近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家した
「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
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[徒然草226段の原文]
【 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり 】
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注目点!
兼好法師の徒然草226段の書きだしでは「後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の誉れありけるが、」となっていますが、重大なことに気付かされました。
稽古の誉れがあったのは、後鳥羽院の御時ではなかったのです。
82代後鳥羽天皇の在位は1183(寿永2) 年から1198(建久9)年までで、それから1221(承久3)年までが後鳥羽院の御時になります。
その時の海野幸(行)長は、54歳から77歳です。稽古の誉れありけるという年齢ではありません。
幸長出家名の信救著作「仏法伝来次第」の経歴によると、近衛天皇在位の昔、急に比叡山黒谷で出家したとあります。
そこで、信濃前司幸(行)長(本名海野幸長)の誕生から出家、修業遍歴を年表風に一覧にして見ました。
「近衛天皇在位之昔」とは?
1141(永治元)年から1155(久寿2)年の14年間のことです。
「稽古の誉れ」があったのは?
近衛天皇15歳ごろ、行長は10歳ごろ、10歳前後で出家※。
2年後に、近衛天皇は17歳で薨去。
※徒然草で、幸(行)長は、「五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」となっていますが、当時、10歳前後の本人は相当重く心憂き事として捉えたのでしょう。急に学問の道である奈良東大寺国立勧学院進士を捨て、比叡山の黒谷に行き、出家してしまったということのようです。
(長左エ門・記)
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