2023年6月16日金曜日

原作者の存在を考証(19)北國下向の条


作者の存在を考証(19)北國下向の条


平家物語の各条から原作者の存在を考証する(19)


この北國下向の条で、覚明は頼朝と義仲の対立にふれる。


平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!


☆「平家物語」の北国下向の条


(考察)

義仲の嫡男清水冠者と覚明の甥海野幸氏らが鎌倉へ人質に


木曾(源)義仲と源頼朝の間に一悶着があり、木曾義仲の嫡男義重(義高)※と覚明の甥海野小太郎幸氏※らが、頼朝の人質として鎌倉に行くことが決まる。

この人質問題で、後に頼朝の慎重さと狡猾さが証明されますが、覚明はそこまではここに書いていません。

この件は頼朝が上手だったことが、後に歴史が教えてくれます。


※【冠者】かんじゃ                                                 

①元服してかんむりをつけた男子。かじゃ。

②昔、六位で官位のなかった人。


※木曾義仲の嫡男義重(義高)

吾妻鏡寿永三年五月一日故清水冠者義髙とある。

尊卑文脈に義基とあり、「清水冠者と号す。母今井四郎兼平女」とある。


※覚明の甥海野小太郎幸氏

吾妻鏡寿永三年四月二十一日「海野小太郎幸氏は清水冠者と同年也」とある。

(注)後に「備中水島の戦い」で戦死する覚明の兄幸広の子。

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☆北国下向(ほくこくげかう)の条(注:冒頭に清水冠者の条あり)


(原文では)


寿永二年三月上旬に、木曾冠者義仲と兵衛佐頼朝、不快の事ありと聞えけり。

さる程に鎌倉の前兵衛佐頼朝、木曾追討の爲にとて、その勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。

木曾は頃依田城にありけるが、その勢三千餘騎で、城を出でて、信濃と越後の境なる熊坂山に陣を取る。

兵衛佐も同じき國の内、善光寺にこそ著き給へ。

木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者にて、兵衛佐の許へ遣はす。

「抑御邊は東八箇國を討ち随へて、東海道より攻め上り、平家を追ひ落さんとはし給ふなり。

義仲も東山北陸兩道を討ち随へて、北陸道より攻め上り、今一日も先に平家を亡ぼさんとする事でこそあるに、如何なる子細あつてか、御邊と義仲、中を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき。

但し叔父の十郎蔵人殿こそ、御邊を恨み奉ることありとて、義仲が許へおはしつるを、義仲さへ、すげなうあひしらひもてなし申さん事、如何ぞや候へば、これまでは打連れ申したり。義仲に於ては全く意趣思ひ奉らず」と宣ひ遣はされたりければ、兵衛佐の返事に、

「今こそさやうに宣へども、正しう頼朝討つべき由の謀叛の企てありと、告げ知らする者あり。但しそれには依るべからず」とて、

土肥、梶原を先として、数萬騎の軍兵を差向けらるる由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顕はさんが為に、嫡子に清水冠者義重とて、生年十一歳になりける小冠者に、海野、望月)、諏訪、藤澤など云ふ一人當千の兵を相添へて、兵衛佐の許へ遣はす。

兵衛佐、「この上は誠に意趣なかりけり。頼朝未だ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。

 

(現代文訳)


寿永二年三月上旬に、木曾冠者源義仲と兵衛佐源頼朝の間で、不快※(不愉快)なことありと聞えてきました。


やがて、鎌倉の前兵衛佐頼朝が、木曾追討のために、その軍勢十万余騎で、信濃国へ進発しました。

木曾は依田城(上田市の南)にいましたが、その軍勢三千余騎(木曾義仲の取り巻き一千と信濃豪族滋野一族二千)で、城を出て、信濃と越後の境なる熊坂山(長野県上水内郡信濃町にある山)に陣取りました。

兵衛佐も同じ国のうちの、善光寺(長野市)へ到着しました。


木曾義仲は、乳母子の今井四郎兼平※(もり役の子。信濃権守兼遠の子。)を使者として、兵衛佐の許へ派遣しました。


(今井)「いったい、そちら(頼朝)は東八国を討ち従えて、東海道より攻め上り、平家を追い追い落とそうとなさっている。

義仲も東山、北陸両道を討ち従えて、北陸道より攻め上り、今一日でも先に平家を亡ぼそうとしているところです。どうして(どんな事情があるのか)、頼朝と義仲が仲間割れをして、平家に笑はれるようなことをしようと思いましょうや。

