2019年5月11日土曜日

原作者の存在を考証(2) 木曽山門諜状の条

平家物語の各条から原作者の存在を考証する(2)

この木曾山門牒状は文武両道の覺明が40歳頃の筆になるもの

平家物語の原作「治承物語」初稿に存在していた

☆「平家物語」の木曾山門牒状の条

(考察)
            この牒状は覚明が書いたものとして作中で語られている

 木曾山門牒状とは、木曾義仲が比叡山の三千人の衆徒らに平家につくか、源氏につくかの決断を迫る説得力のある牒状のことです。

この牒状は大夫坊覺明が書いたものとして作中で語られています。

この部分も本人でないと、ここまでは書けないであろうほど詳しく、当時の状況や山門に送った牒状の内容が書かれています。

特に牒状の内容は、現物か下書きでもないと、本人でも後で思い出して書くのは容易ではありません。

ましてや覚明の若い時の出家の動機は記憶が苦手でもあったほどです。

徒然草によると「信濃前司行長 (覺明のこと) 稽古の誉れありけるが(天皇の前で)、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞(秦王破陣楽の別名で「夫武、禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財,者也」)を二つ忘れたりければ、五徳の冠者(若者)と異名をつきにけるを心憂き事にして、學問をすてて遁世したりける」と出家の動機が書かれています。

それでは覚明が牒状の写しや下書きを保存し携行していたのでしょうか。そうとは考えられません。

義仲亡きあと、覚明は西から東に逃亡し、箱根に潜伏していましたが源頼朝に知られ、再び西の比叡山に逃げ込み延暦寺の慈鎭和尚(慈圓)に助けられています。

多分、覚明はそこで、自分が書いた一点ものである現物と再会し、それを見て、この臨場感のある条を書いたに違いありません。

このことからも、平家物語の原作である「治承物語」は海野幸長こと信救、改名による覺明、慈圓のもとでの円通院浄寛が書いたものだと判定出来ます。

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原文では

さる程に木曾義仲は越前の國府に着いて、家子郎等召し集めて評定す。
「そもそも義仲、近江國を經てこそ、都へは上るべきに、例の山僧どもの、防ぐ事もやあらんずらん。
驅け破つて通らん事は易けれども、當時は平家こそ、佛法ともいはず、寺を亡ぼし僧を失ひ、悪行をば致すなれ。
それを守護の為に上洛せんずる義仲が、平家と一つなればとて、山門の衆徒に向つて合戰せん事、少しも違はぬ二の舞なるべし。
これこそさすが安大事よ。如何せん」とのたまへば、
手書に具せられたりける大夫坊覺明、進み出でて申しけるは、
「山門の大衆は三千人候なるが、必ず一味同心なることは候はず。
或は平家に同心せんと申す衆徒も候らん。
或は源氏につかんと申す大衆も候らん。
詮ずる所、牒状を遣はして御覧候へ。
返牒にこそ、その様は見え候はんずらめ」
と申しければ、
木曽どの、「この儀最も然るべし。さらば書け」
とて、
覺明に牒状をかかせて、山門へ送らる。


(現代文訳)

やがて、木曾義仲は越前(福井県の北半部)の國府(福井県南条郡府中・現在の武生市)に着いて、家子(義仲と血縁関係のある一族)、郎等(義仲と血縁関係のない従者)を召集して評定をしました。

「さて、義仲は、近江国(現在の滋賀県)を経て、京の都へ上るべきだが、例の山法師(比叡山延暦寺の僧兵)たちが防ぐことがあるかも知れない。
駆け破って通ることはたやすいが、現在は平家が仏法をものともせず、寺を滅ぼし、僧を殺し、悪行をしている。
それを守るために上洛しようとする義仲が、平家の一味であるからといって比叡山の衆徒に向かい戦をすることは、平家と少しも違わぬことで、二の舞い※(人のあとに出てそのまねをすること)になる。
これこそ、そうはいうものの、たやすいことに見えても、やはり大事である。どうすればよいか」
と言うと、
祐筆として随行させられている大夫坊覺明が、進み出でて申したことには、

「山門の大衆は三千人おりますが、必ずしも一味同心(心を一つにすること)ではないのです。
あるいは平家に同心するという衆徒もいます。
あるいは源氏につくという大衆もいます。
結局のところ、牒状を送ってみましょう。
その返牒で様子がわかるでしょう。」
と申したので、
木曽どのは、「この件はいかにもそのとおりだ。それでは書け」と、
覺明に牒状をかかせて、山門へ送りました。

 ※【二舞】に‐の‐まい
 一、舞楽の曲名。沙陀調(現在は壱越調)の古楽。安摩(あま)の舞の次にそれを見ていた二人の舞人(笑い顔の面の老爺と腫れただれ顔の面の老婆)が滑稽な所作で安摩の舞をまねて舞う舞。安摩の舞に対する答舞。唐楽に属する。〔教訓抄(1233)〕
二、〘名〙
① 人のあとに出てそのまねをすること。
▷ 万寿二年阿波守義忠歌合(1025)
「闇はあやなしと詠めるは、色こそ見えねといふ歌のにのまゐのをこがましきに」
② 前の人と同じようなことをすること。また、その人。特に、前人の失敗を繰り返すことにいう。
▷ 保元(1220頃か)中
「十善の戒行おもきによて討ち勝ち給ふ所に、すこしもたがはぬ、二の舞かな」
日本国語辞典小学館
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(考察)
              比叡山を前に、 覚明は評定の場にいた

 そこには信救から改名した覚明もいました。
勢いのある義仲軍は勝ち進んで越前国の国府に到着し、次は近江の比叡山を目の前にしていたのです。
ここで、義仲は、叡山の山法師が邪魔すれば、駈け破ることはたやすいが、僧兵たちと戦えば、それでは平家と同じになってしまう。
「これこそさすが安大事よ。如何せん」と、分別のあるところを正直に見せています。

覚明は若いころ比叡山の黒谷で剃髪し出家しています。山門の衆徒については詳しいのです。出家名は最乗房(坊)信救で、その名で著作「仏教伝来次第」を書いています。その経歴には「於黒谷剃翠髮、初修行北陸」とあります。
初修行の地は北陸方面で北陸にも土地勘がありました。
義仲が旗揚げした信濃は勿論、勝ち進んできた北陸地方の事情にも明るかったのです。
このころ、義仲は覚明を手書きという祐筆役だけではなく軍師としても信頼し始めていたのです。
そこで覺明は以下のような牒状を書きました。

