2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(6) 覚明の治承時代

      年表でたどる幸長入道97歳の生涯(6)

☆ 「平家物語」の初稿は「治承物語」という

「治承物語六巻(号平家)」が平家物語の初稿と推定されている。
内容は平氏の滅びを描くもの。以仁王の令旨を奉じて決起した源氏の頼政、頼朝、義仲によって都落ちする辺りまでを描く。

だが、この6巻は現存しない。

大津雄一氏の「原典平家物語の解説」によると、その存在を伝える最も古い記録は、「『兵範記』紙背文書」である。
そこには、1240(仁治元)年に「治承物語六巻〈平家と号す〉」を書写したとある。

そこで、この古態「平家物語」の原作者である信濃入道こと海野幸(行)長、出家名最乗坊信救、木曽義仲の祐筆としての大夫房覚明が過ごした治承・養和・寿永・元暦の時代を年表風に辿る。(年表部分は今後加筆修正もあり得ます)

(長左衛門・記)

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海野幸(行)長こと覚明の過ごした治承時代

1177(安元3)年8月4日治承と改元。
  改元理由は大極殿炎上などの天災による。
  この時、高倉天皇。
  海野幸(行)長33歳海野小太郎幸氏6歳
  1月24日平重盛左大将、宗盛右大将に任ぜられる。
  3月5日師長太政大臣、平重盛内大臣、後徳大寺実定大納言となる。
  4月13日延暦寺僧徒、日吉・白山の神輿を奉じ京都に乱入。藤原師高の配流を要求。重盛頼政これを防ぐ。
  4月20日藤原師高を尾張に流す。
  4月28日京都大火、180町、大極殿等焼亡。
  5月21日天台前座主・明雲を伊豆に流す。
  5月23日延暦寺衆徒、明雲奪還して叡山に帰る。
  5月29日源行綱、権大納言成親等の陰謀を清盛に密告する。
  6月1日鹿谷の陰謀発覚(鹿ヶ谷事件)。藤原成親、西光等捕縛さる。藤原成経、康頼、俊寛等が鬼界ヶ島に配流となる。
  6月2日清盛、成親を備前に流し、西光を殺す。
  7月9日成親備前の配所で刑死。         
  7月29日故讃岐院を崇徳院と追号し、頼長に太政大臣従一位を追贈。
   12月27日後徳大寺実定、左大将となる。
1178(治承2)年
  幸(行)長34歳、小太郎幸氏7歳。
  2月1日後白河法皇、園城寺にて秘密灌頂を受けると聞き延暦寺の僧蜂起訴訟。
  6月28日中宮徳子御著帯。
  7月3日中宮徳子安産祈願の大赦により、藤原成経、平康頼を召喚する。
  7月16日平宗盛の室死去。
   10月4日後白河法皇、延暦寺堂衆を清盛に討たしむ。
   11月12日中宮徳子皇子(安徳)降誕。
   12月15日言仁親王、皇太子となる。
   12月24日源頼政従三位。
1179(治承3)年
  幸(行)長35歳、小太郎幸氏8歳。
  木曽義仲26歳。
   3月11日重盛病により上表、内大臣を辞する。
   3月に重盛熊野参詣。
     3月24日善光寺は大火災が発生(原因不明)
     5月19日別当時忠、強盗12人の右手を斬り獄門に懸ける。
   5月25日重盛病によりて出家。
   8月1日平重盛42歳で病死。
   11月7日大地震。
   11月14日清盛宗盛福原より武士を率いて入洛。
   11月15日関白基房を廃し、基通を関白内大臣に宣下。
   11月17日清盛の奏請により太政大臣藤原師長以下39名の公卿の官職を停む。
   11月20日平清盛、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、ゆえに院政停止(治承三年の政変)。    