ただし、叔父十郎蔵人殿(源行家、為義の子)が、頼朝を恨みなさることが有り、義仲のもとにいらっしゃるが、義仲が愛想もなくもてなすことは、いかがかとおもい、これまでは連だっております。義仲には遺恨は全く御座いません」と言いにいかせました。

頼朝からの返事に「今は、そのように言うけど、たしかに頼朝討つべしとの謀反の計画ありと、告げ口する者が有ります。ただし、その話は信用することは出来ない」といって、

土肥、梶原を先鋒として、数万騎の軍兵を差向けるという情報があり、木曾は眞實意趣なき由を顕はさんが為に、嫡子の清水冠者義重、生年十一歳になりける小冠者に、海野、望月、諏訪、藤澤などと云ふ一人当千の兵を相添へて、兵衛佐の許へ遣はすことにした。

兵衛佐は、「この上は誠に意趣なかりけり。頼朝未だ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へ帰られました。


※【不快】ふかい

①〘名ノナ〙快くないこと。不愉快。

日本国語大辞典小学館

 

(考察)


 (以下原文どおりを引用)

(今井)「抑御邊は東八箇國を討ち随へて、東海道より攻めのぼ上り、平家を追ひ落さんとはし給ふなり。義仲も東山北陸兩道を討ち随へて、北陸道より攻め上り、今一日も先に平家を亡ぼさんとする事でこそあるに、如何る子細あつてか、御邊と義仲、中を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき」とありますが、


この言葉を聞き、特に「今一日も先に平家を亡ぼさんとする事」のところで、頼朝は心中穏やかでありませんでした。

この交渉のやり取りで「今一日も先に平家を亡ぼさんとする事」とは、言葉どうり義仲が先に京に行き平家を追い落とすと言うことであり、頼朝にとって面白くないことでした。

事実、京に早く着き平家を京から追い落とした義仲親子は、老獪な後白河法皇と義仲より上手の頼朝に操られ悲惨な悲劇の道を辿ります。

この交渉の場に覚明がいたかどうかは分かりませんが、居なかったとしても自分の甥も人質になるのですから交渉の成り行きは知っていた事でしょう。

ここで義仲側軍師である覚明は、入京後の義仲の行動までは統制できず、朝廷との政治では頼朝に負けていたことが歴史が教えています。

頼朝と義仲の差は、朝廷をよく知るか、知らないかの差でもあったということです。

平家との和平を探っていたフシがある覚明は、義仲にも頼朝にも受け入れられず、入京後は平家物語の表舞台に登場してきません。


(原文つづく)

さる程に木曾義仲は、東山北陸兩道を討ち随へて、既に都へ亂れ入る由聞えけり。

平家は去年の冬の頃より、

「明年は馬の草飼について、軍あるべし」と披露せられたりければ、山陰山陽、南海西海の兵ものども、雲霞の如くに馳せ集まる。

東山道は近江、美濃、飛騨の兵は参りたれども、東海道は遠江より東の兵は一人も参らず、西は皆参りたり。

北陸道は若狭より北の兵は一人も参らず。

平家の人々、先づ木曾義仲を討つて後、兵衛佐頼朝を討つべき由の公卿僉議ありて、北國へ討手を差向けらる。

大將軍には、小松三位中將維盛、越前三位通盛※、副將軍には、薩摩守忠度※、皇后宮亮經正※、淡路守清房※、三河守知度※、侍大將には、越中次郎兵衛盛嗣、上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景髙、河内判官秀國、高橋判官長綱、武蔵三郎佐衛門有國を先として、以上大將軍六人、然るべき侍三百四十餘人、都合その勢十萬餘騎、四月十七日の辰の一點に都を立つて、北國へこそ赴かれけれ。

片道※を賜はつてげれば、逢坂の關より始めて、路次に持つてあふ権門勢家の正税官物※をも恐れず、一々に皆奪ひとる。

志賀、唐崎、三日尻、眞野、高島、塩津、貝津の道の辺り※を、次第に追補※して通りければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。

 

(現代文訳)


ここでは、ここで述べられている通りなので現代文訳は省略します。


※越前三位通盛(清盛の弟、教盛の子)

※薩摩守忠度(清盛の弟)

※皇后宮亮經正(清盛の弟、経盛の子)

※淡路守清房(重盛の弟)

※三河守知度(重盛の弟)


※片道(軍費として往路にあたる国郡の租税・貢物の徴発を許される)

※正税官物(正税は朝廷に納める稲、官物は田租又は課役)

※追補(徴収して)


※志賀、唐崎、三日尻、眞野、高島、塩津、貝津の道(近江若狭街道の宿駅。志賀は大津市志賀里町)