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牒状の原文では

その状に云く、
「義仲つらつら平家の悪逆を見るに、保元平治より以来、長く人臣の禮を失ふ。
然りと雖も、貴賤手を束ね、緇素足を戴く
恣に帝位を進退し、飽くまで国郡を虜領す。
道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を損亡す。資財を奪ひ取つて、悉く郎従に與へ、かの荘園を没収して、濫りがはしく子孫に省く」

「就中去ぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る
衆庶もの言はず、道路目を以てす。
加之同じき四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。
爰に帝子非分の害を遁れんが為に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を賜はるに依つて、鞭を擧げんと欲する處に、怨敵巷にみちて、豫参道を失ふ。近境の源氏猶参候せず。況んや遠境に於てをや。
然るに園城は分限無きに依つて、南都へ赴かしめ給ふ間、宇治橋にして合戰す。
大将三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵ますと雖も、多勢の攻めを免れず。形骸を古岸の苔に暴し、性命を長河の波に流す
令旨の趣肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。
これに依つて東國北國の源氏等、おのおの參洛を企てて、平家を滅ぼさんと欲す。
(諜状の原文つづく)

(現代文訳)

その諜状にいわく、
「義仲が、つらつら(念入りに)平家の悪逆を見るに、保元、平治よりこの方、長らく人臣(君主に仕える者)の礼儀を失っています。
そうであるといえども、貴賤手をつかね、緇素足をいただく※(貴賤は何もせず、僧俗は平伏している)。
勝手気ままに皇位を思いどおりにし、満足するまで国と郡(領地)を統治下に置いています。
道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し※(道理であるか否かを問わず、権門勢家を捕らえ)、有罪無罪もいわず、卿相侍臣(公卿、大臣、近臣)を損ない滅ぼしています。
その財産を奪い取り、ことごとく従者に与え、これらの荘園も没収して、むやみやたらと子孫に分配しています。」


※貴賤手をつかね、緇素足をいただく
「貴賤(身分の高い人と低い人)は、手を束ね(手をこまぬく、なにもしないで)、緇素(しそ、黒衣で僧衣、白衣で俗人、僧俗の意)は足を戴く(足下にひれ伏す)」。
「貴賤手をつかね、緇素足をいただく」〔史記-春申君伝〕
日本国語辞典小学館

※道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し
「道理( 物事のそうあるべきこと。当然のすじみち。正しい論理。)、非理(理にあわないこと。道にそむくこと。非道)を論じないで、権門(官位高く権勢のある家柄)勢家(権勢のある家。ときめく家)を追捕し。
平家(13C前)七
道理非理を論ぜず、権門・勢家を追捕し」 〔後漢書‐梁鴻伝
日本国語辞典小学館


(現代文訳つづく)

その中でとりわけ、去る治承三年十一月に、(平家は)(後白河)法皇(仏門に入った上皇。
太上法皇。)を城南(鳥羽)の離宮(皇居以外に設けられた皇室の宮殿)に移したてまつり、博陸※この場合、関白。藤原基房※)を海西※(西海の遠い所)の絶域(遠くへだたっている土地)に流したてまつりました。
衆庶※(庶民)は、(そのことを)口では言えないので、路上で目配せして、そしっています。


※【博陸】はく‐りく
〘名〙
① (「博陸」は、中国、河北省にあった城の名。漢の武帝が霍光を博陸侯に封じた故事による) 国家の重責に任じることのできる人。転じて、関白(かんぱく)の唐名。はくろく。
日本国語大辞典小学館 

※藤原基房
1145-1231* 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安元年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。母は源国信(くにざね)の娘。永万2年(1166)兄近衛基実(このえ-もとざね)の死で摂政をつぎ,太政大臣,関白を歴任。治承(じしょう)3年(1179)平清盛と対立して備前に流された。のち源義仲とむすんだが,義仲の敗死で政界をしりぞき,以後は公事(くじ)の識者として諮問(しもん)にあずかった。寛喜(かんぎ)2年12月28日死去。86歳。号は松殿,中山,菩提院。
デジタル版 日本人名大辞典講談社

※【海西】かい‐せい
〘名〙 海のかなたの西方。また、そのあたりの国。特に、日本の西国。
▷ 高野本平家(13C前)七
「法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る」 〔後漢書‐西南夷伝〕
日本国語大辞典小学館 

※【衆庶】しゅう‐しょ
〘名〙 大勢の、一般の人々。庶民。大衆。
日本国語大辞典小学館 


(現代文訳つづく

しかのみならず、同じき(治承)四年五月には、二の宮(第二番目に生まれた皇子、この場合、高倉宮以仁王)の朱閣(御殿)を囲みたてまつり、九重(内裏の九つの門、宮廷)の垢塵(あかやちりまで、全体)を驚かせました。
そこで、帝の子(以仁王)は非分(不当)な害を逃れるために、ひそかに円城寺へ入られた時、義仲は、先に(以仁王の)令旨※(命令書)を賜っていたので、(馬に)鞭を上げ(駆けつけ)ようとしていたが、怨敵(うらみある平家側)が巷(あちこちの辻、世間)に満ちていて、あらかじめ参着する道を失いました。近境(近郷)の源氏もなお参着できず、ましてや遠境(遠国)からの源氏もです。
                                                           
※【令旨】りょう‐じ 
〘名〙 公式様(くしきよう)文書の一つ。皇太子ならびに三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出される文書。後には親王・法親王・王・女院などの皇族から出される文書をもいう。平安時代以降の令旨の様式は綸旨・御教書と同様に奉書形式で、書留文言に「令旨」の語が含まれることが多い。れいし。
日本国語大辞典小学館 


(現代文訳つづく)
 
 それで、園城※(寺)は、分限(ある物事を行なうのに可能な限度。また、その能力や力。)が無いので、南都※へ向かって行く間に、宇治橋にて合戦する事になりました。
大将三位入道頼政父子※(源頼政とその嫡男仲綱ら)は、命より義を重んじて、一戰の功を勵ます(力をふりしぼってつとめる。はげむ。)といえども、(平家の)多勢の攻めをまぬかれず、形骸※を古岸の苔に暴し、性命を長河の波に流す(多勢の攻めを免れる事が出来ませんでした。精神を別にした体、なきがらを古い川岸の苔の上に暴し、生命、いのちを宇治川の波に流されました。)
令旨の趣きを肝に銘じて、同類(源氏)の悲しみは魂をも消すほどです。(ここには主語がないが、書いている覺明の気持が強く込められている)
これに依つて東國、北國の源氏等、おのおの參洛を企てて平家を滅ぼさんと欲しています。


