年表でたどる幸長入道の97歳の生涯(2)
◎海野幸長の蔵人通広時代
1150(久安6)年
近衛天皇12歳
奈良興福寺僧徒、春日神人春日神木を奉じ入京強訴。
海野幸(行)長6歳、進士蔵人通廣(南曹北堂遊学末生※)
※幸長こと信救著作「仏法伝来次第」の経歴では、
「抑信救者、 本是南曹北堂遊学末生也、近衛天皇在位之昔、忽辞塊市之交、墓踏台嶺之瞼、於黒谷剃翠髪、初修行北陸、後居止南都」となっている。
※南曹北堂とは藤原氏の京の私立勧学院の説があるが、ここでは空海が設置した奈良東大寺南院(真言院)の僧侶育成機関の潅頂道場(国立勧学院)をさすと推定する。
根拠はここで学んだ空海著作の「三教指帰」を幸長(信救・覚明・西仏坊)は晩年(76歳ころ)になり、覚明の名で「三教指帰註」として著しているからである。
これは空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書の初学者向けの注釈書となっている。
中巻奥書に建保六年とある。
完成したものは全部で7巻あるので、この年前後に執筆したものと思われる。
2年後に下巻が完成している。
「三教指帰」とは仏教書。三巻。空海作。797年成立。儒教・道教・仏教の三教のうちの仏教の優位を、三人の仮想人物の対話の体裁で論じたもの。ほぼ同じ内容の空海の別本として「聾瞽(ろうこ)指帰」があり、「三教指帰」の原作とされる。
1151(久安7)年1月26日に仁平と改元。
仁平元年、左大臣藤原頼長は興福寺衆徒の武装を禁止する通達を出した。
近衛天皇13歳、 海野幸(行)長7歳。
1152(仁平2)年
近衛天皇14歳、 海野幸(行)長8歳。
1153(仁平3)年
近衛天皇15歳、海野幸(行)長9歳。
(徒然草による「信濃前司行長 稽古の誉れありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを」は、このころか)
延暦寺僧徒、入京強訴。
近衛天皇13歳、 海野幸(行)長7歳。
1152(仁平2)年
近衛天皇14歳、 海野幸(行)長8歳。
1153(仁平3)年
近衛天皇15歳、海野幸(行)長9歳。
(徒然草による「信濃前司行長 稽古の誉れありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを」は、このころか)
延暦寺僧徒、入京強訴。
1154(仁平4)年10月28日に久寿と改元。
武蔵国比企郡大蔵館で源(木曾)義仲(幼名駒王丸)誕生。
源為朝が鎮西で乱行した責により父為義は官を解かれる。
近衛天皇16歳、 海野幸(行)長10歳。
(徒然草による「五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」は、このころか)
武蔵国比企郡大蔵館で源(木曾)義仲(幼名駒王丸)誕生。
源為朝が鎮西で乱行した責により父為義は官を解かれる。
近衛天皇16歳、 海野幸(行)長10歳。
(徒然草による「五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」は、このころか)
◎海野幸長の最乗坊信救時代
1155(久寿2)年4月15日(1155・5 ・17) 慈円誕生(父摂政関白藤原忠道、母は藤原仲光女加賀局、摂政関白九条兼実は同母兄にあたる。「小倉百人一首」では前大僧正慈円)。※後に成長した慈円が叡山の座主のときに11歳年上の幸長入道(信救、覚明)と出会う。そして平家物語の原作である「治承物語(平家)」が生まれる。
7月23日近衛天皇17歳で薨去。
海野幸(行)長11歳(出家名は最乗坊信救)
7月24日以降は77代後白河天皇践祚(29歳)崇徳上皇は自らの御子重仁親王の即位を期待した。しかし、鳥羽法皇の受け入れるところとならず上皇の同母弟が後白河天皇として即位。
8月16日木曽義仲の父源義賢が武蔵國大蔵館で甥の源義平に討たれる。2歳の駒王丸(義仲)は母と逃れ信濃國木曽の中原兼遠の屋敷に逃れ養育される。
1156(久寿3)年4月27日に保元と改元。
海野幸(行)長12歳
海野幸(行)長11歳(出家名は最乗坊信救)
7月24日以降は77代後白河天皇践祚(29歳)崇徳上皇は自らの御子重仁親王の即位を期待した。しかし、鳥羽法皇の受け入れるところとならず上皇の同母弟が後白河天皇として即位。
8月16日木曽義仲の父源義賢が武蔵國大蔵館で甥の源義平に討たれる。2歳の駒王丸(義仲)は母と逃れ信濃國木曽の中原兼遠の屋敷に逃れ養育される。
1156(久寿3)年4月27日に保元と改元。
海野幸(行)長12歳
駒王丸(義仲)3歳
4月29日清盛、高野大塔修理終わる。
7月2日鳥羽上皇崩御(54歳)
4月29日清盛、高野大塔修理終わる。
7月2日鳥羽上皇崩御(54歳)
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