1180(治承4)年
   幸(行)長36歳、小太郎幸氏9歳。
   木曽義仲27歳    
  2月21日高倉天皇譲位。三歳の安徳天皇践祚。
  3月19日高倉上皇厳島参詣。
  4月9日76歳の源三位頼政、以仁王に謀反を勧め、源行家がその令旨を諸国の源氏に伝える。
  4月22日安徳天皇紫宸殿にて即位式。

治承ノ合戦
  5月15日以仁王の土佐配流決定、追補使が派遣される。
  5月18日南都牒状(三井寺から奈良興福寺へ救援依頼の牒状)
   5月21日平氏、さきに出奔していた以仁王を園城寺に攻める。

南都興福寺にいた幸長こと信救は以仁王が逃げ込んだ園城寺からの救援依頼の牒状に対してその返牒(治承四年五月二十一日付)を書くことになる。
その中で清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵倒し、そのために平家の怒りをかい、漆を浴び変装して奈良を逃れる。

  5月22日頼政自第を焼き園城寺に入る。
  5月26日平氏、宇治川に戦い、奈良に向う途中の以仁王と源頼政死す(以仁王の乱)。義仲の兄 仲家も敗死。

  5月27日園城寺(三井寺)夜半に炎上(山槐記) 
  6月2日清盛が福原遷都。上皇法皇同じく臨幸。
  8月17日頼朝、伊豆で平氏追討のため挙兵。平兼隆を討つ。
   8月23日石橋山の合戦。
  9月7日木曽(源)義仲、信濃国佐久郡依田城で挙兵(千曲川白鳥河原に集結)。
  9月21日平維盛等東国へ発向。
  10月6日熊野前別当湛増謀反
   10月13日木曽義仲、軍勢を率いて上野国に入る。父の家臣を味方にする。
   10月20日源平が富士川を隔てて対陣。夜半水鳥の羽音に驚き平氏敗走する。源氏側は頼朝と甲斐源氏。
   11月3日平維盛等帰京。
   11月21日近江源氏挙兵。
   11月26日都を京都にもどす。
   12月2日平家の追討使、近江国・伊賀国に進攻。近江源氏を討つ。
   12月22日平維盛を北陸に遣わす。
    12月25日平重衡は南都へ向け兵を率いて出発した。
  12月28日平重衡、清盛の命を受け、南都東大寺興福寺を焼く。
  源頼朝、鎌倉に入る。
  源義経参着。

1181(治承5)年7月14日養和と改元。
  1月14日高倉上皇六波羅池殿にて薨去(21歳)
  安徳天皇即位により改元。
  幸(行)長37歳、小太郎幸氏10歳。
  木曽義仲28歳。
  義仲、越後の城助職の大軍を横田河原で迎え撃ち勝利する。
  東大寺・興福寺の荘園を没収。
  
  閏2月4日平清盛64歳(満63歳)で死去。
  
   閏2月25日法皇鳥羽殿より法住寺殿に移る。
    3月10日重衡、通盛、維盛等、尾張の墨俣川で源行家と合戦。
  幸(行)長こと信救は、この戦いで敗れた源行家と三河の国府で出会う。

  
5月19日行家が伊勢大神宮へ奉りける願書を信救が書く。(現在、宝物として保存されている) 

  6月平家方の城長茂、越後より信濃へ攻め入る。
  6月13日横田河原合戦、木曽義仲、平家方の越後の城永用を破る。
  8月16日義仲追討のため平経正、平通盛北陸道追討使として進発。
  8月15日藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任ずる。
  9月平通盛は水津合戦・敦賀籠城の戦いに敗れ、京都に帰還する。(義仲軍、越前水津にて平家軍を撃ち破る)
   11月25日平徳子 、建礼門院と号す。

  親鸞9歳、青蓮院の慈圓僧正のもとで得度。比叡山、延暦寺で修行開始。

1182(養和2) 年5月27日 寿永と改元。
  飢饉、疫病流行により改元。
  幸(行)長38歳、小太郎幸氏11歳。
  木曽義仲の嫡男義高11歳。
     3月源頼朝と木曽(源)義仲が対立し、和議のため木曽義高(清水冠者)と海野小太郎幸氏は源頼朝の人質となり鎌倉へ。
この頼朝と義仲の不和は寿永2年(1183)3月の説もあるが木曽義高・海野小太郎幸氏の年齢を数え年で数えると、この養和2年3月になる。
  
