2019年5月11日土曜日

幸長入道の著作「治承物語」の研究関連論文


平家物語の原作「治承物語」の研究関連
橋口晋作氏の論文を中心に



「治承物語」作者に伽藍ノ罰の視点

この論文には、延慶本「平家物語」の東大寺「伽藍ノ罰」関係記事というサブタイトルがついています。

論文は延慶本・源平盛衰記・長門本・四部合戦状本・覚一本と比べながらの手間のかかる綿密な研究です。

「治承物語六巻(号平家)」の面影を探る一つの手がかりとして、清盛の死の場面を考えて見たとしています。

延慶本「平家物語」以前から、清盛の死が「金銅十六丈ノ盧舎那仏焼奉タル伽藍冥罰」に帰して捉えられてい、延慶本の本来の描写も、また、それに沿っているとする私見が述べられています。

つまり、延慶本「平家物語」が成る以前の「治承物語」作者に伽藍ノ罰の視点があったということが述べられているのだと思います。

「治承物語」が次第に、世間では「平家」と呼ばれるようになって行った(内容も、治承から後に広がって行ってしまった)、どうして治承年間に止まらなかったかと考える一つの手がかりとして、やはり「金銅十六丈ノ盧舎那仏焼奉タル伽藍冥罰」があるとしています。

伽藍ノ罰は清盛の死で終わらなかった

論文は、更に東大寺を焼いた平家軍の大将重衡に関して検討、考察を加えています。

平重衡の死を、父清盛の死の延長と捉えていくところに「治承物語」を「平家」にしていった流れがあるのではと述べられています。

(長左衛門・記)


注目点!

「治承物語」の作者としては大夫房覚明がふさわしい

この論文には、前の(一)同様に、延慶本「平家物語」の東大寺「伽藍ノ罰」関係記事というサブタイトルがついています。

前の(一)に引き続き、東大寺を焼いた平家軍の大将重衡に関しての考察が述べられています。

前回と同様に、延慶本・源平盛衰記・長門本・四部合戦状本・覚一本と比べながらの緻密な研究です。

「治承物語」から「平家物語」への変質の過程(必然性)を伽藍ノ罰の継続、重衡の救済の設定という方向で考察されています。

そして、イメージする「治承物語」の、伽藍ノ罰の認められる最後は、平家方の越後国の城資長の死の場面だとしています。

「治承物語」では、「盧舎那焼タル大政入道ノ方」、つまり、平家に味方したために仏罰が当たったとして描かれていると論文では推察されています。

圧倒的と見られた平家友軍も冥罰により木曽義仲軍に攻められ崩壊したのだという物語作者の視点があり、清盛死後の平家敗北までが「治承物語」に描かれていたのではないかとしています。

この論文の最後に、「治承物語」の作者は、東大寺の大仏の霊力を信じ、且つ、清盛の死に様や資長の死に様を、それに結び付け得た人物であったろうと書かれています。

高倉宮以仁王が逃げ込んだ園城寺から合力を求める牒状が来た時、興福寺の返牒を書いたとされる覚明は、清盛を「平氏之糟糠、武家之塵芥」と罵倒し、激しい敵意を表している。

従って、平家軍による南都の焼き討ちには許し難い恨みを抱き 、強く仏罰を願ったことは想像に難くない。
しかも、彼は後に、平家を都から追い落とす義仲の手に属してもいる。

「治承物語」の作者としてはこの大夫房覚明がふさわしいと考えるのであるがいかがであろうかと、論文は結ばれています。

(長左衛門・記)


注目点!

興福寺にいた信救こと覚明が作者であることも濃厚

この論文は、(一)・(二)を発表してから10年後になりますが、(三)として、最近の研究の動向を踏まえてとのサブタイトルがついています。

「治承物語」とは、東山文庫保管の御物「兵範記」の紙背文書に記されている。

「治承物語六巻(号平家)」此間書写候也 未出来者 可入見参之由 存候
という文面の、「平家」と呼ばれている六巻の「治承物語」のことである。

この「治承物語」については「現存平家物語諸本と同一のものとは考えられず、古態平家物語とでも考えるべき性質のものであろう」と見られている。

この紙背文書を最初に発見紹介した山田孝雄氏に始まる諸先学の考察の現在の到達点がこの前引きの文と紹介され、これまでの論文(一)・(二)の主旨が解りやすく述べられています。

