2019年5月11日土曜日

幸長入道の著作「白氏新楽府略意」



論文に幸長入道こと信救の「新楽府略意」が併載されている

この論文は、信救の行実について、従来の代表的な説を問題史的に当たり、信救・覚明を同一人物とみなすことは、ほぼ疑いを容れる余地がないとしています。 

付録として、真福寺所蔵の「新楽府略意七」一巻と、醍醐寺所蔵の「白氏新楽府略意 」二巻の翻印が併載されています。

この二本は鎌倉及び南北朝頃の写しであり、奥書によれば、いずれも信救の撰だそうです。

この未刊の作品を、綿密な作業をされ、活字化された太田次男氏のご努力に敬意を表します。

この「白氏新楽府略意 」巻ノ上には、徒然草226段に述べられている楽府の御論議での恥を忘れず、七徳ノ舞ト者、左伝云ク、夫武ハ禁シ暴ヲ戢メ兵ヲ保チ大ヲ定メ功ヲ安シ民ヲ和ク衆ヲ豊ナル財ニ者也、と挙げ、その略意を述べている

中国の哲学書電子化計画の電子図書館では、「夫武、禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財、者也」と句読点が入れてある。

10歳前後のときに天皇の前での恥を心憂きこととして出家した幸(行)長の執念は、この「新楽府略意」を生み出し、その後も「曽我物語」や「治承物語(後の平家物語の初稿)」を生み出すことになる。

(長左衛門・記))


 (参考資料)

 「新楽府(しんがふ)」とは

 中国の古典「白楽天」下定雅弘著(角川ソフイア文庫)によると、
「新楽府(しんがふ)」とは、新しい楽府という意味で唐に始まるもの。
その名称は白楽天によって確定されたという。

 (注:新楽府は、全て七言古詩の長編で、律詩に比べれば平仄・押韻・対句の使用などが自由であり、五言に比べれば、リズムが流暢で活発、一句の情報量が多いという特徴を持つ)

「楽府」は、もと漢の武帝の時に、歌謡を採集する「楽府」という役所が設けられ、その「楽府」が採集した歌謡をも「楽府」と呼ぶようになった。

もとの題を使って新たな内容をもりこんだ作品なども「楽府」と呼び、これらには二つの大きな特徴がある。

一つは、民衆の苦しみや悲惨な状況がしばしば詠われていて、為政者がこれを見て、よりよい政治をする助けになるものだと考えられていたこと。

また一つには、本来歌謡ですから、実際に伴奏はなくとも、読むのではなく、歌われることを意識して作られていた。

「新楽府」は、こうした古くからの「楽府」の伝統を継承しつつ、「楽府」の旧題にはない新しい題をつけて、
社会が抱える時事問題を詠い、下は民衆から上は天子にいたるまで、この問題を知り、世の中をよくしょうという目的で作られた。

その作家としては李白・杜甫、また白楽天と同時代では李紳・(げんじん)らがいる

白楽天はとりわけ杜甫から大きな影響をうけつつ、「新楽府」五十首を作りました。
その大部分は、左拾遺・翰林学士の職務に励んでいた元和4年(809)ころの作です。

左拾遺は諫官(かんかん)と呼ばれるポストで、天子の側近として国政に直接意見を述べることのできる重要な職です。

この諫官としての使命感と詩人の魂とが結びついて、白楽天は「新楽府」を作成しました。

「新楽府」の第五十首、最後の「采詩の官」には「むかしは采詩の官というものがあり、天子は民間の詩を採集させて人民の声に耳を傾けた。

言った者に罪はなく、聞く者はおのれをいましめた、上下の意思が通じて上も下も安らかだった」と詠っています。

白楽天はこの古代に行われた采詩の官の制度を、自分が模範となる詩を作ることによって、真剣に復興しようとした。

 (同書コラム「新楽府」詩で社会の問題を詠った白楽天より)

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