年表でたどる幸長入道97歳の生涯(10)
◎法然上人や親鸞と出会い新しい仏教の道へ
専修念仏の法然上人に出会った範宴(親鸞)と浄寛(信救こと西仏)はその弟子となりました。
朝廷や公家寄りの興福寺や延暦寺の旧仏教勢力の反発による「承元の法難」で、朝廷は庶民の専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞を越後に配流。
幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行き数年を過ごしました。
その後、親鸞は流罪赦免され、越後から東国布教に向かいます。
幸長こと西仏坊はそのすべてヘ親鸞と行を共にします。
そして、親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会いました。
そこで、近くの海野庄(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する日々を送ります。
(注)親鸞の名前について
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞
俗名(配流時)- 藤井善信
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞
俗名(配流時)- 藤井善信
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
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1199(建久10)年4月27日正治と改元。
土御門天皇即位により改元。
幸(行)長55歳、小太郎幸氏28歳、範宴27歳。
1月11日頼朝、病によりて出家。
1月13日頼朝、薨ずる(53歳)
頼朝の死は、草創期の鎌倉幕府に重大な打撃を与えた。
土御門天皇即位により改元。
幸(行)長55歳、小太郎幸氏28歳、範宴27歳。
1月11日頼朝、病によりて出家。
1月13日頼朝、薨ずる(53歳)
頼朝の死は、草創期の鎌倉幕府に重大な打撃を与えた。
御家人、武士の結合の中心人物であっただけに頼朝の死によってもたらされた幕府内部の動揺は著しかった。
将軍の地位は源頼家が継ぐ。
だが、治安が乱れ、動乱が頻発し、侍所の所司梶原景時は追放される。
3月19日文覚を佐渡へ流す。
4月幕府、頼家の親裁を停止し、北条時政以下13人の宿老による合議を経ることとする。
8月東大寺南大門再建される。
12月梶原景時、鎌倉を追放される。
1200(正治2)年
幸(行)長56歳、小太郎幸氏29歳、範宴28歳。
範宴は東山の山すその聖光院に住む。
1月20日梶原景時、駿河に於いて誅伐される。
玉葉(九条兼実の日記、1164~)なる。
幕府、念仏宗を禁ずる。
8月東大寺南大門再建される。
12月梶原景時、鎌倉を追放される。
1200(正治2)年
幸(行)長56歳、小太郎幸氏29歳、範宴28歳。
範宴は東山の山すその聖光院に住む。
1月20日梶原景時、駿河に於いて誅伐される。
玉葉(九条兼実の日記、1164~)なる。
幕府、念仏宗を禁ずる。
(長左衛門・記)
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