※【園城寺】おんじょう‐じ 
 滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。大友皇子(弘文天皇)の子大友与多王の草創という。貞観元年(八五九)智証大師円珍が延暦寺別院として再興し、天台修験の根本道場となる。正暦四年(九九三)天台宗内の争いから延暦寺と分かれて対立するようになった。その後延暦寺が山または山門と呼ばれるのに対し、寺または寺門と呼ばれる。何度も兵火を浴びたが慶長三年(一五九八)復興。金堂、光浄院客殿、勧学院客殿、智証大師坐像、不動明王像(黄不動尊)などの国宝がある。御井寺。三井寺。
日本国語大辞典 小学館

※【南都】なん‐と
 南にある都。〔張衡‐賦題〕

 京都に対して奈良をいう。南京。
▷ 古事談(1212‐15頃)三
「玄賓僧都者、南都第一之碩徳」
 奈良の興福寺をいう。比叡山の延暦寺を北嶺というのに対する語。
▷ 永昌記‐天永二年(1111)三月一三日
「又申云、南都可レ遣二長者宣一歟」
 北朝に対して、南朝の吉野朝廷をいう。
日本国語大辞典 小学館

※【源頼政】みなもと‐の‐よりまさ
平安末期の武将。和歌にも秀でた。平治の乱に一人だけ源氏として清盛方につき、和歌の諷詞により清盛の推輓(すいばん)をうけて三位に進んだ。のち以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏打倒の兵をあげて敗れ、宇治平等院で自刃した。源三位入道。歌集に「源三位頼政卿集」がある。長治元~治承四年(一一〇四‐八〇)
日本国語大辞典 小学館

※【形骸】けい‐がい
〘名〙
① 人や動物のからだ。特に、生命や精神がない、からだ。ぬけがら。遺体。
▷ 平家(13C前)七
「多勢の攻めをまぬかれず、形骸を古岸の苔にさらし、性命を長河の浪に流す」 〔荘子‐徳充符〕
日本国語大辞典 小学館

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(考察)

      覚明は平家の横暴を具体的に並べ、朝廷への不敬をついている

この牒状の書き出しは 、これまで覺明が見聞きしてきた保元、平治以来の平家の横暴を具体的に並べ立て、義仲は長く人臣の礼が失われていると見ていると述べ。しかしながら貴賎は手をこまねき、僧俗も何もしない。
それを良いことに平家は帝位を操り、あまたの国や郡を奪い取り、道理のあるなしを論ぜず権門勢家を追捕し、有罪無罪を云はず、卿相侍臣を滅ぼし、その財産を奪い、ことごとく郎従に与え、荘園を没収して、濫りに子孫に分かち与えていると書いています。

次いで、平家物語の原作である「治承物語」の核心とも言える平家の朝廷に対する不敬を、後白河法王を鳥羽の離宮に幽閉し、関白藤原基房を絶海の孤島に流したと、簡潔、直裁に述べています。

ここで、覚明は、興福寺の学問僧信救法師だった時代の学識を引用している部分が幾つもあります。

一つは、〔史記※-春申君伝※〕からの引用で「貴賤手をつかね、緇素足をいただく(貴賤は何もせず、僧俗は平伏している)」であり、

二つ目は、〔後漢書※‐逸民・梁鴻伝※〕からの引用で「 道理非理を論ぜず、権門・勢家を追捕し(道理であるか否かを問わず、権門・勢家を捕らえ)」です。

三つ目は、〔後漢書※‐西南夷伝※〕からの引用で「法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る( 後白河法皇を城南の離宮に移したてまつり、関白藤原基房を西海の遠い絶域に流したてまつりました)」

四つ目は〔荘子※‐徳充符篇※〕からの引用で「多勢の攻めをまぬかれず、形骸を古岸の苔に暴し、性命を長河の波に流す(源頼政は、なきがらを古い川岸の苔の上に暴し、いのちは宇治川の波に流された)」とあります。

つまり、ここでは、源頼政らが平家の大軍を相手に宇治川で討ち死にしたことを、特に敬意を表し弔意を込めて、格調高く描いているのです。


       覚明は以仁王と源頼政父子の悲劇を触れずにはいられなかった

その時の渦中に、たまたま南都興福寺にいた信救(覺明)は、以仁王が逃げ込んだ園城寺からの牒状に対して、その返牒を書く役割を演じています。
返牒の内容は清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒する過激なものでした。そのため平家の怒りをかい、漆を浴び変装して奈良を逃れ、義仲に合流していたのです。
それだけに覺明にとっても他人事ではなく、以仁王と源頼政父子の悲劇を触れずにはいられなかったのです。

覚明は、平家一門の横暴や朝廷のへの不敬、以仁王を始めとした源頼政とその子息の悲劇を許す事は出来なかったのです。これらのことからも覚明がこの諜状を書いた発意は理解できると思います。


※【史記】し‐き
 一、〘名〙
① 歴史を記録したもの。歴史書。
▷ 史記抄(1477)一七
「孔子の作た春秋は魯一国の史記なり」 〔史記‐太史公自序〕
② (━する) 歴史として書きしるすこと。
 二、中国の正史。一三〇巻。前漢の司馬遷撰。同褚少孫補。二十四史の第一。黄帝から前漢の武帝に至る紀伝体の史書で、十二本紀(帝紀)・十表・八書・三十世家・七十列伝に分かち記述、漢書をはじめ後世の正史、日本の「日本書紀」などの模範となった。劉宋の裴駰(はいいん)の「史記集解」、唐の司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などの注釈書が知られている。太史公書。
日本国語大辞典 小学館

※【春申君】しゅんしん‐くん
中国、戦国時代の楚の政治家、歇(あつ)の号。姓は黄。楚の頃襄王、考烈王に仕えて功があり、宰相に任ぜられて勢力は王をしのいだ。江蘇省蘇州の呉の故城に城を築いて食客三〇〇〇人を招き、斉の孟嘗君(もうしょうくん)、趙の平原君、魏の信陵君と共に戦国末期の四君の一人と称された。義兄の李園に殺された。前二三八年没。
日本国語大辞典小学館

※【後漢書】ごかんじょ
中国の正史、二十四史の一つ。一二〇巻。本紀一〇巻、列伝八〇巻は南朝宋の范曄(はんよう)、志三〇巻は晉の司馬彪(しばひょう)の撰。四三二年(元嘉九)成立。後漢一代の歴史を記し、紀伝の部には唐の李賢の注、志の部には南朝梁の劉昭(りゅうしょう)の注があり、一〇二二年(乾興元)合刻して現行の体裁となった。「東夷伝」中に倭国(日本)の記事がある。注釈書に清の王先謙の「後漢書集解」一二〇巻がある。
日本国語大辞典小学館

