2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(5) 山門諜状の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(5

山門牒状を延暦寺で見た覚明は興福寺にも届いた牒状を思い出す

 平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

 平家物語」の山門牒状の条


(考察)

            覚明は、当時の山門の反応や状況を知ることになる


 山門牒状とは、反平家で立ち上がった帝の子以仁王(第二の皇子高倉宮)に逃げ込まれた三井寺(円城寺)が、比叡山の延暦寺へ味方するよう要請した文書です。

三井寺は、このような文書を奈良の興福寺にも送りました。

当時、興福寺にいた信救(覚明)は、その協力要請文書を見て、かの有名な「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒する檄文を書いた当事者なのです。

その同じ時の三井寺からの「山門への牒状(現物)」が、比叡山延暦寺の書庫に保存してあったのです。

それも、さきに述べてきた「木曾山門牒状(現物)」や「山門返牒(写し)」「平家山門への連署(現物)」などと共に あったのです。

これを見つけた覚明は、当時の山門の反応や状況を知ることになり、一気に当時を思い起こし、この条を書いたと思われます。

以仁王に逃げ込まれた三井寺での混乱を覚明は以下のように想像し、牒状の要点をこの山門牒状の前文に残しました。

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原文では
「さる程に、三井寺には、貝鐘鳴らいて、大衆僉議す」
とあります。

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(現代語訳)

「平家に追われた高倉宮が逃げ込まれた三井寺では、法螺貝を吹き鐘を打ち鳴らして集まり衆徒が詮議した」
とあります。
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(考察)

      覚明が、延暦寺の書庫で見つけた三井寺から比叡山への牒状

 そして、覚明は延暦寺の書庫で見つけたと思われる三井寺から比叡山への牒状の要点をこの前文で次のように語ります。

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原文では

「抑近日世上の體を案ずるに、佛法の衰微、王法の牢籠、まさにこの時に當れり。
今度入道の暴悪を戒めずば、何れの日をか期すべき。
宮ここに入御の御事、正八幡宮の衞護、
新羅大明の冥助にあらずや。
天衆地類も影向を垂れ、佛力神力も降伏を加へまします事、などか無からん。
なかんづく北嶺は圓宗一味の學地、南都は、夏﨟得度の戒場なり。牒奏の處になどか與せざるべき」と、
一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をこそ遣はしけれ。

(現代語訳)

「そもそも、最近の世情を考えると、佛法の衰微、朝廷の政道の行き詰まり、まさに非常時です。

この三井寺(円城寺)では、いま、清盛入道の暴悪を戒めなければ、いつの日に期すべきであろうかと考えています。
それは今でしょう。

高倉宮がこの寺にお入りになられたことは、正八幡宮の加護、寺の守護神である新羅大明神の助けによる冥加です。

天と地の神々も影を現し、佛と神も清盛入道を降伏させる力を加へることがないということはないでしょう。

特に、比叡山延暦寺は天台宗の学問の地、奈良興福寺は、一夏90日間の安居修行して僧侶の資格を得る戒壇のあるところです。

どうして山門が牒状を送った当方に組みしないことがありえましょう」
と、三井寺の衆徒は詮議同意して、比叡山延暦寺へも奈良興福寺へも牒状を遣はした。

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(考察)

        覚明は、延暦寺の書庫で見つけた「山門牒状(現物)」の写しを添える

 そして原文には、この前文の後に、延暦寺の書庫で見つけたと思われる「山門牒状(現物)」の写しを添えています。

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原文では

先づ山門への状に云く、
「園城寺牒す、延暦寺の衙。
殊に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと思ふ状。
右入道淨海、恣に佛法を破滅し、王法を亂らんと欲す。愁歎極り無き處に、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難をの遁れん為に、竊に入寺せしめ給ふ。
ここに院宣と號して、出し奉るべき由、頻りに責め有りと雖も、出し奉るに能はず。
仍つて官軍を放ち遣はすべき旨、その聞えあり。
當寺の破滅、正にこの時に當れり。諸衆何ぞ愁歎せざらんや。
就中延暦園城兩寺は、門跡二つに相分ると雖も、學する所は、これ圓頓一味の教門に同じ。
譬へば鳥の左右の翅の如く、又車の二つの輪に似たり。
一方闕けんに於ては、爭かその歎き無からんや。
者ば殊に合力を致して、當寺の破滅を助けられば、早く年來の遺恨を忘れ、住山の昔に復せん。
衆徒の僉議かくの如し。
仍つて牒奏件の如し。
治承四年五月十八日、大衆等」
とぞ書いたりける。

(現代語訳)

つづいては、山門への状に言わく
「園城寺から、延暦寺の寺務所へ。
とくに力を合わせて、當寺の破滅を助けられることを願う文書です。

右、入道淨海(平清盛)は、ほしいままに佛法を破滅し、王法を乱そうとしています。

嘆き悲しむこと極まりないところに、今月十五日の夜、一院(後白河院)第二の王子(以仁王)が、思いがけない難を逃れるために、密かに円城寺(三井寺)へ入られました。

ここに平家側からは院宣と称して、以仁王を寺から出されるよう頻りに責め立てられているとはいえどもお出しすることはできません。

そういうわけで、平家側が官軍を繰り出すという風聞があります。

當寺(円城寺)の破滅、正にこの時に當ります。

衆徒らはどうしてこの不安を嘆かずにいられましょうか。

なかでも特に、延暦寺と円城寺は、門跡(寺院の僧侶の門流、延暦寺は慈覚大師、円城寺は智証大師)は二つに分かれているとはいえども、学ぶところは天台の法門で同じです。

例えば鳥の左右の羽のごとく、又、車の両輪にも似ています。
一方が欠けることになれば、どうして嘆かずにいられましょう。

というわけで、特に力を合わせ、当寺の破滅を助けられれば、さっそく年来の遺恨を忘れ同じ山に住んだ昔に復帰しましょう。

衆徒の詮議かくの如し。
よつて牒奏件の如し。
治承四年五月十八日、大衆等」
とぞ書いたりける。

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(考察)

