2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(12) 親鸞と越後へ


年表でたどる幸長入道の97歳の生涯(12)

 法然と親鸞が流罪に、幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に

1207(建永2)年10月25日承元と改元。
  痘瘡流行のため改元。
  幸(行)長63歳、小太郎幸氏36歳、範宴35歳
  4月九条兼実(59)歿。

[承元の法難]
朝廷、専修念仏を禁じ法然房源空、俗名藤井元彦の名に帰せしめ土佐に、変更され讃岐中郡へ、範宴こと善信(親鸞)を越後に配流。
幸長こと西仏は親鸞の後を追い越後国に行く。


1208(承元2)年
  幸(行)長64歳、小太郎幸氏37歳、範宴36歳
  1月幕府門注所が火災、重要な文書、記録などを焼失。

1209(承元3)年
  幸(行)長65歳、小太郎幸氏38歳、範宴37歳
   11月幕府、諸国守護人緩怠による群盗蜂起について議する。
  近代秀歌(藤原定家)なる。

1210(承元4)年
  幸(行)長66歳、小太郎幸氏39歳、範宴38歳

1211(承元5)年3月9日建暦と改元。
  順徳天皇即位により改元。
  幸(行)長67歳、小太郎幸氏40歳、親鸞39歳
範宴こと親鸞は流罪赦免される。そして越後から東国布教に向かう。幸長こと西仏坊はすべて親鸞と行を共にする。


1212(建暦2)年
  幸(行)長68歳、小太郎幸氏41歳、親鸞40歳
  4月鴨長明(58歳)の「方丈記」なる。
  法然上人歿(80歳)
親鸞と西仏坊は東国ヘの途次、善光寺へ立ち寄る。たまたま信州小県郡角間峠にて法然上人の往生を知らせる使者に出会う。そこで、近くの海野荘(幸長こと西仏坊の生地)にとどまり一庵を建立、報恩の経を読誦する。この場所は幸長こと西仏坊の生地であり、滋野嫡流海野家の代々の領地であります。当時、甥の鎌倉御家人海野小太郎幸氏が支配していました。親鸞聖人は、この庵を報恩院と命名。これが現在の康楽寺(長野市)の草創となる。


1213(建暦3)年12月6日建保と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長69歳、小太郎幸氏42歳、親鸞41歳
  金魂和歌集(源実朝)なる。
  和田義盛の乱

和田義盛は北条氏の武将抑圧政策に反感、三浦義村と図り挙兵、幕府や義時、大江広元の屋敷を襲う。鎌倉は激烈な市街戦となり、一時、北条氏は危機に。しかし、三浦氏の寝返りにより和田一族は敗北し全滅した。
   12月13日建礼門院崩御(59歳)。異説有り。

1214(建保2)年
  幸(行)長70歳、小太郎幸氏43歳、親鸞42歳
  4月延暦寺・興福寺僧徒蜂起、武士これを防ぐ。

1215(建保3)年
  幸(行)長71歳、小太郎幸氏44歳、親鸞43歳
  7月幕府、鎌倉の商人の員数を定める。

  この年に将軍源実朝、三井寺を復興する。

1216(建保4)年
  幸(行)長72歳、小太郎幸氏45歳、親鸞44歳
  2月後鳥羽上皇の百首和歌なる。
  「方丈記」の鴨長明歿。

1217(建保5)年
  幸(行)長73歳、小太郎幸氏46歳、親鸞45歳
  9月頼家息・公暁、鶴岡八幡宮別当となる。

1218(建保6)年
  幸(行)長74歳、小太郎幸氏47歳、親鸞46歳
幸長こと西仏坊は覚明の名で「三教指帰註」を著す。

これは空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書の初学者向けの注釈書となっている。
中巻奥書に建保六年とある。
完成したものは全部で7巻あるので、この年前後に執筆していたものと思われる。
2年後に下巻が完成している。
「三教指帰」とは仏教書。三巻。空海作。797年成立。儒教・道教・仏教の三教のうちの仏教の優位を、三人の仮想人物の対話の体裁で論じたもの。ほぼ同じ内容の空海の別本として「聾瞽(ろうこ)指帰」があり、「三教指帰」の原作とされる。

   11月政子従二位となる。
   12月2日実朝は右大臣に任官。


1219(建保7)4月12日承久と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長75歳、小太郎幸氏48歳、親鸞47歳
  1月27日源実朝歿。
鶴岡八幡宮における実朝(28歳)は右大臣拝賀の式で兄頼家の遺児公暁によって殺害される。ここで頼朝の正統は三代で滅び、幕府の実権は北条氏に移る。(北条政子聴政)
  
2月阿野全成の子・時元、駿河に挙兵し、敗死する。

1220(承久2)年
  幸(行)長76歳、小太郎幸氏49歳、親鸞48歳
幸長こと西仏坊は覚明の名で「三教指帰注」下巻を著す。下巻奥書に承久二年とある。


天台座主慈円の「愚管抄」 なる。(この後、承久の乱後に追記されている)

このころ「保元物語」「平治物語」 なる。
軍記ものが隆盛で「平家物語」もなるとされている。
しかし、このころの平家物語は、まだ、「治承物語」六巻だった可能性が大きい。(20年後の仁治元年の前に藤原定家が「治承物語六巻号平家」を書写したという記録がある)

(長左衛門・記

0 件のコメント:

コメントを投稿