※逸民-梁鴻伝
後漢(25年~220年)時代。
梁鴻(りょうこう)という文人(生卒年不詳)がいた。
貧しかったが、大きな志を持って勉学に励み、博学多才で立派な人格者だった。
ある時、憂国の詩「五噫(ごい)の歌」を作って朝廷の怒りを買い、皇帝は彼を逮捕するように命令する。それを知った梁鴻は妻を連れて逃げ、名前を隠して、働き始める。
その逸話から生まれた四字熟語「挙案斉眉(きょあんさいび)」は夫婦が互いに礼儀を尽して尊敬しあう意味で使われている。
ネット検索で部分引用し作成

※西南夷伝
中国古代に今の四川省南部から雲南・貴州両省を中心に居住していた非漢民族の総称。チベット(蔵),タイ(傣),ミヤオ(苗)などの諸民族に属する。滇(てん),雟(すい),哀郎,冉駹(ぜんもう),邛(きよう),筰(さく)など数多く,それぞれがいくつもの部族に分かれ,習俗,言語を異にした。四川省から西南夷を介してビルマからインドへ,また南越の番禺(広州市)へと交通路が通じていて,文物の交流に重要な役割を果たした。
平凡社世界大百科事典 第2版

※【荘子】そう‐し
(「曾子(そうし)」との混同をさけるため「そうじ」ということが多い)
 中国、戦国時代の思想家。道家思想の中心人物。名は周。字(あざな)は子休。南華真人と称される。宋の蒙(河南省商邱)の人。孟子と同じ紀元前四世紀後半の人で、儒教の人為的礼教を否定し、自然に帰ることを主張した。世に老子と合わせて老荘という。著に「荘子」がある。生没年未詳。
 中国の道家書。戦国時代の荘子の著。「老子」と並んで道教の根本経典。現行本三三編は西晉の郭象が整理編集したもの。多く寓言により大自然の理法である道とこの道に従って人間のさかしらである仁義を捨て安心自由な生活を得ようとする方法を説く。南華真経。
日本国語大辞典小学館

※徳充符
荘子による人間讃歌。「徳充府」とは「徳の充満するしるし」との意味で、「徳」はこの場合、「その人をその人とする根本の生命」のこと。
人間の価値は、その生命そのものにあるという主張を、寓意の深い名文章で描ている。
中国文学者渡辺精一

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さらに牒状の原文では、

 義仲去んじ年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を揚げ劒を把つて、信州を出でし日、
越後の國の住人、城四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河原にして合戰す。
義仲纔に三千餘騎をもつて、彼の數萬の兵を破り了んぬ。
風聞廣きに及んで、平氏の大将十萬の軍士を率して、北陸に發向す。
越州、加州、砥浪、黒坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。
策を帷幄の中に運らして、勝つことを咫尺の下に得たり。
然るに撃てば必ずふし、攻むれば必ず降る。

秋の風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の薫蕕を枯らすに相同じ。これ偏に神明佛陀の助けなり。更に義仲が武略に非ず。
平氏敗北の上は、参洛を企つるなり。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。
この時に當つて、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒は、平氏に同心か、源氏に與力か。
若し彼の悪徒を助けらるべくは、衆徒に向つて合戦すべし。
若し合戦を致さば、叡岳の滅亡踵を施らすべからず。
悲しいかな、平氏宸襟を惱まし、佛法を滅ぼす間、悪逆を靜めんが爲に、義兵を起す處に、忽ちに三千の衆徒に向つて、不慮の合戦を致さんことを。
痛ましきかな、醫王山王に憚り奉つて、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、長く武略瑕瑾の謗りを遺さんことを。
進退に迷つて、兼ねて案内を啓する所なり。
庶幾はくは天台の衆徒、神の爲佛の爲國の爲君の爲に、源氏に同心して、凶徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至りに堪へず。
義仲恐惶謹んで言す。
壽永二年六月十日の日、源の義仲進上。
慧光坊律師御坊へ」
とぞ書かれたる


 (現代文訳)
 
(源)義仲(軍)は、昨年の秋、宿意※(かねてからの志望、宿望)を達せんがために、旗を揚げ剣をとって、信州を出でし日、
越後の國の住人、城四郎長茂※が數萬の軍兵を率いて出てきたので、当国の横田河原(信濃国、長野県南部の北の犀川と南の千曲川に挟まれた三角州)にて合戰しました。
義仲(軍)は、纔(わずか)三千余騎をもつて、彼(城長茂)の數萬の兵を破りました。
風聞(風評)は廣きに及んで、平氏の大将(総大将平維盛ら)、十萬の軍士を率いて、北陸に出てきました。
越州(越前、越中、越後の総称。)、加州(加賀国の別称)、砥浪(加賀・越中国境砺波山倶利伽羅峠)、黒坂(富山県側から倶利伽羅峠に至る道)、塩坂(福井県三方上中郡塩坂峠)、篠原(石川県加賀市の地名、旧江沼郡篠原村。木曾義仲に平家の軍勢がやぶれた古戦場)以下の城郭で、数回、合戰をしました。

策略を帷幄※(いあく、垂れ幕と引き幕、本陣)の中でめぐらし、勝つこと咫尺(しせき、尺度の短いこと、間近いこと)を得ました。
それですから、(敵は)撃てば、必ず伏し、攻めれば降伏しました。
(それは)秋の風が芭蕉の(葉)を破るのに異ならず、冬の霜が薫蕕(くんゆう、良い香りのする草、悪い香りのする草)を枯らすのに同じです。
これは、ひとえに神明佛陀の助けです。更に義仲の武略ではありません。


※【宿意】しゅく‐い
〘名〙
① 以前からいだいている考え。かねてからの志望。宿望。
▷ 平家(13C前)七
「義仲去じ年の秋、宿意を達せんがために、旗をあげ剣をとって信州を去し日」 〔晉書‐王渾伝
② かねてからのうらみ。長年の遺恨(いこん)。宿怨(しゅくえん)。
日本国語大辞典小学館

※【城長茂】じょうながもち
?‐1201(建仁1)
鎌倉初期の越後国蒲原郡白河荘によった在地武士。通称四郎,はじめ資職(すけもと),資茂。父は資国。兄城資永が1181年(養和1)春病死した後をうけて家督を継ぎ,同年8月越後守に任じられて,平家方として源義仲に対した。信濃国横田河原の戦で義仲に敗れ,平家滅亡後は源頼朝の捕囚となって梶原景時に預けられた。奥州征伐に参陣して功あり,本領を復したとみられる。頼朝の死後上京して1201年春,将軍家追討の宣旨を後白河院に強要して果たさず,吉野に逃れたが幕府軍に討たれた。
平凡社世界大百科事典 第2版

