2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(13) 承久の乱起きる

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(13)
 
◎朝廷と幕府が対立[承久の乱]が起きる

1221(承久3)年
  幸(行)長77歳、小太郎幸氏50歳、親鸞49歳
  4月九条道家、摂政となる。

 
 [承久の乱] 
  5月後鳥羽上皇は討幕の準備を進め、京都守護伊賀光季を討ち、北条義時追討の院宣を下した。
  6月上皇は諸国の武士が応ずると期待したが、呼応したのは京畿の一部の武士にすぎず、北条時房、泰時19万の幕府上洛軍
10代海野小太郎幸氏49歳は、美濃大井戸で参戦に惨敗した。
  7月13日後鳥羽院隠岐遷幸
  8月幕府、京方公卿・武士の所領を没収し、恩賞に当てる
 閏10月挙兵に消極的であった順徳、土御門の二上皇も、それぞれ佐渡と土佐に流された。4歳の仲恭天皇も退位させられる。


1222(承久4)年4月13日貞応と改元。
  後堀川天皇即位により改元。
  幸(行)長78歳、小太郎幸氏51歳、親鸞50歳。
幕府は院やその味方の貴族・武士・僧侶らの所領を全国にわたり没収、そして、御家人たちをその地頭とした。これを新捕地頭といい、頼朝以来の地頭を本領地頭という。こうして名実ともに武士階級の独裁が実現した。
1223(貞応2)年
  幸(行)長79歳、小太郎幸氏52歳、親鸞51歳
  「六代勝事記」(基房の子大覚寺隆忠)なる。


1224(貞応3)年11月20日元仁と改元。
  天変炎旱により改元。
  幸(行)長80歳、小太郎幸氏53歳、親鸞52歳
  6月北条義時歿。
  親鸞の「教行信証」なる


1225(元仁2)4月20日嘉禄と改元。
  疾病流行により改元。
  幸(行)長81歳、小太郎幸氏54歳、親鸞53歳
  7月政子歿
   12月評定衆が設置される。執権の顧問として政所に出仕し、立法・行政を合議するためのもので、将軍専制と元老の権威を抑制するための制度。
  9月25日(1225・10・28)慈鎮和尚死去(71歳)
※慈円が信濃(幸長)入道より10歳若いことが分かる。慈円が自分より年上の信濃入道の経験と学識や文才を認め、平家物語の原作「治承物語」を書かせたことが理解出来る。
1226(嘉禄2)年
  幸(行)長82歳、小太郎幸氏55歳、親鸞54歳
  2月藤原頼経、将軍となる。

1227(嘉禄3)年12月10日安貞と改元。
  痘瘡の流行により改元。
  幸(行)長83歳、小太郎幸氏56歳、親鸞55歳
1228(安貞2)年
  幸(行)長84歳、小太郎幸氏57歳、親鸞56歳
   11月興福寺衆徒と延暦寺衆徒が互いに争いを起こす。これを機に六波羅探題は高野山衆徒の武装を禁止する。

1229(安貞3)年3月5日寛喜と改元。
  天変地災により改元。
  幸(行)長85歳、小太郎幸氏58歳、親鸞57歳
  この頃、蒙古のオゴタイ、大ハーン位に即く。
1230(寛喜2)年
  幸(行)長86歳、小太郎幸氏59歳、親鸞58歳
  6月朝廷、一貫文を一石とする直法を定める。
  6~
7月諸国、寒冷異常気象となる。
  8月大風雨おこり。この年大凶作となる。
1231(寛喜3)年
  幸(行)長87歳、小太郎幸氏60歳、親鸞59歳
  諸国大飢饉となり、翌年に続く(寛喜の大飢饉)
  この頃、蒙古の高麗侵略始まる。

1232(寛喜4)年4月2日貞永と改元。
  天変飢饉により改元。
  幸(行)長88歳、小太郎幸氏61歳、親鸞60歳
  京都では餓死者が多数出る。

  8月鎌倉和賀江島を築く。
  この年、親鸞、京に帰る
幕府は朝廷の力をおさえて全国を統治するようになると武士階級独自の憲法「御成敗式目」(貞永式目)を制定した。
独裁から法治主義への移行である御成敗式目は鎌倉御家人に関する訴訟の理非裁決の基準を示したもので武家の道理に従い成文化、体系化したもの。
  10月新勅撰和歌集(藤原定家)なる。

1233(貞永2)年4月15日天福と改元。
  四条天皇即位により改元。
  将軍は藤原頼経、執権は北条泰時
  幸(行)長89歳、小太郎幸氏62歳、親鸞61歳

1234(天福2)年11月5日文歴と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長90歳、小太郎幸氏63歳、親鸞62歳
  5月幕府、西国御家人の所領について定める。
  6月幕府、専修念仏を禁止する。

(長左衛門・記

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