2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(3) 山門返諜の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(3)

この山門返牒を、覺明が開いて読んだと作中で語られている

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた!

☆「平家物語」の山門返牒の条

(考察)

         覚明が、この返書を木曾義仲や家子郎等の前で開いて読んだ 

 山門返牒とは、木曾義仲が比叡山の3000人の衆徒らに平家につくか、源氏につくかの決断を迫った木曾山門牒状に対する返書のことです。

この返書を木曾義仲や家子郎等の前で大夫坊覺明が開いて読んだと作中で語られています。

そして後述される返書の内容は創作ではなく、山門の立場が格調高く述べられ本物と思われます。

この返書の内容が木曾山門牒状と同じように現物のものと同じとすると、返書の現物はどこにあったのでしょうか。

寿永2年(1183)に木曾義仲が受け取ったものを覺明が大事に所持していて、建久6年(1195)に箱根神社から逃げ出す時にも携行していたのでしょうか。

それまでに12年が経過しています。

逃亡中に身分を明かすようなものを所持していたでしょうか。

彼の出家名の信救著作「仏法伝来次第」の経歴によると、黒谷で出家(於黒谷剃翠髮)した覺明ですから比叡山に逃げ込めば身分は証明されます。

捕まった時に身分のばれる危険な返書を所持していたとは考えられません。

兼好法師の『徒然草』226段によると、「慈鎭和尚(慈圓のこと)、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道(覺明のこと)を扶持し給ひけり」とあるように慈圓に助けられたのです。

ですから、やはり、この返牒は比叡山の延暦寺に下書きか写しが保存されていたと考えるのが自然だと思います。

多分、延暦寺の書庫に返書の写しが、木曾山門牒状とともに保存されていたものと推定します。

それを見て覺明は前文の部分を書き、後半に返書の部分を添付したのではないでしょうか。

当時、寺では重要な文書は下書きが書かれ、それを幹部で廻し読みし手が加えられ、2通の清書が作成され、1通は写しとして保存されたものと思います。

寺では経などの筆写が当たり前なので速筆の僧がいてその任に当たっていたと思います。

慈圓は覺明に平家物語の原作「治承物語」を書かせるのに当たり、この条(平家物語の山門返牒の条)の次の「平家山門への連署」の条に出てくる平家一門連署の願書も現物が書庫に保存してあり見せたに違いありません。

その願書は平家が中立の立場と思う山門に助力を求める内容で、一門の公卿10人らが連署していて、覺明が想像では書けない平家側の立場が書かれています。

これらの資料を見て覺明は平家物語の原作である「治承物語」の初稿を書いたのではないかと推定します。

山門返牒の原文では、前文として覺明が次のように書き始めています。

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(原文では)

「山門の大衆この状を披見して、案の如く或は平家に同心せんと云ふ衆徒もあり、或は源氏につかんと云ふ大衆もあり、思ひ思ひ心々、異議區々なり。
老僧どもの僉議しけるは、われら專ら金輪聖主天長地久と祈り奉る。
中にも平家は當代の御外戚、山門に於て殊に歸敬を致す。
然りと雖も悪行法に過ぎて、萬人これを背き、國々へ討手を遣はすといへども、却つて夷賊の爲に亡ぼさる」

(現代文訳)
  比叡山の大衆※は、この書状を開き見て、予想どおり、或いは平家に同心※(同意する)という衆徒※もあり、或いは源氏に付こうという大衆もあり、思い思いに異議を述べ、それぞれでした。
老僧どもが議論したのは、我らはもっぱら「金輪聖主※(天皇のこと)天長地久※(いつまでも続くこと)」をと祈りたてまつるということでした。
中でも、平家は、現在の陛下の御外戚であり、比叡山に殊に帰依し敬礼をなさっている。そうとは言っても、悪行は度を越して、すべての人がこれに背いている。諸国へ討手を派遣しているが、かえって夷賊※(えびすの賊、荒々しい武士)に滅ぼされている。


