ(出)したりしけんじやう(勤賞)に、もとはひやうゑのじよう (兵衛尉)たりしが、そのとき (時)うゑもんのじよう (右衛門尉)になりぬ。これによ (依)つていちもん (一門)にはあた (怨)まれて、このころ (頃)へいけ(平家)

をへつら(諂)ひけるが、そのよ (夜)ろくはら(六波羅)には (馳)せまゐ (參)り、

「きそ(木曾)すで(既)にほくこく(北國)よりごまんよき(五萬餘騎)でせ(攻)めのぼ(上)り、てんだいさん(天台山)、ひがしざかもと(東坂本)にみ(充)ちみ(満)ちてさふらふ(候)。らうどう(郎等)にたてのろくらうちかただ(楯六郎親忠)、てかき(手書)にだいぶばうかくめい(大夫房覺明)、ろくせんよき(六千餘騎)てんだいさん(天台山)にきほ(競)ひのぼ(登)り、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)どうしん(同心)して、ただいま(只今)みやこ(都)へみだ(亂)れいる」よし(由)まう(申)しければ、へいけ(平家)のひとびと(人々)おほ(大)きにさわ(騒)いで、はうばう(方々)へうつて(討手)をさしむ(差向)けらる。

たいしやうぐん(大將軍)にはしんぢうなごんとももりのきやう(新中納言知盛卿)、ほんざんみのちうじやうしげひらのきやう(本三位中将重衡卿)、さんぜんよき(三千餘騎)でま(先)づやましな(山科)にしゆく(宿)せらる。ゑちぜんのさんみみちもり(越前三位通盛)、のとのかみのりつね(能登守教經)、にせんよき(二千餘騎)でうぢばし(宇治橋)をかた(固)めらる。

さまのかみゆきもり(左馬頭行盛)、さつまのかみただのり(薩摩守忠度)、いつせんよき(一千餘騎)でよどぢ(淀路)をしゆご(守護)せられけり。

げんじ(源氏)のかた(方)にはじふらうくらんどゆきいへ(十郎藏人行家)、すせんぎ(数千騎)でうじばし(宇治橋)をわた(渡)ってみやこ(都)へ入る。

みちのくにのしんはんかんよしやすがこ(陸奥新判官義康が子)やたはんぐわんだいよし

きよ(矢田判官代義清)、おほえやま(大江山)をへ(經)てしやうらく(上洛)すともまう(申)しあへり。

また(又)つのくにかはち(摂津國河内)のげんじら(源氏等)どうしん(同心)して、

おな(同)じうみやこ(都)へみだ(亂)れい(入)るよし(由)まう(申)しければ、へいけ(平家)のひとびと(人々)、

「このうへ(上)はちから(力)およ(及)ばず、ただ(只)いつしよ(一所)でいかに(如何)もなりたま(給)へ」とて、はうばう(方々)へむ(向)けられたりけるうつて(討手)ども、みな(皆)みやこ(都)へよ(呼)びかへ(返)されけり。

ていとみやうり(帝都名利)のち(地)、にはとり(鶏)な(鳴)いてやす(安)きこと(事)なし。

をさ(治)まれるよ(世)だにもかくのごと(如)し。いは(況)んやみだ(亂)れたるよ(世)におい(於)てをや。

よしのやま(吉野山)のおく(奥)のおく(奥)へもい(入)りなばやとはおぼ(思)しめ(召)されけれども、しよこくしちだう(諸國七道)ことごと(悉)くそむ(背)きぬ。いづ(何)くのうら(浦)かおだ(穏)しかるべき。

さんがいむあん(三界無安)、いうによくわたく(猶如火宅)として、によらい(如来)

のきんげん(金言)、いちじよう(一乘)のめうもん(妙文)なれば、なじかはすこ(少)しもたが(違)ふべき。


おな(同)じきにじふしにち(二十四日)のさよふ(夜更)けがた(方)に、さきのないだいじんむねもりこう(前内大臣宗盛公)、けんれいもんいん(建礼門院)のわた(渡)らせたま(給)ふろくはらいけどの(六波羅池殿)にまゐ(参)つてまう(申)されけるは                   

「きそ(木曾)すで(既)にほくこく(北國)よりごまんよき(五萬餘騎)でせ(攻)めのぼ(上)り、ひえいさんひがしざかもと(比叡山東坂本)にみ(充)ちみ(満)ちてさふらふ(候)。