7月藤原重季、以仁王の遺児(北陸宮)を伴い北陸道に脱出。
  京中飢え疫病流行、死者巷に満つ。
    10月3日宗盛内大臣、時忠、頼盛中納言、知盛権中大納言になる。
    10月13日宗盛内大臣の拝賀。
1183(寿永2)年
  8月20日(1183・9・8)後鳥羽天皇
  幸(行)長39歳、小太郎幸氏12歳。
  木曽義仲30歳。
 
  幸(行)長こと信救は大夫坊覚明と改名し木曽義仲の祐筆として白山願書、埴生八幡願書(5月11日)、木曾山門牒状(6月10日)を書く。
  4月17日維盛追討使となり10万騎で義仲追討のため北国に発向。
  5月11日義仲は平氏の軍を夜襲し、平家軍敗走。(倶利伽羅谷の合戦)
  6月1日安宅・篠原合戦(義仲の家臣 手塚光盛が斎藤実盛を討ち取る)平家軍壊滅。
  7月8日宗盛以下公卿10人連署の書状を延暦寺に送りて援助を乞う。
  7月22日義仲等軍兵、比叡山に入る。
  7月24日天皇法住寺殿に行幸、平氏、法皇天皇を奉じて西下を謀る。法皇密かに叡山臨幸。
  7月25日宗盛以下平家一門、安徳天皇を奉じて都落ち。福原を焼き、大宰府に向かう。
  7月27日後白河法皇は延暦寺より還幸。
  7月28日義仲の軍勢無血入京。
義仲・源行家、入京し、後白河法皇に拝謁する。義仲、平家追討の院宣を受ける。
  8月6日平宗盛以下200名の官爵を削る。
  8月10日義仲、従五位下左馬頭兼越後守に任ぜられ、行家備後守に。
  8月14日木曽義仲、北陸宮を新帝に推挙。
  8月16日義仲、伊予守に任ぜられる。行家備前守にうつる。
  8月20日高倉院四宮(後鳥羽天皇4歳)践祚。これにより、二人の帝王が並び立つことに。
  9月20日義仲、平家追討のため京を出発、播磨へ進軍する。当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。
   10月13日数日前に中原康定院使として鎌倉下向。この時、幸(行)長こと大夫房覚明の父海野幸親(木曽軍の将)も同行したという説有り。しかし、確証がない。その後、父幸親の生死も不明。
   10月17日義仲は備中に入りて瀬尾太郎兼康等を殺す。
  閏10月1日(1183年11月17日)義仲軍は四国ヘ渡海する前に、備中国水島合戦(倉敷市)にて、平家軍に敗れる。現在、水島といえば倉敷市水島もしくは水島群島(上水島・下水島)を指すが、合戦当時は現在の同市玉島地域にある柏島もしくは乙島(ともに現在は陸地化)、あるいは両島および周辺の島々の総称であったとされる。
  閏10月15日義仲、京都に帰る。朝廷は頼朝に関東・中部地方の支配を許す「10月宣旨」を出す。義仲と朝廷の関係は最悪に。
   11月19日法住寺合戦、義仲は院の御所法住寺殿を攻め、後白河法皇の近臣を解官する。円恵法親王・明雲が討たれる。
   11月21日義仲、摂政基通以下を罷免、権大納言師家(11歳)を内大臣摂政とす。義仲、院の御厩別当となる。
   11月28日中納言朝方卿以下40余人の公卿の官職を解く。
   11月29日室山合戦。源行家が教盛・重衡と戦いて敗れる。
   12月1日頼朝、範頼・義経を義仲追討使として派遣。
   12月玉葉の寿永2年12月2日の条に「伝え聞く、義仲使を差し、平氏の許(播磨国室の泊りにありと云々)に送り、和親を乞ふと云々」とある。