※【帷幄】い‐あく
〘名〙
① 帷と幄。たれまく(とばり)と、ひきまく(あげばり)。幕。とばり。
▷ 万葉(8C後)一七・三九六五・題詞
「独臥二帷幄之裏一、聊作二寸分之歌一、軽奉二机下一、犯レ解二玉頤一」 〔史記‐封禅書〕
② (昔、陣営にたれまくとひきまくをめぐらしたところから) 作戦計画を立てる所。本営。本陣。
▷ 高野本平家(13C前)七
「策を帷幄の中に運らして」 〔漢書‐高帝紀〕
日本国語大辞典小学館


(考察)
                 原作の「治承物語」では正確に引用した

この「平家物語」の原文の木曾山門牒状の後半で 、史記・漢高祖本記からの引用で「策を帷幄の中に運らして、勝つことを咫尺の下に得たり」とありますが、この部分は覚明は「籌策を帷幄の中に運して、勝を」と原作「治承物語」では正確に引用したのに関わらず、後にこの「平家物語」では「籌策」を「策」に替えられている事実があります。これは覚明が「治承物語」を書く前の「曽我物語」では、「籌策」と正確に引用されているので、覚明は覚えていて正確に引用したのに、後に替えられたものと推察できます。


(現代文訳)つづく

平氏が敗北のうえは、参洛※(上洛)を計画しています。
直ぐに、叡岳※(比叡山)の麓を過ぎて、洛陽※(京都)の衢(ちまた、巷・岐)に入ろうとしています。
この時に当たって、竊(ひそか)に疑殆(ぎたい、疑いあやぶむこと)があります。
抑(そもそも、一体)、天台の衆徒は、平氏に同心(味方)するのか、源氏に與力(加勢)するのか。(どちらなのか?)
若し彼(例)の悪徒(平家方の連中)を助けられるのであれば、衆徒に向つて合戦することになります。
若し合戦を致すとすると、叡岳の滅亡は、踵を施らすべからず※(かかとを回らすほどの時間もない意、くびす返らず)です。                                                         
悲しいことです。平氏は宸襟※(しんきん、天子の御心)を悩まし、仏法を滅ぼしているので、(その)悪逆(乱暴)を靜めんがため、義兵(義軍)を起こしたところ、すぐに三千(人)の衆徒に向つて、不慮(心外)の合戦を致すとは・・・。

痛ましいことです。醫王山王(根本中堂の本尊薬師如来と守護神日吉山王権現)に憚り(恐縮)奉つて、行程に遲留せしめば(進軍をためらえば)、朝廷に緩怠(かんたい、怠慢)の臣として、長く武略(はかりごと)に瑕瑾(かきん、恥、)の謗り(非難)をのこすことを・・・。
進退に迷つて、兼ねて(あらかじめ)案内(申し入れ)を啓する所なり(致すところです)。

庶幾はくは(こいねがわくは、なにとど)、天台(宗)※(特に山門派、比叡山を本山とする天台宗の一派)の衆徒(僧徒)が、神のため、佛のため、國のため、君(天皇)のために、源氏に味方して、凶徒を誅し、鴻化(天皇、皇帝などの広大な恵み)に浴しましょう。
懇丹(丹誠して懇願すること)の至りに堪へず(真心を尽くしてお願い致します)。
義仲が恐惶( かしこまり)、謹んで(恭しく慎んで)申します。
壽永二年六月十日の日、源の義仲が進上(差し上げます)。
慧光坊の律師(戒律に通じた僧。僧正、僧都に次ぐ僧官)の御坊へ」
と、書いたのであった。


※【参洛】さん‐らく
〘名〙 (「洛」は唐の都、洛陽のこと。転じて、京都をいう) 地方から都へのぼること。上洛。
▷ 神宮雑例集(1202‐10頃)
「可レ不二参洛一之由為レ被レ仰也」
日本国語大辞典小学館

※【叡岳】えい‐がく
比叡山を中国風に呼んだことば。叡山。
▷ 平家(13C前)二
「叡岳も帝都の鬼門に峙て」
日本国語大辞典小学館 

※【叡山】えい‐ざん
(「えいさん」とも) 「ひえいざん(比叡山)」の略。
▷ 三代実録‐貞観六年(864)正月一四日
「大同末年、随レ縁入レ京、適登二叡山一」
▷ 平家(13C前)七
「叡山(ヱイサン)は是桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の後、天台の仏法を此所にひろめ」
日本国語大辞典小学館

 ※【洛陽・雒陽】らくよう

 中国河南省北西部の都市。黄河の支流、洛水の北岸に位置する。紀元前一一世紀周の成王が当時の洛邑に王城を築いたのに始まり、後漢・西晉・北魏などの首都となり、隋・唐代には西の長安に対し東都として栄えた。付近は名所古跡が多い。人民共和国成立後は工業都市として発展している。洛。洛邑。東都。東京(とうけい)。
▷ 本朝文粋(1060頃)一〇・雨下花自湿詩序〈藤原篤茂〉
「白氏文集云。花多数二洛陽一」
 平安京で、東の京すなわち左京の異称。右京を長安と称するのに対する。また、右京が早く荒廃したため、平安京、または、京都の異称となる。
日本国語大辞典小学館

※くびす【踵】 を 回(めぐ)らさず
かかとを回らすほどの時間もない意で、わずかな時間に急速に事をはこぶたとえに用いる。くびす返らず。
▷ 大日経義釈延久承保点(1074)
敗ること踵(クビス)を旋らさず」 〔史記‐呉起伝〕
日本国語大辞典小学館

※【宸襟】しん‐きん
〘名〙 天子の御心。おおみこころ。
▷ 三代格‐一・弘仁格式序(820)
「然而顧二先緒之未一レ遂、切二堂搆於宸襟一」
▷ 平家(13C前)七
「平氏宸襟を悩まし、仏法をほろぼす間」 〔何遜‐九日侍宴楽遊苑詩〕
日本国語大辞典小学館

※【天台宗】てんだい‐しゅう
〘名〙 (中国浙江省台州府の天台山が宗祖智顗(ちぎ)大師以後この宗の根拠地となっているところから) 仏語。
① 日本八宗・中国十三宗の一つ。法華経を根本とする。日本には奈良時代の天平勝宝六年(七五四)に唐の僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、後、平安初期の延暦二三年(八〇四)に僧最澄が唐へ渡り、翌年帰朝して、比叡山に延暦寺を建てて日本天台宗を開創。朝廷の保護の下に隆盛をきわめた。後、分かれて山門派・寺門派・真盛派となった。比叡山延暦寺をはじめ、園城寺(三井寺)・日光輪王寺・上野寛永寺・中尊寺・妙法院(三十三間堂)・善光寺などが著名。天台法華宗。天台円宗。
特に、山門派の称
日本国語大辞典小学館 