らうどう(郎等)にたてのろくらうちかただ(楯六郎親忠)、てかき(手書)にだいぶばうかくめい(大夫房覺明)、ろくせんよき(六千餘騎)てんだいさん(天台山)へきほ(競)ひのぼ(上)り、さんぜん(三千)のしゆと(衆徒)ひきぐ(引具)して、ただいま(只今)みやこ(都)へみだ(乱)れい(入)るよし(由)きこ(聞)えさふらふ(候)。   ひとびと(人々)はただ(只)みやこ(都)のうち(内)にて、いか(如何)にもならんとまう(申)しあ(合)はれけれども、まのあた(親)りにようゐん(女院)、にゐどの(二位殿)に、う(憂)きめ(目)をみ(見)せまゐ(參)らせんこと(事)のくちを(口惜)しくさふら(候)へば、ゐん(院)をもうち(内)をもと(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へごかうぎやうがう(御幸行幸)をも、なしまゐ(参)らせばやとおも(思)ひなつてこそさふら(候)へ」とまう(申)されければ、

にようゐん(女院)、「いま(今)はただ(只)ともかうも、そこ(足下)のはか(計)らひでこそあらんずらめ」とて、ぎよい(御衣)のおんたもと(御袂)にあま(餘)るおんなみだ(御涙)、せ(塞)きあへさせたま(給)はねば、おほいとの(大臣殿)もなほし(直衣)のそで(袖)しぼ(絞)るばか(許)りにぞみ(見)えられける。

さるほど(程)にほふわう(法皇)をばへいけ(平家)と(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へお(落)ちゆ(行)くべしなどまう(申)すことを、ないない(内々)きこ(聞)しめす(召)むね(旨)もやありけん、

そのよ(夜)のやはんばか(夜半許)り、あぜつしだいなごんすけかたのきやう(按察史大納言資賢卿)のしそく(子息)、むまのかみすけとき(右馬頭資時)ばか(許)りをおんとも(御供)にて、ひそか(竊)にごしよ(御所)をい(出)でさせたま(給)ひて、おんゆくへ(御行方)もし(知)らずぞごかう(御幸)なる。

ひと(人)これをし(知)らざりけり。

へいけ(平家)のさぶらひ(侍)にきちないざゑもんのじようすゑやす(橘内左衛門尉秀康)とい(云)ふもの(者)あり。さかざかしきをのこ(男)にて、ゐん(院)にもめしつか(召使)はれけるが、そのよ(夜)しもおとのゐ(御宿直)にまゐ(參)つて、はるか(遙)にとほ(遠)うさふら(候)ひけるが、つね(常)のごしよ(御所)のおんかたざま(御方様)、よにものさわ (物騒)がしう、にようばうたち (女房達)しの (忍)びね (音)にな (泣)きなどしたま (給)へり。

なにごと (何事)なるらんとき (聞)きければ、

「にはか (俄)にほふわう (法皇)のみ (見)えさせましまさぬは、いづかた (何方)へのごかう (御幸)やらん」とまう (申)すこゑ (聲)にき (聞)くほど (程)に、あなあさましとて、いそ (急)ぎろくはら(六波羅)へは (馳)せまゐ (參)り、このよし(由)まう(申)したりければ、おほいとの(大臣殿)、「さだ(定)めてひがごと(僻事)でぞあるらん」とはのたま(宣)ひながら、いそ(急)ぎまゐ(參)つてみまゐ(見參)らさせたま(給)ふに、げにもほふわう(法皇)わた(渡)らせましまさず。

ごぜん(御前)にさぶら(候)はせたま(給)ふにようばうたち(女房達)、にゐどのたんごどの(二位殿丹後殿)いげいちにん(以下一人)もはたら(動)きたま(給)はず。「いか(如何)にや」とと(問)ひまゐ(參)らさせたま(給)へども、「われこそほふわう(法皇)のおんゆく(御行方)へし(知)りまゐ(參)らせたり」とまう(申)さるるにようばうたち(女房達)、いちにん(一人)もおはせざりければ、おほいとの(大臣殿)もちから(力)およ(及)ばせたま(給)はず、な(泣)くな(泣)くろくはら(六波羅)へぞかへ(歸)られける。

さるほど(程)に、ほふわう(法皇)みやこ(都)のうち(中)にわた(渡)らせたま(給)はずとまう(申)すほど(程)こそありけれ、きやうぢう(京中)のさうどう(騒動)なのめ(斜)ならず。

いは(況)んやへいけ(平家)のひとびと(人々)のあわ(周章)てさわ(騒)がれけるありさま(有様)は、いへいへ(家々)にかたき(敵)のうちい(討入)つたりとも、かぎ(限)りあれば、これにはす(過)ぎじとぞみ(見)えし。

 へいけ(平家)ひごろ(日頃)はゐん(院)をもうち(内)をもと(取)りたてま(奉)つて、さいこく(西国)のかた(方)へごかうぎやうがう(御幸行幸)をもなしまゐ(參)らせんとしたく(支度)せられたりしかども、かくうちす(打捨)てさせたま(給)ひぬれば、たの(頼)むこ(木)のもと(下)にあめ(雨)のたまらぬここち(心地)ぞせられける。