※【大衆】だい‐しゅ
〘名〙 (「だい」「しゅ」はそれぞれ「大」「衆」の呉音。 梵 mahasamgha 摩訶僧伽の訳語) 仏語。比丘の多数集まっているものをいう。僧団の呼称。また、長老に対して法臈(ほうろう)の少ないものをいう。衆徒。だいす。〔法華義疏(7C前)〕
日本国語大辞典小学館

※【衆徒】しゅ‐と
〘名〙
① 平安時代以後、京都・奈良の諸大寺に止宿していた多くの僧侶。衆僧。僧徒。しゅうと。
▷ 色葉字類抄(1177‐81)
「衆徒 シュト」
② 比叡山で、上の階級に属する僧をいう。〔日葡辞書(1603‐04)〕
③ 特に奈良興福寺で、武器をもって社頭や寺門を防御した下級僧侶をいう。寺中衆徒(寺住衆徒)と田舎衆徒があり、特に寺中衆徒を呼ぶことが多いが、混用することもある。大乗院と一乗院に分かれて所属した。
日本国語大辞典小学館

※【金輪王】こんりん‐おう
仏語。転輪聖王の一つ。金の輪宝をもって須彌山(しゅみせん)の四州を統治する帝王。金輪聖帝。金輪聖王。金輪。こんりんのう。
日本国語大辞典小学館

※【天長地久】てんちょう‐ちきゅう
〘名〙 天地が永遠に変わらないように、物事がいつまでも続くこと。天壌無窮。
日本国語大辞典小学館

※【同心】どう‐しん
〘名〙
① (古くは「どうじん」とも) (━する) 同じ考えを持つこと。同意すること。また、気持や意見などが同じであること。同じ意志。同意。同腹。
日本国語大辞典小学館

※【夷賊】い‐ぞく
〘名〙 ある民族または種族からみて、他の民族(種族)を野蛮人として、軽蔑していう語。えびすの賊。
日本国語大辞典小学館

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(考察)
  
      覚明は、平家支持の衆徒を少数派、源氏支持の大衆を多数派と理解

山門の大衆はこの木曾義仲からの牒状を見て、
覺明が事前に思案したように平家に味方しようという衆徒もいたが源氏につこうという大衆もいた。その思いはまちまちで、意見もそれぞれだったと語っている。
平家に味方する者を衆徒と表現し、源氏につこうという者を大衆と表現しているので、山門の大衆3000人として、平家に味方しょうという衆徒は少数派だったことがわかる。
長老達が詮議したが、自分らは専ら金輪聖主(金輪王)、須弥の四洲を統治する帝王である天皇の天長地久、つまり天皇が天地のように長久ならんことを祈り奉っている。
中にも平家は当代の御外戚、只今の天皇の母方の親戚で山門においては特に歸敬、帰依崇敬を致している。
然りと雖も平家の悪行は法に過ぎ、人々は背いている。平家はその国々に討手を派遣するも、かえって東方の武士に亡ぼされている。

さらに、覺明の前文は続く。
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(原文では)

 源氏は近年より以來、度々の軍に打勝つて、運命既に開けんとす。
何ぞ當山獨り宿運盡きぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。
須く平氏値遇の義を翻して、源氏合力の旨に住すべき由、三千一同に僉議して、返牒をこそ送りけれ。

木曽殿、又家子郎等召し集めて、覺明にこの返牒を開かせらる。

(現代文訳)

「源氏は近年より以來、度々の戦に打勝つて、運命既に開けようとしている。
どうして比叡山のみが運のつきた平家に味方して、運命の開けてくる源氏に背くことがあろうか。
当然、平家との値遇の義を翻して、源氏に加勢することにした。三千一同で詮議して、返牒を送りました。

木曽殿、又家子郎等召し集めて、覺明にこの返牒を開かせました。

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(考察)

  覺明が書いた木曾山門牒状が功をそうし、山門が味方することになった

 覺明は次のように前文で返牒を要約している。
源氏は近年より、たびたび、戦に打ち勝って運命が開けようとしている。
何で当比叡山だけが運の尽きている平家に味方して運命が開ける源氏に背こうや。
これまでの平氏との値遇の義、厚く待遇せられた義理をひるがえして、源氏に味方する事を三千一同に詮議して、返牒が送られた。
木曾義仲は家子郎等の前で、この返牒を自分に開かせ読ませたと、覺明は述べている。
覺明は自分が書いた説得力のある木曾山門牒状が功をそうし、戦わずして山門が味方することになったので、その返牒を皆の前で朗々と読み上げたことでしょう。
それを思いだしながら、この山門返牒の条を書いたに違いありません。

