弟で海野幸(行)長の父海野幸親 は後白河天皇側
◎保元の乱※で海野家も兄弟で二派に分かれる。
摂関家藤原氏は、忠実の長子忠通と次子頼長が対立。
忠通は鳥羽法皇と結び、頼長は崇徳上皇と組んでいた。
そして、鳥羽法皇が逝去されるや、上皇は頼長と謀って源為義、平忠正らの武士を招いて挙兵。
これに対し、後白河天皇は忠通とともに源義朝(為義の長子)、平清盛(忠正の甥)を味方にして、戦乱となる。
崇徳上皇方は、義朝らの夜討ちを受けて大敗し、上皇は讃岐に流され、頼長は戦死、為義、忠正は投降して斬られた。
この乱は皇室の皇位継承の争いであり、藤原氏一族の権力闘争が表面化したものであって、貴族の無力さと、武士階級の政治への進出を促したものとされ、古代から中世への転機となる歴史的事件だった。
この時、海野幸(行)長(覚明)の父海野幸親 は望月氏や禰津氏、諏訪氏らと共に後白河天皇側に付く(後、官軍となる)
父の兄信濃守海野幸通は崇徳上皇側に付く(後、賊軍となる)
その後、源平の戦乱が続き、信濃守の任命記録は見られません。
そのため、信濃前司行長は下野守藤原行長という誤った通説が流布したものと思われます。
「徒然草」著者吉田兼好の誤りではなく、兼好法師の名誉のためにも、ここで訂正しておきたいと思います。
(長左衛門・記 )
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