        覚明は、奈良の興福寺にも届いた三井寺からの牒条を思い出した

 この牒条を見た覚明は、奈良の興福寺にも届いた三井寺からの牒条を思い出したに違いありません。

そして、自分が書いた三井寺への返牒にも思いを巡らしたと思います。
しかし、それらの現物はもう残っていないのです。

なぜなら、この後の「三井寺炎上」の条と「奈良炎上」の条でも語られるように、平家に放火され両方とも経典などとともに燃えて無くなってしまっていたのです。

そこで、まず、覚明は山門が三井寺からの牒状に対し、どんな反応をしたのか興味があり、比叡山で聞き込みをしました。

その結果が次の「南都牒状」の条の前半部分です。(続く)

(長左衛門・記)



  (参照)

「平家物語」の山門牒状の条(原文)


底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(上)の山門牒状を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


[山門牒状]の全文(三井寺から比叡山への牒状)

さるほど(程)に、みゐでら(三井寺)には、かひかねな(貝鐘鳴)らいて、だいしゆせんぎ(大衆僉議)す。
「そもそもきんじつせじやう(抑近日世上)のてい(體)をあん(案)ずるに、ぶつぽふ(佛法)のすゐび(衰微)、わうぼふ(王法)のらうろう(牢籠)、まさにこのとき(時)にあた(當)れり。
こんどにふだう(今度入道)のばうあく(暴悪)をいまし(戒)めずば、いづ(何)れのひ(日)をかご(期)すべき。みや(宮)ここにじゆぎよ(入御)のおんこと(御事)、しやうはちまんぐう(正八幡宮)のゑご(衞護)、しんらだいみやうじん(新羅大明神)のみやうじよ(冥助)にあらずや。
てんじゆちるゐ(天衆地類)もやうがう(影向)をた(垂)れ、ぶつりきじんりき(佛力神力)もがうぶく(降伏)をくは(加)へましますこと(事)、などかな(無)からん。
なかんづくほくれい(北嶺)はゑんじういちみ(圓宗一味)のがくぢ(學地)、なんと(南都)は、げらふとくど(夏﨟得度)のかいぢやう(戒場)なり。てつそう(牒奏)のところ(處)になどかくみ(與)せざるべき」と、
いちみどうしん(一味同心)にせんぎ(僉議)して、やま(山)へもなら(奈良)へもてふじやう(牒状)をこそつか(遣)はしけれ。

ま(先)づさんもん(山門)へのじやう(状)にいは(云)く、

「をんじやうじ(園城寺)てつ(牒)す、えんりやくじ(延曆寺)のが(衙)。
こと(殊)にがふりよく(合力)をいた(致)して、たうじ(當寺)のはめつ(破滅)をたす(助)けられんとおも(思)ふじやう(状)。
みぎにふだうじやうかい(右入道淨海)、ほしいまま(恣)にぶつぽふ(佛法)をはめつ(破滅)し、わうぼふ(王法)をみだ(亂)らんとほつ(欲)す。しうたん(愁歎)きはま(極)りな(無)きところ(處)に、こんげつじふごにち(今月十五日)のよ(夜)、いちゐんだいに(一院第二)のわうじ(王子)、ふりよ(不慮)のなん(難)をのが(遁)れんため(為)に、ひそか(竊)ににふじ(入寺)せしめたま(給)ふ。
ここにゐんぜん(院宣)とかう(號)して、いだ(出)したてまつ(奉)るべきよし(由)、しき(頻)りにせ(責)めあ(有)りといへど(雖)も、いだ(出)したてまつ(奉)るにあた(能)はず。よ(仍)つてくわんぐん(官軍)をはな(放)ちつか(遣)はすべきむね(旨)、そのきこ(聞)えあり。たうじ(當寺)のはめつ(破滅)、まさ(正)にこのとき(時)にあた(當)れり。しよしゆ(諸衆)なん(何)ぞしうたん(愁歎)せざらんや。
なかんづく(就中)えんりやくをんじやうりやうじ(延曆園城両寺)は、もんぜきふた(門跡二)つにあひわか(相分)るといへど(雖)も、がく(學)するところ(所)は、これゑんどんいちみ(圓頓一味)のけうもん(教門)におな(同)じ。
たと(譬)へばとり(鳥)のさう(左右)のつばさ(翅)のごと(如)く、また(又)くるま(車)のふた(二)つのわ(輪)に(似)たり。いつぱう(一方)か(闕)けんにおい(於)ては、いかで(爭)かそのなげ(歎)きな(無)からんや。ていれ(者)ばこと(殊)にがふりよく(合力)をいた(致)して、たうじ(當寺)のはめつ(破滅)をたす(助)けられば、はや(早)くねんらい(年來)のゐこん(遺恨)をわす(忘)れ、ぢうせん(住山)のむかし(昔)にふく(復)せん。
しゆと(衆徒)のせんぎ(僉議)かくのごと(如)し。
よ(仍)つててふそう(牒奏)くだん(件)のごと(如)し。
治承しねんごぐわつじふはちにち(治承四年五月十八日)、だいしゆら(大衆等)」
とぞか(書)いたりける。

 作成/矢久長左衛門

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