覺明の前文の後に添付された返牒の原文は以下の通り。
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[山門からの返牒]

「六月十日の日の牒状、同じき十六日到來、披閲の處に、數日の欝念一時に解散す。
凡そ平家の悪逆累年に及んで、朝廷の騒動止む事なし。
事人口にあり、遺失するに能はず。
それ叡岳に至つては、帝都東北の仁祠として、國家静謐の精祈をいたす。
然りと雖も、一天久しく彼の夭逆に侵されて、四海とこしなへにその安全を得ず。
顯蜜の法輪無きが如し。擁護の神威しばしば廢る。
ここに貴家適累代武備の家に生まれて、幸ひに當時精選の仁たり。豫め奇謀を運らして義兵を起し、忽ちに萬死の命を忘れて、一戰の功を樹つ。その勞未だ兩年を過ぎざるに、その名既に四海に流る。わが山の衆徒、且つ且つ以て承悦す。
國家の爲、累家の爲、武功を感じ武略を感ず。
かくの如くならば、山上の精祈空しからざることを悦び、海内の衛護怠りなきことを知んぬ。
自寺他寺、常住の佛法、本社末社祭奠の神明、再び教法の榮えんことを喜び、崇敬の舊きに復せんことを随喜し給ふらん。
衆徒等が心中唯賢察を垂れよ。
然れば則ち冥には十二神將、
忝く醫王善逝の使者として、兇徒追討の勇士に相加はり、顯には又三千の衆徒、暫く修學鑚仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍を助けしめん。
止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三蜜の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。
衆徒の僉議かくの如し。つらつらこれを察せよ。
壽永二年七月二日の日、大衆等」
とぞ書いたりける。

(現代文訳)

山門からの返牒には、源(木曾)義仲が山門ヘ出した寿永二年(1183年)六月十日の牒状は六月十六日に到着したと書いてある。(六日間もかかって届いていることが分かる)
山門で開いて見たところ、衆徒一同の数日の鬱念、心の中が晴れ晴れとせずうっとうしい気持ちが一気に晴れたとしている。
あらましをいうと、平家の悪逆、人の道に背いた、ひどいおこないは数年に及んで、朝廷の騒動がやむことがない。
平家の悪行は人が口にし、詳しく述べるまでもない。
そこで、比叡山に至っては、京の東北の仁祠※(仏寺、堂塔)として、國家静謐を一心に祈念している。
そうはいえども、一天の君、天皇は久しく平家の夭逆、悪逆に侵されて、四海、天下がいつまでも安らかでない。
顕教密教の教法は無きがごとし。擁護の神威はしばしば廃れている。
ここに、貴家は累代の武家に生まれて、幸いに、当代えりぬきの人たり。
あらかじめ奇謀をめぐらして義兵を起こし、たちまちのうちに、萬死一生の危ない生命を顧みず、武功を立てた。
その働きはいまだ2年と過ぎないのに、その名が既に天下に流れている。
わが比叡山の衆徒も、早くも承知し喜んでいる。
国家のため、朝廷のため、武功を感じ、武略も感じている。
そのようであるならば、比叡山上での心からの祈りは空しくなかったことを悦び、天下を守ることにも怠りないことを知った。
自寺、他寺、いつまでも仰ぐ仏法、本社・末社がまつる神々は、再び教法が栄えようとしていることをよろこび、崇教の古きに復することを随喜している。
衆徒らの心中を、ただお察しくだされ。
しかればすなわち、あの世からは根本中堂に安置する薬師の十二神将(鬼神)が、かたじけなくも薬師如来の使者として凶徒追討の勇士にあい加わり、この世では3000の衆徒が、しばらく修学賛仰の勤節を止めて、悪行を罰する官軍を助けましょう。
天台宗の摩訶止観の仏法は、邪悪な輩を国外へ追い払い、真言密教の法の雨は、世の風俗を中国の聖代※(聖天子が治める世)、堯※(理想的帝王)の御代にかえそう。
衆徒の詮議、かくのごとし。
つらつらこれを察してくだされ。
寿永2年(1183年)7月2日、大衆等
などと書かれていたとある。