(考証

 木曾義仲と頼朝の一悶着が、清水冠者義重が人質になるこことで、一応解決したので、この段階では軍師覚明としては、これから相手にする敵、平家の陣容が気になっていました。

そこで、その陣容をここで羅列しています。


ところが、清水冠者の人質問題は、解決していなかったのです。

後に、清水冠者義重(吾妻鏡では義高)は、源頼朝と北条政子の長女である大姫も絡み悲劇的な最後を迎えます。


ともに人質になった覚明の甥海野小太郎幸氏(後に許されて頼朝により鎌倉幕府御家人になる)の、その後を描いたブログ名「矢久のカヤ長野県指定天然記念物」の記事である「歴史的学術価値(3)海野小太郎幸氏の関連」 に詳述されています。


この覚明の甥海野小太郎幸氏は、頼朝の死後も北条氏に引き立てられ八十七歳まで生き亡くなりました。



長左エ門・記

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(参照

「平家物語」の北国下向の条(原文

 
底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の北国下向を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


☆北国下向(ほくこくげかう)の条

じゅえいにねんさんぐわつじょうじゅん(寿永二年三月上旬)に、きそのくわんじゃよしなか(木曾冠者義仲)、ひょうえのすけよりとも(兵衛佐頼朝)、ふくわい(不快)のこと(事)ありときこ(聞)えけり。
さるほど(程)にかまくら(鎌倉)のさきのひやうえのすけよりとも(前兵衛佐頼朝)、
木曾義仲追討のため(爲)にとて、そのせい(勢)じふまんよき(勢十萬餘騎)で、しな
ののくに(信濃國)へはつかう(發向)す。
きそ(木曾)はそのころ(頃)よだのじやう(依田城)にありけるが、そのせい(勢)さんぜんよき(三千餘騎)で、しろ(城)をい(出)でて、しなの(信濃)とえちご(越後)のさかひ(境)なるくまさかやま(熊坂山)にぢん(陣)をと(取)る。
ひょうえのすけ(兵衛佐)もおな(同)じきくに(國)のうち、ぜんくわうじ(善光寺)にこそつ(著)きたま(給)へ。
きそ(木曾)、めのとごの(乳母子)いまゐのしらうかねひら(今井四郎兼平)をししや(使者)にて、ひょうえのすけ(兵衛佐)のもと(許)へつか(遣)はす。
「そもそも(抑)ごへん(御邊)はとうはつかこく(東八箇國)をう(討)ちしたが(随)へて、とうかいだう(東海道)よりせ(攻)めのぼ(上)り、へいけ(平家)をお(追)ひおと(落)さんとはしたま(給)ふなり。
よしなか(義仲)もとうせんほくろくりやうだう(東山北陸兩道)をう(討)ちしたが(随)へて、ほくろくだう(北陸道)よりせ(攻)めのぼ(上)り、いまいちにち(今一日)もさき(先)にへいけ(平家)をほろ(亡)ぼさんとすること(事)でこそあるに、いかな(如何)るしさい(子細)あつてか、ごへん(御邊)とよしなか(義仲)、なか(中)をたが(違)うて、へいけ(平家)にわら(笑)はれんとはおも(思)ふべき。
ただ(但)しをぢ(叔父)のじふらうくらんどどの(十郎蔵人殿)こそ、ごへん(御邊)をうら(恨)みたてまつ(奉)ることありとて、よしなか(義仲)がもと(許)へおはしつるを、よしなか(義仲)さへ、すげなうあひしらひもてなしまう(申)さんこと(事)、いか(如何)ぞやさふら(候)へば、これまではうちつれ(打連)れまう(申)したり。
よしなか(義仲)におい(於)ててはまつた(全)くいしゆ(意趣)おも(思)ひたてまつ(奉)らず」とのたま(宣)ひつか(遣)はされたりければ、ひょうえのすけ(兵衛佐)
のへんじ(返事)に、「いま(今)こそさやうにのたま(宣)へども、まさ(正)しうよりとも(頼朝)う(討)つべきよし(由)のむほん(謀叛)のくはた(企)てありと、つ(告)げし(知)らするもの(者)あり。ただ(但)しそれにはよ(依)るべからず」とて、とひ(土肥)、かぢはら(梶原)をさき(先)として、すまんぎ(数萬騎)のぐんびやう(軍兵)をさしむ(差向)けらるるよし(由)きこ(聞)えしかば、きそ(木曾)しんじつ(眞實)いしゆ(意趣)なきよし(由)をあら(顕)はさんがため(為)に、ちやくし(嫡子)にしみづのくわんじやよししげ(清水冠者義重)とて、しやうねんじふいつさい(生年十一歳)になりけるこくわんじや(小冠者)に、うみの(海野)、もちづき(望月)、すは(諏訪)、ふぢさは(藤澤)などい(云)ふいちにんたうぜん(一人當千)のつはもの(兵)をあひそ(相添)へて、ひょうえのすけ(兵衛佐)のもと(許)へつか(遣)はす。
 ひょうえのすけ(兵衛佐)、「このうへ(上)はまこと(誠)にいしゆ(意趣)なかりけり。よりとも(頼朝)いま(未)だせいじん(成人)のこ(子)をも(持)たず。よしよし、さらばこ(子)にしまう(申)さん」とて、しみづのくわんじや(清水冠者)をあひぐ(相具)して、かまくら(鎌倉)へこそかへ(歸)られけれ。
 
