2023年8月3日木曜日

こぼればなし(10)天皇の前での恥を心憂きこととして出家した幸(行)長の執念

   幸長こと信救(出家名)は、28歳で「新楽府略意(二巻)」を著す。


「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。


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[徒然草226段の原文]

【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】

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注目点!

10歳前後のときに天皇の前での恥を心憂きこととして出家した幸(行)長の執念は、承安2(1172)年3月28歳のとき、伊賀国の師見寺で「新楽府略意(二巻)」を著しました。

この「白氏新楽府略意 」巻ノ上には、徒然草226段に述べられている楽府の御論議での恥を忘れず、「七徳ノ舞ト者、左伝云ク、夫武ハ禁シ暴ヲ戢メ兵ヲ保チ大ヲ定メ功ヲ安シ民ヲ和ク衆ヲ豊ナル財ニ者也、」と挙げ、その略意を述べています。

中国の哲学書電子化計画の電子図書館では、「夫武、禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財、者也」と句読点が入れてあります。


幸(行)長こと信救は「新楽府略意」を書きながら考えたに違いない。

平安時代の教養人の間では漢詩を読むことが流行っていたが、当たり障りのないものばかりが選ばれ詠じられていた。

白楽天の「新楽府」は、社会が抱える時事問題を詠い、下は民衆から上は天子にいたるまで、この問題を知り、世の中をよくしょうという目的で作られたという。

ところが、本邦では平家一門の専横がはびこりつつある。

信救が修業遍歴中に見た民衆の苦しみや悲惨な状況は為政者には無視されている。

そういう世の中を何とかしなければならないと若い信救は欲求不満を抱えていた。

そして、ついに、信救の長い修業遍歴は終わり、治承の時代を迎える。 

治承4年(1180)4月9日76歳の源三位頼政は以仁王に謀反を勧め、令旨を諸国の源氏に伝える。

当時、学問僧として、南都興福寺にいた信救は以仁王が逃げ込んだ園城寺からの牒状に対してその返牒を書くことになる。

その中で平清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒、そのため怒りをかい、漆を浴び変装して奈良を逃れることになる。


(長左エ門・記)

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