※【仁祠】じん‐し
〘名〙
① 寺院。仏寺。堂塔。にんし。
② 小さい神社。小社。
日本国語大辞典小学館

※【聖代】せい‐だい
〘名〙 (「せいたい」とも) 聖天子が治める世。すぐれた天子が治めるめでたい代。また、その治世を尊んでいう語。聖世。
日本国語大辞典小学館

 ※【堯】ぎょう
中国古代の伝説上の帝王。帝嚳(ていこく)の子。姓は伊祁(いき)。名は放勛(ほうくん)。日月星辰を観測して暦を作り、また舜(しゅん)に二女を与えて、帝位を譲ったという。後世、舜とともに理想的帝王とされた。唐堯。帝堯。陶唐氏。
日本国語大辞典 小学館

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(考察)

   この前後が「覚明が比叡山のことを詳しく書いている」との評の所以

 『徒然草』226段によると兼好法師は「信濃入道、さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり」と書いています。
この条と前後の条の辺りが、「覺明が比叡山延暦寺のことを詳しく書いている」との評の所以ではないかと思われます。
また、九郎判官義経は幼くして比叡山に近い鞍馬寺で育ち、その人となりについては覺明も詳しく知り得ることができたということだと思います。
以上、この条からも、ここで再びになりますが、平家物語の原作である「治承物語」は海野幸長こと信救、改名による覺明、慈圓のもとでの円通院浄寛が書いたものだと判定出来ます。

(長左衛門・記)




(参照)


「平家物語」の山門返牒の条(原文)


底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。

高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の山門返牒を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


[山門返牒]の全文(比叡山からの返事)

さんもん(山門)のだいしゆ(大衆)このじやう(状)をひけん(披見)して、あん(案)のごと(如)くあるひ(或)は平家にどうしん(同心)せんとい(云)ふしゆと(衆徒)もあり、あるひ(或)はげんじ(源氏)につかんとい(云)ふだいしゆ(大衆)もあり、おも(思)ひおも(思)ひこころこころ(心々)、いぎまちまち(異議區々)なり。

らうそう(老僧)どものせんぎ(僉議)しけるは、われらもつぱ(專)らきんりんせいしゆてんちやうちきう(金輪聖主天長地久)といの(祈)りたてまつ(奉)る。
なか(中)にも平家はたうだい(當代)のごぐわいせき(御外戚)、さんもん(山門)におい(於)てこと(殊)にききやう(歸敬)をいた(致)す。
しか(然)りといへど(雖)もあくぎやうほふ(悪行法)にす(過)ぎて、ばんにん(萬人)これをそむ(背)き、くにぐに(國々)へうつて(討手)をつか(遣)はすといへども、かへ(却)つていぞく(夷賊)のため(爲)にほろ(亡)ぼさる。

げんじ(源氏)はきんねん(近年)よりこのかた(以來)、どど(度々)のいくさ(軍)にうちか(打勝)つて、うんめいすで(運命既)にひら(開)けんとす。
なん(何)ぞたうざん(當山)ひと(獨)りしゆくうん(宿運)つ(盡)きぬる平家にどうしん(同心)して、うんめい(運命)ひら(開)くるげんじ(源氏)をそむ(背)かんや。
すべから(須)くへいじちぐ(平氏値遇)のぎ(義)をひるがへ(翻)して、げんじがふりよく(源氏合力)のむね(旨)にぢう(住)すべきよし(由)、さんぜんいちどう(三千一同)にせんぎ(僉議)して、へんてふ(返牒)をこそ(送)りけれ。
木曽殿、また(又)いへのこらうどう(家子郎等)め(召)しあつ(集)めて、かくめい(覺明)にこのへんてふ(返牒)をひら(開)かせらる。