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(考察)
              
              覚明は、比叡山が平家をとるか源氏をとるか強気に迫る

 最後のここからは、義仲軍の進軍の勢いを述べ、山門は平家をとるか源氏をとるかの選択を強気に迫っています。
 そして、ここでも覚明の面目躍如たる部分があり、教養のあるところや散文による文学性も見せています。
 ここにも、興福寺で学問僧信救法師だったときの学識を引用している部分が幾つもあります。

一つは、〔晉書※‐王渾伝※〕を引用した「義仲去じ年の秋、宿意※を達せんがために、旗をあげ剣をとって信州を去し日(義仲は、昨年の秋、宿意を達せんがために、旗を揚げ剣をとって、信州を出でし日)」であり、 

二つ目は、〔漢書※‐高帝紀※〕を引用した「策を帷幄の中に運らして、勝つことを咫尺の下に得たり(策略を本陣の中でめぐらして、勝つことが間近いことが分かりました)」です。
これは、史記・漢高祖本記に、「高祖曰く、それ籌策を帷幄の中に運して、勝を千里の外に決するは吾、子房に如かず」とあるのです。

籌策(ちゅうさく)とは、はかりごと、計略、策略のことで、帷幄とは陣営の幕の中で策を巡らせたということです。
つまり、義仲軍は策を幕舎で巡らし勝を間近にしている。
しかれば敵は撃てば必ず降参し、攻むれば必ず逃げる。
それは秋の風が芭蕉を打ちのめし、冬の霜が香のよい草と悪い草を枯らすのと同じようなものです。
これはひとえに、神明・仏陀の助けであり、ことさら義仲の武略によるものではありません。
ここは覚明が書いたことを色濃く証明する部分でもあります。
原文の「策を帷幄の中に運らして」は史記・漢高祖本記にあるものでは「籌策を帷幄の中に運して、勝を」とあり、覺明がそれを引用したことは明白です。

なぜなら、覺明はこの「治承物語」を書く前に箱根で「曽我物語」を書いており、そこでは「籌策を帷帳(いちょう)のうちにめぐらし」と書いています。

後の「平家物語」では、単に「策」となってしまっていますが、原作の「治承物語」では当初は「籌策」であったに違いありません。

「帷幄」は曽我物語では「帷帳」となっていますが、「帷幕」ともいい、それぞれ意味は同じです。

しかし、「平家物語」では「策を帷幄の中に運らして」とあるので、より中国の史記に近く、ここのところは覚明が戦場で思い出し山門への牒状に「帷幄」を引用したことは間違いないと思はれます。

整理すると、書かれた時期の順番は、最初が戦場でのこの「山門牒状」、次が箱根での「曽我物語」、そして比叡山延暦寺慈円のもとでの「治承物語」です。

原文には「然るに撃てば必ずふし、攻むれば必ず降る。秋の風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の薫蕕を枯らすに相同じ」と散文による文学性もちらつかせています。

そして、ここまで勝ち進んできたのは、原文では「これ偏に神明佛陀の助けなり。更に義仲が武略に非ず」とことわり、源氏側の信仰心を強調して、叡山延暦寺側を安心させています。

平家敗北の上は、上洛を企図している。
今は比叡山の麓を通り、洛陽の衢(ちまた)に入らなければならない。
ここで覺明は、京を唐の都洛陽の衢にたとえて京の未来が格調高いものになることを山門に期待させている。

この時にあって、密かに疑い危ぶんでいることがある。

そもそも、天台の衆徒は、平家と心を同じくするのか、源氏に加勢するのか。
もし、かの悪徒を助けるなら、山門の衆徒に向かい合戦すべし。

ここで、三つ目として、〔史記※‐呉起(伝)※〕を引用した「敗ること踵(クビス)を旋らさず(負ければくびす返らず)」があります。 

もし合戦となれば比叡山の滅亡は踵を返す暇もないほど速やかであるということです。

悲しいかな、平家が天皇の御心を悩まし、仏法を滅ぼしているので、その悪行を静めるため義兵を起こした。

これが四つ目の〔何遜※‐九日侍宴楽遊苑詩〕からの引用で、「平氏宸襟(しんきん)を悩まし、仏法をほろぼす間(平氏は天子の御心を悩まし、仏法を滅ぼしているので、)」になります 。

それなのに急に3000の衆徒に向かい、不慮の合戦をするとは。

痛ましいかな、薬師如来と日吉山王権現にはばかって進軍をためらえば朝廷に怠慢な臣として、のちに武家として不面目をそしられます。

そこで進退に迷い、前もって事の由を申し入れるところです。

なにとぞ、天台の衆徒には、神のため、仏のため、国のため、君のために、源氏に同心し、兇徒を誅し、朝廷の恩沢をともに浴びましょう。
誠意を尽くして願います。
源義仲、恐惶謹んで言す。
寿永2年(1183年)6月10日 源義仲進上。
慧光坊律師御坊へ

このように、この木曾山門牒状の条には、文章に謙遜と思慮分別があり、教養のある言葉と散文による文学性も散りばめられていて優れていると思います。

特に牒状の部分は戦場で書かれたにしては山門への配慮も行届き、源氏側の品性を山門に伝えています。

これは書いた信救こと覚明が、学僧として修行と学問を究めつつあった40歳頃の筆になるものであったことが今回の追跡でわかります。

また、この牒状は、当時、山門に保存されていた自分が書いた現物と内容は、ほぼ同じであったことも疑いないと思われます。

ほぼというのは、なぜなら、叡山の有識の高僧たちを説得したくらいの文章ですから、、勿論、破綻は無く、誤字脱字も無かったと思います。

 ただ、 これらの
〔史記-春申君伝〕、
〔後漢書※‐逸民・梁鴻伝※〕、
〔後漢書‐西南夷伝〕、
〔荘子※‐徳充符篇※〕、
〔荘子‐徳充符〕、
〔晉書‐王渾伝〕、
〔漢書‐高帝紀〕、
〔史記‐呉起伝〕、
〔何遜‐九日侍宴楽遊苑詩〕
などからの引用は、
覚明が比叡山で落ち着いてから、寺の書庫に保存されていた当時の自分の書いた現物に、さらに、書庫にある上記の書物で確認して、校閲し、書き足して、正確度の高い諜状に仕上げたとも考えられます。
なぜなら、いくら覚明でも、これまでの怒濤の戦場で昂揚しており、義仲や取り巻きらのいる前で、落ち着いて、これだけ完成度の高い諜状が、すらすら書けたとは思えないからです。
もし、これをその場で、全文をこのまま書いたのだとしたら、覚明はただ者ではない、偉才の人だと言えると思います。

