2019年5月11日土曜日

年表でたどる幸長入道(14) 西仏坊歿(満97歳)


年表でたどる幸長入道97歳の生涯(14)

◎海野幸(行)長こと通広→最乗房(坊)信救→信阿→大夫房覚明→信救得業→円通院浄寛→西仏坊歿(満97歳)

1235(文歴2)年9月19日嘉禎と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長91歳、小太郎幸氏64歳、親鸞63歳
  幕府は僧徒の武装を禁止した。
  小倉百人一首(藤原定家)なる。
1236(嘉禎2)年
  幸(行)長92歳、小太郎幸氏65歳、親鸞64歳
  7月幕府、若宮大路に新御所を造営する。
   10月幕府は興福寺衆徒の再蜂起を鎮圧し、その荘園を没収した。そして、大和に守護、地頭を設置する。
   11月幕府、南都鎮静により、守護・地頭を停止する。
1237(嘉禎3)年
  幸(行)長93歳、小太郎幸氏66歳、親鸞65歳
  6月幕府は社寺、国司、領家の訴訟は御成敗式目に拠らないことを定める。
  7月海野小太郎幸氏は執権北条泰時の孫時頼に流鏑馬を指南。更に鶴岡八幡宮で騎射の技を披露し周囲の者達から「弓馬の宗家」と讃えられる。(吾妻鏡)

1238(嘉禎4)年11月23日暦仁と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長94歳、小太郎幸氏67歳、親鸞66歳
  2月将軍頼経、上洛し検非違使別当となる。
  3月僧浄光が勧進し鎌倉深沢に大仏を建立。
この年、「曽我物語」の虎64歳で大往生。

1239(暦仁2)年2月7日延応と改元。
  天変地異により改元。
  幸(行)長95歳、小太郎幸氏68歳、親鸞67歳
  1月幕府は陸奥の国の百姓が絹布の代わりに銭納することを禁止し、白河関以東の銭貨の流通を禁止する。
  2月22日(1239・3・28)後鳥羽院、隠岐にて崩御(60歳)

1240(延応2)7月16日仁治と改元。
  天変大地震により改元。
  幸(行)長96歳、小太郎幸氏69 歳、親鸞68歳
  甥の海野左衛門ノ尉幸氏は出家 、入道となる。
  1月彗星出現し、幕府は寺社に祈祷を命じ、徳政を行う。
  5月幕府は御家人が公卿や殿上人に対して、所領を譲ることを禁止。
  7月16日以降の仁治元年に藤原定家が書写した「兵範記」の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」と書かれている。
この前までは平家物語はまだ治承物語6巻のままだった可能性が高い。
1241(仁治2)年
  海野幸(行)長こと通広→最乗房(坊)信救→信阿→大夫房覚明→信救得業→円通院浄寛→西仏坊歿(満97歳)。

  藤原定家没。
  鎌倉大地震。
   10月幕府、武蔵野の開墾を図る。
  この頃、蒙古軍、ポーランド、ハンガリーに侵入。
1242(仁治3)年
  1月皇位継承の紛議起こり、幕府の使者上洛。
  6月執権北条泰時が没し、北条経時が執権となる。




1262(弘長2)年親鸞没90歳
1278(弘安)~87年
1288(正応)~92年
弘安正応年中の創建、真宗大谷派 長命寺(米沢市)
長命寺では西仏坊浄寛を元祖と呼び、浄寛から八代目にあたる康楽寺浄証が開基とされる。

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「治承物語」は原作者の信濃前司幸(行)長の没後も、琵琶法師らに育てられ「平家物語」として成長

これまで、八つの名前を生きてきた海野幸長こと西仏坊は、源平戦時代には覚明として自から「あっぱれ文武ニ道の達者かな」と文武両道の僧と位置づけていましたが、鎌倉時代に入り源氏の世が固まると 、それまで犠牲となった人々の鎮魂のため「曽我物語」や「治承物語」を著し、虎御前や琵琶法師などと共に、その普及のため諸国を巡りました。

それは庶民のための仏教である法然上人の教えを親鸞などと共に僧西仏として諸国に普及する旅でもありました。

そして「治承物語」は、原作者の信濃前司幸長の没後も、琵琶法師や寺僧たちによって育てられ「平家物語」として成長し続けたのです。
それらが現在残されている「平家物語」諸本ということになるのだと思います。

最後になりますが、当時は印刷や放送がない時代でした。書籍は書写するしかありません。文字を読める人も多くありませんでした。

長編の「曽我物語」や「平家物語」は地名や人名などを間違いなく書写するだけでも大変です。紙も貴重品で紙代もばかになりませんでした。

幸長の両作品は大衆向けの物語でもありました。
皆に知ってもらうには琵琶法師の語り口や巫女や瞽女の女語りが必要でした。
海野幸長は書き上げた「治承物語(号平家)」を琵琶法師に、「曽我物語」を巫女・瞽女に託しました。

彼ら彼女らは生活のために話題作が必要でした。
初めは作者自から寺々のネットワークを琵琶法師や巫女・瞽女を伴い歩き廻りましたが、徐々に知られるようになり、 琵琶法師や巫女・瞽女がひとり立ちするようになりました。

そして物語は拡散し人びとに知られるようになりました。

また、そのようになることは幸長にとって必然的なことでした。
幸長の生地は、琵琶や笛などの管弦尊者と言われた貞保親王にまつわる歴史的な地域でした。

親王の兵部卿時代は朝廷の本牧「信州御牧が原」を中心とした良馬の産地で繁栄しており、佐久・小県には琵琶法師や巫女・瞽女の文化も存在しました。そして彼ら彼女らも長年その伝統を築いてきました。

そのような背景を持つて生まれた信濃前司幸長(海野幸長こと西仏法師)は、彼らが生活していけるようにするためにも大きな役割を果たしたのです。

(長左衛門・記)


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