1184(寿永3)年4月16日元暦と改元。
  後鳥羽天皇即位により改元。
  幸(行)長40歳、小太郎幸氏13歳。
  木曽義仲31歳。
  1月平氏福原に至り、一の谷に拠る。
  1月11日木曾義仲、後白河法皇より征東大将軍に任ぜられる。
  1月19日樋口兼光、源行家の拠る石川城を攻め落とす。
  1月20日宇治・瀬田(勢多)の戦い、源範頼・義経、勢多・宇治川合戦で義仲軍を撃ち破り、入京する。
    1月21日木曽義仲31歳で近江の粟津にて討死(賊軍として戦死)。
この時、幸長こと大夫房覚明の父である木曽軍の将海野幸親もここで 戦死したという説がある。しかし、鎌倉に行き頼朝との和平を工作していたという説もある。確証がないので現在は死亡時期不明が正しい。
  1月22日摂政師家退き、前摂政基通還任。
  1月26日義仲と今井兼平の首を梟する。
  2月2日樋口兼光を殺す。
  2月5日三草山合戦。義経、三草山にて資盛、有盛等を敗る。
  2月7日一の谷合戦。通盛、忠度、敦盛、経正等戦死。重衡生け捕り。宗盛等安徳天皇を奉じて屋島に逃れる。
  2月9日通盛以下の首入京。
  2月13日通盛以下の首級を都に梟首。
  2月27日平宗盛、三種神器奉還を拒否する。
  3月10日捕虜平重衡親子、鎌倉に送られる。
  3月28日維盛那智の滝に入水。
      頼朝と北条は重衡を引見する。
  4月20日頼朝、千手を遺して重衡を慰める。
   4月26日鎌倉から密かに脱走した木曽義高、頼朝家来に追い付かれ入間河原で討たれる。逃亡を助けた付き人の海野小太郎幸氏は牢に入れられる。後に許され頼朝の御家人に加えられる。
  5月3日平頼盛、鎌倉下行。
  5月19日頼朝、頼盛を歓待する。
  7月28日後鳥羽天皇即位
  8月6日源義経、左衛門少尉検非違使に任官。
  8月8日範頼、平氏追討のために鎌倉を発向。
   10月頼朝、鎌倉に公文所・門注所設置。
   11月18日大嘗会。
   12月7日佐々木盛綱、備前児島にて平行盛と戦い勝つ。
     12月源頼朝、近江国横山荘および若狭国玉置荘を三井寺に寄せる。



木曽義仲討死後の覚明の行方は?

備中国水島合戦のとき、幸(行)長こと大夫房覚明の兄である木曽軍の将海野幸広(海野家嫡男)が不得手な舟戦で戦死する(この時官軍)。

その後、大夫房覚明は平家一門と和平工作をはじめていたという説がある。玉葉の寿永2年12月2日の条に「伝え聞く、義仲使を差し、平氏の許(播磨国室の泊りにありと云々)に送り、和親を乞ふと云々」とある。

伝説では大夫坊覚明は義仲の子である義重(次男)と家臣30名余りを伴って現在覚明神社がある覚明島(現:尾道市向島・川尻地区)に移り住んだと伝えられている。

これはあり得ることで、大夫坊覚明(海野幸長)の父幸親は生死不明、兄幸広は戦死、兄の子で甥の小太郎幸氏は清水冠者と共に頼朝の鎌倉で人質、この時、滋野嫡流の海野家の後継者としての責任は覚明にもあった。家臣が覚明を頼るのは当然といえる。

尾道市(設置当時は向島町)教育委員会の説明板によると、移住後、寺社の再建・土地の開墾・治水灌漑などに尽力した後、家臣らの自立を見届けた覚明と義重は信州へ帰ったと語り伝えられている。


(長左衛門・記) 

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