※【晉書】しんじょ
中国の正史。二十四史の一つ。一三〇巻。房玄齢ら奉勅撰。唐の太宗の時、貞観二〇年((六四六))成立。帝紀一〇、志二〇、列伝七〇、載記三〇巻からなる。宣帝・武帝の二帝紀と陸機・王羲之の二伝は太宗自撰。陸機以下一八家の晉史を集め、編修。載記は「世説」「捜神記」などを集めて作ったので矛盾や記載形式の不統一が見られる。
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※王渾
王渾は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。父は王昶。弟は王深・王淪・王湛。子は王尚・王済・王澄・王汶。孫は王卓・王聿。妻は鍾琰。『晋書』に伝がある。 ウィキペディア

※【漢書】かんじょ
中国の歴史書。正史の一つ。一〇〇巻。後漢の班固著。高祖から平帝までの二三一年間の史実を紀伝体で記す。司馬遷の「史記」とともに中国の史書を代表する。前漢書。
日本国語大辞典小学館

※高帝紀から
【蕭道成】しょう‐どうせい 
中国、南北朝斉の高帝(在位四七九‐四八二)。字(あざな)は紹伯。廟号は太祖。前漢の蕭何の子孫。宋の順帝を廃し、自立して国号を斉とし、建康(南京)に都をおいた。(四二七‐四八二)
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※【呉起】ご‐き
中国、戦国時代衛の兵法家。儒家の曾子に学び、魯、魏に仕え、さらに楚の悼王に重用された。兵法書「呉子」の著者といわれ、呉子と尊称される。前三八一年没。
日本国語大辞典小学館 

※何遜(九日侍宴楽遊苑詩)
[生]?
[没]天監17(518)頃
中国,六朝時代の梁の詩人。たん (山東省) の人。字,仲言。官名によって何水部とも呼ばれた。陰鏗 (いんこう) とともに「陰何」と称され,風景や心境の描写にすぐれ,また音律や修辞を練る詩風で,唐の近体詩の成立にも影響があった。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

(長左衛門・記)


(参照) 

「平家物語」の木曽山門牒状の条(原文)

底本は「平家物語」流布本・元和九年刊行・平仮名版(J-TEXTS日本文学電子図書館)を基にしました。
高橋貞一校注講談社文庫の平家物語(下)の木曽山門牒状を参考に、原作者信濃前司幸長こと覚明自身が投影されている部分と思われるところに漢字(括弧内)を挿入し理解しやすくしました。


[木曽山門牒状]の全文(比叡山への回状のこと)

さるほど(程)にきそ(木曾)よしなか(義仲)は、ゑちぜん(越前)のこふ(國府)につ(着)いて、いへのこらうどう(家子郎等)め(召)しあつ(集)めてひやうぢやう(評定)す。

「そもそも(抑)よしなか(義仲)、あふみのくに(近江國)をへ(經)てこそ、みやこ(都)へはのぼ(上)るべきに、れい(例)のさんぞう(山僧)どもの、ふせ(防)ぐこと(事)もやあらんずらん。
か(驅)けやぶ(破)つてとほ(通)らんこと(事)はやす(易)けれども、たうじ(當時)は平家こそ、ぶつぽふ(佛法)ともいはず、てら(寺)をほろ(亡)ぼしそう(僧)をうしな(失)ひ、あくぎやう(悪行)をばいた(致)すなれ。
それをしゆご(守護)のため(為)にしやうらく(上洛)せんずる義仲が、平家とひと(一)つなればとて、さんもん(山門)のしゆと(衆徒)にむか(向)つてかつせん(合戰)せんこと(事)、すこ(少)しもたが(違)はぬに(二)のまひ(舞)なるべし。
これこそさすがやすだいじ(安大事)よ。いかが(如何)せん」とのたま(宣)へば、
てかき(手書)にぐ(具)せられたりけるだいぶばうかくめい(大夫坊覺明)、すす(進)みい(出)でてまう(申)しけるは、
「さんもん(山門)のだいしゆ(大衆)はさんぜんにん(三千人)さふらふ(候)なるが、かなら(必)ずいちみどうしん(一味同心)なることはさふら(候)はず。
あるひ(或)は平家にどうしん(同心)せんとまう(申)すしゆと(衆徒)もさふらふ(候)らん。
あるひ(或)はげんじ(源氏)につかんとまう(申)すだいしゆ(大衆)もさふらふ(候)らん。
せん(詮)ずるところ(所)、てふじやう(牒状)をつか(遣)はしてごらん(御覧)さふら(候)へ。
へんてふ(返牒)にこそ、そのやう(様)はみ(見)えさふら(候)はんずらめ」
とまう(申)しければ、
きそ(木曾)どの(殿)、「このぎ(儀)もつと(最)もしか(然)るべし。さらばか(書)け」とて、

