年表でたどる幸長入道97歳の生涯(4)
◎海野幸長こと信救の各地修行時代
1157(保元2)年 海野幸(行)長13歳
北条政子誕生
1158(保元3)年 海野幸(行)長14歳
8月11日二条天皇践祚(16歳)後白河法皇の院政始まる。
8月16日平清盛、太宰大弐となる。
8月11日二条天皇践祚(16歳)後白河法皇の院政始まる。
8月16日平清盛、太宰大弐となる。
1159(保元4)年4月20日平治と改元。
二条天皇即位。
海野幸(行)長15歳 源頼朝13歳
源義経誕生
二条天皇即位。
海野幸(行)長15歳 源頼朝13歳
源義経誕生
駒王丸(義仲)6歳
この頃、「仏法伝来次第」(信救)なるか。(仏法伝来以来の歴史の概略を述べた書で、仏教史の起源である天竺から書き起こしている)
この頃、「仏法伝来次第」(信救)なるか。(仏法伝来以来の歴史の概略を述べた書で、仏教史の起源である天竺から書き起こしている)
平治元年12月9日平治の乱。
保元の乱後、平清盛は後白河法皇の寵臣藤原通憲と結んで、官位も進み大いに権勢をふるった。
一方、通憲によって昇進を妨げられた藤原信頼と父と弟を犠牲にしながら、しかも大功を立てても無視されている源義朝が結び、平治元年、通憲、清盛を除くために挙兵した。
そして、後白河法皇を幽閉し、通憲を殺し、信頼は近衛大将に、義朝は播磨守に、その子頼朝は13歳にして右兵衛佐となった。
しかし、信頼の処置に不満の藤原惟方らは、清盛と通じて信頼、義朝らを破った。
そして天皇を清盛の六波羅第に迎え、上皇を仁和寺に移した。
これを平治の乱という。
負けた源義朝38歳、源義平20歳は殺される。
頼朝13歳は伊豆へ流刑。
その結果、源氏の勢力は沈滞し、反面平氏は全盛期を迎え、政治の実権は貴族から武士の手にうつった。
保元・平治の乱によって古代貴族政権の時代は終わり、中世武家政権の時代の出現となる。
12月27日藤原信頼誅せられる。
1160(平治2)年1月10日永暦と改元。
海野幸(行)長16歳
1月4日源義朝尾張内海にて殺さる。
1月9日義朝、郎従正清の首入京、梟首。
3月11日義朝の子源頼朝、伊豆に流される。
海野幸(行)長16歳
1月4日源義朝尾張内海にて殺さる。
1月9日義朝、郎従正清の首入京、梟首。
3月11日義朝の子源頼朝、伊豆に流される。
1161(永暦2)年9月4日応保と改元。
海野幸(行)長17歳、応保元年秋に出羽国最上郡隴山寺で「和漢朗詠集」の注釈をおこない、その後、南都(興福寺)に居住し、筆名信阿で「和漢朗詠集私注」 (全六巻)を完成させている。
海野幸(行)長17歳、応保元年秋に出羽国最上郡隴山寺で「和漢朗詠集」の注釈をおこない、その後、南都(興福寺)に居住し、筆名信阿で「和漢朗詠集私注」 (全六巻)を完成させている。
沙石集(古本)に「ソノカミ東大寺法師ニテ信救得業トテ才覚ノ仁アリケリ、朗詠注ナドシタル物也」とあるのはこのことか。
「和漢朗詠集私注」とは、漢学の初心者向けの和漢朗詠集の注釈書で、全体にわたり句意や語句に漢文体で注を施している。
いくつかの写本の奥書に応保元(1161)年とあることから、原本はそれ以前の修行遍歴中に、各地で書かれたものと思われる。
~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~
死者たちへの霊の鎮魂であると同時に、盲いた琵琶法師たちを含めた生きている人たちへの救済
以上、徒然草の「後鳥羽院の御時」とは、「この幸(行)長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教えて語らせけり」にかかる言葉で、後鳥羽院政期に平家物語が作られたことを示していると解釈するべきです。
別の機会に詳しく述べる予定ですが、「生佛といひける盲目」とは 、複数の琵琶法師たちのことだと思います。
彼らが物語の各条を記憶し、原作者の幸(行)長は行動を共にしながら各地で、さらに詳細を取材し、作品を仕上げて(校閲・校正)いったのではないだろうかと想像します。
当時、紙は貴重であり、部厚い稿本を持ち歩くことも重く、複数の琵琶法師の脳という記憶媒体と美声と琵琶の演奏が、物語の普及には必須でした。
原作者も同行し、グループで各地の寺々のネットワークを営業しながら、日々の糧を得ていたと思います。
当初、平家物語原作者は琵琶法師たちが生きていけるようにするためにも、当然のように、この軍記物語を感動的に語れるよう磨き上げていったと考えられます。
それは、源平の死者たちへの霊の鎮魂であると同時に、盲いた琵琶法師たちを含めた生きている人たちへの救済の事業でもあったと思います。
海野幸(行)長は、それだけの背景を持った法師だったということも、今後、明らかにしていきたいと思います。
(長左衛門・記)
0 件のコメント:
コメントを投稿