2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(7) 信救として鎌倉に

年表でたどる幸長入道97歳の生涯(7)

行方不明の幸(行)長こと覚明、出家名信救に戻り鎌倉に現る。

行方不明の海野幸長こと信救(木曽大夫房覚明)は、箱根神社に潜伏していました。

そこで神社別当の右腕となり、筥根山縁起并序を書いたとされています。

この箱根山にいた四・五年の間に曽我兄弟とも面識があり、虎女とも交流し「曽我物語」の原作を書きました。

表立った活動では、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、文治6年(1190)5月に鎌倉の勝長寿院(南御堂)において一条能保の室(源義朝の女)の追善供養の導師を勤めたことや建久5年(1194)10月に鎌倉の勝長寿院において源義朝、鎌田政清の如法経供養の願文を政清の娘に依頼され草していたことなどが記されています。

後に、これ等のことで幕府にも存在を知られてしまいました。

信救が、もと木曽義仲の右筆大夫房覚明であったことを幕府に知られたことで、信救にとっては箱根山も安住の地ではなくなりました。

しかし、それが幸いして「平家物語」の初稿である「治承物語 」を書くことができました。
では、時代を追って鎌倉時代の幸長こと信救の足跡を年表風に眺めていきます。(年表部分は今後加筆修正もあり得ます)

(長左衛門・記)

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◎信救として鎌倉に現る

1185(元暦2)年8月14日文治と改元。
  地震・災害、兵革により改元。
  幸(行)長41歳、甥小太郎幸氏14歳。
  1月8日義経、四国に向かうと後白河院に申し出る。     
  1月10日源義経、平氏追討のため京を発つ。
  2月16日義経、風雨に乗じて摂津渡部より阿波へ向かう。
  2月19日屋島の合戦。平氏敗れて海上に逃れる。
  2月21日義経、平氏を追い志度浦合戦。
  2月22日梶原景時等、屋島に到着。
  3月24日長門壇ノ浦(下関海峡)の合戦
壇ノ浦の戦いで清盛の孫安徳天皇入水(数え年8歳)、敦盛、知盛以下平氏一門滅ぶ。建礼門院、女房達、宗盛、清宗、時忠等を捕える。
  4月26日宗盛・清宗、時忠ら入京。
  4月27日平氏を滅亡させた源頼朝従二位に叙せられる。
  5月1日建礼門院、長楽寺にて出家。
  5月7日義経、宗盛等を率いて鎌倉下向。
  5月20日平時忠を能登、信基を備後に流す。
  5月24日義経、腰越状を頼朝に送る。
  6月7日頼朝、宗盛父子を引見する。
  6月21日宗盛を篠原で処刑。清宗を野路にて斬る。
  6月23日平重衡奈良にて処刑。奈良に梟する
  7月9日午後に大地震。
   10月9日頼朝、土佐房昌俊を京に遣わす。
   10月17日土佐坊昌俊、頼朝の命にて義経を堀川に急襲して敗走する。
   10月26日義経、土佐坊昌俊を鞍馬で捕え、六条河原にて斬る。
   11月2日義経、頼朝追討の院宣を後白河法皇に乞い、許される。
   11月3日義経・行家、西国に走る。
   11月5日義経・行家、大物浦にて強風の難に遭い、離散。
   11月12日後白河法皇、義経・行家追討の院宣を頼朝に与える。
   11月25日北条時政入京。
   11月29日頼朝の申請により守護・地頭設置の勅許。(事実上の鎌倉幕府成立、諸説あり)
   12月17日北条時政に平維盛の遺児・六代御前囚われ、文覚に預けられる。
1186(文治2)年
  幸(行)長42歳、小太郎幸氏15歳
  3月6日頼朝、義経妾静を鎌倉に召して尋問。
  3月23日九条兼実摂政・氏長者となる。
  3月27日北条時政、関東下向。
  4月8日静、鎌倉八幡にて舞う。
  4月13日北条時政、鎌倉下着。
  4月後白河法皇、大原寂光院へ建礼門院を訪なう。
  5月12日義経と離散した源行家父子、和泉国で殺される。
  閏7月21日義経の愛妾静御前、男児(義経子)を産むが頼朝は由比ガ浜に捨てさせる。
この頃、右馬寮領の牧本来の役割であった貢馬(くめ)の実施が殆どなかったばかりでなく、現地管理者が年貢を送らなくなっていた。  
1187(文治3)年
  幸(行)長43歳、小太郎幸氏16歳。
  2月1日頼朝、建礼門院に摂津真井、鳥屋両庄をおくる。
  2月義経、奥州に赴き藤原秀衡に頼る。
  9月20日藤原俊成「千載和歌集」を撰進する。
   10月29日藤原秀衡歿する。
1188(文治4)年
  幸(行)長44歳、小太郎幸氏17歳。
  1月興福寺金堂・南円堂再建される。
  4月25日千手前死去。  
1189(文治5)年
  幸(行)長45歳、小太郎幸氏18歳。 
  閏4月30日義経、藤原泰衡に攻められて衣川にて自害(31歳)
  6月26日泰衡、忠衡を殺す。  
  7月頼朝、泰衡追討のため御家人を率いて奥州遠征軍、鎌倉を発つ。
  9月3日泰衡、臣下河田次郎に殺される。
   12月九条兼実、太政大臣になる。

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