年表でたどる幸長入道97歳の生涯(11)
◎海野幸(行)長の西仏坊時代始まる
1201(正治3)年2月13日建仁と改元。 幸(行)長57歳 、小太郎幸氏30歳、範宴29歳。
幸長(浄寛)と範宴(親鸞)は比叡山から京都・吉水に下って、法然上人の弟子となる。
浄寛改め西仏、範宴改め綽空 ⇒ 善信/親鸞となる。
1月~4月越後国の城小太郎資盛、鳥坂に城郭を構え、幕府に対する反乱が起きる。(吾妻鏡) 5月14日海野小太郎幸氏らが駆け付け反乱を鎮める。資盛賊徒ら矢石を飛ばし小太郎幸氏は疵を負う。藤沢次郎清親の機転で資盛敗北する。 11月「新古今和歌集」撰進の命令が下る。 1202(建仁2)年 幸(行)長58歳、小太郎幸氏31歳、範宴30歳。 慈円、再び比叡山の座主に。 7月22日鎌倉二代将軍源頼家、征夷大将軍に任ぜられる。 頼家が病により倒れると、相続をめぐり波乱が起きる。 閏10月幕府、守護の越権行為を禁止する。 1203(建仁3)年
幸(行)長59歳、小太郎幸氏32歳、範宴31歳。 5月頼朝の弟・阿野全成が討たれる。 8月幕府(政子)は頼家の子一幡に関東28か国の地頭職と惣守護職を、頼家の弟千幡(実朝) に関西38か国の惣地頭職をゆずらせた。
相続をめぐり不満をもった比企能員(頼家の妻若狭局の父)は北条時政を倒そうとしたが、逆に時政によって謀殺され、比企一族は滅亡。そして一幡も殺された。
9月27日鎌倉三代将軍源実朝となる。北条時政は実朝を将軍職に擁し、政所別当となって、実朝の後見(執権)として幕政に臨んだ。 9月29日頼家を修善寺に幽閉。 範宴(親鸞)結婚。 東大寺南大門仁王像建立(運慶)。
1204(建仁4)年2月20日元久と改元。 幸(行)長60歳、小太郎幸氏33歳、範宴32歳(綽空と名乗る) 7月18日源頼家、修善寺にて殺される(23歳) 11月30日藤原俊成歿(91歳) 11月法然、七箇条の起請をつくり、叡山等の非難の回避を図る。 1205(元久2)年 幸(行)長61歳、小太郎幸氏34歳、範宴33歳(夢告により、善信と改める)。 2月幸長こと西仏は大和信貴山に参籠中の醍醐寺僧・深賢を訪ね信救時代に書いた「白氏新楽府略意」の草稿を貸し与える。
西仏坊は若い時の作品「和漢朗詠集私注」やこの「白氏新楽府略意」を持ち歩き、寺々では僧たちにこの二作品を、民衆には 同道した琵琶法師や巫女・瞽女に「曽我物語」や「治承物語」の二作品を語らせ、本人は法然上人の教えを布教して歩いたと思われる。 閏7月北条時政、実朝の暗殺を企て、失敗して出家。伊豆に隠退 。 北条義時、執権となる。 新古今和歌集(藤原定家)なる。 この頃、範宴は法然上人より『選択本願念仏集』の書写を許される。
1206(元久3)年4月27日建永と改元。
痘瘡流行のため改元。 幸(行)長62歳、小太郎幸氏35歳、範宴34歳。
(長左衛門・記)
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2019年5月11日土曜日
年表でたどる幸長入道(11) 西仏坊時代始まる
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