そして、この論文(三)では「治承ノ合戦」について、治承ノ合戦とはどのような合戦を指し、「治承物語」とどう絡むのかを平家物語諸本を綿密に検討し考えています。

そして殆どの諸本にあるのが「伽藍ノ罰」が下ることになった当の事件で、「治承物語」はやはり、平家(重衡)と南都(東大寺・興福寺)との戦いを中心としていたと見るべきもののようだとしています。

当時、興福寺にいた信救こと覚明が作者であることも濃厚であるとしています。
更に「愚管抄」・「六代勝事記」の治承年間記事についてもどの程度関わりがあるかを考えています。

最後に「保元物語」・「平治物語」・「承久記」の各最古態本の「治承物語」との親密度についても考察しています。

(長左衛門・記)



大夫房覚明と「治承物語」について、更に考える

この論文には、「平家物語」への道など、とサブタイトルがついています。

この論文では、大夫房覚明と「治承物語」について、更に考えるとしています。

「平家物語」諸本にある所謂覚明文書を手懸りに「治承物語」の作者としての覚明の資格、どのような立場に立ち、どの程度知っていたかなどを考察しています。

覚明は「治承ノ合戦」そのものを目の当たりにすることはなかった。
しかし、その合戦の性格については、三井寺からの諜状に応ずる返諜を書きもしたので、明確過ぎる程に理解していたとしています。

覚明文書は高倉宮以仁王の令旨を一貫して拠りどころとしていることから「治承物語」も同じ立場に立つものと看做せるとしています。

そして、それが「平家物語」に発展する契機となり、後白河法皇の院宣を手にした頼朝の平氏征討譚と合体し、それを「平家物語」成立の核と考えているとしています。

最後に、「平治物語」は、「保元物語」と対になっているような体裁だが、「平家物語」の成立に極めて深い関係をもっていたのではなかろうかとされています。

(長左衛門・記)



覚明文書が描き出すような捉え方で纏められていた「治承物語」

この論文は、平重盛像や山門描写の変貌、とサブタイトルが付いています。

これまでの論文では、「治承物語」は清盛を王法と仏法の敵と極め付け、その清盛を打倒すべく蹶起した高倉宮以仁王を反平家軍の盟主としている点に最大の特色があるとしています。

今回の論文では「平家物語」になってからの記事の矛盾、不統一の部分を取り上げて「治承物語」の姿をもっと明らかにして見たいとされています。

論文の結論は、覚明文書が描き出すような捉え方で纏められていた「治承物語」が、関東の頼朝旗揚げ説話・小松家贔屓・高野と熊野宣揚を引き纏った頼朝による「平家物語」に突き合わされ、文官貴族によって体裁が整えられ、「平家物語」が出来上がったのではないかとされています。

(長左衛門・記)



原構想と呼び得るものがあり、その功績は原作者に帰する

この論文には、物語世界への導入とのサブタイトルがついています。

ここでいう原作者とは、実体的な一人の作者を想定していうのではなく、作品から抽象的にイメージされる仮想としての作者であるとされています。

作品の中にそれを組み立てまとめあげようとした意識の所在が確認できるとすれば、その意識の主体としての「人」が自ずから作品の背後にイメージされることになるとしています。

そこで、この論文では、作品創造の基本に関わる原構想の探査を通してイメージされる「人」を原作者と呼ぶことにしたいとしています。

そして、物語の創り手にとって第一の課題は、享受者をいかにして作品世界ヘ引き込むかであろうとしています。
その意味で、導入部においてこそ最も構想力が問われることになるとし、
そこに焦点を当てて検証を進めるとしています。

この論文では、史実が良く調べられ、平家作品が史実の六年間(院と平氏の蜜月時代、滋子崩御など)を省筆してまで先を急ごうとした理由を考えています。

それは、おそらく作者が平氏栄華の頂点から一門滅亡へと語り進めることが物語の使命だと考えていたからであろうとしています。

作品の享受者を物語世界ヘ導入するため、史実とは懸け離れた物語内の独自の時間形成が企図されていたといって過言ではないとしています。

「平家物語」諸本の多様な表層の裏には、根底で軌を一にする基本的構想が厳として存するとし、それは原構想と呼び得るものであり、その功績は原作者に帰するものと考えるとしています。

この論文では、平家物語の原作は「治承物語」であり、その作者が原作者(信濃前司幸長)であるとは一言も述べていませんが、なぜか、そう読めてしまう内容を持った研究であると思います。

(長左衛門・記)




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