2019年5月10日金曜日

信濃入道開基の康楽寺


信濃入道(西仏坊)が開基の「白鳥山康楽寺」
西仏坊の本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸長


【白鳥山康楽寺】略縁起について
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略縁起(康楽寺資料より)

開基・西仏坊(別名、幸長・通広、浄寛・最乗坊信救・木曾大夫房覚明)は、清和天皇の後裔、海野小太郎信濃守幸親の子として、天養元(1144)年、信州小県郡海野庄(現上田市大屋)に生まれ、南都(奈良)に学び、興福寺勧学院の文章博士となる。

時の権力者、平清盛を筆誅(文章でその責を問う)した名文は今に知られ、伊勢神宮の条文は宝物として現存する。

また、「源平盛衰記」「吾妻鏡」「徒然草」などにもその名が見られる。

さらに近年「平家物語」の作者、信濃前司行長はこの人とする説が有力で、中世文学史に輝かしい業績を残したことが窺える。

青年期は才智に富んだ軍師で、治承4(1180)年木曾義仲の挙兵には祐筆(文章をつかさどる武人、文官)として知謀を発揮し、篠ノ井横田河原で平家の軍を打ち破り、八幡宮の頭殿祭の縁起を残した。

義仲の戦没後、比叡山に登って天台の法庭に列し、ここで範宴(のちの親鸞聖人)を知る。

建仁元(1201)年、範宴と西仏は京都・吉水に下って、法然上人の弟子となった。時に範宴29歳、西仏57歳であった。

承元元(1207)年念仏禁止の法難に遭った親鸞聖人は越後流罪となり、建暦元(1211)年流罪赦免後、越後から東国布教に向うが、西仏坊は全て聖人と行を共にしている。

越後から東国への旅・途次、たまたま信州小県郡角間峠にて、法然上人の往生を知らせる使者に出会った親鸞聖人一行は、近くの海野庄(西仏坊の生地)に一庵を建立し、報恩の経を読誦した。

親鸞聖人は、これを「報恩院」と命名された。これが康楽寺の草創である。

その後、当山は信越・東国・北陸(一部奥州)の真宗布教の中枢となり、信越の布令頭として寺勢高まり、江戸期には門徒数三千六百余、寺中八ヶ寺を数えて「信濃門跡」と尊ばれた。

海野庄から塩崎長谷の地、更に第13世浄教の時に現在の地へと寺基を移転しつつ、創建以来七百有余年の法灯を連綿として相継ぎ、第二十八世の今日に及んでいる。

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注目点!

この西仏坊は最後の呼称。

本名は信濃滋野氏嫡流海野族の海野幸(行)長

以下は別名で
蔵人通広この時、勧学院進士)※(注)略縁起にある興福寺勧学院の文章博士については未確認。

最乗房信救この時、出家、この名で「仏法伝来次第」を書く

信阿(この名で、和漢朗詠集私注(六巻)を書く)

信救撰(この名で「新楽府略意(二巻)」を書く)

大(太)夫房覚明(この名で、木曽義仲の祐筆)

信救得業(
この時、箱根権現で「筥根山縁起並序」「曽我物語」を書く)

円通院浄寛(この時、比叡山慈鎭和尚のもと「治承物語六巻(号平家)」を書く)「平家物語」の原作になる。

西仏この時、法然上人門下、親鸞と行動をともにする。覚明の名で「三教指帰註」を書く

兼好法師の「徒然草」では信濃前司行(幸)長、信濃入道、行(幸)長
入道

(長左衛門・記)


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