「せめてはぎやうがう(行幸)ばか(許)りをもなしまゐ(參)らせよや」とて、あ(明)くるう(卯)のこく(刻)にぎやうがう(行幸)のみこし(神輿)をよ(寄)せたりければ、しゆしやう(主上)はこんねんろくさい(今年六歳)、いま(未)だ、いとけなう(幼)ましましければ、なにごころ(何心)なくぞめ(召)されける。

ごどうよ(御同輿)には、おんぼぎ(御母儀)けんれいもんいん(建禮門院)まゐ(參)らせたま(給)ふ。

「しんし(神璽)、ほうけん(寶劍)、ないしどころ(内侍所)、いんやく(印鑰)、とき(時)のふだ(簡)、げんじやう(玄上)、すずか(鈴鹿)などをもと(取)りぐ(具)せよ」と、

たいらだいなごん(平大納言)ときただのきやう(時忠卿)げぢ(下知) せられたりけれども、あま(餘) りにあわ(周章) てさわ(騒) いで、と(取) りおと(落) すもの(物)ぞおほ(多) かりける。

ひ(晝)のござ(御座)のぎよけん(御劍)などをも、と(取)りわす(忘)れさせたま(給)ひけり。

やがてこのとき(時)ただのきやう(時忠卿)、くらのかみのぶもと(内蔵頭信基)、さぬきのちうじやうときざね(讃岐中将時実)、ふしさんにん(父子三人)、いくわん(衣冠)にてぐぶ(供奉)せらる。

こんゑつかさ(近衛司)、みつなのすけ(御綱佐)、かつちうきうせん(甲冑弓箭)をたい(帯)して、ぎやうがう(行幸)のおんともつかまつ(御供仕)る。しちでう(七條)をにし(西)へ、しゆしやか(朱雀)をみなみ(南)へぎやうがう(行幸)なる。


あ(明)くればしちぐわつにじふごにち(七月二十五日)なり。

かんてん(漢天)すで(既)にひらけて、くも(雲)とうれい(東嶺)にたなびき、あ(明)けがた(方)のつき(月)しろ(白)くさえて、けいめい(鶏鳴)また(又)いそがはし。ゆめ(夢)にだにかかること(事)はみ(見)ず。

ひととせ(一年)みやこ(都)うつ(遷)りとて、にはか(俄)にあわたたしかりしは、かかるべかりけるぜんべう(先表)とも、いま(今)こそおも(思)ひし(知)られけれ。せつしやうどの(攝政殿)もぎやうがう(行幸)にぐぶ(供奉)して、ぎよしゆつ(御出)ありけるが、しちでうおほみや(七條大宮)にて、びんづら(鬟)ゆ(結)うたるどうじ(童子)の、おんくるま(御車)のまへ(前)を、つとはし(走)りとほ(通)るをごらん(御覧)ずれば、かのどうじ(童子)のひだん(左)のたもと(袂)に、はる(春)の

ひ(日)といふもじぞ(文字)あら(顯)はれたる。

はる(春)のひ(日)とか(書)いては、かすが(春日)とよ(讀)めば、ほつさうおうご(法相擁護)のかすがだいみやうじん(春日大明神)、たいしよくくわん(大織冠)のおんすゑ(御末)をまも(守)りたま(給)ふにこそと、たの(頼)もしうおぼ(思)し(召)めすところ(處)に、くだん(件)のどうじ(童子)のこゑ(聲)とおぼしくて、


いかにせむふぢ(藤)のすゑば(末葉 )のか(枯)れゆ(行)くをただはる(春)のひ(日)にまかせたらなむ 


とも(共)にさふらふ(候)しんどうさゑもんのじようたかなほ(進藤左衛門尉髙直)をめ(召)して、「このよ(世)のなか(中)のありさま(有様)をごらん(御覧)ずるに、ぎやうがう(行幸)はなれどもごかう(御幸)はならず。ゆくすゑ(行末)たの(頼)もしからずおぼ(思)しめ(召)すはいか(如何)に」とおほ(仰)せければ、おんうしかひ(御牛飼)にめ(目)をきつとみあは(見合)せたり。やがてこころえ(心得)て、おんくるま(御車)をや(遣)りかへし、おほみや(大宮)をのぼ(上)りに、と(飛)ぶ

がごと(如)くにつかまつ(仕)り、きたやま(北山)のへん(邊)、ちそくゐん(知足院)へぞい(入)らせたま(給)ひける。

  作成/矢久長左衛門                                              
















  

 

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