さるほど(程)にきそよしなか(木曾義仲)は、とうせんほくろくりやうだう(東山北陸
兩道)をう(討)ちしたが(随)へて、すで(既)にみやこ(都)へみだ(亂)れい(入)るよし(由)きこ(聞)えけり。
へいけ(平家)はこぞ(去年)のふゆ(冬)のころ(頃)より、
「みやうねん(明年)はむま(馬)のくさがひ(草飼)について、いくさ(軍)あるべし」とひろう(披露)せられたりければ、せんをんせんやう(山陰山陽)、なんかいさいかい(南海西海)のつはもの(兵)ども、うんか(雲霞)のごと(如)くにはせ(馳)あつ(集)まる。
とうせんだう(東山道)はあふみ(近江)、みの(美濃)、ひだ(飛騨)のつはもの(兵)はまゐ(参り)りたれども、とうかいだう(東海道)はとほたふみ(遠江)よりひんがし(東)のつはもの(兵)はいちにん(一人)もまゐ(参)らず、にし(西)はみな(皆)まゐ(参)りたり。
ほくろくだう(北陸道)はわかさ(若狭)よりきた(北)のつはもの(兵)はいちにん(一人)もまゐ(参)らず。
へいけ(平家)のひとびと(人々)、ま(先)づきそよしなか(木曾義仲)をう(討)つてのち(後)、ひょうごのすけ(兵衛佐頼朝)をう(討)つべきよし(由)のくぎやう(公卿)せんぎ(僉議)ありて、ほくこく(北國)へうつて(討手)をさしむ(差向)けらる。

たいしやうぐん(大將軍)には、こまつのさんみのちうじやうこれもり(小松三位中將維盛)、ゑちぜんのさんみみちもり(越前三位通盛)、ふくしやうぐん(副將軍)には、さつまのかみただのり(薩摩守忠度)、くわうごぐうのすけつねまさ(皇后宮亮經正)、あはぢのかみきよふさ(淡路守清房)、みかはのかみとものり(三河守知度智)、さぶらひだいしやう(侍大將)には、ゑつちうのじらうびやうゑもりつぎ(越中次郎兵衛盛嗣ぎ)、かづさのたいふのはうぐわんただつな(上総大夫判官忠綱)、ひだのたいふのはうぐわんかげたか(飛騨大夫判官景髙)、かはちのはうぐわんひでくに(河内判官秀國)、たかはしのはうぐわんながつな(高橋判官長綱)、むさしのさぶらうざゑもんありくに(武蔵三郎佐衛門有國)をさき(先)として、
いじやうたいしやうぐんろくにん(以上大將軍六人)、しか(然)るべきさぶらひさんびやくしじふよにん(侍三百四十餘人)、つがふ(都合)そのせい(勢)じふまんよき(十萬餘騎)、しんぐわつじふしちにち(四月十七日)のたつ(辰)のいつてん(一點)にみやこ(都)をた(立)つて、ほくこく(北國)へこそおもむ(赴)かれけれ。
かたみち(片道)をたま(賜)はつてげれば、あふさか(逢坂)のせき(關)よりはじ(始)めて、ろし(路次)にも(持)つてあふけんもんせいけ(権門勢家)のしやうぜいくわんもつ(正税官物)をもおそ(恐)れず、いちいち(一々)にみな(皆)うばひ(奪)とる。
しが(志賀)、からさき(唐崎)、みつかはじり(三日尻)、まの(眞野)、たかしま(高島)、しほつ(塩津)、かひづ(貝津)のみち(道)のほと(辺)りを、しだい(次第)につゐふく(追捕)してとほ(通)りければ、にんみん(人民)こらへずして、さんや(山野)にみな(皆)でうさん(逃散)す。

作成/矢久長左衛門

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