2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(5) 修業遍歴終える

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(5)

修業遍歴終える

幸(行)長こと信救の修行遍歴は、承安2(1172)年に伊賀国知見寺ヘ。
そこで、楽府の御論議での恥を忘れずに新楽府略意(二巻)を著す

この時代には平清盛を中心とした六波羅政権が誕生する。
それまでの前後の時代背景をさらに年表(今後、加筆修正有り)風に辿ると、

1162(応保2)年
  幸(行)長18歳

1163(応保3)年3月29日長寛と改元。
  幸(行)長19歳
  延暦寺僧徒、園城寺を攻め堂塔を焼く。
1164(長寛2)年
  幸(行)長20歳
  6月27日藤原師長、資賢等召喚。
 
  8月26日崇徳院崩御(46歳) 
  9月1日平家納経(厳島神社に願文奉納)
   12月平清盛、蓮華王院(三十三間堂)造進。


1165(長寛3)年6月5日永万と改元。
  幸(行)長21歳 

  6月25日六条天皇践祚(2歳)
   7
月28日二条院崩御(23歳) 
  8月7日二条院葬送。
   
8月9日延暦寺僧徒、清水寺を焼く。
          興福寺僧徒、入京強訴。
  8月延暦寺側の訴えにより、興福寺法務僧正恵信はやめさせられ源義基は伊予に流される。
   12月16日以仁王還俗。


1166(永万2)年8月27日仁安と改元。六条天皇即位による改元。
  幸(行)長22歳
  仁安元年に幼名駒王丸(13歳)、京都の石清水八幡宮で元服して「木曾冠者次郎義仲」を名乗る。
  7月26日摂政藤原基実薨ずる。
   11月11日平清盛内大臣となる。
1167(仁安2)年
  幸(行)長23歳
  2月11日平清盛従一位太政大臣となる。

 
  六波羅政権誕生。
平清盛は後白河法皇の親任を得て太政大臣となり、貴族の藤原氏にかわって政権を掌握。一族も高位高官を得る。
また、全国の大半に及ぶ知行国と五百余ヶ所の荘園を持つ。
  
  2月15日明雲、天台座主となる。
  5月17日平清盛、太政大臣を辞任。


1168(仁安3)年
  3月20日高倉天皇践祚(8歳)
  幸(行)長24歳
  京都大火3000余戸を焼く。
  2月11日平清盛51
歳、病により出家(浄海と号す)。※日下力氏によると、諸本では11月11日説が多いが出家の日付は2月11日(愚管抄)とのこと。
  高野山の衆徒、根来の徒と争う。


1169(仁安4)年4月8日嘉応と改元。
  高倉天皇即位による改元。
  幸(行)長25歳
  6月17日後白河上皇43歳で出家して法皇となる。
  延暦寺僧徒の申請により、藤原成親は備中に流さる。
1170(嘉応2)年
  幸(行)長26歳
  5月25日、藤原秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任される。
  7
月3日摂政基房参内の途次、平資盛、これに遭い恥辱をうける。
   11月21日平重盛、資盛(重盛の次男)の辱められたのを憤り、関白藤原基房の参内の途中を襲わせる。
  
   12月14日摂政基房、太政大臣に任ずる。

 1171(嘉応3)年4月21日承安と改元。
  天変地異による改元。
  幸(行)長27歳
  1月3日高倉天皇御元服(11
歳) 
    12月2日清盛の15歳の娘徳子(のちの建礼門院)、高倉天皇へ入内、女御となる
1172(承安2)年
  幸(行)長28歳
  2月10日徳子中宮となる(16歳)
  木曽義仲の嫡男義高誕生。
  幸長の甥海野小太郎幸氏誕生(後に木曽義仲の嫡男義高と共に頼朝の人質となる)
    

  興福寺衆徒は平重盛の家人の罪を問い、強訴する事件が起きる。

◎この承安2年3月に、幸長こと信救は伊賀国の師見寺で「新楽府略意(二巻)」を著す。

   12月27日基房(松殿)摂政を辞し関白となる。

1173(承安3)年
  幸(行)長29歳
  甥の海野小太郎幸氏(数え年)2歳。
  木曽義仲の嫡男義高(数え年)2歳。
  興福寺僧徒、多武峰を焼く。
  南都十五大寺の荘園を没収。
  
4月1日(1173・5・14)浄土真宗の祖範宴(後の親鸞)誕生(一歳)
  (幸長入道こと覚明・西仏は、のちに親鸞と行をともにすることになる) 
  
5月16日文覚僧都法住寺殿に参り狼藉、伊豆に配流となる。    
1174(承安4)年
  幸(行)長30歳
  小太郎幸氏3歳

1175(承安5)年7月28日安元と改元。
  痘瘡流行のため改元。
  幸(行)長31歳
  小太郎幸氏4歳
  京都大火。
   11月28日平重盛大納言、藤原成親大納言になる。

  源空(後の法然)専修念仏(浄土宗)を唱う

  親鸞3歳

1176(安元2)年
  幸(行)長32歳
  甥の小太郎幸氏5歳
  木曽義仲の嫡男義高5歳
  3月4日法皇五十の賀を法住寺殿にて行う。
  3月ごろ源頼朝と北条政子が婚姻。
  7月8日建春門院滋子崩御(35歳)
  7月16日六条上皇崩御(13歳)
~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~

信救の長い修業遍歴は終わり、治承の時代を迎える。 

幸(行)長こと信救は「新楽府略意」を書きながら考えたに違いない。

平安時代の教養人の間では漢詩を読むことが流行っていたが、当たり障りのないものばかりが選ばれ詠じられていた。

白楽天の「新楽府」は、社会が抱える時事問題を詠い、下は民衆から上は天子にいたるまで、この問題を知り、世の中をよくしょうという目的で作られたという。


ところが、本邦では平家一門の専横がはびこりつつある。

信救が修業遍歴中に見た民衆の苦しみや悲惨な状況は為政者には無視されている。

そういう世の中を何とかしなければならないと若い信救は欲求不満を抱えていた。


そして、ついに、信救の長い修業遍歴は終わり、治承の時代を迎える。 

治承4年(1180)4月9日76歳の源三位頼政は以仁王に謀反を勧め、令旨を諸国の源氏に伝える。

南都興福寺にいた信救は以仁王が逃げ込んだ園城寺からの牒状に対してその返牒を書くことになる。

その中で平清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒、そのため怒りをかい、漆を浴び変装して奈良を逃れることになる。

(長左衛門・記)

0 件のコメント:

コメントを投稿