「ろくぐわつとをか(六月十日)のひ(日)のてふじやう(牒状)、おな(同)じきじふろくにちたうらい(十六日到來)、ひえつ(披閲)のところ(處)に、すうじつ(數日)のうつねん(欝念)いつし(一時)にげさん(解散)す。
およ(凡)そ平家のあくぎやく(悪逆)るゐねん(累年)におよ(及)んで、てうてい(朝廷)のさうどう(騒動)や(止)むこと(事)なし。
ことじんこう(事人口)にあり、ゐしつ(遺失)するにあた(能)はず。
それえいがく(叡岳)にいた(至)つては、ていととうぼく(帝都東北)のじんし(仁祠)として、こくかせいひつ(國家静謐)のせいき(精祈)をいたす。
しか(然)りといへど(雖)も、いつてん(一天)ひさ(久)しくか(彼)のえうげき(夭逆)にをか(侵)されて、しかい(四海)とこしなへにそのあんせん(安全)をえ(得)ず。
けんみつ(顯蜜)のほふりん(法輪)な(無)きがごと(如)し。おうご(擁護)のしんゐ(神威)しばしば(屢)すた(廢)る。

ここにきかたまたまるゐだいぶび(貴家適累代武備)のいへ(家)にむ(生)まれて、さいは(幸)ひにたうじせいせん(當時精選)のじん(仁)たり。あらかじ(豫)めきぼう(奇謀)をめぐ(運)らしてぎへい(義兵)をおこ(起)し、たちま(忽)ちにばんし(萬死)のめい(命)をわす(忘)れて、いつせん(一)戰のこう(功)をた(樹)つ。そのらう(勞)いま(未)だりやうねん(兩年)をす(過)ぎざるに、そのな(名)すで(既)にしかい(四海)になが(流)る。わがやま(山)のしゆと(衆徒)、かつ(且)がつ(且)もつ(以)てしようえつ(承悦)す。

こくか(國家)のため(爲)、るゐか(累家)のため(爲)、ぶこう(武功)をかん(感)じぶりやく(武略)をかん(感)ず。
かくのごと(如)くならば、さんじやう(山上)のせいき(精祈)むな(空)しからざることをよろこ(悦)び、かいだい(海内)のゑご(衛護)おこた(怠)りなきことをし(知)んぬ。
じじたじ(自寺他寺)、じやうぢう(常住)のぶつぽふ(佛法)、ほんしやまつしや(本社末社)さいてん(祭奠)のしんめい(神明)、ふたた(再)びけうぼふ(教法)のさか(榮)えんことをよろこ(喜)び、すきやう(崇敬)のふる(舊)きにふく(復)せんことをずゐき(随喜)したま(給)ふらん。

しゆとら(衆徒等)がしんぢう(心中)ただ(唯)けんさつ(賢察)をた(垂)れよ。
しか(然)ればすなは(則)ちみやう(冥)にはじふにじんじやう(十二神將)、
かたじけな(忝)くいわうぜんぜい(醫王善逝)のししや(使者)として、きようとついとう(兇徒追討)のようし(勇士)にあひくは(相加)はり、けん(顯)にはまたさんぜん(又三千)のしゆと(衆徒)、しばら(暫)くしゆがくさんぎやう(修學鑚仰)のきんせつ(勤節)をや(止)めて、あくりよぢばつ(悪侶治罰)のくわんぐん(官軍)をたす(助)けしめん。
しくわんじふじよう(止觀十乘)のぽんぷう(梵風)は、かんりよ(奸侶)をわてう(和朝)のほか(外)にはら(拂)ひ、ゆがさんみつ(瑜伽三蜜)のほふう(法雨)は、しぞく(時俗)をげうねん(堯年)のむかし(昔)にかへ(囘)さん。
しゆと(衆徒)のせんぎ(僉議)かくのごと(如)し。つらつらこれをさつ(察)せよ。
じゆえいにねんしちぐわつふつか(壽永二年七月二日)のひ(日)、だいしゆら(大衆等)」
とぞか(書)いたりける。

 作成/矢久長左衛門

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