2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(8) 信救として箱根山に

           年表でたどる幸(行)長入道の97歳の生涯(8)

◎海野幸(行)長こと信救の過ごした箱根山時代

1190(文治6)年4月11日建久に改元。
  大地震により改元。
  1月3日(1190・2・9)11歳の後鳥羽天皇元服。
  
幸(行)長46歳、小太郎幸氏19歳、範宴18歳。
   5月3日幸長こと信救は鎌倉の勝長寿院(南御堂)において一条能保の室(源義朝の坊門姫)の追善供養の導師を勤める。源頼朝・政子夫妻も列席。前少将時家は導師の祝儀をとり,工藤祐経は馬を引いていた(吾妻鏡)。
足利義兼を施主とする一切経・両界曼荼羅経にも参加している。        
   10月19日東大寺上棟(再建)、法皇御幸。
   11月7日頼朝上洛。この頃奥州総奉行を置く。
   12月14日頼朝、鎌倉に帰る。
この冬、範宴(後の親鸞)は比叡山をおり奈良の法隆寺で修行。


1191(建久2)年
  幸(行)長47歳、小太郎幸氏20歳。範宴19歳
     
 7月箱根神社の「箱根山縁起並序」の奥書に南都興福寺住侶信救詩焉と署名有り。
幸長こと信救得業は行方不明になりましたが、実は箱根権現社に潜伏していました。そして、箱根別当行実の右腕となり、筥根山縁起并序という巻物を作ったとされています。
それには箱根山の由来、箱根神社の成り立ちあるいは九頭竜伝説、歴代の武将がどのように箱根神社を崇敬したかなど、奈良時代から鎌倉時代までの歴史が書かれている。

  閏12月後白河法皇病気につき、崇徳・安徳・藤原頼長の怨霊を鎮める。


この頃、頼朝の御家人になった海野小太郎幸氏は、信濃海野荘三分にあった海野古城を太平寺(長野県東御市本海野白鳥台)に移した。


この冬、範宴は奈良の法隆寺で一年の修行を終える。帰りに磯長(しなが)の叡福寺で参籠、7日7晩ののち聖徳太子のお声を聞く(磯長の夢告)。つまり、霊示を得る。京の青蓮院にいた慈円は比叡山に戻るよう指示する。

1192(建久3)年
  幸(行)長48歳、小太郎幸氏21歳、範宴20歳。 
    3月13日後白河法皇六條殿にて薨去(66)。
   7月12日源頼朝、征夷大将軍となる。
  慈円の兄九条兼実は、頼朝の支持を受けて摂政・関白へと昇りつめる。
  8月鎌倉に将軍家政所を開設し幕府を開く。(諸説あり)
   11月29日慈円僧正38歳で僧侶として最高位の62代天台座主となる。後鳥羽天皇から祈祷僧として信任を受けるとともに和歌によって親しく接していた。後に歴史の証人として「愚管抄」を残す。


1193(建久4)年
  幸(行)長49歳 、小太郎幸氏22歳。範宴21歳。
    5月27日曾我兄弟は箱根権現に来て別当行実に最後の挨拶にくる。覚明もそこにいた。
   5月28日頼朝、富士の裾野の巻狩り。

(曾我兄弟の仇討ち)
幸長の甥海野小太郎幸氏は藤沢二郎、望月三郎、禰津二郎らとともに弓の名手として記録されている。
夜、幕舎で蘇我兄弟の仇討発生、父の仇・工藤祐経を討つ。
事件の最中の兄弟の十番斬りで頼朝の御家人小太郎幸氏も負傷する(吾妻鏡)。

箱根から鎌倉に出入りしていた幸長は甥(水島の戦いで戦死した兄幸広の嫡男)小太郎幸氏を見舞いがてら 、この時の状況を聞いて事件を詳しく知る。

この前後には、曽我兄弟の十郎祐成・五郎時致、そして十郎の妾で大磯の遊女であった虎御前とも面識があり、「曽我物語」の初稿を書く機会を得る。

虎女は箱根権現から信州善光寺ヘ旅し悲しみを癒しているので、信救も同行した可能性が高い。

なぜなら、途中の各地で虎女の口から蘇我兄弟との間柄を語らせ「曽我物語」を紡いでいったと思われるからである。
物語は虎女から口承に口承を重ね、主に巫女や瞽女などの女語りで徐々に広まっていった。
 
  8月源頼朝、弟範頼伊豆に流し、次いで殺す。

     9月8日虎女(19歳)は箱根権現で出家(出家名禅修比丘尼)、その後は都の方へ巡る。

1194(建久5)年
  幸(行)長50歳、小太郎幸氏23歳、範宴22歳。

   3月15日虎女は箱根の桜会に、4月下旬頃まで箱根権現に参籠。
  5月18日虎女は曽我の里へ。
  5月28日虎女は曾我兄弟の一周忌の仏事に出席。その後善光寺へ。
  7月朝廷、禅の布教を禁止する。
  10月幸長こと信救は鎌倉の勝長寿院において、平治の乱に源義朝(頼朝の父)に殉じた鎌田政清の如法経十種供養の願文(清書は大江広元)を政清の娘に依頼され草している(吾妻鏡)。


1195(建久6)年
  幸(行)長51歳、小太郎幸氏24歳、範宴23歳

  3月4日頼朝再び上洛。海野小太郎幸氏ら従う。
  3月12日朝から雨風で午後からしきりに降り、地震も起きる。
頼朝、天皇に従い東大寺大仏殿再建の供養に臨む。
警固の兵数万騎、その中に海野小太郎幸氏、藤沢次郎清親以下、優れた射手を選び、惣門左右の脇に座せしむ(吾妻鏡)。
この時の感想を慈円の「愚管抄」では、頼朝以下の東国武士が風雨の中を厭わず整然と居並んでいたことに感心したと書いています。
   
  10月13日幸長こと信救は義仲の右筆覚明であったことが発覚し、箱根神社への蟄居を命じられる(吾妻鏡)。

幸長こと信救が箱根山より脱出し比叡山に向かうのはこの頃か

(長左衛門・記)

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