専修念仏の法然上人に出会った範宴(親鸞)と浄寛(信救こと西仏)はその弟子となる。
朝廷や公家寄りの興福寺や延暦寺の旧仏教勢力の反発による「承元の法難」で、朝廷は庶民の専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞を越後に配流。
幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行き数年を過ごしました。
その後、親鸞は流罪赦免され、越後から東国布教に向かいます。
幸長こと西仏坊はそのすべてヘ親鸞と行を共にします。
そして、親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会いました。
そこで、近くの海野庄(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する日々を送ります。
(注)親鸞の名前について
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞
俗名(配流時)- 藤井善信
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
(長左エ門・記)
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