2019年5月10日金曜日

信濃入道こと信濃前司行(幸)長



☆兼好法師の『徒然草』によると、「平家物語」の作者は信濃前司行長、通称「信濃入道」


「平家物語」の作者について述べている記録は、鎌倉期に成立した兼好法師の『徒然草』が最古のものです。
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、通称信濃入道なる人物が「平家物語」の作者であり、生佛(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があります。



[徒然草226段の原文]

 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。
さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり


注目点!

康楽寺略縁起では、原文の信濃前司行長は、海野行(幸)長こと大夫房覚明、信濃入道は覚明、つまり西仏坊とされています。

この原文は、これまでに様々な解釈がなされてきており、例えば信濃前司行長は下野守藤原行長の誤りではないかとされたり、理由として海野幸長は藤原氏のためのものである勧学院には入れないからだなどという説です。

清和天皇と藤原高子の子である貞保親王の血筋をひく信濃滋野氏は、朝廷直属の望月の駒を産する地方豪族で、その嫡流である海野家の二男海野幸長が勧学院の進士試験に合格してもおかしくないという事に気付いてないだけです。

京における滋野一族では信濃守や信濃介を輩出しており、信濃滋野氏は兵部卿の貞保親王と結ぶことで、同親王の孫善淵王に60代醍醐天皇から延喜5年(905)に滋野姓を賜り滋野善淵朝臣とされており、その嫡流海野家も信濃守に任ぜられているのです。

信濃前司とは、そういう家柄の海野行(幸)長と解釈すべきだということではないでしょうか。

事実、海野家は、保元の乱では家長の海野幸盛(幸通)信濃守が源為義・源為朝軍に付き賊軍になってしまい戦死しています。
源義朝軍に付き官軍になった二男海野幸親があとを継ぎ、その幸親が幸(行)長の父なのです。

この海野幸親は源平合戦では、源(木曽)義仲軍に付き、一男幸広は水島の戦いで戦死、二男幸長は義仲の祐筆大夫房覚明であり、幸広の一男海野小太郎幸氏は義仲の子義高とともに頼朝への人質として鎌倉に送られました。

この源平の混乱の最中に父・幸親、兄・幸広が戦死し、順序として家督が幸長(覚明)に中継ぎされ、戦乱終了後には頼朝の御家人となった甥・海野小太郎幸氏に引継がれたという経緯があるので、中継ぎの間は信濃守の家柄を守っていたことにもなり、世がよなら信濃前司であった時もあるという解釈になります。

『徒然草』にある信濃前司行長とは、そういう家柄の海野行(幸)長であり、信濃入道とは大夫房覚明です。

(長左衛門・記)


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