かくめい(覺明)にてふじやう(牒状)をか(書)かせて、さんもん(山門)へおく(送)らる。

そのじやう(状)にいは(云)く、「義仲つらつらへいけ(平家)のあくぎやく(悪逆)をみ(見)るに、ほうげんへいじ(保元平治)よりこのかた(以来)、なが(長)くじんしん(人臣)のれい(禮)をうしな(失)ふ。
しか(然)りといへど(雖)も、きせん(貴賤)て(手)をつか(束)ね、しそ(緇素)あし(足)をいただ(戴)く。
ほしいまま(恣)にていゐ(帝位)をしんだい(進退)し、あ(飽)くまでこくぐん(国郡)をりよりやう(虜領)す。だうりひり(道理非理)をろん(論)ぜず、けんもんせいけ(権門勢家)をつゐふく(追捕)し、うざいむざい(有罪無罪)をい(云)はず、けいしやうししん(卿相侍臣)をそんまう(損亡)す。そのしざい(資財)をうば(奪)ひと(取)つて、ことごと(悉)くらうじう(郎従)にあた(與)へ、かのしやうゑん(荘園)をもつしゆ(没収)して、みだ(濫)りがはしくしそん(子孫)にはぶ(省)く。
なかんづく(就中)さん(去)ぬるぢしよう(治承)さんねんじふいちぐわつ(三年十一月)、ほふわう(法皇)をせいなん(城南)のりきう(離宮)にうつ(遷)したてまつ(奉)り、はくりく(博陸)をかいせい(海西)のぜつゐき(絶域)になが(流)したてまつ(奉)る。
しゆそ(衆庶)ものい(言)はず、だうろめ(道路目)をもつ(以)てす。
しかのみならず(加之)おな(同)じきしねんごぐわつ(四年五月)、に(二)のみや(宮)のしゆがく(朱閣)をかこ(圍)みたてまつ(奉)り、きうちよう(九重)のこうぢん(垢塵)をおどろ(驚)かさしむ。ここ(爰)にていしひぶん(帝子非分)のがい(害)をのが(遁)れんがため(為)に、ひそか(竊)にをんじやうじ(園城寺)へじゆぎよ(入御)のとき(時)、よしなか(義仲)せんにち(先日)にりやうじ(令旨)をたま(賜)はるによ(依)つて、むち(鞭)をあ(擧)げんとほつ(欲)するところ(處)に、をんできちまた(怨敵巷)にみちて、よさんみち(豫参道)をうしな(失)ふ。きんけい(近境)のげんじ(源氏)なほ(猶)さんこう(参候)せず。いは(況)んやゑんけい(遠境)におい(於)てをや。
しか(然)るにをんじやう(園城)はぶんげん(分限)な(無)きによ(依)つて、なんと(南都)へおもむ(赴)かしめたま(給)ふあひだ(間)、うぢばし(宇治橋)にしてかつせん(合戰)す。
たいしやうさんみにふだうよりまさふし(大将三位入道頼政父子)、いのち(命)をかろ(輕)んじぎ(義)をおも(重)んじて、いつせん(一戰)のこう(功)をはげ(勵)ますといへど(雖)も、たぜい(多勢)のせ(攻)めをまぬか(免)れず。
けいがい(形骸)をこがん(古岸)のこけ(苔)にさら(暴)し、せいめい(性命)をちやうか(長河)のなみ(波)になが(流)す。
りやうじ(令旨)のおもむき(趣)きも(肝)にめい(銘)じ、どうるゐ(同類)のかな(悲)しみたましひ(魂)をけ(消)す。
これによ(依)つてとうごくほくこく(東國北國)のげんじら(源氏等)、おのおのさんらく(參洛)をくはだ(企)てて、平家をほろ(滅)ぼさんとほつ(欲)す。
義仲い(去)んじとし(年)のあき(秋)、しゆくい(宿意)をたつ(達)せんがため(爲)に、はた(旗)をあ(揚)げけん(劒)をと(把)つて、しんしう(信州)をい(出)でしひ(日)、
えちごのくに(越後國)の住人、じやうのしらうながもち(城四郎長茂)、すまん(數萬)のぐんびやう(軍兵)をそつ(率)してはつかう(發向)せしむるあひだ(間)、たうごくよこたがはら(當國横田河原)にしてかつせん(合戰)す。
よしなか(義仲)わづか(纔)にさんぜんよき(三千餘騎)をもつ(以)て、か(彼)のすまん(數萬)のつはもの(兵)をやぶ(破)りをは(了)んぬ。
ふうぶんひろ(風聞廣)きにおよ(及)んで、へいじ(平氏)のたいしやうじふまん(大将十萬)のぐんし(軍士)をそつ(率)して、ほくろく(北陸)にはつかう(發向)す。
ゑつしう(越州)、かしう(加州)、となみ(砥浪)、くろさか(黒坂)、しほさか(鹽坂)、しのはらいげ(篠原以下)のじやうくわく(城郭)にして、すかどかつせん(數箇度合戰)す。
 はかりごと(策)をゐあく(帷幄)のうち(中)にめぐ(運)らして、か(勝)つことをしせき(咫尺)のもと(下)にえ(得)たり。しか(然)るにう(撃)てばかなら(必)ずふ(伏)し、せ(攻)むればかなら(必)ずくだ(降)る。あき(秋)のかぜ(風)のばせを(芭蕉)をやぶ(破)るにこと(異)ならず。ふゆ(冬)のしも(霜)のくんいう(薫蕕)をか(枯)らすにあひおな(相同)じ。
これひとへ(偏)にしんめいぶつだ(神明佛陀)のたす(助)けなり。さら(更)によしなか(義仲)がぶりやく(武略)にあら(非)ず。
へいじはいぼく(平氏敗北)のうへ(上)は、さんらく(参洛)をくはだ(企)つるなり。いまえいがく(今叡岳)のふもと(麓)をす(過)ぎて、らくやう(洛陽)のちまた(衢)にい(入)るべし。
このとき(時)にあた(當)つて、ひそか(竊)にぎたい(疑殆)あり。そもそも(抑)てんだい(天台)のしゆと(衆徒)は、へいじ(平氏)にどうしん(同心)か、げんじ(源氏)によりき(與力)か。
も(若)しか(彼)のあくと(悪徒)をたす(助)けらるべくは、しゆと(衆徒)にむか(向)つてかつせん(合戦)すべし。
も(若)しかつせん(合戦)をいた(致)さば、えいがく(叡岳)のめつばう(滅亡)くびす(踵)をめぐ(施)らすべからず。
かな(悲)しいかな、へいじしんきん(平氏宸襟)をなや(惱)まし、ぶつぽふ(佛法)をほろ(滅)ぼすあひだ(間)、あくぎやく(悪逆)をしづ(靜)めんがため(爲)に、ぎへい(義兵)をおこ(起)すところ(處)に、たちま(忽)ちにさんぜん(三千)のしゆと(衆徒)にむか(向)つて、ふりよ(不慮)のかつせん(合戦)をいた(致)さんことを。
いた(痛)ましきかな、いわうさんわう(醫王山王)にはばか(憚)りたてま(奉)つて、かうてい(行程)にちりう(遲留)せしめば、てうていくわんたい(朝廷緩怠)のしん(臣)として、なが(長)くぶりやくかきん(武略瑕瑾)のそし(謗)りをのこ(遺)さんことを。
しんだい(進退)にまど(迷)つて、か(兼)ねてあんない(案内)をけい(啓)するところ(所)な
り。
こひねが(庶幾)はくはてんだい(天台)のしゆと(衆徒)、かみ(神)のため(爲)ほとけ(佛)のため(爲)くに(國)のため(爲)きみ(君)のため(爲)に、げんじ(源氏)にどうしん(同心)して、きようと(凶徒)をちう(誅)し、こうくわ(鴻化)によく(浴)せん。こんたん(懇丹)のいた(至)りにた(堪)へず。
よしなか(義仲)きようくわう(恐惶)つつし(謹)んでまう(言)す。
じゆえいにねんろくぐわつとをか(壽永二年六月十日)のひ(日)、みなもと(源)のよしな(義仲)しんじやう(進上)。ゑくわうばうのりつしのおんばう(慧光坊律師御坊)へ」
とぞか(書)かれたる。

 作成/矢久長左衛門

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