2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(9) 浄寛として比叡山に


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(9)


◎海野幸(行)長こと円通院浄寛の比叡山時代

1196(建久7)年
  
幸(行)長52歳、小太郎幸氏25歳。
徒然草の「慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり」はこの頃か。
信濃入道とは海野幸長こと信救、覚明のこと。
この頃、幸長は比叡山で天台座主慈円僧正の弟子となり円通院浄寛と改める。

  6月25日藤原能保、平知忠を誅する。

  7月夏まで範宴は比叡山にある無動寺の一乗院にいたが、その後、奈良に行き興福寺で一切経を読む。五か月で読了。この冬に比叡山に戻る。


   11月九条兼実、関白・氏長者を罷免され、一族も排斥される。近衛基通が関白・氏長者となる。

  12月幸長こと円通院浄寛は叡山の横川の禿谷の講堂で奈良から戻ったばかりの範宴の法話を聞き、弟子入りする。

1197(建久8)年
  幸(行)長53歳、小太郎幸氏26歳、範宴25歳
  古来風体抄(藤原俊成)なる。

 
  5月25歳の範宴(後の親鸞)に御所から召状が来て、聖光院門跡に捕せられる。


1198(建久9)年
  1月11日(1198・2・18)後鳥羽天皇退位。後鳥羽院政始まる。源通親、後鳥羽院別当となり、朝廷の実権を握る。
  土御門天皇践祚(4歳)
  幸(行)長54歳、小太郎幸氏27歳、範宴26歳

  徒然草によれば後鳥羽院の御時に「この行長入道、平家物語を作りて」とあるので、これ以降に「治承物語(平家と号す)」が成立か。
後鳥羽院から源平の死者鎮魂のため慈円に話があり作られたという説がある。

(吉川英治「親鸞」では、後鳥羽院の指示で作られたことになっている。初春に慈円が藤原兼実の館に招かれ、琵琶法師に平家物語を語らせたとある。この平家物語は、多分、まだ未完成の治承物語の一部分であったに違いないと思います)

  2月5日六代御前鎌倉にて斬首される。
  3月法然の「選択本願念仏集」なる。
   12月頼朝、相模川橋供養の帰途、落馬する

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約五年ほどで「平家物語」の初稿である「治承物語」が完成

箱根にいられなくなった幸長こと信救は、比叡山に向かい、延暦寺で天台座主慈円僧正の弟子となり、名も円通院浄寛と改めました。

その後、徒然草にあるように「平家物語」を書きましたが、それは「治承物語」というものであったに違いありません。

建久6(
1195)年10月以降に箱根を出て、延暦寺で慈円の弟子となり、「治承物語」を執筆中、 奈良から戻ったばかりの範宴(親鸞)の法話を聞き親鸞に弟子入りしました。

そして、正治3(1201)年に幸長(浄寛)と範宴(親鸞)は京都・吉水に下って、法然上人の弟子となっています。

この時、幸(行)長57歳 、範宴29歳だったそうです。

この間、約5年ほどで「平家物語」の初稿である「治承物語」が完成したことになります。

(長左衛門・記)

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